2回にわたって北朝鮮問題、朝鮮半島情勢について書いてきました。
今回は、中国・東北への旅、とりわけ中朝国境地帯を歩いて見聞きしたこと、考えたことに転じたいと考えていましたが、その前に、さらに書いておかなければならない問題があることを痛感します。
何かというと、北朝鮮にかかわる情報の「ゆがみ」についてです。
私たちの意識のなかに、あるいはメディアの報道に抜きがたく存在する、北朝鮮情報にかかわる「ゆがみ」の問題は、実に深刻だと言わざるをえません。
この2回のコラムにふれて、直近のニュースを取り上げます。
金正日総書記にかかわる情報です。
きょう(21日)の各紙でも伝えられているのですが、アメリカのオバマ大統領が20日のCNNテレビとのインタビューで、8月に平壌を訪れたクリントン元大統領からの報告に基づいた分析として、昨夏から健康不安説が取りざたされていた北朝鮮の金正日総書記について、健康を回復し「再び権力掌握を確かなものにしている」との見方を示したということです。
さらに後継者問題についても「病気だったころは後継についてもっと気にしていたが、今はそれほどでもないようだ」と語ったというのです。
これについては「北の最重要課題は後継問題ではないとの見方も示した。」(読売)と報じた新聞もありました。
そして、北朝鮮当局に拘束されていた米記者2人の解放を目的としたクリントン氏の訪朝について「我々は北朝鮮との交流は多くはないので、こうしたことを知る貴重な機会だった」と評価したのでした。
金正日総書記の健康問題は「後継問題」にとどまらず、この間のロケット発射から核実験にいたる北朝鮮の「動き」を規定する重要な要因であることはいうまでもありません。
実は、北朝鮮の金永南最高人民会議常任委員長が今月の10日平壌で日本の共同通信との会見に応じています。
その発言要旨を見てみると、
・(日朝)両国が21世紀になっても近くて遠い関係を打破できないことを残念に思う。われわれは日本当局の不当な敵視政策に反対するのであり、日本の国民は敵ではない。
・日本が(日朝)平壌宣言を重視し、宣言に基づき不幸な過去を誠実に清算しようとするのであれば、両国間で解決できない問題はない。関係改善の展望はあくまで日本当局の態度にかかっている。
・諸懸案を解決しながら、政治、経済、文化などあらゆる面で実りある関係を築くことは、両国民の利益に合致し、北東アジア地域の平和と安定、発展に有利な状況を生むだろう。
・金正日総書記は、現在も旺盛な精力にあふれ、党と国家、軍の全般を賢明に指導している。
・革命伝統はわが国家と国民の生命で貴重な財産であり、その継承は重要な問題だ。国民は常に、金日成主席が生み出し、金総書記が発展させている革命伝統を体得するようにしている。
・これ(革命伝統継承)に継承者(後継者)問題は関係していない。現時点では論議されていない。(金総書記の三男、正雲氏の内定説など一連の報道は)全く事実無根だ。
という内容です。
もちろん、こうした発言を、そのまま「鵜呑み」にするわけにはいかないということはあるでしょう。
しかし、これだけの高位にある首脳が、国外に報道されることを前提に、いま、なぜこうした内容の発言をしたのかということは無視できません。
この点は極めて深い吟味と慎重な分析が不可欠です。
たとえば、後継問題について、金総書記の三男、正雲(ジョンウン)氏が内定したとの海外での報道に対して「革命伝統を継承する問題は重要だが、これに継承者(後継者)問題は関係していない」、「現時点では論議されていない」と海外での「内定報道」をきっぱりと否定していることは注目すべきことだといえます。
そして、なによりも重要なことは、20日のCNNテレビでのオバマ大統領の発言と平仄があっていることです。
重ねてですが、金永南委員長の言う通りになるのかどうか、それはわかりません。
しかし、米国の大統領がメディアのインタビューに答えた内容と合致してくるとなると、これは軽い問題ではなくなります。
ふりかえってみると伏線がありました。
今月15日、米太平洋軍のキーティング司令官が「北朝鮮の後継構図は不透明」との見方を示していたのです。
これは 米国のシンクタンク、戦略国際問題研究所(CSIS)のフォーラムでの発言です。
キーティング司令官は、クリントン元米大統領の先月の訪朝は大きな情報をもたらしたと述べ、「金正日総書記はしっかりと立つことができ、力もありそうで、論理的な討論をする能力もあるものと見られた」と語ったというのです。
この発言について韓国の聯合ニュースは、クリントン元大統領の訪朝が「北朝鮮指導部の状況について重要な情報を得る機会になったことをほのめかしたもの」と伝えています。
さてそこで、きょうのTBSニュースです。
CNNのインタビューに答えたオバマ大統領の発言について伝えながら、「北朝鮮に対する強い制裁措置は『中国やロシアの協力も得て非常に成功している』と述べると共に、北朝鮮が米朝2国間を含めた協議に復帰することを念頭に『近いうちに何らかの前進がはかられると思う』との見方を示しました。」と報じました。
米朝間の問題について「近いうちに何らかの前進がはかられると思う」とオバマ大統領が言明したというのです。
ここまで情報の流れを押さえて見ると、クリントン元大統領がもたらした情報の重みが見えてきます。
まさにホワイトハウスの西ウイング、特殊防諜装置が施された密室でクリントン氏が直接オバマ大統領に伝えた情報の重みです。
このコラムでは、国際情報小説やスパイ小説の類のような想像力をたくましくしようというのではありません。
アメリカの、情報というものに対する姿勢について注意を払う必要があると、かなり控えめな物言いではあるのですが、言いたいのです。
情報は、現実に対して謙虚になることがなければ生きない、つまり価値がないということを如実に物語っているのです。
まさかクリントン氏が金正日総書記にシンパシーを抱いているなどと考える人は皆無でしょう。
好きか嫌いかといえば、多分嫌いでしょう。
百歩譲ったとしても、「人権派」のクリントン氏ですから、金正日氏は、少なくとも好きな人物ではないでしょう。
しかし、そうした「個人の好み」に左右されず、現実を直視する力があるからこそ、大統領としての彼を評価するかどうかは別にして、国家の指導者としての大統領が務まったというべきです。
CNNで今回のような発言をしたオバマ大統領もまた同じでしょう。
さて、ここまで書いてくると、賢明な読者のみなさんですから、何を言おうとしているのかおわかりだと思います。
対する、日本の、北朝鮮にかかわる情報の「貧困」さです。
「金正日はすでに死んでいる」などと大言壮語したメディア出身の北朝鮮問題専門家がいたりするのはお笑いで済みますが(いや!記者を辞めてからは大学の教授などという職にあるのですから笑えないか?)なんともことばにできないほどの北朝鮮情報の「ゆがみ」は深刻だというべきです。
何を言っても確認のしようがないということをいいことに、言いたい放題という様相を呈しているのが、日本の北朝鮮情報ではないでしょうか。
この間の米国の動きを深く見つめると、なぜいつも日本が「蚊帳の外」に置かれるのか、如実に見えてきます。
国益とは何か!
北朝鮮情報をもてあそぶ専門家に、ここは真剣に考えてもらわなければなりません。
北朝鮮に対する救い難い情報の「ゆがみ」が、いま、日本を危うくしています。
私は、なにもアメリカが立派だといっているのではありません。
アメリカは自国の利益のためにそうしているだけのことです。
しかし、では、日本に、“クリントン”はいるのか、それに謙虚に耳を傾け、国の行く末を間違わないように努力する“オバマ”はいるのか?!
あるいはバイアスをできるだけ排除しながら、現実を直視して伝えるメディアはあるのか・・。
さらに、この日本における北朝鮮にかかわる情報の「ゆがみ」は何に由来するものなのか、これこそ歴史に深く根ざす問題として、真摯な思索を求められるものだと思います。
朝鮮半島は動く!
そう確信するだけに、情報の「ゆがみ」に根ざす問題の深刻さと重さを思わざるをえません。
2009年09月21日
2009年09月19日
動く!朝鮮半島、中国東北・中朝国境の旅から・・・
さて、もう少しこの間の「動き」を整理しながら考えてみます。
2人の女性記者の解放をめざしたクリントン元大統領の訪朝、開城工業団地で北朝鮮側に身柄を拘束されている男性社員の解放、帰国をめざす現代グループの玄貞恩会長の訪朝、そのいずれもが奇しくも「身柄を拘束されている者」の解放をめざすという、誰もが反対できない「人道目的」で訪朝し、金正日総書記との会見、会談に至るという経過をたどったことはすでに知られるとおりです。
これに続く金大中元大統領の死去をもうひとつの契機に加えて、朝鮮半島は大きく動きはじめます。
とりわけ、北朝鮮弔問団の韓国派遣、青瓦台での李明博大統領との会談という流れの中で、それまで緊張とこう着状態にあった南北関係が、いってみれば、きしみを立てながらではあれ、大きく転換をはじめました。
自由を奪われた拘束の身の上、あるいは人の逝去という「不幸」を奇貨としてというと不謹慎に響きますが、そうとしか言えないぐらいのタイミングで、まさに恩讐を超えて「禍を転じて福となす」というべき展開がはかられたのでした。
そして迎えた9月です。
9月3日から10日まで、アメリカの北朝鮮問題を担当するボズワース特別代表が中国、韓国、日本を歴訪しました。
5月に中国、韓国、日本、ロシアの4カ国を歴訪したのに続く、6カ国協議の構成国歴訪でした。
この時期に合わせるかのように、北朝鮮の国連代表部は3日、「使用済み燃料棒の再処理が最終段階にあり、抽出されたプルトニウムが兵器化されている。ウラン濃縮実験が成功裏に行われて仕上げの段階に入った。」とする書簡を国連安全保障理事会議長あてに送りました。
「ウラン濃縮」のくだりばかりが大きく報道されたのですが、それ以上に注意を払うべき重要な部分は「われわれは、わが共和国の自主権と平和的発展権を乱暴に踏みにじるのに利用された6者会談の構図に反対したのであって、朝鮮半島の非核化と世界の非核化そのものを否定したことはない。朝鮮半島の非核化は徹頭徹尾、米国の対朝鮮核政策と密接に連関している。」と主張しているところです。
9日になると読売新聞がソウル発で、韓国政府当局者が「米国が、北朝鮮との2国間協議開催の可否を数週間以内に決める、との見通しを示した。」と報じました。
さらに、日本、中国、韓国の関係3か国を歴訪したボズワース米政府特別代表が、「6か国協議開催を促す目的ならば、米朝協議を先行開催できるとの考えを示し、3か国の了承を取り付けたという。」と伝えたのでした。
3か国、つまり中国、韓国そして日本の了承を取り付けた?!というのです。
そして、ボズワース特別代表の帰国を待っていたかのように、11日にはクローリー米国務次官補が「北朝鮮を6者協議の場に復帰させる方策の一環として、2国間協議に応じる用意がある」と述べたと米・CNNが伝えました。
加えて、協議が実現する期日について「クリントン米国務長官が9月下旬、国連総会の場で他の6者協議参加国の外相らと会談した後になる」と踏み込んで伝えています。
一方、6カ国協議の議長国にして北朝鮮にとっての最大の援助国でもある中国です。
まず、中国の戴秉国国務委員(外交担当)と楊潔チ外相が4日、中国を訪問している北朝鮮の金永日外務次官を団長とする朝鮮外務省代表団とそれぞれ会見。
16日には中国の胡錦濤国家主席の特使として戴秉国国務委員が北朝鮮を訪問し姜錫柱第1外務次官と会談。
「中朝関係や共に関心を持つ地域・国際問題について深く意見交換した」(中国外務省)
「戴氏には対外援助を担当する傅自応商務次官が同行しており、新たな無償援助などについて話し合っているとみられる。北朝鮮の経済困窮をにらみ、援助を手札にして核問題を巡る6カ国協議への復帰を促し、核問題での軟化を誘う狙いがうかがえる。」(日経9/18)
(米自由アジア放送[RFA]が、ワシントン外交筋の話として「15日、北朝鮮の崔泰福(チェ・テボク)最高人民会議議長が中国を訪問した」と伝えたということですが、今のところ確認されていません。)
戴秉国国務委員は、18日には、金正日総書記と会見、胡主席の親書を金総書記に手渡す。
金総書記はこの席で「北朝鮮は非核化の目標を堅持し続け、朝鮮半島の平和と安定守護に努力するとしながら、『この問題を2国間または多国間の対話で解決することを希望する』と述べたという。」(韓国・聯合ニュース9/18)
少しばかり煩雑とさえいえる「情報整理」になってしまいました。
しかし、すでに読者のみなさんもお気づきだと思いますが、こうしてクリントン訪朝以来の動きを注意深くトレースしてみると、米国、中国、韓国のいずれもが北朝鮮問題にかかわって「動いている」ことに思い当ります。
しかし、対照的に、(ロシアをおくとして)6カ国協議参加国で、わが日本だけがなんの「動き」もありません。
悲しいまでの当事者能力の失墜です。
(まさか選挙で慌ただしくしていたからなどという言い訳は通用しないでしょう。)
これが独自の制裁と圧力の「実体」だとするなら、なんとその代償の大きいことかというべきです。
すべてにわたって蚊帳の外に置かれ自縄自縛というべきか、身動きのとれないわが日本の姿が浮かび上がってきます。
ですから、前回書いたような「日米同盟があるのだから、クリントンさんは日本の拉致被害者のためにもっとしっかりやってくれてもいいじゃない・・・」などと、テレビで臆面もなく発言するコメンテーターが跋扈するのです。
本人が自覚していなくとも、当事者能力を失っている「境遇」をみごとに語って余りあるというべきです。
こんな人びとに拉致問題を語る資格があるのでしょうか。
拉致被害者を本当に救おうと考えるのなら、なすべきことは現在の「処方」とは正反対でなければならないことを、現実は教えているというべきです。
勇を振るって国交正常化交渉に踏み込んで、主張すべきことを主張し、聴くべきことを聴くということにしか打開の道はないというべきです。
実は、このことは、ことばには出さなくとも、すでに多くの人が覚っていることなのです。
選挙も終わったことですし、もう「時効」だと考えますので書きますが、拉致問題に積極的に取り組んできた自民党の有力議員(すでに元議員になった人もいますが)から、オフレコを条件に話を聞いた折、いまの力と制裁一本槍では拉致被害者を救うことにはつながらない!いまやっていることはそれを阻害することばかりだと明言したのでした。
「しかし、こんなことは一歩この部屋を出たらとても言えません!」と襟の青いバッジを見やりながら言ったものでした。
歴史的な政権交代という画期に立ったいま、まさにいまこそ私たち一人ひとり、あるいはメディアに携わるすべての人びとが、日本の北朝鮮政策のあり方を真摯にとらえ直してみなければならないと思います。
勇気を振るって、発言し議論を巻き起こさなければならないと思います。
こうして見てきたように、米・中・韓の動きを冷静に直視する勇気とそれらを的確に解析する力が、いまこそ必要とされています。
価値観や思想を同じくする「仲良し」との間にではなく、それをまったく異にする「間柄」だからこそ外交の果たすべき役割があるのです。外交力の問われるフィールドがあるのです。
好き嫌いや、親しみをもてるか否か、信用できるかどうかなど「好みの問題」で考えるのなら、それこそ「サルでもできる」業というべきでしょう。
事は、国の成り立ちや体制、思想や価値観のまったく異なる国との間の問題なのです。
しかも近代には否定しがたい負の歴史を負っている、われわれなのです。
ここは真剣に、真摯に歴史と向き合い、現在のアジアで、アジアの中の日本として、針路をどう定めるべきなのか、はっきりとさせていかなければならないと考えます。
ズルズルと状況、情勢に引きずられながら、いつも「米国頼みの不満タラタラ」、中国、韓国へは不信と嘲りの塊りというような情けないあり方を、きっぱりと断ち切らなければならないと思います。(つづく)
2人の女性記者の解放をめざしたクリントン元大統領の訪朝、開城工業団地で北朝鮮側に身柄を拘束されている男性社員の解放、帰国をめざす現代グループの玄貞恩会長の訪朝、そのいずれもが奇しくも「身柄を拘束されている者」の解放をめざすという、誰もが反対できない「人道目的」で訪朝し、金正日総書記との会見、会談に至るという経過をたどったことはすでに知られるとおりです。
これに続く金大中元大統領の死去をもうひとつの契機に加えて、朝鮮半島は大きく動きはじめます。
とりわけ、北朝鮮弔問団の韓国派遣、青瓦台での李明博大統領との会談という流れの中で、それまで緊張とこう着状態にあった南北関係が、いってみれば、きしみを立てながらではあれ、大きく転換をはじめました。
自由を奪われた拘束の身の上、あるいは人の逝去という「不幸」を奇貨としてというと不謹慎に響きますが、そうとしか言えないぐらいのタイミングで、まさに恩讐を超えて「禍を転じて福となす」というべき展開がはかられたのでした。
そして迎えた9月です。
9月3日から10日まで、アメリカの北朝鮮問題を担当するボズワース特別代表が中国、韓国、日本を歴訪しました。
5月に中国、韓国、日本、ロシアの4カ国を歴訪したのに続く、6カ国協議の構成国歴訪でした。
この時期に合わせるかのように、北朝鮮の国連代表部は3日、「使用済み燃料棒の再処理が最終段階にあり、抽出されたプルトニウムが兵器化されている。ウラン濃縮実験が成功裏に行われて仕上げの段階に入った。」とする書簡を国連安全保障理事会議長あてに送りました。
「ウラン濃縮」のくだりばかりが大きく報道されたのですが、それ以上に注意を払うべき重要な部分は「われわれは、わが共和国の自主権と平和的発展権を乱暴に踏みにじるのに利用された6者会談の構図に反対したのであって、朝鮮半島の非核化と世界の非核化そのものを否定したことはない。朝鮮半島の非核化は徹頭徹尾、米国の対朝鮮核政策と密接に連関している。」と主張しているところです。
9日になると読売新聞がソウル発で、韓国政府当局者が「米国が、北朝鮮との2国間協議開催の可否を数週間以内に決める、との見通しを示した。」と報じました。
さらに、日本、中国、韓国の関係3か国を歴訪したボズワース米政府特別代表が、「6か国協議開催を促す目的ならば、米朝協議を先行開催できるとの考えを示し、3か国の了承を取り付けたという。」と伝えたのでした。
3か国、つまり中国、韓国そして日本の了承を取り付けた?!というのです。
そして、ボズワース特別代表の帰国を待っていたかのように、11日にはクローリー米国務次官補が「北朝鮮を6者協議の場に復帰させる方策の一環として、2国間協議に応じる用意がある」と述べたと米・CNNが伝えました。
加えて、協議が実現する期日について「クリントン米国務長官が9月下旬、国連総会の場で他の6者協議参加国の外相らと会談した後になる」と踏み込んで伝えています。
一方、6カ国協議の議長国にして北朝鮮にとっての最大の援助国でもある中国です。
まず、中国の戴秉国国務委員(外交担当)と楊潔チ外相が4日、中国を訪問している北朝鮮の金永日外務次官を団長とする朝鮮外務省代表団とそれぞれ会見。
16日には中国の胡錦濤国家主席の特使として戴秉国国務委員が北朝鮮を訪問し姜錫柱第1外務次官と会談。
「中朝関係や共に関心を持つ地域・国際問題について深く意見交換した」(中国外務省)
「戴氏には対外援助を担当する傅自応商務次官が同行しており、新たな無償援助などについて話し合っているとみられる。北朝鮮の経済困窮をにらみ、援助を手札にして核問題を巡る6カ国協議への復帰を促し、核問題での軟化を誘う狙いがうかがえる。」(日経9/18)
(米自由アジア放送[RFA]が、ワシントン外交筋の話として「15日、北朝鮮の崔泰福(チェ・テボク)最高人民会議議長が中国を訪問した」と伝えたということですが、今のところ確認されていません。)
戴秉国国務委員は、18日には、金正日総書記と会見、胡主席の親書を金総書記に手渡す。
金総書記はこの席で「北朝鮮は非核化の目標を堅持し続け、朝鮮半島の平和と安定守護に努力するとしながら、『この問題を2国間または多国間の対話で解決することを希望する』と述べたという。」(韓国・聯合ニュース9/18)
少しばかり煩雑とさえいえる「情報整理」になってしまいました。
しかし、すでに読者のみなさんもお気づきだと思いますが、こうしてクリントン訪朝以来の動きを注意深くトレースしてみると、米国、中国、韓国のいずれもが北朝鮮問題にかかわって「動いている」ことに思い当ります。
しかし、対照的に、(ロシアをおくとして)6カ国協議参加国で、わが日本だけがなんの「動き」もありません。
悲しいまでの当事者能力の失墜です。
(まさか選挙で慌ただしくしていたからなどという言い訳は通用しないでしょう。)
これが独自の制裁と圧力の「実体」だとするなら、なんとその代償の大きいことかというべきです。
すべてにわたって蚊帳の外に置かれ自縄自縛というべきか、身動きのとれないわが日本の姿が浮かび上がってきます。
ですから、前回書いたような「日米同盟があるのだから、クリントンさんは日本の拉致被害者のためにもっとしっかりやってくれてもいいじゃない・・・」などと、テレビで臆面もなく発言するコメンテーターが跋扈するのです。
本人が自覚していなくとも、当事者能力を失っている「境遇」をみごとに語って余りあるというべきです。
こんな人びとに拉致問題を語る資格があるのでしょうか。
拉致被害者を本当に救おうと考えるのなら、なすべきことは現在の「処方」とは正反対でなければならないことを、現実は教えているというべきです。
勇を振るって国交正常化交渉に踏み込んで、主張すべきことを主張し、聴くべきことを聴くということにしか打開の道はないというべきです。
実は、このことは、ことばには出さなくとも、すでに多くの人が覚っていることなのです。
選挙も終わったことですし、もう「時効」だと考えますので書きますが、拉致問題に積極的に取り組んできた自民党の有力議員(すでに元議員になった人もいますが)から、オフレコを条件に話を聞いた折、いまの力と制裁一本槍では拉致被害者を救うことにはつながらない!いまやっていることはそれを阻害することばかりだと明言したのでした。
「しかし、こんなことは一歩この部屋を出たらとても言えません!」と襟の青いバッジを見やりながら言ったものでした。
歴史的な政権交代という画期に立ったいま、まさにいまこそ私たち一人ひとり、あるいはメディアに携わるすべての人びとが、日本の北朝鮮政策のあり方を真摯にとらえ直してみなければならないと思います。
勇気を振るって、発言し議論を巻き起こさなければならないと思います。
こうして見てきたように、米・中・韓の動きを冷静に直視する勇気とそれらを的確に解析する力が、いまこそ必要とされています。
価値観や思想を同じくする「仲良し」との間にではなく、それをまったく異にする「間柄」だからこそ外交の果たすべき役割があるのです。外交力の問われるフィールドがあるのです。
好き嫌いや、親しみをもてるか否か、信用できるかどうかなど「好みの問題」で考えるのなら、それこそ「サルでもできる」業というべきでしょう。
事は、国の成り立ちや体制、思想や価値観のまったく異なる国との間の問題なのです。
しかも近代には否定しがたい負の歴史を負っている、われわれなのです。
ここは真剣に、真摯に歴史と向き合い、現在のアジアで、アジアの中の日本として、針路をどう定めるべきなのか、はっきりとさせていかなければならないと考えます。
ズルズルと状況、情勢に引きずられながら、いつも「米国頼みの不満タラタラ」、中国、韓国へは不信と嘲りの塊りというような情けないあり方を、きっぱりと断ち切らなければならないと思います。(つづく)
動く!朝鮮半島、長白山で考えたこと・・・
政権交代、民主党政権発足という、国内の「激動」ともいうべき動きを追うことが先になって、先月下旬からの中国・東北地方、中朝国境地帯への旅の報告が手つかずのままとなっていました。
瀋陽から長春、延吉、龍井、長白山(白頭山)一帯、集安、鴨緑江沿いに丹東、そして大連まで、走行距離2600キロに及ぶ今回の旅は、あらためて近代日本と東アジアの関係を見つめ直し思索を深める旅になりました。
同時に中国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国境地域をめぐりながら、あらためて朝鮮半島問題、とりわけ北朝鮮をめぐるさまざまな問題について考える旅になりました。
今回は旅先のネット事情が分からなかったのでパソコンを持参しなかったため、現地、現場からの即時的なレポートをこのブログに載せることができませんでした。
結果的にはどこでもネット環境は不自由なく整備されていて、情報ツールを持ってこなかったことを反省したのでしたが、その分PCに向かうのではなく、人や街との出会い、語らいそしてウオッチに時間を割くことができて、「旅」に集中できたと思いました。
さてそこで、旅の中で見聞し、考えたことを書く際、単なる『旅行の記録』ではなく、できるだけ「いま」の動きに即して、そこにかかわる点にふれながら記してみたいと考えます。
まず、旅に出る前後から朝鮮半島をめぐる動きは慌ただしくなっていました。
すでに伝えられているように、「六カ国協議再開に向けた努力の一環として」という「留保」つきながら、米朝2国間の直接「対話」(協議)が現実のものになりつつあります。
この間、米国側からもたらされた情報によるものですが、北朝鮮・朝鮮半島情勢は動くということを確信させる「うごき」になっています。
とりわけ、米国が朝鮮半島の非核化にむけて「包括的」提案をする意向であることが伝えられ、目の離せない段階にきていることを痛感させられます。
この動きに対して、依然として日本のメディアでは、「関係国の間では、北朝鮮との関係で『自国だけがバスに乗り遅れないか、関係国同士で疑心暗鬼になる』といった空気も漂い始めている。こうした事情から、米朝対話で米国側が『包括提案』を提示できるかどうかは微妙な情勢だ。」と「六者協議筋」という実体のわからない「スジ」をソースとして、ネガティブな伝えられ方もしています。
そこで、私自身の頭の整理ということも含めて、この間の動きのポイントを時系列で整理してみます。
いつも言っていることですが、ジャーナリズムというものは、「後証文」で、結果を見てから「実はそう思っていたのだ・・・」などともっともらしく語るのは恥ずかしいことで、動いている事態の真っただ中で、いまの「うごき」が何を意味するのかを的確に分析し今後どう動くのかを論理的に示す、まさに歴史の検証に耐えうる正確な解析、予測ができなければなりません。
その意味で、さかのぼって動きを整理するという際にも、そうした点をわきまえて、自制しながら行うということが大事だと考えます。
ある「情報誌」の9月号で「いまだに不可解なのは8月4日にクリントン元米大統領が訪朝し、金正日総書記と会談したことだ。国連安保理が6月12日に採択した対北朝鮮制裁決議を米国を中心に各国が実施しつつある最中、不法越境した米人記者2人の釈放を要請するために、大統領の経験者、しかも夫人は現在の国務長官である人物が『政府と無関係』に平壌を訪れた。米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう。」というくだりに出くわしました。
クリントン訪朝を「不可解」とし「奇妙な動き」とするこの筆者のスタンスは、この間の米国の動きを懐疑的に見ているものであることは確かですが「米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう」という指摘は的を射ているというべきです。
やはり、クリントン元大統領の訪朝の意味(と「限界」)を、その後の「動き」を見る中で確認しておくことは不可欠だと考えます。
8月10日 韓国現代グループ玄貞恩会長訪朝
北朝鮮の金永日(キム・ヨンイル)外務次官が、モンゴル・ウランバートルで同国の外交当局者らと会談した席で、近いうちに米朝関係に重大な進展があるとの立場を示し、米朝対話に向けた作業が最終段階にあることを示唆。
13日 3月30日以来開城工業団地で身柄を拘束されていた現代峨山の社員が四カ月半ぶりに解放され帰国。
16日 玄貞恩会長、金正日総書記と会見。会見後、現代グループと北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は、ことしの秋夕(旧盆)の金剛山での南北離散家族面会など、5項目からなる交流事業に合意し、これらを盛り込んだ共同報道文を発表。
主な内容は、
・毘盧峰観光を含めた金剛山観光の早期再開
・金剛山観光の便宜と安全保障
・陸路通行と滞在に関する制限の解除
・開城観光の再開と開城工業団地の活性化
・白頭山観光の開始
・旧盆の南北離散家族再会
18日 金大中・韓国元大統領死去
クリントン元大統領、ホワイトハスでオバマ大統領に「訪朝」報告。オバマ大統領は「ホワイトハウスの緊急対応室(シチュエーションルーム)でビル・クリントン元大統領と約40分にわたって会談し、クリントン氏が今月北朝鮮を訪問したことにより、同国に拘束されていた2人の米国人記者の解放が実現したことに謝意を表した。」「その後大統領は、同氏を大統領執務室に招き、さらに30分ほど会談したという。」会談後「夫人のヒラリー・クリントン国務長官は記者団に対し「夫と同行者の報告は北朝鮮の情勢を理解する手がかりとして極めて有用だった」と述べた。(ロイター)
注:シチュエーションルームはホワイトハウス西ウイング、盗聴などを防ぐ特殊保安装置のある部屋。
19日 リチャードソン・米ニューメキシコ州知事、北朝鮮国連代表部の金明吉公使と会談。北朝鮮側は核問題で「新たな対話」の用意があると表明。ただし「6カ国協議の枠組みではなく、明確に直接対話を求めている」とした。
21日 金大中元大統領を弔問する北朝鮮代表団が平壌から特別機で空路ソウル入り。2008年2月の李明博政権発足後、北朝鮮高官が訪韓したのは初めて。弔問団は閣僚級の金己男朝鮮労働党書記を団長とする6人。
23日 金大中元大統領国葬
李明博韓国大統領、北朝鮮弔問団の金己男朝鮮労働党書記、金養建朝鮮労働党統一戦線部長(アジア太平洋平和委員会委員長)らと青瓦台(大統領府)で会談。金書記らは南北協力の進展に関する金正日総書記の口頭メッセージを李大統領に伝えた。
26日 南北赤十字会談、北朝鮮金剛山ではじまる。離散家族再会問題を協議。
最終日の28日、離散家族の再会を9月26日から10月1日に実施することで合意。離散家族の再会は、約2年ぶり。
さて、そこで、今回の旅です。
金大中元大統領の国葬がソウルで執り行われた日、長白山にいました。
延吉にいた前日まで抜けるような青空だったのですが、この日は一転朝から雲が低く垂れこめ、ほどなく雨になりました。
長白山に着いた昼すぎには雨も強まり風も出てきて気温が下がりました。
長白山には4年前にはじめて登ったのですが、その折は素晴らしい青空で、頂上の天池は引きこまれるような深い青の水をたたえ、北朝鮮側までぐるっと見渡す360度のパノラマに感激したものでした。
しかし今回は頂上に登ってみると、まさに一寸先も見えない深い霧。氷雨のような冷たい雨に強い風が加わって体温を奪い、震えながら頂上をあとにしました。
そして少し下りたところにある温泉で身体を温めてようやく人心地ついたのでした。
長白山には、北朝鮮側から登れないという事情から、韓国からのツアー客が大勢来ています。「死ぬまでに一度は白頭山(中国名・長白山)に登りたい」という韓国人が、まさに押し寄せている状況です。
温泉にもそんな韓国人の一団が訪れていました。
霧に包まれた露天風呂で身体を伸ばしていると「DJの葬儀に行かずこんなところに来てしまったので雨になったのだ!」というため息混じりの話声が聞こえてきました。
ここまで来ても金大中元大統領への尊敬と思慕の念を忘れない「普通の人々」がいるのだと感じ入ったものでした。
李明博大統領への辛口なもの言いとあわせ、韓国での金大中元大統領の包容政策(太陽政策)が韓国社会にもたらした深い影響について考えさせられました。
また、長白山麓のホテルでは韓国KBSの衛星放送が伝える国葬の中継(録画で何度も放送された)に見入る人もいて、葬儀だけでなく北朝鮮の金己男書記と李明博大統領の会談(会見)のニュースにも注目が集まっていました。
「金正日総書記からのメッセージはどんなものだろうか」
「これで南北関係も少しは変わるのではないか」
「いや、変わらざるを得ない!」
などという会話が、食堂での夕食の際、交わされるのでした。
「普通の人びと」の感覚の確かさを思い、あらためてメディアのあり方をふり返らざるをえなくなりました。
こうした「変化のきざし」を導き出す「糸口」になったのは、やはり、クリントン元大統領の「完全にプライベートな」電撃訪朝だったことは明らかです。
この訪朝に、日本のあるテレビのモーニングショーで、「日米同盟というのだからクリントンさんには日本の拉致被害者の解放についてもしっかりやってもらいたい・・・」などと、エコノミストとしての肩書で知られる?コメンテーターが言っているのを目にして驚いたものでした。
なにを寝ぼけたことを言っているのだ!「しっかりやってもらいたい」と言うべき相手は日本の総理大臣であり、政治家でしょう!と怒鳴りつけたくなりましたが、スタジオでなんら恥じることなくこんなバカげたことを言い放ち、しかも、まわりのキャスターと呼ばれる人や他のゲストも「そうですねぇー」と言うに至って、唖然としたのでした。
救い難いというべきメディア状況ではないでしょうか・・・。
まさに、長白山麓で出会った韓国の「普通の人びと」の感覚に、朝鮮半島問題を考える際の重要なカギ(のひとつ)があると痛感したものでした。(つづく)
瀋陽から長春、延吉、龍井、長白山(白頭山)一帯、集安、鴨緑江沿いに丹東、そして大連まで、走行距離2600キロに及ぶ今回の旅は、あらためて近代日本と東アジアの関係を見つめ直し思索を深める旅になりました。
同時に中国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国境地域をめぐりながら、あらためて朝鮮半島問題、とりわけ北朝鮮をめぐるさまざまな問題について考える旅になりました。
今回は旅先のネット事情が分からなかったのでパソコンを持参しなかったため、現地、現場からの即時的なレポートをこのブログに載せることができませんでした。
結果的にはどこでもネット環境は不自由なく整備されていて、情報ツールを持ってこなかったことを反省したのでしたが、その分PCに向かうのではなく、人や街との出会い、語らいそしてウオッチに時間を割くことができて、「旅」に集中できたと思いました。
さてそこで、旅の中で見聞し、考えたことを書く際、単なる『旅行の記録』ではなく、できるだけ「いま」の動きに即して、そこにかかわる点にふれながら記してみたいと考えます。
まず、旅に出る前後から朝鮮半島をめぐる動きは慌ただしくなっていました。
すでに伝えられているように、「六カ国協議再開に向けた努力の一環として」という「留保」つきながら、米朝2国間の直接「対話」(協議)が現実のものになりつつあります。
この間、米国側からもたらされた情報によるものですが、北朝鮮・朝鮮半島情勢は動くということを確信させる「うごき」になっています。
とりわけ、米国が朝鮮半島の非核化にむけて「包括的」提案をする意向であることが伝えられ、目の離せない段階にきていることを痛感させられます。
この動きに対して、依然として日本のメディアでは、「関係国の間では、北朝鮮との関係で『自国だけがバスに乗り遅れないか、関係国同士で疑心暗鬼になる』といった空気も漂い始めている。こうした事情から、米朝対話で米国側が『包括提案』を提示できるかどうかは微妙な情勢だ。」と「六者協議筋」という実体のわからない「スジ」をソースとして、ネガティブな伝えられ方もしています。
そこで、私自身の頭の整理ということも含めて、この間の動きのポイントを時系列で整理してみます。
いつも言っていることですが、ジャーナリズムというものは、「後証文」で、結果を見てから「実はそう思っていたのだ・・・」などともっともらしく語るのは恥ずかしいことで、動いている事態の真っただ中で、いまの「うごき」が何を意味するのかを的確に分析し今後どう動くのかを論理的に示す、まさに歴史の検証に耐えうる正確な解析、予測ができなければなりません。
その意味で、さかのぼって動きを整理するという際にも、そうした点をわきまえて、自制しながら行うということが大事だと考えます。
ある「情報誌」の9月号で「いまだに不可解なのは8月4日にクリントン元米大統領が訪朝し、金正日総書記と会談したことだ。国連安保理が6月12日に採択した対北朝鮮制裁決議を米国を中心に各国が実施しつつある最中、不法越境した米人記者2人の釈放を要請するために、大統領の経験者、しかも夫人は現在の国務長官である人物が『政府と無関係』に平壌を訪れた。米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう。」というくだりに出くわしました。
クリントン訪朝を「不可解」とし「奇妙な動き」とするこの筆者のスタンスは、この間の米国の動きを懐疑的に見ているものであることは確かですが「米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう」という指摘は的を射ているというべきです。
やはり、クリントン元大統領の訪朝の意味(と「限界」)を、その後の「動き」を見る中で確認しておくことは不可欠だと考えます。
8月10日 韓国現代グループ玄貞恩会長訪朝
北朝鮮の金永日(キム・ヨンイル)外務次官が、モンゴル・ウランバートルで同国の外交当局者らと会談した席で、近いうちに米朝関係に重大な進展があるとの立場を示し、米朝対話に向けた作業が最終段階にあることを示唆。
13日 3月30日以来開城工業団地で身柄を拘束されていた現代峨山の社員が四カ月半ぶりに解放され帰国。
16日 玄貞恩会長、金正日総書記と会見。会見後、現代グループと北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は、ことしの秋夕(旧盆)の金剛山での南北離散家族面会など、5項目からなる交流事業に合意し、これらを盛り込んだ共同報道文を発表。
主な内容は、
・毘盧峰観光を含めた金剛山観光の早期再開
・金剛山観光の便宜と安全保障
・陸路通行と滞在に関する制限の解除
・開城観光の再開と開城工業団地の活性化
・白頭山観光の開始
・旧盆の南北離散家族再会
18日 金大中・韓国元大統領死去
クリントン元大統領、ホワイトハスでオバマ大統領に「訪朝」報告。オバマ大統領は「ホワイトハウスの緊急対応室(シチュエーションルーム)でビル・クリントン元大統領と約40分にわたって会談し、クリントン氏が今月北朝鮮を訪問したことにより、同国に拘束されていた2人の米国人記者の解放が実現したことに謝意を表した。」「その後大統領は、同氏を大統領執務室に招き、さらに30分ほど会談したという。」会談後「夫人のヒラリー・クリントン国務長官は記者団に対し「夫と同行者の報告は北朝鮮の情勢を理解する手がかりとして極めて有用だった」と述べた。(ロイター)
注:シチュエーションルームはホワイトハウス西ウイング、盗聴などを防ぐ特殊保安装置のある部屋。
19日 リチャードソン・米ニューメキシコ州知事、北朝鮮国連代表部の金明吉公使と会談。北朝鮮側は核問題で「新たな対話」の用意があると表明。ただし「6カ国協議の枠組みではなく、明確に直接対話を求めている」とした。
21日 金大中元大統領を弔問する北朝鮮代表団が平壌から特別機で空路ソウル入り。2008年2月の李明博政権発足後、北朝鮮高官が訪韓したのは初めて。弔問団は閣僚級の金己男朝鮮労働党書記を団長とする6人。
23日 金大中元大統領国葬
李明博韓国大統領、北朝鮮弔問団の金己男朝鮮労働党書記、金養建朝鮮労働党統一戦線部長(アジア太平洋平和委員会委員長)らと青瓦台(大統領府)で会談。金書記らは南北協力の進展に関する金正日総書記の口頭メッセージを李大統領に伝えた。
26日 南北赤十字会談、北朝鮮金剛山ではじまる。離散家族再会問題を協議。
最終日の28日、離散家族の再会を9月26日から10月1日に実施することで合意。離散家族の再会は、約2年ぶり。
さて、そこで、今回の旅です。
金大中元大統領の国葬がソウルで執り行われた日、長白山にいました。
延吉にいた前日まで抜けるような青空だったのですが、この日は一転朝から雲が低く垂れこめ、ほどなく雨になりました。
長白山に着いた昼すぎには雨も強まり風も出てきて気温が下がりました。
長白山には4年前にはじめて登ったのですが、その折は素晴らしい青空で、頂上の天池は引きこまれるような深い青の水をたたえ、北朝鮮側までぐるっと見渡す360度のパノラマに感激したものでした。
しかし今回は頂上に登ってみると、まさに一寸先も見えない深い霧。氷雨のような冷たい雨に強い風が加わって体温を奪い、震えながら頂上をあとにしました。
そして少し下りたところにある温泉で身体を温めてようやく人心地ついたのでした。
長白山には、北朝鮮側から登れないという事情から、韓国からのツアー客が大勢来ています。「死ぬまでに一度は白頭山(中国名・長白山)に登りたい」という韓国人が、まさに押し寄せている状況です。
温泉にもそんな韓国人の一団が訪れていました。
霧に包まれた露天風呂で身体を伸ばしていると「DJの葬儀に行かずこんなところに来てしまったので雨になったのだ!」というため息混じりの話声が聞こえてきました。
ここまで来ても金大中元大統領への尊敬と思慕の念を忘れない「普通の人々」がいるのだと感じ入ったものでした。
李明博大統領への辛口なもの言いとあわせ、韓国での金大中元大統領の包容政策(太陽政策)が韓国社会にもたらした深い影響について考えさせられました。
また、長白山麓のホテルでは韓国KBSの衛星放送が伝える国葬の中継(録画で何度も放送された)に見入る人もいて、葬儀だけでなく北朝鮮の金己男書記と李明博大統領の会談(会見)のニュースにも注目が集まっていました。
「金正日総書記からのメッセージはどんなものだろうか」
「これで南北関係も少しは変わるのではないか」
「いや、変わらざるを得ない!」
などという会話が、食堂での夕食の際、交わされるのでした。
「普通の人びと」の感覚の確かさを思い、あらためてメディアのあり方をふり返らざるをえなくなりました。
こうした「変化のきざし」を導き出す「糸口」になったのは、やはり、クリントン元大統領の「完全にプライベートな」電撃訪朝だったことは明らかです。
この訪朝に、日本のあるテレビのモーニングショーで、「日米同盟というのだからクリントンさんには日本の拉致被害者の解放についてもしっかりやってもらいたい・・・」などと、エコノミストとしての肩書で知られる?コメンテーターが言っているのを目にして驚いたものでした。
なにを寝ぼけたことを言っているのだ!「しっかりやってもらいたい」と言うべき相手は日本の総理大臣であり、政治家でしょう!と怒鳴りつけたくなりましたが、スタジオでなんら恥じることなくこんなバカげたことを言い放ち、しかも、まわりのキャスターと呼ばれる人や他のゲストも「そうですねぇー」と言うに至って、唖然としたのでした。
救い難いというべきメディア状況ではないでしょうか・・・。
まさに、長白山麓で出会った韓国の「普通の人びと」の感覚に、朝鮮半島問題を考える際の重要なカギ(のひとつ)があると痛感したものでした。(つづく)
2009年09月11日
「政権交代」に何を見るべきなのか?!
仙台から戻って、中国に出かけていた10日間も含めて、この三週間ほどの国内と世界、とりわけ北東アジア、中国、朝鮮半島の「動き」をトレースしていますが、「動き」と情報の脈絡を押さえるのが大変で、あらためて8月下旬から、アジアそして日本が激動のなかにあることを痛感しています。
言うまでもないことですが、世界が歴史的な大転換期にあるいま、その「渦中」に身を置いていると、変化あるいは「転換」というものの歴史的な意味を的確に認識することがとても難しいということをあらためて痛感します。
後から振り返って意味づけることは誰でもできる、といえば語弊がありますが、比較的たやすくできるのでしょうが、問題は動きの真っただ中で後の評価に耐えうる分析と問題の提示ができるか、さらには展望を語ることができるかどうか、まさに言論が厳しく問われるところだと思います。
その意味ではこのコラムを書く筆が重くなってしまいます。
以前にも述べましたが、書くべきことは「山積」していますが、まず政権交代です。
民主、社民、国民新党の「連立合意」がなんとか成立して、メディアは新内閣の顔ぶれの予想と人物月旦に「懸命」です。
またテレビやスポーツ紙では「芸能情報」として民主党の新人議員の「経歴」が面白おかしく伝えられています。
「マスコミは、ただ批判すればよいという風潮が出来てしまって、『批判のための批判』という報道が多くなったことも、戦後の弊害ではあります。わたくしからみれば、『批判』でもなく、『評論』でもなく『面白おかしく茶化している』という感じです。別にNHKのようなスタイルがよいとも思っていませんが。『批判』も『批評』もだれのためのものなのか、視点が一番大事です。政治も、誰のための政治なのか。それが一番問題です。」
これは日頃から私のブログのコラムやホームページの記事について厳しく読み込んで叱咤してくれている人物からきのう届いたメールに記されていたものです。
また、「とにかく、自民党『一党独裁』ではないにしろ、『自民党ごまかし政権』を続けてきたツケを、解決していかねばならないわけで、政権交代を引き受けた民主党には、期待をするだけではなく、国民がみなで支える努力をしないといけません。」ともありました。
いまのメディアのあり方を鋭く衝く指摘だと思います。
誰が大臣になるのかの予想で盛り上がるのも、それはそれで重要な意味もあるわけですが、まさにどういう視点で関心を持つのか、なぜ、なんのために人事に注目するのかが問われます。
一週間余りの仙台滞在中、夫妻で力を合わせて「コリア文庫」を主宰し優れた翻訳活動を重ねている青柳純一氏と2夜にわたって日本の政治状況、文化をめぐる状況、朝鮮半島情勢について意見を交わす機会を持ちました。
また青柳氏の配意で、毎月、月刊総合誌を読み真摯な議論を重ねている年配の方々とも話し合う時間を持つことができました。
そのいずれの場でも、当然のことながら、今回の「政権交代」をどうとらえるのかが最大のテーマになりました。
そこから浮かび上がってくるのは、今回の「政権交代」が必ずしも民主党の掲げるマニフェストに盛られた「政策」のひとつひとつに同意、賛成したがゆえに実現したわけではないということです。
いわば個別には賛成できないこともあるがそれでも民主党に投票したということで、民主党の掲げるものをすべてよしとしたわけではないということです。
この点は極めて重要なところだと思います。
つまり、それだけ多くの人に、なんとかして現状を変えなければならないという思いが強く、切実に働いたということであり、それが選挙を通じた「政権交代」を現実のものにしたということです。
従って、そこには当の民主党がこの「政権交代」にこめられた国民の思いを誠実、正確に受けとめることができるかどうかという重い課題と、さまざまな留保をのりこえて票を投じた有権者、国民の側にも相応の重い責任が生じたということです。
この点について青柳氏との討論では、「楽観の青柳、悲観の木村ですね、二人を足して二で割るとちょうどいいでしょうか・・・」と笑い話になったのですが、論点は「市民の力」という問題に集中しました。
つまり、民主党の構成や政治思想、志向するものにはさまざま異論や問題があるが、それでも民主党を政権に押し上げた「市民の力」というものは、民主党自身が決して無視できるものではなく、大きな力として民主党を取り巻いていくことになるはずで、そこにこそ今回の「政権交代」の意味があるというのです。
楽観と悲観について言うならば、青柳氏と私で考え方が異なるというのではなく、この日本で「市民の力」というものに期待と希望を持ちたいという点では一致するのですが、私は、本当にそれだけの「市民の力」が日本の社会に根付いているだろうかという点で、それほど楽観できないのではないかというものでした。
もちろん青柳氏も楽観はしていないのですが、希望を持つことこそがこれからの歴史をひらく力になるという立場でした。
そして、意見を交わす機会を持った年配の方々も、やはり「政権交代」を後退させないために市民の力が大事になる、問われるということで一致していました。
こうして書いてみると、いかにもメディアの取り上げている問題や「論調」(これをもって本当に「論」というに値する質的深まりがあるかどうかはなはだこころもとないのでカギカッコに入れているのですが)などとかけ離れた、ユートピアのような議論をしているように響くかもしれません。
現実の政治というのはそんなもんじゃないんだよ!という「玄人筋」の声が聞こえてきそうです。
しかし、ここはまさに私たちもまたその一人である「市民」の声に誠実に耳をそば立て、耳を傾けてみなければならないのではないかと思います。
つまり、政治をふつうの市民の感覚で考え、行っていくという、これまたごくごく普通のあり方を取り戻すことが、今回の「政権交代」にこめられた民意だったというべきではないでしょうか。
そのような「玄人筋」の政治を転換するべきだというのが、今回の「政権交代」にこめられた意味だったというべきです。
ここまで政権交代にもまたカギカッコをつけて語ってきたのはそうした意味を込めたもので、従来の政治屋的感覚で権力の移動をとらえ、「器」が変わっただけでここぞとばかり党利党略、私利私欲に走る構造を続けるならば、それこそ市民からのしっぺ返しに会うことを覚悟すべきだと考えます。
またその意味で、われわれの一人ひとりが等しく、今回の政権交代を実現させた責任を自覚する必要があると思うのです。
つまり、その意味で、そうした「われわれ」の一構成要素としてのメディアもまた等しく責を負うべきだという認識が問われてくるのだと思います。
こうして考えてくると、民主党が政権についてまずしなければならないことは、「55年体制」といわれるものを含め、戦後の日本がたどった道筋のなかで、私たちの目から隠され、口をつぐんで覆い隠されてきたさまざまな「仕組み」や「問題」をどこまで洗いざらい白日の下にさらすことができるのか、そしてわれわれの検証に委ねることができるのかということではないでしょうか。
週刊誌でさえが『民主党革命・日本が変わる』と表紙に掲げたのはこういうことを言うのではないでしょうか。
もちろん私は、今回の選挙を通じての「政権交代」をもって革命だなどと夢のようなことを考えているのではありません。
しかし、少なくとも「いまを変えなければならない」という多くの人びとの切実な思いの結集がこの「政権交代」であったという、この一点について、戦後日本社会のあり方を批判的に検証する立場から、あるいはもっと言えば近代日本のあり方を見据えながら、いましっかりと考えてみなければならなのではないかと痛切に思うのです。
メディアで働く人びとの歴史意識もまた、その意味で厳しく問われているのだろうと思います。
さて、スポーツ紙やテレビもまた、新人議員が「濡れ場」を演じていたなどと面白おかしくあげつらっている場合でしょうか。
あるいは大臣の予想をあたかも競馬の勝ち馬予想のごとく語ることでしょうか。
メディアであれ、われわれであれ、いま試されているのは、愚直なまでの真剣さ、誠実さではないでしょうか。
そうした「ふつうの感覚」を取り戻すことの大事さをこそ、今回の選挙が、そしてその結果としての「政権交代」が語りかけているのだと確信するのです。
追伸、私の運営するホームページのなかの「小島正憲の凝視中国」のページに、小島氏からの最新レポート「民主党大勝:中国マスコミの意外な論評」をアップしました。
また9月4日付の「ウルムチ暴動緊急短信」も掲載しています。せひご一読ください。
Webサイトは
http://www.shakaidotai.com/index.html
です。
言うまでもないことですが、世界が歴史的な大転換期にあるいま、その「渦中」に身を置いていると、変化あるいは「転換」というものの歴史的な意味を的確に認識することがとても難しいということをあらためて痛感します。
後から振り返って意味づけることは誰でもできる、といえば語弊がありますが、比較的たやすくできるのでしょうが、問題は動きの真っただ中で後の評価に耐えうる分析と問題の提示ができるか、さらには展望を語ることができるかどうか、まさに言論が厳しく問われるところだと思います。
その意味ではこのコラムを書く筆が重くなってしまいます。
以前にも述べましたが、書くべきことは「山積」していますが、まず政権交代です。
民主、社民、国民新党の「連立合意」がなんとか成立して、メディアは新内閣の顔ぶれの予想と人物月旦に「懸命」です。
またテレビやスポーツ紙では「芸能情報」として民主党の新人議員の「経歴」が面白おかしく伝えられています。
「マスコミは、ただ批判すればよいという風潮が出来てしまって、『批判のための批判』という報道が多くなったことも、戦後の弊害ではあります。わたくしからみれば、『批判』でもなく、『評論』でもなく『面白おかしく茶化している』という感じです。別にNHKのようなスタイルがよいとも思っていませんが。『批判』も『批評』もだれのためのものなのか、視点が一番大事です。政治も、誰のための政治なのか。それが一番問題です。」
これは日頃から私のブログのコラムやホームページの記事について厳しく読み込んで叱咤してくれている人物からきのう届いたメールに記されていたものです。
また、「とにかく、自民党『一党独裁』ではないにしろ、『自民党ごまかし政権』を続けてきたツケを、解決していかねばならないわけで、政権交代を引き受けた民主党には、期待をするだけではなく、国民がみなで支える努力をしないといけません。」ともありました。
いまのメディアのあり方を鋭く衝く指摘だと思います。
誰が大臣になるのかの予想で盛り上がるのも、それはそれで重要な意味もあるわけですが、まさにどういう視点で関心を持つのか、なぜ、なんのために人事に注目するのかが問われます。
一週間余りの仙台滞在中、夫妻で力を合わせて「コリア文庫」を主宰し優れた翻訳活動を重ねている青柳純一氏と2夜にわたって日本の政治状況、文化をめぐる状況、朝鮮半島情勢について意見を交わす機会を持ちました。
また青柳氏の配意で、毎月、月刊総合誌を読み真摯な議論を重ねている年配の方々とも話し合う時間を持つことができました。
そのいずれの場でも、当然のことながら、今回の「政権交代」をどうとらえるのかが最大のテーマになりました。
そこから浮かび上がってくるのは、今回の「政権交代」が必ずしも民主党の掲げるマニフェストに盛られた「政策」のひとつひとつに同意、賛成したがゆえに実現したわけではないということです。
いわば個別には賛成できないこともあるがそれでも民主党に投票したということで、民主党の掲げるものをすべてよしとしたわけではないということです。
この点は極めて重要なところだと思います。
つまり、それだけ多くの人に、なんとかして現状を変えなければならないという思いが強く、切実に働いたということであり、それが選挙を通じた「政権交代」を現実のものにしたということです。
従って、そこには当の民主党がこの「政権交代」にこめられた国民の思いを誠実、正確に受けとめることができるかどうかという重い課題と、さまざまな留保をのりこえて票を投じた有権者、国民の側にも相応の重い責任が生じたということです。
この点について青柳氏との討論では、「楽観の青柳、悲観の木村ですね、二人を足して二で割るとちょうどいいでしょうか・・・」と笑い話になったのですが、論点は「市民の力」という問題に集中しました。
つまり、民主党の構成や政治思想、志向するものにはさまざま異論や問題があるが、それでも民主党を政権に押し上げた「市民の力」というものは、民主党自身が決して無視できるものではなく、大きな力として民主党を取り巻いていくことになるはずで、そこにこそ今回の「政権交代」の意味があるというのです。
楽観と悲観について言うならば、青柳氏と私で考え方が異なるというのではなく、この日本で「市民の力」というものに期待と希望を持ちたいという点では一致するのですが、私は、本当にそれだけの「市民の力」が日本の社会に根付いているだろうかという点で、それほど楽観できないのではないかというものでした。
もちろん青柳氏も楽観はしていないのですが、希望を持つことこそがこれからの歴史をひらく力になるという立場でした。
そして、意見を交わす機会を持った年配の方々も、やはり「政権交代」を後退させないために市民の力が大事になる、問われるということで一致していました。
こうして書いてみると、いかにもメディアの取り上げている問題や「論調」(これをもって本当に「論」というに値する質的深まりがあるかどうかはなはだこころもとないのでカギカッコに入れているのですが)などとかけ離れた、ユートピアのような議論をしているように響くかもしれません。
現実の政治というのはそんなもんじゃないんだよ!という「玄人筋」の声が聞こえてきそうです。
しかし、ここはまさに私たちもまたその一人である「市民」の声に誠実に耳をそば立て、耳を傾けてみなければならないのではないかと思います。
つまり、政治をふつうの市民の感覚で考え、行っていくという、これまたごくごく普通のあり方を取り戻すことが、今回の「政権交代」にこめられた民意だったというべきではないでしょうか。
そのような「玄人筋」の政治を転換するべきだというのが、今回の「政権交代」にこめられた意味だったというべきです。
ここまで政権交代にもまたカギカッコをつけて語ってきたのはそうした意味を込めたもので、従来の政治屋的感覚で権力の移動をとらえ、「器」が変わっただけでここぞとばかり党利党略、私利私欲に走る構造を続けるならば、それこそ市民からのしっぺ返しに会うことを覚悟すべきだと考えます。
またその意味で、われわれの一人ひとりが等しく、今回の政権交代を実現させた責任を自覚する必要があると思うのです。
つまり、その意味で、そうした「われわれ」の一構成要素としてのメディアもまた等しく責を負うべきだという認識が問われてくるのだと思います。
こうして考えてくると、民主党が政権についてまずしなければならないことは、「55年体制」といわれるものを含め、戦後の日本がたどった道筋のなかで、私たちの目から隠され、口をつぐんで覆い隠されてきたさまざまな「仕組み」や「問題」をどこまで洗いざらい白日の下にさらすことができるのか、そしてわれわれの検証に委ねることができるのかということではないでしょうか。
週刊誌でさえが『民主党革命・日本が変わる』と表紙に掲げたのはこういうことを言うのではないでしょうか。
もちろん私は、今回の選挙を通じての「政権交代」をもって革命だなどと夢のようなことを考えているのではありません。
しかし、少なくとも「いまを変えなければならない」という多くの人びとの切実な思いの結集がこの「政権交代」であったという、この一点について、戦後日本社会のあり方を批判的に検証する立場から、あるいはもっと言えば近代日本のあり方を見据えながら、いましっかりと考えてみなければならなのではないかと痛切に思うのです。
メディアで働く人びとの歴史意識もまた、その意味で厳しく問われているのだろうと思います。
さて、スポーツ紙やテレビもまた、新人議員が「濡れ場」を演じていたなどと面白おかしくあげつらっている場合でしょうか。
あるいは大臣の予想をあたかも競馬の勝ち馬予想のごとく語ることでしょうか。
メディアであれ、われわれであれ、いま試されているのは、愚直なまでの真剣さ、誠実さではないでしょうか。
そうした「ふつうの感覚」を取り戻すことの大事さをこそ、今回の選挙が、そしてその結果としての「政権交代」が語りかけているのだと確信するのです。
追伸、私の運営するホームページのなかの「小島正憲の凝視中国」のページに、小島氏からの最新レポート「民主党大勝:中国マスコミの意外な論評」をアップしました。
また9月4日付の「ウルムチ暴動緊急短信」も掲載しています。せひご一読ください。
Webサイトは
http://www.shakaidotai.com/index.html
です。
2009年08月31日
「55年体制」終焉の先に・・・
朝刊には「民主308 政権交代」「自民 歴史的惨敗」の見出しが躍りました。
歴史的な大きな「変化」を、いま、私たちは体験しています。
古典的「革命」理論によれば、議会を通じての「階級」間の権力の移行はありえないことになっていますが、少なくとも議会を通じた政権の移行は可能であることを、はじめて私たちは目の当たりにしていることになります。
55年体制というものの崩壊、終焉が言われて久しい気がしますが、根底的な崩壊、終焉まで、奇しくも(ほぼ)55年を要したことになります。
それだけに、いま日本の政治に起きている「変化」を歴史の中でどう位置づけるべきなのか、選挙を通じた政権交代という「変化」の意味とこれからを深く吟味していく必要があると思います。
鳩山由紀夫代表自身が語っているように、いまようやくスタートラインについたばかりということですから、新たな政権が問われることは、広く深いというべきですが、とりわけ、私の問題意識にふれて言うならば、鳩山代表が、選挙戦の中で語ってきた「東アジア共同体構想」については、近代日本の再検証とあわせ、深く分け入って考察する必要があると感じます。
27日付のニューヨークタイムズに掲載された鳩山氏の論文「日本の新たな道」をはじめ、これまでの発言や論考をじっくり読み込んで、アジアのなかの日本のこれからについて深めていくことが不可欠だと思います。
その作業をすすめる際、やはり、16日のブログに記した竹内好の「文章」のはらむ思想的な課題について忘れることはできません。
近代日本にとって、アジアとは連帯と支配、侵略という二律背反の葛藤をはらみながらあり続けたという「両義性」をどう総括するのかという重い課題を私たちに突きつけていると言うべきです。
私たちの心の奥深くに埋め込まれたこの矛盾をどう乗りこえていくのかという課題と向き合うことなしに、「アジアのなかの日本」のこれからを構想することはできません。
きわめて困難で、重く深い、思想的命題だと思います。
こうした課題をはじめ、このところ山積みになっている「問題」と格闘しながら、追々、考えるところを記していくつもりですが、8月下旬、中国・東北、中朝国境地域を歩いてきました。
中国・東北(旧満州)を歩きながら、あらためて近代日本とアジア、中国、さらには朝鮮半島について思索を迫られる毎日となりました。
およそ2600キロを駆け抜けながら、矛盾と葛藤に満ちた「満州」と一層重く向き合う日々が続きました。
また中朝国境地域を歩きながら、まさに「指呼の間」というべき「向う岸」を見つめ、胸に深く突き刺さるものがありました。
次から次と思いが募ることばかりですが、いま仙台にあってこれをしたためざるを得ない状況で、いま少しの暇をと思います。
この間中国・東北への旅に出ていたため、HPの更新に手付かずでしたが、昨日、小島正憲氏の「凝視中国」の2本のレポート、「09年7月暴動情報検証」と「ブレながら上昇する中国経済」を掲載しました。
いずれも、小島氏の慧眼、鋭い分析と現場主義に徹した考察に頭の下がる思いで、深く触発されながら読みました。
ぜひご一読ください。
サイトは
http://shakaidotai.com/CCP056.html
http://shakaidotai.com/CCP057.html
です。
歴史的な大きな「変化」を、いま、私たちは体験しています。
古典的「革命」理論によれば、議会を通じての「階級」間の権力の移行はありえないことになっていますが、少なくとも議会を通じた政権の移行は可能であることを、はじめて私たちは目の当たりにしていることになります。
55年体制というものの崩壊、終焉が言われて久しい気がしますが、根底的な崩壊、終焉まで、奇しくも(ほぼ)55年を要したことになります。
それだけに、いま日本の政治に起きている「変化」を歴史の中でどう位置づけるべきなのか、選挙を通じた政権交代という「変化」の意味とこれからを深く吟味していく必要があると思います。
鳩山由紀夫代表自身が語っているように、いまようやくスタートラインについたばかりということですから、新たな政権が問われることは、広く深いというべきですが、とりわけ、私の問題意識にふれて言うならば、鳩山代表が、選挙戦の中で語ってきた「東アジア共同体構想」については、近代日本の再検証とあわせ、深く分け入って考察する必要があると感じます。
27日付のニューヨークタイムズに掲載された鳩山氏の論文「日本の新たな道」をはじめ、これまでの発言や論考をじっくり読み込んで、アジアのなかの日本のこれからについて深めていくことが不可欠だと思います。
その作業をすすめる際、やはり、16日のブログに記した竹内好の「文章」のはらむ思想的な課題について忘れることはできません。
近代日本にとって、アジアとは連帯と支配、侵略という二律背反の葛藤をはらみながらあり続けたという「両義性」をどう総括するのかという重い課題を私たちに突きつけていると言うべきです。
私たちの心の奥深くに埋め込まれたこの矛盾をどう乗りこえていくのかという課題と向き合うことなしに、「アジアのなかの日本」のこれからを構想することはできません。
きわめて困難で、重く深い、思想的命題だと思います。
こうした課題をはじめ、このところ山積みになっている「問題」と格闘しながら、追々、考えるところを記していくつもりですが、8月下旬、中国・東北、中朝国境地域を歩いてきました。
中国・東北(旧満州)を歩きながら、あらためて近代日本とアジア、中国、さらには朝鮮半島について思索を迫られる毎日となりました。
およそ2600キロを駆け抜けながら、矛盾と葛藤に満ちた「満州」と一層重く向き合う日々が続きました。
また中朝国境地域を歩きながら、まさに「指呼の間」というべき「向う岸」を見つめ、胸に深く突き刺さるものがありました。
次から次と思いが募ることばかりですが、いま仙台にあってこれをしたためざるを得ない状況で、いま少しの暇をと思います。
この間中国・東北への旅に出ていたため、HPの更新に手付かずでしたが、昨日、小島正憲氏の「凝視中国」の2本のレポート、「09年7月暴動情報検証」と「ブレながら上昇する中国経済」を掲載しました。
いずれも、小島氏の慧眼、鋭い分析と現場主義に徹した考察に頭の下がる思いで、深く触発されながら読みました。
ぜひご一読ください。
サイトは
http://shakaidotai.com/CCP056.html
http://shakaidotai.com/CCP057.html
です。
2009年08月20日
「続編」を書き継ぐべきですが・・・
これまでの2回のコラムは、まだ続きを書かなければなりませんが、少し間隔があくことにならざるをえません。
朝鮮半島情勢については、クリントン元大統領の訪朝、そして金大中元大統領の死去と大きな出来事があいつでいることも含め、書かなければならないことが積もっています。
また、「8月15日」をはさんで、テレビで放送された関連番組についても、検証が必要だと感じています。
そうしたいくつもの問題が重なっているのですが、同時に、中国・東北の中朝国境地帯のいまの「様子」を見て来るために、少し時間を取りたいと考えます。
書き継ぐべきことは「その後」ということになります。
なお、ブログでお知らせするのが遅れてしまいましたが、6月におこなった李 鍾元氏のインタビューをWebに掲載していますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
長いものですが、どうか熟読していただきたいと思います。
以下のサイトです。
http://www.shakaidotai.com/CCP045.html
朝鮮半島情勢については、クリントン元大統領の訪朝、そして金大中元大統領の死去と大きな出来事があいつでいることも含め、書かなければならないことが積もっています。
また、「8月15日」をはさんで、テレビで放送された関連番組についても、検証が必要だと感じています。
そうしたいくつもの問題が重なっているのですが、同時に、中国・東北の中朝国境地帯のいまの「様子」を見て来るために、少し時間を取りたいと考えます。
書き継ぐべきことは「その後」ということになります。
なお、ブログでお知らせするのが遅れてしまいましたが、6月におこなった李 鍾元氏のインタビューをWebに掲載していますので、ぜひお読みいただきたいと思います。
長いものですが、どうか熟読していただきたいと思います。
以下のサイトです。
http://www.shakaidotai.com/CCP045.html
2009年08月16日
ふたたび、語るべき「悲惨」さとは何かをめぐって
きのう書いたことには「続き」がどうしても必要です。
まず、全国戦没者追悼式での麻生首相の「式辞」について、きのうは引用しなかった部分から始めます。
「戦争の教訓を継承」 戦没者追悼式 首相、加害に言及
これは、ある新聞のきのうの夕刊の見出しです。
見出しに続いて、参列者の人数など基礎情報を書いた後、
「麻生首相は式辞でアジア諸国への加害責任について言及し、悲惨な戦争の教訓を、次の世代に継承していくと述べた。」
と記事が続きます。
そこで、「加害責任」ということについて、式辞の原文で確認しておきます。
深く読み込み、注意深く読み分ける必要があると思います。
「先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、愛する家族を案じつつ、亡くなられました。戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異境の地において亡くなられました。また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。
終戦から64年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の国民の、たゆまぬ努力の上に築かれております。
世界中の国々や各地域との友好関係が、戦後の日本の安定を支えていることも、忘れてはなりません。
私達は、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません。
本日、ここに、我が国は、不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していくことを誓います。国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります。」
ここでも、きのうのコラムで問題にした、「悲惨な戦争の教訓」という文言が登場します。
一見過不足なく語られているように見えますが、何をもって悲惨なのかについては明確には伝わってきません。
さらに「アジア諸国への加害責任に言及し・・・」と新聞で報じられたくだりは、誰でもわかることですが、戦後50年に際して出された「村山談話」を下敷きにしたものです。
今度の総選挙には出馬せず引退することになった河野洋平前衆議院議長は朝日新聞のインタビュー「河野洋平の感慨」第4回のなかで、社会党の村山富市委員長を担いだ政権の歴史的な意味は何だったか、との問いに答えて、
「一つは村山・河野・武村(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作ったこと。戦争への反省、アジアへの謝罪を明確にしたのは日本にも国際社会にとっても極めて重要で、村山政権でなければできなかった。」
と語っています。
村山談話については、過去の侵略戦争と植民地支配について、認識と表現に本質的な限界も指摘されていますが、それでもとにかくここまでこぎつけたということでは河野氏の言う通りなのでしょう。
しかし、問題は、とにかくこの村山談話を適宜引用しておけば、あるいは下敷きにして語っておけば、まあまあなんとかなるだろうといった、いわば「免罪符」として活用されるということが起きていることです。
その意味で、村山談話はいいように「食い物」にされているといっても言い過ぎではないでしょう。
心底そのように考えてもいない人物が、その場しのぎで使うために村山談話があるのではないということを、今私たちは深く考える必要があると思います。
問われているのは認識の問題であり、思想なのです。
口先だけで適当に語るのなら誰にでも出来ます。
そうしたことを考えず、「加害に言及」などという見出しを掲げる新聞の、記者の認識の浅薄さが問われてしかるべきだと考えます。
さてそこで、認識の問題であり思想的課題として横たわっているということについて、考えるための材料を提示しておきたいと考えます。
少し長くなりますが読んでください。
歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打ち顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。
十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼ざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。
何びとが、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争はみじめであるとしか考えなかった。実は、その考えのほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。ここに道があったかとはじめて大覚一番、顧みれば昨日の鬱情は既に跡形もない。
(中略)
わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。美言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといい、民族を解放するということの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。何者も枉げることの出来ぬ決意である。われらは、わが日本国と同体である。見よ、一たび戦端の開かれるや、堂々の布陣、雄宏の規模、懦夫をして立たしめるの概があるではないか。この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。
東亜から侵略者を追い払うことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。
大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。
(後略)
さて、これは一体何なのでしょうか。
狂信的な国家主義者が書いたものでもなく、ファナティックな戦争賛美論者が書いたのでもありません。
魯迅の研究者であり、アジアと近代、そして日本のありようを深く問い続けた思想家、竹内好が1942年1月発行の『中国文学』80号の巻頭に無署名で掲げた文章の一部です。
勉強が足りないとはいえ、私自身、深く尊敬する思想家、竹内好をあげつらうためにこの「一文」を引っ張り出したものではないことは当然です。
前年12月8日の米英との開戦にいたる、当時の知識人の精神のありようを知ることで、時代の「空気」というものを重く受け止め、戦争を総括し、歴史認識を深める上での困難(アポリア)について考え、それがいかに思想課題として重いものであるのかを知るために掲げたものです。
近代というものと、あるいはアジアのなかの日本と(アジアと日本ではなく!)どう向き合うのかという重い思想課題を基底に据えることなく語られる「加害責任への言及」などアジアの人々の心に響くわけがありません。
この問題はアジアと、あるいは歴史と向き合う際の私たちのありようにむけて、鋭い矢となって突き刺さってくることは当然です。
ここ数日、テレビでは「終戦特集」の番組がいくつも放送されました。
しかし、残念ながら、魂に深く届くものに出会えませんでした。
放送については、稿を改めて述べることにしますが、昨日から問題にしている「戦争の悲惨」について語るということをめぐって、再度問いを記しておかなければならないと思います。
さて、戦争の、一体何が悲惨だったのだろうか、何をもって悲惨と言うのだろうか、と。
まず、全国戦没者追悼式での麻生首相の「式辞」について、きのうは引用しなかった部分から始めます。
「戦争の教訓を継承」 戦没者追悼式 首相、加害に言及
これは、ある新聞のきのうの夕刊の見出しです。
見出しに続いて、参列者の人数など基礎情報を書いた後、
「麻生首相は式辞でアジア諸国への加害責任について言及し、悲惨な戦争の教訓を、次の世代に継承していくと述べた。」
と記事が続きます。
そこで、「加害責任」ということについて、式辞の原文で確認しておきます。
深く読み込み、注意深く読み分ける必要があると思います。
「先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、愛する家族を案じつつ、亡くなられました。戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異境の地において亡くなられました。また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。
終戦から64年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の国民の、たゆまぬ努力の上に築かれております。
世界中の国々や各地域との友好関係が、戦後の日本の安定を支えていることも、忘れてはなりません。
私達は、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません。
本日、ここに、我が国は、不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していくことを誓います。国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります。」
ここでも、きのうのコラムで問題にした、「悲惨な戦争の教訓」という文言が登場します。
一見過不足なく語られているように見えますが、何をもって悲惨なのかについては明確には伝わってきません。
さらに「アジア諸国への加害責任に言及し・・・」と新聞で報じられたくだりは、誰でもわかることですが、戦後50年に際して出された「村山談話」を下敷きにしたものです。
今度の総選挙には出馬せず引退することになった河野洋平前衆議院議長は朝日新聞のインタビュー「河野洋平の感慨」第4回のなかで、社会党の村山富市委員長を担いだ政権の歴史的な意味は何だったか、との問いに答えて、
「一つは村山・河野・武村(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作ったこと。戦争への反省、アジアへの謝罪を明確にしたのは日本にも国際社会にとっても極めて重要で、村山政権でなければできなかった。」
と語っています。
村山談話については、過去の侵略戦争と植民地支配について、認識と表現に本質的な限界も指摘されていますが、それでもとにかくここまでこぎつけたということでは河野氏の言う通りなのでしょう。
しかし、問題は、とにかくこの村山談話を適宜引用しておけば、あるいは下敷きにして語っておけば、まあまあなんとかなるだろうといった、いわば「免罪符」として活用されるということが起きていることです。
その意味で、村山談話はいいように「食い物」にされているといっても言い過ぎではないでしょう。
心底そのように考えてもいない人物が、その場しのぎで使うために村山談話があるのではないということを、今私たちは深く考える必要があると思います。
問われているのは認識の問題であり、思想なのです。
口先だけで適当に語るのなら誰にでも出来ます。
そうしたことを考えず、「加害に言及」などという見出しを掲げる新聞の、記者の認識の浅薄さが問われてしかるべきだと考えます。
さてそこで、認識の問題であり思想的課題として横たわっているということについて、考えるための材料を提示しておきたいと考えます。
少し長くなりますが読んでください。
歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打ち顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。
十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼ざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。
何びとが、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争はみじめであるとしか考えなかった。実は、その考えのほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。ここに道があったかとはじめて大覚一番、顧みれば昨日の鬱情は既に跡形もない。
(中略)
わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。美言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといい、民族を解放するということの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。何者も枉げることの出来ぬ決意である。われらは、わが日本国と同体である。見よ、一たび戦端の開かれるや、堂々の布陣、雄宏の規模、懦夫をして立たしめるの概があるではないか。この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。
東亜から侵略者を追い払うことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。
大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。
(後略)
さて、これは一体何なのでしょうか。
狂信的な国家主義者が書いたものでもなく、ファナティックな戦争賛美論者が書いたのでもありません。
魯迅の研究者であり、アジアと近代、そして日本のありようを深く問い続けた思想家、竹内好が1942年1月発行の『中国文学』80号の巻頭に無署名で掲げた文章の一部です。
勉強が足りないとはいえ、私自身、深く尊敬する思想家、竹内好をあげつらうためにこの「一文」を引っ張り出したものではないことは当然です。
前年12月8日の米英との開戦にいたる、当時の知識人の精神のありようを知ることで、時代の「空気」というものを重く受け止め、戦争を総括し、歴史認識を深める上での困難(アポリア)について考え、それがいかに思想課題として重いものであるのかを知るために掲げたものです。
近代というものと、あるいはアジアのなかの日本と(アジアと日本ではなく!)どう向き合うのかという重い思想課題を基底に据えることなく語られる「加害責任への言及」などアジアの人々の心に響くわけがありません。
この問題はアジアと、あるいは歴史と向き合う際の私たちのありようにむけて、鋭い矢となって突き刺さってくることは当然です。
ここ数日、テレビでは「終戦特集」の番組がいくつも放送されました。
しかし、残念ながら、魂に深く届くものに出会えませんでした。
放送については、稿を改めて述べることにしますが、昨日から問題にしている「戦争の悲惨」について語るということをめぐって、再度問いを記しておかなければならないと思います。
さて、戦争の、一体何が悲惨だったのだろうか、何をもって悲惨と言うのだろうか、と。
2009年08月15日
語るべき「悲惨」さとは何か
ブログのコラムの「間隔」が随分あいてしまいました。
言い訳のできない間隔です。
もちろんそれは自覚していますので、なんとかこの空白を取り戻すべく努力したいと思います。
この間、クリントン元大統領の北朝鮮訪問、広島、長崎の「原爆の日」があり、そして総選挙にむけて「マニフェスト」をめぐる論議がさかんにおこなわれています。
一昨日は麻生VS鳩山の党首討論が行われ、翌朝の紙面はこの記事で占められました。
そしてきょうは「終戦の日」です。
朝から、テレビは「きょうは終戦の日。戦争を知らない世代に悲惨な体験をどう伝えていくのか・・・」と繰り返し、新聞も「あの戦争の記憶をどう受け継いでゆくか。年々難しくなる課題に私たちは直面している」と綴っています。
敗戦から64年の夏のことです。
敗戦を「終戦」という言葉に置き換えて64年の時間を重ねて、依然として「ここから」一歩も出ることのない言説が重ねられるのを目の当たりにして、この国の言論に絶望的な思いを、今年もまた抱くのでした。
では、「ここから」一歩も出ることのないという際の「ここ」とはどこなのでしょうか。
北朝鮮問題をはじめ記すべきことが積み重なっているなかで、まず「きょう」のことから述べておこうと思います。
きょう日本武道館で執り行われた「全国戦没者追悼式」で遺族代表の男性は「悲しい歴史を絶対繰り返さないことを改めて誓う」と語りました。
麻生首相も式辞で「悲惨な戦争の教訓を、風化させることなく、次の世代に継承していかなければならない」と述べました。
ところで、ここでいう「悲惨な」とは、あるいは「悲しい」というのは一体何をさして「悲惨」といい「悲しい」と言っているのでしょうか。
さらに言えば新聞が語る「あの戦争の記憶」とは、何をもって受け継いでゆくべき「記憶」だと言っているのでしょうか。
問題はここです。
私は、毎年この日が来ると、いつも!同じ「問い」に立ち尽くしてしまうのです。
物心がついて以来ずっと、です。
残念ながらこの問いに答える(応答する)メディアは皆無と言うべきです。
そのような「悲惨さ」「悲しい体験」を、メディアは語り続けて、もう64年なのです。
否!語られていないわというけではない、と言うべきでしょう。
その意味では「答え」は明瞭なのです。
戦争で肉親を失った悲しさ、食べるものにも事欠いた戦時下の苦しい生活、空襲の下逃げ惑った地獄のような体験・・・と上げればきりがないほどの「悲惨」で「悲しい」あれこれです。
さて、もう一度静かに考えてみましょう、何が悲惨なのかと。
なにやらわけのわからない「問答」に時間を費やしようと思っているのではありません。しかし、こここそがすべての始まりであり、ここをあいまいにしてやり過ごそうとするから、わけのわからない「問答」を重ねなくてはならなくなっているのだと思うのです。
私は、と思うのです・・・、私は、悲惨であったというなら、私たちの親や祖父、祖母たちの世代が、侵略戦争を押しとどめることができなかったことの悲惨であり、朝鮮半島をはじめとする植民地支配をやすやすと行わせてしまった悲惨ではないのかと思うのです。
さらに言えば、一度として言論が戦争を押しとどめる経験を歴史に記すことなく今に至った悲惨もあると言うべきです。
「なぜ肉親は戦場で死ななければならなかったのか?!」この問いへの答えは、「敵の銃弾に当たったから」などという子供だましのようなものではないことは自明です。
そのような戦争をはじめたからにほかならないのです。
ましてやいうところの「外地」での死であれば答えはもっと明白です。
侵略の銃を執ったからに他なりません。
では、空襲による「内地」での死はどうなのでしょうか。
もちろんこの場合も、空襲による爆弾で、あるいは忌むべき焼夷弾によって焼かれてということが本質的な答えになるものではないことは明白です。
なぜなら、そのような「悲惨な状況」は、なぜ、生み出されたのかということに答えていないからです。
それは、正義のない、誤った戦争をはじめたからにほかありません。
それを明確に語ることを避けて、戦争の悲惨さを語り継がなければならない、などともっともらしい事を述べ続け、あるいは書き続けてきたがゆえに、いまだに何も問題が解決せず「風化」してゆくのです。
さらに、これまた当たり前のことですが、戦争とは「一人」でできるものではありません。
「敵」が、つまり相手があってはじめてできる業です。
であるならば、戦争について語ると言うのは、その戦争の歴史を両者で共有するということでなければならないはずです。
では、そこでの戦争の悲惨とは、悲しい歴史とは、一体何なのか・・・?。
なにも難しいことを言おうとしているのではありません。
侵略戦争をはじめなければ肉親は死ななくてもよかったでしょうし、その戦争が発端となって「発展」した「帝国」同士の戦争で命を落とすこともなかったでしょう。
つまり、なぜ肉親を失う悲惨を体験せざるをえなかったのかを考えるとは、なぜ戦争をはじめてしまったのかを考えることでなければならず、その戦争がどのような戦争であったのかを曇りなく突き詰める営為でなければならないのです。
空虚な「悲惨」についてのみ語り続けて64年もの時を重ねてきたからこそ、戦争の歴史を共有できず、戦争の一方の「当事者」つまり侵略された側、あるいは植民地支配を受けた側から信頼を得られないのです。
こんな「簡単明瞭」なことにどうして目をつぶろうとするのか。 なぜ本質に切り込んで物事を語ろうとしないのか。
無知なのか、あるいは知りながらあたかもわからない風を装っているのか、それも含めて、私は何とも言い難いもどかしさに襲われるのです。
「空襲で死んでいった人たちに守られて、いま私たちはあるのだと思います」などという、無知でなかったとするなら悪辣としかいいようのないコメントを得々と画面から語るキャスターはもう舞台から降りるべきでしょうし、「あの戦争の記憶、世代を超え、橋を架ける」などというもっともらしい題を掲げて活字を連ねることにも終止符を打つべきでしょう。
間違った戦争をはじめたなら、たとえ意図するしないにかかわらず、それによって被る死は覚悟しなければならないということをこそ語らなければならず、侵略の銃を執るかぎり、その人の善意や徳目と無関係に、その責任は負わなければならないという冷厳な歴史の教訓を語るべきなのです。
敗戦から64年。
私たちは、その程度には歴史の前で謙虚に、そして賢明にならなくてはならぬと、今年もまた、思うのでした。
私たちは、なぜ自己の「被害体験」については語ることができても、他者の被害体験について語ることができないのか、加害体験を直視できないのか、その悲惨についてこそ語るべきです。
その「悲しい歴史の教訓」をこそ語らなければならない!のです。
いたたまれないほどの歯がゆい思いで、今年の敗戦の日も暮れました。
メディアが、そして私たち一人ひとりの認識と存在が、深く、厳しく問われています。
言い訳のできない間隔です。
もちろんそれは自覚していますので、なんとかこの空白を取り戻すべく努力したいと思います。
この間、クリントン元大統領の北朝鮮訪問、広島、長崎の「原爆の日」があり、そして総選挙にむけて「マニフェスト」をめぐる論議がさかんにおこなわれています。
一昨日は麻生VS鳩山の党首討論が行われ、翌朝の紙面はこの記事で占められました。
そしてきょうは「終戦の日」です。
朝から、テレビは「きょうは終戦の日。戦争を知らない世代に悲惨な体験をどう伝えていくのか・・・」と繰り返し、新聞も「あの戦争の記憶をどう受け継いでゆくか。年々難しくなる課題に私たちは直面している」と綴っています。
敗戦から64年の夏のことです。
敗戦を「終戦」という言葉に置き換えて64年の時間を重ねて、依然として「ここから」一歩も出ることのない言説が重ねられるのを目の当たりにして、この国の言論に絶望的な思いを、今年もまた抱くのでした。
では、「ここから」一歩も出ることのないという際の「ここ」とはどこなのでしょうか。
北朝鮮問題をはじめ記すべきことが積み重なっているなかで、まず「きょう」のことから述べておこうと思います。
きょう日本武道館で執り行われた「全国戦没者追悼式」で遺族代表の男性は「悲しい歴史を絶対繰り返さないことを改めて誓う」と語りました。
麻生首相も式辞で「悲惨な戦争の教訓を、風化させることなく、次の世代に継承していかなければならない」と述べました。
ところで、ここでいう「悲惨な」とは、あるいは「悲しい」というのは一体何をさして「悲惨」といい「悲しい」と言っているのでしょうか。
さらに言えば新聞が語る「あの戦争の記憶」とは、何をもって受け継いでゆくべき「記憶」だと言っているのでしょうか。
問題はここです。
私は、毎年この日が来ると、いつも!同じ「問い」に立ち尽くしてしまうのです。
物心がついて以来ずっと、です。
残念ながらこの問いに答える(応答する)メディアは皆無と言うべきです。
そのような「悲惨さ」「悲しい体験」を、メディアは語り続けて、もう64年なのです。
否!語られていないわというけではない、と言うべきでしょう。
その意味では「答え」は明瞭なのです。
戦争で肉親を失った悲しさ、食べるものにも事欠いた戦時下の苦しい生活、空襲の下逃げ惑った地獄のような体験・・・と上げればきりがないほどの「悲惨」で「悲しい」あれこれです。
さて、もう一度静かに考えてみましょう、何が悲惨なのかと。
なにやらわけのわからない「問答」に時間を費やしようと思っているのではありません。しかし、こここそがすべての始まりであり、ここをあいまいにしてやり過ごそうとするから、わけのわからない「問答」を重ねなくてはならなくなっているのだと思うのです。
私は、と思うのです・・・、私は、悲惨であったというなら、私たちの親や祖父、祖母たちの世代が、侵略戦争を押しとどめることができなかったことの悲惨であり、朝鮮半島をはじめとする植民地支配をやすやすと行わせてしまった悲惨ではないのかと思うのです。
さらに言えば、一度として言論が戦争を押しとどめる経験を歴史に記すことなく今に至った悲惨もあると言うべきです。
「なぜ肉親は戦場で死ななければならなかったのか?!」この問いへの答えは、「敵の銃弾に当たったから」などという子供だましのようなものではないことは自明です。
そのような戦争をはじめたからにほかならないのです。
ましてやいうところの「外地」での死であれば答えはもっと明白です。
侵略の銃を執ったからに他なりません。
では、空襲による「内地」での死はどうなのでしょうか。
もちろんこの場合も、空襲による爆弾で、あるいは忌むべき焼夷弾によって焼かれてということが本質的な答えになるものではないことは明白です。
なぜなら、そのような「悲惨な状況」は、なぜ、生み出されたのかということに答えていないからです。
それは、正義のない、誤った戦争をはじめたからにほかありません。
それを明確に語ることを避けて、戦争の悲惨さを語り継がなければならない、などともっともらしい事を述べ続け、あるいは書き続けてきたがゆえに、いまだに何も問題が解決せず「風化」してゆくのです。
さらに、これまた当たり前のことですが、戦争とは「一人」でできるものではありません。
「敵」が、つまり相手があってはじめてできる業です。
であるならば、戦争について語ると言うのは、その戦争の歴史を両者で共有するということでなければならないはずです。
では、そこでの戦争の悲惨とは、悲しい歴史とは、一体何なのか・・・?。
なにも難しいことを言おうとしているのではありません。
侵略戦争をはじめなければ肉親は死ななくてもよかったでしょうし、その戦争が発端となって「発展」した「帝国」同士の戦争で命を落とすこともなかったでしょう。
つまり、なぜ肉親を失う悲惨を体験せざるをえなかったのかを考えるとは、なぜ戦争をはじめてしまったのかを考えることでなければならず、その戦争がどのような戦争であったのかを曇りなく突き詰める営為でなければならないのです。
空虚な「悲惨」についてのみ語り続けて64年もの時を重ねてきたからこそ、戦争の歴史を共有できず、戦争の一方の「当事者」つまり侵略された側、あるいは植民地支配を受けた側から信頼を得られないのです。
こんな「簡単明瞭」なことにどうして目をつぶろうとするのか。 なぜ本質に切り込んで物事を語ろうとしないのか。
無知なのか、あるいは知りながらあたかもわからない風を装っているのか、それも含めて、私は何とも言い難いもどかしさに襲われるのです。
「空襲で死んでいった人たちに守られて、いま私たちはあるのだと思います」などという、無知でなかったとするなら悪辣としかいいようのないコメントを得々と画面から語るキャスターはもう舞台から降りるべきでしょうし、「あの戦争の記憶、世代を超え、橋を架ける」などというもっともらしい題を掲げて活字を連ねることにも終止符を打つべきでしょう。
間違った戦争をはじめたなら、たとえ意図するしないにかかわらず、それによって被る死は覚悟しなければならないということをこそ語らなければならず、侵略の銃を執るかぎり、その人の善意や徳目と無関係に、その責任は負わなければならないという冷厳な歴史の教訓を語るべきなのです。
敗戦から64年。
私たちは、その程度には歴史の前で謙虚に、そして賢明にならなくてはならぬと、今年もまた、思うのでした。
私たちは、なぜ自己の「被害体験」については語ることができても、他者の被害体験について語ることができないのか、加害体験を直視できないのか、その悲惨についてこそ語るべきです。
その「悲しい歴史の教訓」をこそ語らなければならない!のです。
いたたまれないほどの歯がゆい思いで、今年の敗戦の日も暮れました。
メディアが、そして私たち一人ひとりの認識と存在が、深く、厳しく問われています。
2009年07月27日
続「世界第二の経済大国」そして、中国、日本・・・
きのうの記事の続きです。
ぜひ書いておかなければならないと思う問題が残っています。
その前に、ひとつ。
ある会合で自民党の大臣経験者の話を身近に聞く機会を得ました。
もちろん来月末にひかえた選挙、そして巷間言われる「政権交代」について、話が及びました。
というより、それに尽きるというべきなのですが・・・。
以下は、私なりの理解に基づく、その時の話の要旨です。
今度の選挙では政権交代が言われるが、どこが政権を取ろうとも、経済の再建が一番大事な課題となる。
自民党はマニフェストがまだ出ていないが、民主党のマニフェストを読んで、外交・安保政策ということになると不安を禁じ得ない。
このところ軌道修正しているとはいえ、外交・安保での大きな変更があるとすれば、国策、国益上好ましくない。
たとえば国連中心主義も結構だが、空理空論ではなく、日米を基軸としながら、中国とも良い関係を保っていくということが大事だ。
また、憲法をどうするのかも大事だ。しかし、民主党内はまとまっていない。
自民党はすでに(憲法改正草案を)出した。
この点でどんな憲法をつくるのかを言わなければ一人前とは言えない。
政権交代も結構だが、政権交代をして何をするのかが明確ではない。
「うっかり一票、がっかり4年」ということになりかねない。
話はもっと多岐に及びましたが、主たるところはこうしたものでした。
仮に政権交代ということになったとしても、自民党はしっかりした野党として、いろいろとやれることがある!と力説する姿に、下野を覚悟しつつも、いかにも悔しいという響きがこもっていました。当然と言えば当然でしょう。
それにしても、「うっかり一票、がっかり4年」はよく言ったものだと、妙に感心しました。
とともに、強力な風が吹いていると言われる民主党の痛いところを突いているなと、もちろん自民党やこの大臣経験者に共感するという意味ではなく、感じたのも確かです。
外交・安保ということになると、自民党のいわゆる「タカ派」(私はこんなカテゴリーで物事をとらえていませんし、私自身のことばとしてはこういう用語は使いませんが)でさえ顔負けというスタンスの人々が、民主党には、大勢いることも確かです。
とりわけ、中国、朝鮮半島への眼差し、アジア政策についていえば、とてもじゃないがこんな人たちに国政を委ねることはできないと思うこともしばしばです。
ですから、本当に不幸です。
まさに、選択の余地がなく、どこにも行き場のない状況だと言わざるをえません。
こうした感慨について、まず、書いたのはわけがあります。
ことばは下品で不穏当ですが、いまや、ミソもクソもへったくれもない!と言わざるをえない「状況」が目の前に広がるからです。
それはいうまでもなく、北朝鮮の核あるいは朝鮮半島問題をめぐってです。
きのう書いた中国の対日外交関係者の一人の話で、北朝鮮の核問題にかかわるくだりを思い出していただきたいと思います。
「北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。」と実に素っ気なく書いておきましたが、実は、このくだりに関しては、ただ黙って聞いていたわけではないのです。
北朝鮮の核実験には絶対反対だ!北朝鮮の非核化をしなければならない、そのために忍耐も・・・という「原則論」に対して、私は、要旨次のような「問い」を投げかけてみたものです。
先生は北朝鮮の核は絶対に許せないとおっしゃったが、私は中国が初めて核実験をした当時のことを思い返す。
中国が核実験を誇る記録映画まで見たものだ。
はっきりと記憶している。
もちろん日中国交回復のはるか前のことだ。
北朝鮮の核が許せないということは分かるが、ではそれですべてなのか。
オバマ大統領ですら、といえば失礼だが、「核なき世界」を掲げ始めている。
もちろんそれがことばでいうほどたやすい途だとは考えないが、それでも世界に向けてメッセージを発している。
では中国はどうなのか。北朝鮮の非核化とおっしゃったが、めざすべきは世界の非核化であり東アジアの非核化ではないのか。
もちろん、そうなると「核の傘」の下にある日本の私たちのあり方にも矢が戻ってくることは承知している。
私たちも、「非核三原則」があるだとか「唯一の被爆国だ」などと言っていられる場合ではないということを覚悟しなければならない。
それを踏まえた上で、では、中国はどうするのか。
少なくとも、核保有五大国の特権を保障するというNPT体制の矛盾に対して自ら立ち向かわなければならないのではないか、あるいは東アジアの非核化にむけてイニシアティブをとって、世界に語りかけ、具体的な努力をするという姿を見せなければ、共感も得られないのではないか・・・。
この「問いかけ」に対する答えは、実に淡々としたものでした。
いや、私がそう感じただけかもしれません。
先方は「なんと青くさいことを言うやつだ、始末に負えんわい」というぐらいのことだったかもしれません。
あなたのおっしゃることは、中国だけでできることではない。
国際社会の協力が必要だ。
中国の核に対する立場はこれまでも明確にしてきている。
(中国としては先に核を使用することはしないということを宣明しているということを指すのだろうと、私は理解しました)
核廃絶という問題はむずかしい。それを言うなら問題は(核弾頭の保有数からも)まず米国であり、ロシアではないか。
日本では北朝鮮の核問題にかかわって(言うことを聞かせられないと)中国と北朝鮮を並列して非難している。
中国と北朝鮮(の問題)はまったく性格が異なる。
「核なき世界」はすばらしい。
しかしそれを言うならまずアメリカだ。
日本はそのアメリカに「核の傘」を求めているではないか。
核廃絶を言うなら、同盟国として、もっと日本がアメリカに働きかけてほしいですね・・・。
あくまでも私の理解で敷衍するならばこういうことだったと思います。
そういうことではないでしょう、私が問いかけていることは!ということばは、当然のことながら飲み込みました。
もちろん、私も、もはやかつて中国が掲げていたような、世界の被抑圧人民とともに!などという言説を中国に求めているわけではありませんし、そんな「夢物語」のようなバカげた感覚は持っていません。
しかし、中国が、たとえば、途上国の一員としてといった言説をもって国際社会で発言する場面をしばしば目にする昨今です。
あるときは途上国の一員として、またあるときは米国と並ぶ世界の大国の一つとして、というように都合良く使い分けられるとしたら、いくらそれが国際政治のリアリズムといっても、人々の共感は得られないのではないかと思うのです。
ましてや、いよいよGDPで日本を抜いて「世界第二の経済大国」になるという現実を目の前にして、果たすべき責任というものもあるのではないかと、私は思うのです。
「・・・米中関係は世界的範囲で戦略的協力関係が展開されようとしている。その結果、北朝鮮が米中間の矛盾を利用した瀬戸際外交を展開する余地は著しく狭められている。現北朝鮮政権は、これについての分析能力はゼロに近いようだ。さて、このような北朝鮮に対してまともな対応を図ろうとしても無駄である。正常な国家外交を行うようになるまで、辛抱強く待つ姿勢が必要だ。・・・」
これはある新聞に掲載された、著名な中国人研究者の言説です。
「忍耐が必要だ」と語った、対日外交担当者の一人の言と通底するものを感じながら、
「現在、5カ国は北朝鮮への制裁をめぐって若干の食い違いがあるが、情勢の基本認識においては空前の一致を見ている。それは北朝鮮の現実離れの国際政治認識と中米関係の相互信頼の増進という国際情勢の大きな変化によるものである。」
こうした言説をしみじみ考えさせられながら読んだものです。
そういえば、きょう27日はアメリカワシントンで「米中戦略・経済対話」がはじまったのでした。
世界のふたつの「超大国」による「戦略・経済対話」で、望むべくは、世界の「途上国」の人々への眼差しが失われないことをと、青臭いと嗤われることは承知で、切に思います。
まもなくGDPで日本を抜いて、「世界第二の経済大国」になる中国。
そして、中華人民共和国建国から60年。
まさに、世界注視の中で、試練の時が近づいているというべきではないでしょうか。
ぜひ書いておかなければならないと思う問題が残っています。
その前に、ひとつ。
ある会合で自民党の大臣経験者の話を身近に聞く機会を得ました。
もちろん来月末にひかえた選挙、そして巷間言われる「政権交代」について、話が及びました。
というより、それに尽きるというべきなのですが・・・。
以下は、私なりの理解に基づく、その時の話の要旨です。
今度の選挙では政権交代が言われるが、どこが政権を取ろうとも、経済の再建が一番大事な課題となる。
自民党はマニフェストがまだ出ていないが、民主党のマニフェストを読んで、外交・安保政策ということになると不安を禁じ得ない。
このところ軌道修正しているとはいえ、外交・安保での大きな変更があるとすれば、国策、国益上好ましくない。
たとえば国連中心主義も結構だが、空理空論ではなく、日米を基軸としながら、中国とも良い関係を保っていくということが大事だ。
また、憲法をどうするのかも大事だ。しかし、民主党内はまとまっていない。
自民党はすでに(憲法改正草案を)出した。
この点でどんな憲法をつくるのかを言わなければ一人前とは言えない。
政権交代も結構だが、政権交代をして何をするのかが明確ではない。
「うっかり一票、がっかり4年」ということになりかねない。
話はもっと多岐に及びましたが、主たるところはこうしたものでした。
仮に政権交代ということになったとしても、自民党はしっかりした野党として、いろいろとやれることがある!と力説する姿に、下野を覚悟しつつも、いかにも悔しいという響きがこもっていました。当然と言えば当然でしょう。
それにしても、「うっかり一票、がっかり4年」はよく言ったものだと、妙に感心しました。
とともに、強力な風が吹いていると言われる民主党の痛いところを突いているなと、もちろん自民党やこの大臣経験者に共感するという意味ではなく、感じたのも確かです。
外交・安保ということになると、自民党のいわゆる「タカ派」(私はこんなカテゴリーで物事をとらえていませんし、私自身のことばとしてはこういう用語は使いませんが)でさえ顔負けというスタンスの人々が、民主党には、大勢いることも確かです。
とりわけ、中国、朝鮮半島への眼差し、アジア政策についていえば、とてもじゃないがこんな人たちに国政を委ねることはできないと思うこともしばしばです。
ですから、本当に不幸です。
まさに、選択の余地がなく、どこにも行き場のない状況だと言わざるをえません。
こうした感慨について、まず、書いたのはわけがあります。
ことばは下品で不穏当ですが、いまや、ミソもクソもへったくれもない!と言わざるをえない「状況」が目の前に広がるからです。
それはいうまでもなく、北朝鮮の核あるいは朝鮮半島問題をめぐってです。
きのう書いた中国の対日外交関係者の一人の話で、北朝鮮の核問題にかかわるくだりを思い出していただきたいと思います。
「北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。」と実に素っ気なく書いておきましたが、実は、このくだりに関しては、ただ黙って聞いていたわけではないのです。
北朝鮮の核実験には絶対反対だ!北朝鮮の非核化をしなければならない、そのために忍耐も・・・という「原則論」に対して、私は、要旨次のような「問い」を投げかけてみたものです。
先生は北朝鮮の核は絶対に許せないとおっしゃったが、私は中国が初めて核実験をした当時のことを思い返す。
中国が核実験を誇る記録映画まで見たものだ。
はっきりと記憶している。
もちろん日中国交回復のはるか前のことだ。
北朝鮮の核が許せないということは分かるが、ではそれですべてなのか。
オバマ大統領ですら、といえば失礼だが、「核なき世界」を掲げ始めている。
もちろんそれがことばでいうほどたやすい途だとは考えないが、それでも世界に向けてメッセージを発している。
では中国はどうなのか。北朝鮮の非核化とおっしゃったが、めざすべきは世界の非核化であり東アジアの非核化ではないのか。
もちろん、そうなると「核の傘」の下にある日本の私たちのあり方にも矢が戻ってくることは承知している。
私たちも、「非核三原則」があるだとか「唯一の被爆国だ」などと言っていられる場合ではないということを覚悟しなければならない。
それを踏まえた上で、では、中国はどうするのか。
少なくとも、核保有五大国の特権を保障するというNPT体制の矛盾に対して自ら立ち向かわなければならないのではないか、あるいは東アジアの非核化にむけてイニシアティブをとって、世界に語りかけ、具体的な努力をするという姿を見せなければ、共感も得られないのではないか・・・。
この「問いかけ」に対する答えは、実に淡々としたものでした。
いや、私がそう感じただけかもしれません。
先方は「なんと青くさいことを言うやつだ、始末に負えんわい」というぐらいのことだったかもしれません。
あなたのおっしゃることは、中国だけでできることではない。
国際社会の協力が必要だ。
中国の核に対する立場はこれまでも明確にしてきている。
(中国としては先に核を使用することはしないということを宣明しているということを指すのだろうと、私は理解しました)
核廃絶という問題はむずかしい。それを言うなら問題は(核弾頭の保有数からも)まず米国であり、ロシアではないか。
日本では北朝鮮の核問題にかかわって(言うことを聞かせられないと)中国と北朝鮮を並列して非難している。
中国と北朝鮮(の問題)はまったく性格が異なる。
「核なき世界」はすばらしい。
しかしそれを言うならまずアメリカだ。
日本はそのアメリカに「核の傘」を求めているではないか。
核廃絶を言うなら、同盟国として、もっと日本がアメリカに働きかけてほしいですね・・・。
あくまでも私の理解で敷衍するならばこういうことだったと思います。
そういうことではないでしょう、私が問いかけていることは!ということばは、当然のことながら飲み込みました。
もちろん、私も、もはやかつて中国が掲げていたような、世界の被抑圧人民とともに!などという言説を中国に求めているわけではありませんし、そんな「夢物語」のようなバカげた感覚は持っていません。
しかし、中国が、たとえば、途上国の一員としてといった言説をもって国際社会で発言する場面をしばしば目にする昨今です。
あるときは途上国の一員として、またあるときは米国と並ぶ世界の大国の一つとして、というように都合良く使い分けられるとしたら、いくらそれが国際政治のリアリズムといっても、人々の共感は得られないのではないかと思うのです。
ましてや、いよいよGDPで日本を抜いて「世界第二の経済大国」になるという現実を目の前にして、果たすべき責任というものもあるのではないかと、私は思うのです。
「・・・米中関係は世界的範囲で戦略的協力関係が展開されようとしている。その結果、北朝鮮が米中間の矛盾を利用した瀬戸際外交を展開する余地は著しく狭められている。現北朝鮮政権は、これについての分析能力はゼロに近いようだ。さて、このような北朝鮮に対してまともな対応を図ろうとしても無駄である。正常な国家外交を行うようになるまで、辛抱強く待つ姿勢が必要だ。・・・」
これはある新聞に掲載された、著名な中国人研究者の言説です。
「忍耐が必要だ」と語った、対日外交担当者の一人の言と通底するものを感じながら、
「現在、5カ国は北朝鮮への制裁をめぐって若干の食い違いがあるが、情勢の基本認識においては空前の一致を見ている。それは北朝鮮の現実離れの国際政治認識と中米関係の相互信頼の増進という国際情勢の大きな変化によるものである。」
こうした言説をしみじみ考えさせられながら読んだものです。
そういえば、きょう27日はアメリカワシントンで「米中戦略・経済対話」がはじまったのでした。
世界のふたつの「超大国」による「戦略・経済対話」で、望むべくは、世界の「途上国」の人々への眼差しが失われないことをと、青臭いと嗤われることは承知で、切に思います。
まもなくGDPで日本を抜いて、「世界第二の経済大国」になる中国。
そして、中華人民共和国建国から60年。
まさに、世界注視の中で、試練の時が近づいているというべきではないでしょうか。
2009年07月26日
「世界第二の経済大国」そして、中国、日本・・・
先日、日中関係にかかわる会合で、中国の対日外交関係者の話を聴く機会がありました。
「北京の中日関係者の間では、どこでも、日本の政局の話でもちきりだ」と、中国の日中関係に携わる人々の、今の、主たる関心事は日本の政局の動向だという話からはじまりました。
要は民主党は政権の座に就くのか、次の総理大臣は、そしてその場合の対中政策は・・・ということに尽きるのですが・・・。
「3年前にようやく『障害』をのりこえて正常なレールに乗って、戦略的互恵関係を発展させるというところに来た。中日関係で歴史上初めて『戦略的』と謳った。昨年には海軍艦船の相互訪問も実現して、なかなかできなかった軍事交流もできるようになった。本当の信頼関係を実現していく長いプロセスを一歩一歩歩んでいる。戦略的互恵関係を推し進めるためにも戦略的な相互の信頼関係を築けるかどうかが重要になる。」
と、とりわけ、戦略的ということを何度も強調して、日中関係の重要性をあらためて力説する話からはじまりました。
そして中国は平和的発展をめざすということを強調しながら、日本国内にある「中国脅威論」にふれて、「日本の多くの識者は、中国の発展は日本にとって、脅威ではなくチャンスだと認識している」と語り、「この地域の大きな二つの国、日本と中国が、平和的発展を堅持する国として協力関係を発展させることができれば、これまでと全く違った局面がひらける」と語りました。
また、中国と日本は東アジアの一体化のために貢献しなければならないとして、ASEAN諸国と日・中・韓の連携を強化することが重要だと語りました。
ただし、一方では「中日がアジアで何かをやろうとすると、すぐ主導権争いになる。これでは戦略的互恵関係に合致しない」と率直なことばも漏れました。
北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。
これまでとは際立っていると感じたのは、話が経済問題におよんだくだりでした。
昨年からの世界金融危機にふれながら、「中国の経済の発展、成長はかつてとは変わっている。今回の危機を通じて、貿易、投資の面でチェンジするいいチャンスだというべきだ。自国の経済を救うためではなく、世界を救うために二国間、多国間の協力が必要だ。そのなかで日中両国の協力がとりわけ重要になる」と、自信に満ちた言葉が相次ぎました。
さらに、「今年、中国のGDPが日本をこえる可能性がマスコミでとり上げられている。日本国内には中国に対する『心配』も出ているが、これは自然の現象として、中日関係の発展にとってわるいことではない」と力強く語りました。
「GDPで日本を抜いたとしても中国は平和的発展の道を歩んでいく。中国の発展によって中日の協力関係はもっと高いレベルになりうる!」と重ねて強調する姿に、GDPで日本を追い抜くという局面が予想よりも早まる可能性があるということに、いかに強い関心を持ち、注意を払っているのかが読み取れました。
ところで、私などは日本から「世界第二の経済大国」という「冠詞」が取れることにいかほどの「痛み」も感じませんが、米国に次いで世界第二の・・・ということで自らを語ることができなくなる、しかも抜かれるのが中国ということが「許せない」といった感情が起きるのではないかと、懸念する人がいることもたしかです。
事実、最近、ある実業界OBの親睦団体で、定例の会合で恒例となっている「講演」を中国経済の動向をテーマにしたらどうかという提案に対して、なんとも複雑な空気があって、結局「却下」されたということを耳にしました。
う〜む、私などの感覚は甘いのかと、唸ったものでしたが、「あの中国に抜かれるのは我慢がならない!」という「空気」が生まれているというのです。
この国の狭隘さを嗤うのは簡単ですが、事はそれほど単純ではないようです。
どこか、行き場のない閉塞感と裏表をなして、敵愾心と複雑な「蔑視」が絡み合うように醸し出されて、じわじわと広がってきていることに危惧を抱かずにはおれません。
社会の底流に堆積する「やりきれなさ」、鬱積する「絶望感」が排外主義と絡み合うとき、この国に何をもたらしたか、いま一度真摯に歴史をふり返ってみる必要があるのではないか・・・。
杞憂であればいいのだが、と考えざるをえません。
一方、中国にも、日清戦争以来の屈辱を晴らすときが来た!というような、ネット「世論」に見られるような空気も、なきにしもあらずです。
話を聞いた対日外交関係者の力説するところはそれとして、いよいよ、日中関係はむずかしいところに来たなというのが率直な感慨です。
それだけに、いまこそ、過去の歴史に深く、謙虚に向き合うことが大事だと、痛切に思います。
1930年前後あるいはそれ以降の日本で、中国についてどんな論調が支配したのか、あるいは社会の「空気」はどんなものだったのかをふり返ればふり返るほど、深刻にならざるをえません。
時を隔て、時代も移ろい、世界も大きく変わったことは認めつつ、しかし、時代の「空気」というものの、恐ろしいまでのアナロジー(類似性)に、ことばを失うばかりです。
選挙だ、「政権交代」だと浮かれているわけにはいかない、そんな思いの募る日々です。
さて、こうした問題にも触れる、実に興味深いレポートが小島正憲氏から届いています。
「稲荷大社と関帝廟」というなにやら「判じ物」のようなタイトルですが、実業家という立場から、小島氏独特の諧謔も交えながら、寸鉄人を刺すというべき、問題提起の一文です。
ぜひ、ご一読ください。
サイトは
http://www.shakaidotai.com/CCP042.html
です。
「北京の中日関係者の間では、どこでも、日本の政局の話でもちきりだ」と、中国の日中関係に携わる人々の、今の、主たる関心事は日本の政局の動向だという話からはじまりました。
要は民主党は政権の座に就くのか、次の総理大臣は、そしてその場合の対中政策は・・・ということに尽きるのですが・・・。
「3年前にようやく『障害』をのりこえて正常なレールに乗って、戦略的互恵関係を発展させるというところに来た。中日関係で歴史上初めて『戦略的』と謳った。昨年には海軍艦船の相互訪問も実現して、なかなかできなかった軍事交流もできるようになった。本当の信頼関係を実現していく長いプロセスを一歩一歩歩んでいる。戦略的互恵関係を推し進めるためにも戦略的な相互の信頼関係を築けるかどうかが重要になる。」
と、とりわけ、戦略的ということを何度も強調して、日中関係の重要性をあらためて力説する話からはじまりました。
そして中国は平和的発展をめざすということを強調しながら、日本国内にある「中国脅威論」にふれて、「日本の多くの識者は、中国の発展は日本にとって、脅威ではなくチャンスだと認識している」と語り、「この地域の大きな二つの国、日本と中国が、平和的発展を堅持する国として協力関係を発展させることができれば、これまでと全く違った局面がひらける」と語りました。
また、中国と日本は東アジアの一体化のために貢献しなければならないとして、ASEAN諸国と日・中・韓の連携を強化することが重要だと語りました。
ただし、一方では「中日がアジアで何かをやろうとすると、すぐ主導権争いになる。これでは戦略的互恵関係に合致しない」と率直なことばも漏れました。
北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。
これまでとは際立っていると感じたのは、話が経済問題におよんだくだりでした。
昨年からの世界金融危機にふれながら、「中国の経済の発展、成長はかつてとは変わっている。今回の危機を通じて、貿易、投資の面でチェンジするいいチャンスだというべきだ。自国の経済を救うためではなく、世界を救うために二国間、多国間の協力が必要だ。そのなかで日中両国の協力がとりわけ重要になる」と、自信に満ちた言葉が相次ぎました。
さらに、「今年、中国のGDPが日本をこえる可能性がマスコミでとり上げられている。日本国内には中国に対する『心配』も出ているが、これは自然の現象として、中日関係の発展にとってわるいことではない」と力強く語りました。
「GDPで日本を抜いたとしても中国は平和的発展の道を歩んでいく。中国の発展によって中日の協力関係はもっと高いレベルになりうる!」と重ねて強調する姿に、GDPで日本を追い抜くという局面が予想よりも早まる可能性があるということに、いかに強い関心を持ち、注意を払っているのかが読み取れました。
ところで、私などは日本から「世界第二の経済大国」という「冠詞」が取れることにいかほどの「痛み」も感じませんが、米国に次いで世界第二の・・・ということで自らを語ることができなくなる、しかも抜かれるのが中国ということが「許せない」といった感情が起きるのではないかと、懸念する人がいることもたしかです。
事実、最近、ある実業界OBの親睦団体で、定例の会合で恒例となっている「講演」を中国経済の動向をテーマにしたらどうかという提案に対して、なんとも複雑な空気があって、結局「却下」されたということを耳にしました。
う〜む、私などの感覚は甘いのかと、唸ったものでしたが、「あの中国に抜かれるのは我慢がならない!」という「空気」が生まれているというのです。
この国の狭隘さを嗤うのは簡単ですが、事はそれほど単純ではないようです。
どこか、行き場のない閉塞感と裏表をなして、敵愾心と複雑な「蔑視」が絡み合うように醸し出されて、じわじわと広がってきていることに危惧を抱かずにはおれません。
社会の底流に堆積する「やりきれなさ」、鬱積する「絶望感」が排外主義と絡み合うとき、この国に何をもたらしたか、いま一度真摯に歴史をふり返ってみる必要があるのではないか・・・。
杞憂であればいいのだが、と考えざるをえません。
一方、中国にも、日清戦争以来の屈辱を晴らすときが来た!というような、ネット「世論」に見られるような空気も、なきにしもあらずです。
話を聞いた対日外交関係者の力説するところはそれとして、いよいよ、日中関係はむずかしいところに来たなというのが率直な感慨です。
それだけに、いまこそ、過去の歴史に深く、謙虚に向き合うことが大事だと、痛切に思います。
1930年前後あるいはそれ以降の日本で、中国についてどんな論調が支配したのか、あるいは社会の「空気」はどんなものだったのかをふり返ればふり返るほど、深刻にならざるをえません。
時を隔て、時代も移ろい、世界も大きく変わったことは認めつつ、しかし、時代の「空気」というものの、恐ろしいまでのアナロジー(類似性)に、ことばを失うばかりです。
選挙だ、「政権交代」だと浮かれているわけにはいかない、そんな思いの募る日々です。
さて、こうした問題にも触れる、実に興味深いレポートが小島正憲氏から届いています。
「稲荷大社と関帝廟」というなにやら「判じ物」のようなタイトルですが、実業家という立場から、小島氏独特の諧謔も交えながら、寸鉄人を刺すというべき、問題提起の一文です。
ぜひ、ご一読ください。
サイトは
http://www.shakaidotai.com/CCP042.html
です。