2009年12月26日

知られざる北朝鮮代表・・・

 「代表チームはブラジルに行って合宿してますよ・・・」
 「エッ?!ブラジルで合宿ですか!」
 「こりゃ本気だ!北朝鮮はワールドっカップで旋風を起こすことを狙ってますね・・・」
 「イヤイヤ・・・、強豪ぞろいのあのグループでは良くて一勝できればってとこですよ」
 「う〜ん、そんなこと言いながら、こりゃわからないぞ・・・・」
 
 今月上旬、朝鮮問題をテーマにしているジャーナリスト数人で日朝関係にかかわる「幹部」を囲んで懇談した際、偶然、話が北朝鮮のワールドカップ出場に及びました。
 
 そこで飛び出したのが冒頭の、北朝鮮代表チームがブラジルで合宿、という言葉でした。
  
 北朝鮮代表が10月にフランスに遠征して、コンゴ共和国やフランス2部リーグのナントと試合をしたこと、11月に平壌でブラジルのクラブチーム、アトレチコ・ソロカバと親善試合をして引き分けたことは伝えられていましたが、ブラジルで合宿ということは初耳でしたので、その場の全員が、エッ!と声をあげたわけです。

 「こりゃ北朝鮮は本気だ・・・」ということばに「イヤイヤ、一勝がいいとこ・・・」という「謙遜」で話はそこまでということになったのでしたが、スポーツ交流とはいえ、北朝鮮とブラジルの関係がそういう「親密」なものだということに驚いたものでした。

 ただし、その後も、この「合宿」については報道もなく、確認のしようもなく過ぎているのですが、ともかく、サッカーを通じてフランス、ブラジルと交流が行われていることはたしかだといえます。
 
 後でふれますが、フランスはEU諸国の中で、エストニアと並んで、北朝鮮とまだ国交がない数少ない国だということに、少しばかりの注意が必要です。

 さて、そして、今週火曜日(12月22日)北朝鮮に、あるいは朝鮮半島情勢にかかわる実に興味深い記事が、二つ、新聞に載りました。

 一つは「ベールの裏側 ユース強化 フリーライターが見た北朝鮮代表」(「朝日」朝刊)です。
 「今月9月末、平壌市民にも知られていない場所に私はいた。」という書き出しに、つい引き込まれて読みすすんだのでした。
 44年ぶりにワールドカップ出場を果たしたサッカーの北朝鮮代表について、平壌に足を運んで取材しレポートしたのはフリーライターのキム・ミョンウ氏でした。

 1993年にW杯米国大会予選で敗退したあと国際舞台化から姿を消した「その背景には、94年の金日成主席死去、相次ぐ自然災害や食糧難による国家の危機的な状況があった。 『でもサッカーは捨てなかった』とリ・ドンギュ氏が述懐する。60年に日本から北朝鮮に帰国。体育科学研究所に入り、代表チームに同行しながら試合の分析データを集め、北朝鮮サッカーを隅から隅まで見てきた人物だ。」

 記事に盛られている情報に目を瞠りながら読みすすみました。

 「少ない強化費をA代表でなく、ユース世代に回した」ことで、若手を育成し「世界と戦える基盤が整った」というのです。

 すでに知られているように1次リーグで北朝鮮は、ブラジル、ポルトガル、コートジボワールという戦うことになりました。

 「死のグループG」とさえいわれるレベルの高いチームが集まったこのグループで、サッカーの「玄人」からは「1次リーグ突破どころか勝ち点1を挙げることすら厳しい」といわれる北朝鮮ですが、キム・ミョンウ氏の取材に対して監督、選手、協会関係者らは、「66年のW杯イングランド大会のベスト8を超えたい」と口をそろえたというのです。

 このレポートは「失うものは何もない。あとは、サプライズの続きを起こすだけだ。」と結ばれています。

 こうした内容を興味深く読んだのはもちろんですが、記事のなかで、北朝鮮サッカー協会のキム・ジョンス書記長が「海外のサッカーを取り入れ、自分たちのカラーに合わせる必要がある。」と語っているくだりに、強く興味をひかれました。

 なぜかといえば、この記事が載った前週17日(木)、「日刊スポーツ」の一面、全面ぶち抜きのスクープ記事が記憶に残っていたからです。

 


 「日刊スポーツ」の大特ダネでしたが、翌18日の「朝日」朝刊では
「日本滞在中のトルシェ氏は(北朝鮮サッカー協会関係者との)接触を認めた上で代表監督就任については、『北朝鮮協会のある人物と私の間だけの話で、公式のオファーでも交渉でもない。北朝鮮に行く予定はあったが中止になった』と語った。」と伝えました。

 読んでわかるように、非常に含みのある記事で、前日の「日刊スポーツ」の大スクープ記事の背景にどういう意図が働いていたのか、微妙な要素が残るといわざるをえません。

 この時点では、結果的に、こうして表に出ることで「つぶれた」という印象はぬぐえません。
 どういう「力学」が働いたのか、ぜひサッカー担当記者の深層に迫る取材を期待したいところです。

 さて、もう一つの記事はといえば、「毎日」朝刊の国際面に載った「南北、実務接触3回」という記事です。

 リード部分を引くと、
 「朝鮮日報など韓国各紙は21日、南北首脳会談開催をめぐり南北当局者が今年、少なくとも3回秘密接触したと一斉に報じた。韓国統一省は接触の事実を否定したが、韓国国内では、北朝鮮指導部が体制維持に必要な支援獲得のため、今後も首脳会談開催を打診するとの見方が強まっている。」
 というものです。

 「毎日」は11月末に韓国の聯合ニュースを引く形で「韓国政府高官は29日、韓国記者団との懇談で、8月の金大中元大統領の死去に伴う北朝鮮弔問団の訪韓以降『南北間で何回もの接触があった』と語った。」と伝えていますので、それをアトづける記事だというべきでしょう。
  ただし、22日の記事は韓国の新聞報道を引く形をとっていますが、韓国で18日に発行された月刊誌『民族21』の2010年1月号に掲載された巻頭記事「深層取材2009年南北高位級秘密接触の顛末」
ですでに、「8月から11月まで中国、シンガポール、開城などで南北首脳会談のための高位級および実務級接触が4回以上行われた。」と伝えていたということですから、接触の回数の相違は置くとして、韓国の新聞の独自スクープといえるものかどうかは微妙です。

 李明博政権の登場で南北関係はそれ以前とは大きく様変わりして、緊張が増していましたが、背後ですすんでいる「変化」の兆しに気づいておかなければ、今後の事態の展開を見誤ることになるのではないかと感じます。

 もちろん、こうした「秘密接触」で現下の南北関係が簡単に打開できる状況にあると考えるのは早計ですが、しかし、風向きが変わりつつあることは実感できます。

 そして、ふたたびトルシェ監督問題です。

 私は、この「日刊スポーツ」の一面ぶち抜きスクープを目にして、サッカーそのものへの興味もさることながら、トルシェ氏がフランス生まれであることに目が行きました。

 はじめにも書いたように、フランスは北朝鮮と国交を持っていませんが、フランスのジャック・ラング大統領特使が先月9日から13日まで訪朝し、10日、北朝鮮の朴宜春外相が特使一行と会談して「両国の関係をはじめ相互の関心事となる一連の問題について」意見交換が行われたと伝えられ、さらに12日には、朝鮮最高人民会議常任委員会の金永南委員長がジャック・ラング大統領特使と会見したと伝えられていました。

 そして「日刊スポーツ」の大スクープが掲載された今月17日には、朝鮮中央通信が「フランス側は、大統領特使の朝鮮訪問の結果に従い、両国の関係を正常化するための最初の段階の措置として平壌にフランス協力・文化事務所を開設することにしたことを通報してきた。われわれは、フランスとの関係を一層深め、発展させる立場から平壌にフランス協力・文化事務所を開設することに同意した。」と伝えたのでした。
 もちろん単なる偶然のなせるわざということかもしれません。
 しかし、フランスが北朝鮮との国交正常化に向けて一歩踏み出したことは注目すべき動きだといえます。
 サッカー代表はブラジルで「合宿」?!
 南北関係にも水面下ではあれ、動く「兆し」が感じられ、
 そして、フランスが動く・・・。

 さて、いわゆる先進諸国のなかで北朝鮮と国交のない国は、米国フランス、日本ということになるのですが・・・。

 
サッカー北朝鮮代表チームの知られざる「うごき」に読みとるべきことは実に多い!という感慨を深くします。




 

posted by 木村知義 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年12月23日

「東アジア共同体」へのハードル 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜 (一応のまとめとして)

(承前) 
核攻撃を含む「先制攻撃」の選択肢を手放さない米国の「脅威」に身を固くして核とミサイルで軍事と体制の維持に全力をあげながら経済的苦境をどうのりこえるのかという命題に立ち向かい「強盛大国への門をひらく」というスローガンを掲げる北朝鮮、端的に言いきればこういう構図になるのでしょう。

 米国の「脅威」についていえば核による先制攻撃にとどまらず、通常兵器の範疇に分類されながら、破壊力では核兵器に勝るとも劣らないといわれるバンカーバスターなどの強力な兵器もあります。

 また北朝鮮に対する大規模戦域計画「作戦計画5027」だけではなく、北朝鮮の核施設に「外科手術的」攻撃をおこなう「作戦計画5026」、北朝鮮を挑発し、消耗させる「作戦計画5030」などに加え、最近、「北朝鮮の体制崩壊に備えた緊急計画『作戦計画5029』の内容で米韓両国が基本合意した」と伝えられるなど、朝鮮半島にかかわる「作戦計画」は6つもあるといわれます。

 メディアは「北の核とミサイルの脅威」については語りますが、北朝鮮側がどのような「脅威」の下にあるのか、その緊張と恐怖感について語ることは、まずありません。

 これは北朝鮮の現体制をよしとするかどうかとは別の次元で、冷静に見据えることができなくてはならないことでしょう。

 そうした視点で94年の「枠組み合意」に至る道筋とそれが崩壊に至った「経緯」について、いまこそ、真摯に見つめ直す必要があると考えます。

 前回示した「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」のスクープ記事とともに、手許には、ロバート・ガルーチ元米国北朝鮮核問題担当大使(元米国務次官補)が2002年5月28日、東京アメリカンセンターでメディア関係者や研究者を前に話した内容の「メモ」が残っています。

 そこでガルーチ氏は「枠組み合意」について、
「なぜ米国はこの『合意』を受け入れたのかといえば、北朝鮮のプルトニウム抽出計画をやめさせるためであった。ここでわれわれが得た『教訓』は、北朝鮮は外交交渉と同時に核兵器の開発も行うということと、一方で、たとえ違反が見つかっても『合意』を得ることもできるということだ。『枠組み合意』では双方の首都に『連絡事務所』を開設することがうたわれていたが、実現せず、また「合意」にもとづいて発足したKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)による(核開発凍結の見返りである)軽水炉の建設も遅々としてすすまなかった。重要なことは、北朝鮮は、『枠組み合意』によってもたらされるであろうと考えていた外交的、政治的な恩恵、利益を得なかったことだ。」
と語りました。

続けて「いわゆる『ペリープロセス』(当時のペリー米国防長官がまとめた、日、米、韓の協調による北朝鮮との対話と核・ミサイル開発の抑止を柱とする対北朝鮮政策)の時期、韓国の金大中大統領が平壌を訪問して(2000年6月)金正日総書記と歴史的な南北首脳会談をおこなった。2002年10月には、趙明禄・国防委員会第一副委員長がワシントンを訪問、その後、オルブライト国務長官も平壌を訪問した。2000年末には非常に前向きな、肯定的な軌道に乗っていた。北朝鮮が求めていた『最高』のものは、自己の生存の保証をえること、すなわち、『アメリカの敵ではなくなる』ことだった。その後はブッシュ政権の登場となる。金大中大統領がワシントンを訪問してブッシュ大統領と会談し、彼がすすめる『太陽政策』に支持を得ようとしたが、(ブッシュ大統領からは)支持を得られなかった。ブッシュ政権には『枠組み合意』に敵対的な立場をとる人物が多くいて『枠組み合意』の価値に非常に懐疑的だ。2002年の年頭教書で(北朝鮮などを)『悪の枢軸』として名指ししたが、この一般教書演説のあと、核政策の見直しがおこなわれ、北朝鮮はわれわれの戦略核の標的リストに挙げられるようになった。核兵器を追い求める『ならずもの国家』に対処する手段として、米国が先制攻撃や予防的戦闘に訴える必要性を鮮明にしたのだ。」

「『枠組み合意』」に対するさまざまな批判はあるが、われわれがめざしたのは、一にかかって、北朝鮮の核開発を放棄させ、核兵器の保有を阻止するという『戦略目標』」に立ったからである。このことは、金正日体制を支持するものでもなければ、彼らに恩恵を与えようというものでもない。問題は、『核の放棄』を達成するために、軽水炉という『見返り』が必要だったということであり、この(戦略的な見地に立った)意味を理解しておくべきだ・・・」
と熱をこめて語りました。

 すでに米国政府の仕事を退いてジョージタウン大学外交大学院長という立場でしたが、ガルーチ氏の話は問題の核心をきわめて端的に衝くものだったと強く記憶に残っています。

 くどいようですが、いま94年の「枠組み合意」に至る道筋と、それがなぜ崩壊したのかについて真剣に「復習」しておく必要があると思う所以です。

 今週はじめ、仙台で「コリア文庫」を夫妻で主宰する青柳純一氏が上京されて少しばかりの意見交換の時間を持ったのですが、そこで青柳氏から、「世界」の2010年1月号に掲載された坂本義和氏の論文について深く共感するという話がありました。

 その論文で坂本氏は、
「『東アジア共同体』という理念や政策提言は、これまでも数多く述べられてきた。しかし、その大部分は、通例、日韓中を軸とした『東北アジア』の協力組織と、ASEAN(東南アジア諸国連合)に代表される『東南アジア』の地域組織化とを連結して構想するものが多い。ところで、その中で特にとくに日韓中を柱とする『東北アジア』の協調に力点をおく考えは、それ自体としては、きわめて建設的な構想であるが、意識的に、あるいは事実上、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の参入を後回しにすることによって、現実には、しばしば北朝鮮を包囲する体制を築く機能や目的をもつことになりがちである。」として、北朝鮮問題を中心にすえて、これをどのように解決することを通じて21世紀の東アジアを創るのか、という課題を考えてみたいと、論考を展開しています。

 その全体像は坂本氏の論考をお読みいただいくべきなのですが、ここに書いてきた問題意識にふれる部分を少し紹介しておきます。

 坂本氏は、北朝鮮であれ、どの国であれ、核兵器の開発保有には反対の声を挙げなければならないとし、そのうえで、今われわれが全力をあげるべきことは、北朝鮮との戦争の可能性を極小化しゼロにすることであり、北朝鮮が、戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的につくることである。それが「東北アジア共同体」建設の第一歩であり、まず「不戦共同体」の形成なくして「東北アジア共同体」などありえない、と説いています。

「しかし現実には、この半世紀、北朝鮮は軍事的優位に立つ米国が、その同盟国である韓国と日本に軍事基地を設けて敵対する体制によって『封じ込め』られてきており、この非対称的な劣勢から少しでも脱却して、対北朝鮮攻撃の公算を減らす道として、核武装するに至った。その目的は、米国や日韓の脅威に対して、北朝鮮の『国家の安全保障』と『体制の安全保障』とを、より確実にすることにあると考えられる。」

「したがって北朝鮮の側での戦争への恐怖を和らげ、朝鮮半島での戦争の危険を最小限にまで減らすためには、非対称的な優位に立つ米国と日韓とが、先ず緊張緩和のイニシアティヴをとることが不可欠である。およそ非対称的な対立関係では、弱者は屈従するか、狡猾で不法な手段に訴えるか以外の選択肢はないのであって、関係改善のイニシアティヴは先ず強者がとるのが当然である。」

「現在米国は、『先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば、休戦協定の平和協定への格上げや経済支援などを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む』と公式に主張しているようだが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝正常化や平和協定締結を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、相互の軍縮を進めるという道をとるべきである。また戦争を想定して年中行事のように行っている、米韓軍事演習は、早急に縮小していくべきである。」

 論旨明晰、まったくその通りだというべきです。
 
 坂本氏はまた、日韓両国は、米国がこのような政策をとるようにはたらきかけるだけでなく、北朝鮮との武力衝突の可能性を少しでも減らすために、共同して緊張緩和と平和共存の努力をすべきだと説いています。
 このことを真剣に行うかどうか、それが「東北アジア共同体」を創る意思があるかどうかを示す、試金石だともしています。

 もはや付け加えるべきことのない、明快な論理というべきで、夏の中朝国境地帯への旅から書き起こしてきた「東アジア共同体へのハードル」とは、第一に、まさしくここにあるというべきだと考えます。

 そして「もうひとつの問題」、北朝鮮はなぜ「崩壊」しないのかということへの「解」の半分は、こうした「包囲された脅威」の厳しい緊張下にある国家であるがゆえの「一体感」がそうさせているのだというところにあることを、私たちは知るべきなのだと思います。

 そして、「解」のもう半分は、貧困や飢えの苦しみだけで国家は崩壊するものではないということへの想像力を持つことができるかどうかにかかっていると思います。

 脅威に対する「一体感」が、飢餓や貧困の苦しみを上回る、統治の力を機能させるという逆説に気づかないと、北朝鮮の「崩壊論」に幻惑されるか、あるいは願望を現実に置き変えるという、度し難い迷路に入り込んでしまうことになります。

 手許に実に興味深い一冊の書物が残っているので、そこから少し引用してみます。

「さらにもっと問題なのは、昨今『崩壊』という言葉だけが一人歩きし『崩壊』が具体的に何を意味するのかという検証がない点である。
『北朝鮮崩壊』とは、金正日政権と北朝鮮の体制がなくなることなのか、食糧難で難民が周辺諸国に逃げ出すことなのか。あるいはクーデターが起きるのか、暴動が起きるのか。これらについての具体的な指摘や検証はほとんど見られない。私は、日本でよく見られるこうした抽象的な議論が嫌いだ。『崩壊』という言葉には一般の人をわかったような気にさせる一種の「魔力」がある。そうした言葉の魔力に私たちが振り回されているような気がしてならないのである。」

 さて、これは一体誰による文章でしょうか?というといかにも不遜な「出題」に響くかもしれませんね。

 これは、当時毎日新聞記者だった重村智計氏と韓国の経済学者、方燦栄氏が共著で出した「北朝鮮崩壊せず」(光文社)の序章「北朝鮮崩壊」の幻想、に記された重村氏の文章です。

 1996年に出版された書物だといわれると、重村氏にもこういう時もあったのかと感慨を深くするのですが、昔の「証文」を大事に取っておくのも悪くはないと、皮肉なことに感じ入るのでした。

 さて、いまさらながら、私たちの北朝鮮へのバイアスのかかった視線をどう真っ当なものにするのか、難しい命題に向き合っていることを痛感します。
 とともに、なんのことはない、ごくごく普通に常識を働かせて、誠実に物事を真正面から見据えてみれば、本質が見えてくるのだということにも気づきます。

 だからこそ難しいのかもしれないと、これは自戒も込めて思うのでした。






posted by 木村知義 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年12月21日

「力がなければ、民族も、国家も滅びる、悲惨なものだ・・・」をどう受けとめるのか 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜

 またもやこのコラムが長く中断しました。
 何人もの方々から、なぜ更新されないのかというお問い合わせをいただいて恐縮しました。書き継ぐ必要のあること、書くべきことはどんどん積もっていくのですが、手がつかず申し訳ありません。この間のことは追々報告していきます。
 
 さて、すでに知られていることですが、アメリカのボズワース特別代表が平壌を訪れ、その後韓国、中国、日本、ロシアを回って15日ワシントンに戻りました。
 当初は一日半とされていた平壌滞在が8日から10日までの2泊3日に延ばされ、金正日総書記にあてたオバマ大統領の「親書」を渡したことが米朝双方によって確認されました。

 米国は昨年10月に6カ国協議米国首席代表だったヒル国務次官補を平壌に派遣しブッシュ大統領の親書を届けましたが、正式な特使資格ではありませんでしたから、米国の大統領特使の訪朝は、2002年10月に当時のケリー国務次官補が平壌を訪れ姜錫柱第1外務次官と会談して以来、7年ぶりのことでした。
 
 今回の協議の相手が姜錫柱第1外務次官、金桂寛外務次官だったことと「実務的で率直な論議を通じ、双方が相互理解を深め互いの見解差を狭め、少なくない共通点も見出した」「「平和協定締結と関係正常化、経済およびエネルギー支援、 朝鮮半島非核化など広範囲な問題を長時間にわたり真摯に、虚心坦懐に議論した」と朝鮮中央通信が伝えていることを合わせると、双方で突っ込んだ話し合いがおこなわれたことは間違いないといえます。
 
 その後、「米朝はボズワース米特別代表の訪朝を機に開かれた米朝対話と直前の協議で、6カ国協議再開時、非核化問題は2005年9月の6カ国協議共同声明の精神に立脚し解決し、平和体制問題は4カ国対話で扱うとの考えで一致したという。提案したのは北朝鮮で、米国がこれに同意した・・・・」という注目すべきニュースを韓国の聯合通信が伝えました。

 加えて18日には「北京の複数の北朝鮮情報筋」の情報として「米オバマ大統領が北朝鮮に対し、北朝鮮が6カ国協議に復帰し核廃棄プロセスに入れば、外交関係正常化などを話し合う連絡事務所を平壌に開設するとの意向を示した」と伝え、そのなかで「別の情報筋は、米国務省は在米僑胞出身の民間人を北朝鮮に派遣するなどすでに平壌代表部の設立準備に入っており、最近、設立協議が急進展していると話した」としています。

 これらのニュースの信ぴょう性を確認できる段階ではありませんから予断を許しませんが、どうやら水面下では米朝の話し合いが相当踏み込んだものになっていることは容易に推測できます。

 ボズワース特別代表の訪朝までかなり時間がかかりましたが、それだけ慎重に準備がすすめられたということでしょう。

 ボズワース氏が1994年の「枠組み合意」にもとづき北朝鮮での軽水炉建設事業を担ったKEDO「朝鮮半島エネルギー開発機構」の初代事務局長を務め北朝鮮側と交渉にあたった経験があることや駐韓国大使など、朝鮮半島問題に深くかかわってきた経験から、北朝鮮側と、いわば「静かに」話し合える人物だったことも今回の訪朝を肯定的なものにすることにつながったといえるでしょう。

 またこの間、米国のNPO「国家安保のための経営者集団」(BENS)のボイド会長ら米国の企業家代表団が、14日から4日間の日程で平壌を訪れ、北朝鮮の経済部門の幹部らと、「投資環境を築く上で提起される問題などを真剣に討議した」(朝鮮中央通信)と報じられたことや、これに先立つ10日から14日にかけては、ノーベル化学賞受賞者で米国科学振興協会(AAAS)のピーター・アグレ会長が団長をつとめる代表団が訪朝して、金策工業総合大学をはじめとする科学研究所や病院などを訪問し、医学、生物学、エネルギー開発、工学、産業技術などの分野で交流をおこなったことなどをあわせて考えると、米朝関係は実務レベルで交流が相当「活発」になってきていることがうかがえます。

  こうした段階、局面を前にすると、これまで振り返ってきたように、ジグザグな経緯をたどった米朝協議と94年の「枠組み合意」についての「復習」が、従来にも増して、なお一層欠かせないと考えるようになりました。

 そこで「結論を急ぐ」と書いた前回の続きです。

 1993年末から94年はじめにかけて「緊張」が高まっていく中で、北朝鮮は94年5月8日から原子炉の燃料棒の交換に踏み切り緊張は極点にまで達していました。これに対して、クリントン政権下の米国は北朝鮮に対する先制攻撃計画を立ててシミュレーションを行います。その後作戦計画「5027」というコードネームで知られるようになるものです。

 94年5月18日ワシントンでこの作戦について検討する会議が招集されます。参加者の「だれもが、この会議は単なる図上演習ではなく『戦争の進め方を決める本物の戦闘員による本物の会議』だと思っていた」(D・オーバ−ドーファー)というこのシミュレーションでは米国にとって「衝撃的」な結論となりました。

 作戦の最初の90日間で米軍兵士の死傷者5万2000人、韓国軍死傷者49万人、加えて南北市民も含め多数の死傷者が予想されることと610億ドルをこえる財政支出・・・。「このぞっとするような悲劇」の重大性を実感させられたクリントン大統領は外交担当の高官を招集して協議した結果、米朝協議の第3ラウンド開催のよびかけを発することになります。

 もうひとつ「復習」しておかなければならない点は、この間の金泳三大統領、韓国政府の態度です。

 「金大統領の反応ぶりを見て、私は、彼の第一の目的は、たとえ核問題の解決を妨げることになろうと、米国と北朝鮮の関係がこれ以上温かくなることを遅らせ、邪魔することにあると確信した。金大統領は、平壌が米国との対話にいらだち、不満をつのらせるように仕向けるため、可能な限りの術策を弄する意思を固めているようだった。」と振り返るのは、当時米国務省の担当官として米朝交渉に携わったケネス・キノネス氏です。

 彼は「率直に言って、1994年2月時点での北朝鮮側は米朝韓三当事者の全員が受け入れ可能な取り決めを策定するための意思を、韓国よりも強く固めているように見えた。もちろん平壌にとって、米国との関係正常化という、その潜在的な見返りは大きかった。同時に、米国にとっても、見返りは同じくらい大きかった。それは地球規模の核不拡散体制としての、核拡散防止条約の信頼性を維持し、北朝鮮に対する核保障措置を回復することだった。もちろんソウルも、必然的にこれらの恩恵を被り、平壌との対話の再開を得られるはずだった。不幸なことに、ソウルの政治指導部は自らの潜在的な利益を見失い、逆に、平壌に与える潜在的な恩恵のみに目を奪われていた。」とも書いています。(「北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録」中央公論新社刊)

 当時の「空気」を交渉の内側からこれほど克明に活写した記録は皆無です。

 この指摘は後に米国自身にふりかかるものになるわけで皮肉としかいいようがないのですが、米国は作戦「5027」の呪縛に落ちて行くことになります。

 そして逆に、金泳三大統領はこの作戦計画の犠牲の大きさを知るに及んで、「アメリカが一方的に朝鮮戦争を再開しても、一兵たりとも韓国軍を動かすつもりはない」と米国に伝えたといわれます。

 そして、6月2日、IAEAのブリクス事務局長は、北朝鮮が燃料棒の取り出しをすすめたことで、「原子炉燃料の秘密転用を確定しうる証拠は失われてしまった」として、国連の安保理に対して、北朝鮮に事実上の制裁を求める書簡を送ります。

 これに対して北朝鮮は6月5日「制裁は戦争を招く。戦争に情け容赦はない」と宣言します。

 米国の戦略は制裁を含む「威圧外交」に転換し、国防総省は「強襲攻撃に備えて部隊の増派計画を全速で推し進め」、国務省は「主要国の首都や国連の場において、国際制裁の内容や時期について新たな協議を開始した」とされます。

 こうして対立と緊張が極点に達し危機は深まるばかりでした。
 まさに核をめぐる米朝の「チキンレース」が戦争の危険性を現実のものにしつつあったといっても過言ではない、当時の状況でした。

 ここからはよく知られているように、6月15日、カーター元大統領が平壌を訪問し、翌16日の金日成主席との会談で戦争一歩手前で危機の回避がはかられることになるわけです。

 しかしここでもカーター元大統領は「北朝鮮は国際制裁に屈服するぐらいなら戦争を覚悟するだろうと思った」ということで、「絶望的な気分」になり午前三時に目が覚めた・・・といったD・オーバードーファーの記述が残っています。(「二つのコリア」共同通信社刊)

 同時にオーバードーファーは「カーターは、金日成との会談を『奇跡』と呼んだ。この会談によって、戦争寸前の対立が、あらたな米朝会談および南北交渉への期待へと転換されたからである。」とも書いています。当時の「空気」をよく言い表しているといえます。

 このあと、7月8日に金日成主席が死去という衝撃的ニュースが、34時間伏せられた後世界をかけめぐりましたが、同じ7月8日からジュネーブで米朝協議の第3ラウンドがはじまっていました。

 こうしてジュネーブでの協議、そしてベルリンでの「実務協議」などを経て、10月21日、「合意された枠組み」の調印にこぎつけることになりました。

 その前日、米国のクリントン大統領は「朝鮮民主主義人民共和国最高指導者 金正日閣下」と呼びかける書簡を送っています。

 「枠組み合意」の全容は様々な書物で読めますが、この書簡はなかなか目にすることができないので、少し長くなりますがケネス・キノネス氏の書からその全文を転記しておきます。

 私は、私の職権の全力を行使して、北朝鮮国内での軽水炉計画に関する融資と建設のための取り決めを促進すると共に、軽水炉計画の最初の原子炉が完成するまでの間、朝鮮民主主義人民共和国のために暫定的な代替エネルギー供給の資金を手当てし、履行することを、あなたに確認したいと思う。付け加えて北朝鮮には制御できない理由によって、この原子炉が成就しなかった場合には、米国議会の承認を条件に、必要な限りにおいて、そうした計画を米国から供与するため、私は職権の全力を行使する。同様に、北朝鮮には制御できない理由によって、暫定的な代替エネルギーが供給されない場合には、米国議会の承認を条件に、必要な限りにおいて、そうした暫定的な代替エネルギーを米国から供給するため、私は職権の全力を行使する。
 私は、アメリカ合衆国と朝鮮民主主義共和国の間で合意された枠組みに記された政策を、朝鮮民主主義人民共和国が履行し続ける限りにおいて、こうした行動の道に従う。
                                敬白
                         ビル・クリントン
平壌市
朝鮮民主主義人民共和国最高指導者
金正日閣下


また米朝「枠組み合意」は以下のような内容(概訳)でした。

1994年9月23日から10月21日、米国政府および朝鮮民主主義人民共和国政府代表はジュネーブにおいて会談し、朝鮮半島の核問題に関する全般的解決について交渉が行われた。
 双方は、1994年8月12日の米朝間合意声明で示された目標を達成し、核のない朝鮮半島のもとでの平和と安全の実現を目指した1993年6月11日米朝共同声明の諸原則を支持していくことが重要であることを再確認した。
双方は、北朝鮮の黒鉛減速炉および関連施設を軽水炉施設(LWR)に転換することに協力する。
1994年10月20日の米国大統領からの書簡に従い、米国は、目標年である2003年までに約2000メガワットの発電総量を持つ軽水炉計画を北朝鮮に提供する準備を行う。
米国は、北朝鮮に提供する軽水炉計画を資金的に支え、計画を供与する国際事業体(an international consortium)を米国主導で組織する。米国は、国際事業体を代表して、軽水炉計画における北朝鮮との接触の中心を担う
米国は、国際事業体を代表して、本文書日付から6ヶ月以内に、軽水炉計画供与契約の締結に最善の努力を行う。契約締結のための協議は、本文書日付後、可能な限り早急に開始する。
必要な場合、米朝両国は、核エネルギーの平和的利用に関する協力のための二国間協定を締結する。
1994年10月20日の米国大統領からの書簡に従い、米国は、国際事業体を代表し、軽水炉一号機が完成するまで、北朝鮮黒鉛減速炉およびその関連施設凍結によって生産不能になるエネルギーを補填する準備を行う。
代替エネルギーとしては、暖房と発電用の重油が供給される。
重油の供給は、引渡しスケジュールについての合意に基づき、本文書日付の3ヶ月以内に開始され、年間50万トンの割合で行われる。
北朝鮮は、軽水炉の提供と暫定的な代替エネルギーに対する米国側の約束を受け入れる際、黒鉛減速炉とその関連施設の建設を凍結し、最終的にはこれらを解体する。
北朝鮮黒鉛減速炉と関連施設建設の凍結は本文書日付の1ヶ月以内に完全に実行される。この1ヶ月間ならびに凍結期間中、国際原子力機関(IAEA)は、この凍結を監視でき、北朝鮮は、この目的に対してIAEAに全面的に協力する。
北朝鮮の黒鉛減速炉および関連施設の解体は、軽水炉計画が完了した時点で完了する。
軽水炉建設中、米国と北朝鮮は、5メガワット実験炉から生じる使用済み燃料を安全に貯蔵し、北朝鮮での再処理を行わない安全な形で処理する方法を協力して模索する。
本文書日付後できるだけ速やかに、米国・北朝鮮の専門家たちによる二種類の協議を行う。
一つめの協議では、代替エネルギーおよび黒鉛減速炉から軽水炉への転換を話し合う。
もう一つの協議では、使用済み燃料の貯蔵と最終的な処理についての具体的な取り決めを協議する。
両国は、政治的、経済的関係の完全な正常化に向けて行動する。
 本文書日付3ヶ月以内に、両国は、通信サービスや金融取引の制限を含め、貿易、投資に対する障壁を軽減する。
専門家レベルの協議で、領事その他の技術的問題が解決された後、それぞれの首都に連絡事務所を開設する。
双方の関心事項において進展が見られた場合、米国・北朝鮮は、両国間関係を大使級の関係に進展させる。 
双方は、核のない朝鮮半島に基づいた平和と安全のために協同する。
米国による核兵器の脅威とその使用がないよう米国は北朝鮮に公式の保証を与える。
北朝鮮は、朝鮮半島非核化に関する南北共同宣言の履行に向けた取り組みを一貫して行う。
本合意枠組みは南北対話を促進する環境の醸成に寄与するものであり、北朝鮮は、南北対話に取り組む。
双方は、国際的核不拡散体制の強化に向けて協同する。
北朝鮮は、核拡散防止条約(NPT)加盟国としてとどまり、同条約の保障措置協定の履行を認める。
軽水炉計画供給に関する供与契約締結後、北朝鮮・IAEA間の保障措置協定のもとで、凍結の対象とならない施設に関して、特定査察および通常査察が再開される。供与契約締結までは、保障措置の継続性のためにIAEAが必要とする査察は、凍結の対象でない施設にも行われる。
軽水炉計画の大部分が完了し、かつ重要な原子炉機器が提供される前の時点で、北朝鮮は、IAEAとの保障措置協定(INFCIRC/403)を完全に遵守する。これは、国内核物質に関する北朝鮮側第一回報告書が正確かつ完全であるかを確認するための協議後、IAEAが必要と考えるすべての措置を行うことを含むものである。


 今じっくり読み返すと、月並みですが、歴史に「たら」や「れば」はないが・・・ということばが思い出されます。
 長い間の「懸案」の包括的な解決にあと一歩のところまで迫っていました。
 戦後、米朝がここまで至ったことははじめてのことでしたが、いうまでもなく、ここに書かれたことが実現することはなく「空手形」として葬り去られることになります。

 米国ではクリントンからブッシュへと政権が代わり、2001年の9・11同時多発テロから、事態は大きく変わります。

 2001年12月議会に提出された「核戦力態勢報告書」の中で核攻撃目標候補として、他の非核保有国とともに北朝鮮を挙げたのでした。
 明けて2002年の年頭教書でブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」のひとつとして挙げたことはまだ記憶に新しいところです。

 そして2002年9月の小泉首相の訪朝の余韻もさめやらぬ10月、米国のケリー国務次官補が平壌を訪問、北朝鮮が「秘密裏にウラン濃縮を行っている証拠」を突き付けて、北朝鮮側もこれ「を認めた」とする報道が世界をかけめぐりました。
 
 米国は北朝鮮が「枠組み合意」に「重大な違反」を犯したと非難するとともに、各国に北朝鮮に圧力を加えるように強く要請することになりました。

 「ウラン濃縮疑惑」を本当に認めたのかどうか、いまだにナゾとなって残されていますが、これをターニングポイントとして、「枠組み合意」を反故にすることにむけて、まさに坂道を転げるように、事態はすすむことになりました。

 こうして「枠組み合意」は歴史の「ごみ箱」に捨てられることになったのでした。

 そして米朝の緊張と対立の「もうひとつのピーク」は、米国によるイラク攻撃と軌を一にしてすすみ、緊迫の度合いを深めることになりました。

 米国は「二正面作戦」が可能であるとして、北朝鮮への先制攻撃の可能性を示唆するとともに、金融面などをはじめあらゆる分野で陰に陽に北朝鮮政権の「不安定化工作」を仕掛けて行くことになります。

 いま、おおむねの認めるところでは、米国は「枠組み合意」には調印するものの、時をおかず北朝鮮は「崩壊」するはずなので、時間稼ぎをしていれば、いずれその履行は不要になると踏んでいたとされます。
 またブッシュ政権に代わってからは、金正日政権を「実力」で倒すという、レジームチェンジを現実のこととして考えるところに踏み込んで行ったのでした。

 またぞろ作戦計画「5027」の「亡霊」が立ち現われることになったのでした。

 ここまで端折りながらも、なんと長々と書いてきたことだろうかと思います。

 しかし、これだけの経過のなかで、北朝鮮に「力があってこそ、ここまで生き抜くことができたのだ」と「学習」させたのは、他ならぬ米国だったことをしっかり認識しておかなくては事の本質は見えてきません。

 よくいわれることですが、イラク攻撃とフセイン政権の崩壊を目の当たりにして、フセイン政権は大量破壊兵器を持っていたから米国の攻撃を受けて崩壊したのではなく、それを持っていなかったがゆえに米国の攻撃を受けて崩壊したのだという、歴史の「皮肉」をもっとも切実に学んだのは北朝鮮の金正日政権であったということでしょう。

 同時に、「枠組み合意」に至る道筋とそれが「反故にされていく」経緯に、いまでも、否、いまだからこそ「学ぶ」べきことがあると考えるのは私一人でしょうか。

 今に至る「足取り」をじっくり吟味しながら考えることは無意味ではないという思いを、いま、強くします。

 そして、いまもまだ、折にふれて作戦計画「5027」をはじめいくつかの北朝鮮攻撃計画がメディアで報じられます

 私が実際にメディアでこうした「作戦計画」について眼にしたのは、いまは廃刊となっている、「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」の1998年12月3日号のスクープ記事でしたから、もう10年以上まえのことでした。


FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW 1998.Dec.3から

 しかし、「米韓連合軍司令部のパソコンが11月にハッカー攻撃を受け、朝鮮半島有事に備えた『作戦計画5027』の資料が流出した。」というニュースがベタ記事で新聞に掲載されたのを目にして思わず苦笑いしたのは昨日(12月20日)のことでした。

 われわれは、まだまだ直近の「歴史」に学ぶことができていないのだということを痛感するのでした。

 「
力がなければ、民族も、国家も滅びる、悲惨なものだ・・・」という、この夏の中朝国境への旅で出会った在日朝鮮人の痛切な「つぶやき」をどう受けとめるのか。

 この言葉の重さをかみしめて考えることがいかに重要かというのは、ここまで書いてきた、こうした「経緯」を思うからなのでした。
(つづく)



posted by 木村知義 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年11月13日

写真集 中国東北、中朝国境地域への旅(2009.8)から その3


 
集安市政府前 太陽鳥モニュメントには高句麗時代についての解説



 丹東市北東 太平湾発電所のダム湖の向こう岸は北朝鮮 
 発電所から北朝鮮側に送電線が伸び、電力が送られている
 
 丘の上に広がる畑 トウモロコシなどの育ちははかばかしくない
 
ダム湖をさかのぼると、ここにも「断橋」 朝鮮戦争当時がしのばれる


丹東 鴨緑江に残る「断橋」 隣は中朝友誼橋 対岸新義州と結ぶ
 
新義州との物流など、往来は活発 「遊覧船」が対岸間際まで運航
 
運ばれたコンテナの荷降ろし作業   釣りをする人の姿が随所に
 
石炭の集積場 近くの建物には「偉大な首領金日成同志・・」の文字
posted by 木村知義 at 13:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

写真集・中国東北、中朝国境地域への旅(2009.8)から その2


 
長白山(白頭山)登山口の「雑踏」 長白山 山頂へつづく人の列

    長白山 山頂 天池の眺望 向こうは北朝鮮
  
天池の向こう北朝鮮の哨所(中央) 深い群青の湖面の美しさ


   集安郊外から望む北朝鮮 満浦の山並みと麓の工場

 同じく集安郊外から 満浦の集落 人びとの暮らしがうかがえた

 
    集安 「好太王碑」         集安 「将軍塚」

posted by 木村知義 at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

写真集 中国東北・中朝国境地帯への旅(2009.8)からその1



瀋陽 朝鮮レストラン 
  中国語の夏期研修で来ていた平壌外語大学の学生たち




 
長春から延吉に向かう高速道路     延吉の街のにぎわい

 
   龍井 尹東柱の詩碑         尹東柱 記念館へ

   展示から 恩真学校時代の 尹東柱と文益煥氏

 学校の校庭にある黒板にハングル文字で標語を書く女子中学生
posted by 木村知義 at 00:32| Comment(8) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年11月12日

コラムから長く遠ざかってしまいました・・・


 このコラムの筆を執るのがとても間遠になってしまいました。申し訳ありません。

 何人もの方々から「一体どうなっているのか」「具合でも悪いのか」「続きを早く!」といったメールをいただき恐縮しています。

 「時々日録」は「ジジニチロク」というつもりで、刻々と動く世界と日本について考えるところを書き継いでいこうという思いをこめていたのですが、まったくもって「ときどき日録」となってしまい深く反省しています。

 ブログから遠ざかっていたあいだ何を考えていたのかということについてまず述べておかなければなりません。

 率直に言うとここに書いてきたテーマ、問題について、言論あるいは言説の有効性についてあらためてじっくり考えてみたということです。

 私は、北東アジアとメディアのあり方をテーマに据えて・・・と言ってきているのですが、そのいずれについても自身の「言説の力」というものをここでもう一度見つめ直してみるということが必要ではないかという思いに駆られました。

 とりわけ朝鮮半島問題について語るという営為に求められるものは何かを突きつめて考えてみなければと思いました。

 もちろんそれはメディアについて言挙げする際にも、中国・アジアについて、あるいは時代や社会について語る場合にもみな同じなのですが、とりわけ朝鮮半島問題について語る“営み”について、自己の足下をしっかり見据え、踏み固めておかなければならないと、あらためて思ったのでした。

 大小、つまりマスからミニまで、これだけメディアが氾濫し、Web上の言説も無限、無数にあるなかで、発言をしていく意味はどこにあるのかという根源的な問題について、本当に、あらためて考えてみることになりました。

 問題意識としては、長くマスメディアの内側に身を置いて仕事を重ねてきて、それはそれで重い責任と大事な意味のあることではあったのですが、そこに安んじていてはならないという思いから一歩外に踏み出してみた、その決断は間違いではないと確信しながら、では踏み出したフィールドでどれほど説得力のある言説を重ねられるのかという自己への問いかけ、省察が、常に必要ではないのかと思ったのでした。

 あたりまえといえば、あまりにも、あたりまえです。

 実は、この間、北東アジアにかかわる研究会をスタートさせたり、中国、アジアにかかわるさまざまな会合で意見を交わしたり、あるいはメディアのこれからについて「業」に携わる方々ときわめて実際的な議論をしたりしながら、一方では上に書いたような思いが日々深まるばかりでした。

 かつて学生の頃、ラディカリズムが時の風潮あるいは「思潮」として語られたことがありました。

 その折、形として「急進的」という薄っぺらな次元ではなく、物事を根源において見据えることが本来のラディカルということであり、それゆえに切っ先鋭く、まさに屹立する存在となるということを学びました。

 そのように深く思想に根ざすものとしてとらえるならば、そこでの言説はまさに「魂にふれる」ものでなければならず、何んらかの発言、言説を重ねるという営為は、自己の足下の検証、省察を伴うことなく許されるものではないという思いに駆られるのでした。

 これはマスメディアに身を置いて仕事をしているときにも繰り返し、繰り返し想起されたことですし、それゆえに仕事のあり方と自身のありようを問い直す営みを繰り返してきたものでした。

 つまるところ、言論の可能性と限界、そして責任について、本質に迫りながら深く考えるという営みにほかなりません。

 なぜ今またこんな思いに駆られるのか、いかにも青臭い書生論に響くかもしれませんが、Webでの発言をはじめて一年余り、目も眩むほど氾濫する言説を前に、私にとって、自己のありようを厳しく見つめ直すことなしに前にすすむことはできないことでした。

 で、その結果は?!と問われると正直立ち往生してしまうのですが、こうした少しばかりの「時」をくぐることで、あらためて勇を振るって可能な限りの発言をしていってみよう、言説を積み重ねてみようという思いを再確認したというわけです。

 状況への発言が、状況に遅れをとり、状況に迫る鋭さを持ち得ず、何らの衝迫力もないとしたら発言の意味はないというべきで、そこをしっかり見据えながら、このコラムを重ねて行かなければと、あらためて思いました。

 力が届くのかどうか、そこははなはだ心もとないのですが、歩みをすすめるしかありません。

 発言するということで、原初の思いへの責任を果たしていかなければと、いままたあらためて考えました。

 あまりに情緒に過ぎるという批判を覚悟の上で、しかしここを避けて通ることはできなかったがゆえに、記しておくことにします。

 さて、こうした「思索」を続けるあいだに、朝鮮半島問題に関していえば、何冊かの書物と私自身が集め仕事で使った過去の資料類(段ボール2箱余)をもう一度じっくり読み返してみました。

 この作業は今も進行形なのですが、このようにして自身の問題のとらえ方に間違いはないかどうかを問い直してみているというわけです。

 なお、このコラムの読者と問題意識を共有するための手掛かりとしてそれらの書物を提示しておきます。

「二つのコリア」ドン・オーバードーファー
(1998年版および2002年「特別最新版」)共同通信社

「北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録」
 ケネス・キノネス(2000年)
「北朝鮮U 核の秘密都市寧辺を往く」     
 ケネス・キノネス(2003年)いずれも中央公論新社

「北朝鮮をどう考えるのか 冷戦のトラウマを越えて」
 ガバン・マコーマック(2004年)平凡社

「米朝対立」春原剛(2004年)日本経済新聞社

「ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 朝鮮半島第二次核危機」
 船橋洋一(2006年)朝日新聞社

「アメリカと北朝鮮 外交的解決か武力行使か」
(2003年)フォーリン・アフェアーズ・ジャパン・朝日新聞社

「北朝鮮 ゆるやかな変革」
 グリン・フォード(2005年)第一法規

「北朝鮮 飢餓の政治経済学」
 ステファン・ハカード/マーカス・ノーランド(2009年)
 中央公論新社

「南北統一の夜明け」鄭 敬謨(2001年) 技術と人間社

「朝鮮半島を見る眼」朴 一 (2005年) 藤原書店

「北朝鮮は、いま」韓国・北朝鮮研究学会編
(2007年)岩波書店

「北朝鮮崩壊せず」方燦栄/重村智計(1996年)光文社

「中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”」
 綾野/富坂聰編(2008年)文藝春秋社

「アジア危機の構図」
 ケント・カルダー(1996年)日本経済新聞社
「日米同盟の静かなる危機」
 ケント・カルダー(2008年)ウエッジ

「パリデギ」脱北少女の物語(2008年)黄 ル暎 岩波書店

 そしていま、アメリカのジャーナリストD.W.コンデの「An Untold History of Modern Korea」日本語訳「解放朝鮮の歴史」「朝鮮戦争の歴史」「分裂朝鮮の歴史」全6冊(1967年〜68年)太平出版社を読み直しているところです。

 このように、自己の問題意識について確かめる際、結局、いまは書物などの活字情報に頼るしかないという状況ですが、きょうは朝鮮問題についてのジャーナリストの会合で平壌の最新の「生情報」に接する機会を得ました。

 オフレコという決まりなので、いまここに書くことはできませんが、何らかの形で今後のこのコラムに活かしていくことを考えたいと思います。


 さて、朝鮮半島はきしみをあげながらですが「動き」はじめました。 

 先月、北朝鮮外務省の李根(リ・グン)米州局長が渡米し、アメリカのソン・キム六カ国協議担当大使と数次にわたる「米朝協議」に臨みました。

 米朝両政府の当局者が直接「接触」するのはおよそ10カ月半ぶりのことでした。

 当初、李根氏は26、27両日、カリフォルニア大学サンディエゴ校で開かれた「北東アジア協力対話」(NEACD)に出席した後、30日に、ニューヨークで民間団体の「全米外交政策委員会」が主催するセミナーに参加することになっていましたから、サンディエゴ、ニューヨークのどちらかで米朝の接触がおこなわれるとみられていたわけですが、早くも、アメリカ到着後間をおかず、ニューヨークで「米朝接触」がおこなわれ、その後も場所をサンディエゴに移しながら折衝、協議が重ねられました。

 その結果について、メディアはかなり消極的、ネガティブなトーンで伝えましたが、私は、米朝は動く!という確信を一層強めました。

 もちろん、六カ国協議が昨年12月から中断し、北朝鮮による「ミサイル発射」や核実験の強行などで「こう着状態」が続いてきた状況をふまえると、この「接触−協議」が実を結ぶのかどうか楽観は許されないものでしたが、米朝関係の過去の「経験」をレビューすると、一見こう着状態に見える時こそ、水面下では「動いている」というべきです。

 年内という表現で、時期については明言を避けているとされていますが、米政府は、ボズワース北朝鮮政策特別代表の訪朝を決断しました。

 予測されていたタイムスケジュールより幾分かのズレがあることはたしかですが、いずれにしても米朝協議は大きな「変化」を水面下に孕みながら、動きだしたというべきでしょう 。

 そこで、これまでのコラムで考えてきた問題の続きが重要になります。

 「力がなければ国家も民族も滅びるだけだ・・・」という問題と「北朝鮮はなぜ崩壊せず生き続けているのか」ということについてさらに深めておかなければならないと考えます。

 その際どうしてもレビュー、「復習」しておかなければならないことがあります。

 それは、北朝鮮の核開発問題をめぐる「危機」の二つの大きな「ピーク」とそれをどう「くぐって」今に至ったのかという問題です。

 まずひとつは、1992年前後からの「核危機」と94年の「米朝枠組み合意」にいたるピーク、そしてその破たん、崩壊にいたる道についてです。

 もうひとつは、その「枠組み合意」の崩壊と重なってくるのですが、2002年10月のケリー国務次官補の訪朝から2003年8月の六者協議のスタートをへて2006年10月の核実験、そして今年5月の二回目の核実験へと展開し現在に連なる「危機」についてです。

 とりわけ、私たちもメディアも、94年の「枠組み合意」をめぐる問題−なぜ「合意」は成立したのか、そしてなぜそれは崩壊したのかについてしっかりと再認識する必要があると思います。

 すでに破たんした「枠組み合意」など、ふり返る意味がどこにあるのかと思われるかもしれませんが、とにかく、少しばかり復習してみます。
 そして、そのことを通して、「力がなければ・・・」という問題を見つめ直してみたいと考えます。

 
 北朝鮮の核開発問題が「疑惑」として俎上に上るようになったのはいつごろからかについては、意見のわかれるところですが、少なくとも私自身が担当した放送番組でとり上げた経験をふり返ると、1991年前後からがひとつの大きなヤマになったことは間違いありません。

 手許にある当時の資料をひっくり返してみると、北朝鮮が旧ソ連の支援を受けて寧辺に「実験炉」を建設したのは1962年ごろ、その後、1982年に北朝鮮は寧辺に出力5メガワットの黒鉛減速型原子炉の建設をはじめます。

 1985年にはソ連が北朝鮮のNPT・核拡散防止条約への加盟を条件に軽水炉を提供することで合意したとされますが、これはその後のソ連崩壊で果たされませんでした。

 そしてソ連などからは軍事用に転用できる核技術の提供を断られたといわれ、北朝鮮は自力で寧辺の原子炉の建設をすすめることになり、これが稼動をはじめたのは1986年初頭とされます。

 さきほど北朝鮮の核開発「疑惑」が俎上に上るようになった時期については意見のわかれるところだと言ったのは、米国の情報機関などによって相当早い段階から北朝鮮の「核開発疑惑」を「問題化」しようとしていた「動き」があったからです。

 つまり潜在的にはかなり前(80年代の半ば)から北朝鮮の核開発問題は俎上に上りつつあったと言っても過言ではないと思います。
 
 そんななか、北朝鮮は1985年にNPT・核不拡散条約に加盟し、1992年にはIAEA・国際原子力機関の査察協定にも調印します。

 ここで忘れてはならないのは、91年5月、韓国と朝鮮民主主義人民共和国が国連に同時加盟し、その年の12月には韓国と北朝鮮の首相会談で「南北間の和解と不可侵、交流協力に関する合意書」に調印したこと、さらに年末31日には「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に合意(仮調印)して92年元旦の新聞を飾ったことです。
 
 その後、1月22日には米国のカンター国務次官と金容淳朝鮮労働党書記がニューヨークで初の米朝高官協議へという展開をたどりました。

 ここまでがいってみれば「序章」です。

 この当時わたしは北朝鮮の核開発問題をテーマとした番組を何度か担当したので記憶にあるのですが、北朝鮮は92年5月から翌年にかけて6回にわたって寧辺の核施設に対するIAEAの「特定査察」を受け入れたのでした。

 しかし同時に「隠された北朝鮮の核開発疑惑」といった側面に重点を置いて報道されることが多く、IAEAの6回の査察を受け入れているということ、あるいはその詳細については、それほど広く認識されていなかったと記憶しています。

 問題はこの後でした。

 IAEAは6回の査察を終えた後の93年2月、これまでの査察では不十分だとしてさらに「特別査察」を迫る、異例ともいえる「緊急決議」を採択し、北朝鮮に突きつけるという事態になりました。
 この特別査察を受け入れるかどうかの回答期限は2月25日に設定されていましたが、北朝鮮はこれをはねつけます。

 一方、アメリカは北朝鮮が査察を受け入れる(履行する)まで「話し合い」はしないという「最後通牒」を送りました。

 そして米国のクリントン政権は回答期限の翌日(26日)、前年にブッシュ(父)政権で一時中止に踏み切った米韓合同軍事演習「チームスピリット」の再開を発表し、3月9日から演習を始めたのでした。

 3月24日までの実に大規模な軍事演習でした。

 横須賀からは原子力空母インディペンデンスが加わり、米・韓両国軍あわせて12万人の兵力が動員され、平壌を占領してさらに侵攻するという想定の、まさに実戦さながらの演習となりました。

 北朝鮮はこれに対して「準戦時体制」に入りました。

 そしてチームスピリット最中の3月12日にはNPTからの脱退を宣言したのでした。

 北朝鮮を非難する論調がメディアを埋めました。

 さらにアメリカが軍事力の発動(北朝鮮への攻撃)に踏み切る可能性もとりざたされて、これによって北朝鮮は崩壊するという論調も登場しました。

 まさに不測の事態もなきにしもあらずという、戦争一歩手前の緊張を予感させる状況になりつつありました。

 そんな中、北朝鮮は5月29日に「ノドン」ミサイルの発射に踏み切ります。

 当初射程距離は500キロメートル程度といわれましたが、アメリカの分析では、その2倍を超える1300キロ程とされました。  
 この発射に際して、北朝鮮はアメリカに対して事前に通告したともいわれています。

 そして、このノドン発射の3日後の6月2日、それまでの「実務レベルの事前接触」の上にアメリカと北朝鮮の「高官協議」が実現することになりました。

 翌年10月の「ジュネーブ枠組み合意」につながる米朝会談のはじまりでした。

 こうして、朝鮮戦争休戦以来40年を経てようやく、はじめて米朝が同じテーブルに着くことになったのでした。

 その後、6月11日に「共同声明」の合意にこぎつけて、北朝鮮のNTPからの脱退をおしとどめる(脱退を「留保」)ことになりました。

 北朝鮮がNPTからの脱退を宣言した3月12日から、規定上で脱退が成立する「3ヶ月」目の、まさに前日の事でした。

 当時米国務省の担当官として交渉にあたっていたケネス・キノネス氏は「信じられないことだったが、午後3時ごろには、不可能が可能になった・・・」と書き記しています。

 北朝鮮の核開発問題をめぐって、米朝関係は「危機」と対立・緊張の「緩和」がまるであざなえる縄のようにからみあいながら「同時進行」することを目の当たりにしたという意味で、私たちに「学習」を迫るものであったといえるでしょう。

 こうしてはじまった米朝会談はニューヨークでの「第一ラウンド」から7月のジュネーブでの「第二ラウンド」と続いた後動かなくなります。

 米国側は、北朝鮮とIAEAのあいだで核問題に関する「真剣な協議」が行われることと南北対話の進展という二つの条件が満たされない限り「第三ラウンド」は開かないとし、一方の北朝鮮側は、NPT体制に残留しIAEAの「通常査察」は受け入れるが、対立点となっている「特別査察」については、話し合う前提として米韓合同軍事演習・ティームスピリットの中止と米国による経済制裁の解除、そして米朝高官協議の「第三ラウンド」の再開を求めるという状況になっていました。

 水面下でのさまざまな接触や「動き」がありましたが、11月の国連総会で、北朝鮮に対してIAEAに「即座に協力」することを促す決議を140対1(反対は北朝鮮、中国は棄権)で採択した後一挙に緊張が高まりました。

 韓国の権寧海国家安全企画部長が記者会見で北朝鮮の核開発を阻止するために軍事行動をとる可能性を示唆、訪韓してその権寧海部長と会談したレス・アスピン米国防長官が同行記者団への「背景説明」で「状況は危険区域に入りつつある。彼らは飢えており、このまま飢え死にするか戦争で死ぬかのどちらかだと考えるかもしれない」と語ったことから戦争への恐怖が一気に広まっていきました。

 米朝が「一括協議」方式でなんとか事態を収めようと動く中それへの抵抗を示す当時の韓国の金泳三政権の動きなど、その後の経緯は非常に重要なのですが、そこに紙幅を費やしていることができませんので結論を急ぐことにします。
(つづく)


 なお、この稿を書き継ぐ重要性をふまえつつですが、これを書き綴るきっかけになった中朝国境地域への旅を写真で振り返る作業も並行しておこなおうと思います。

 このコラムが活字ばかりで読むのが大変だ、少しは息抜きがないものか・・・という声に応えることも大事だと思ったからです。
近く写真ギャラリーをこのコラムにアップしてみます。

  
 
 
 
 
 

 

posted by 木村知義 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年10月02日

とりいそぎ「付記」というものですが・・・

  いま書き綴っている事柄の「つづき」を書くのが本来なのですが、とりいそぎのメモランダムとして手短に書いておくべきと思い、「付記」としておきます。

 持って回った言い回しになりましたが、けさ、テレビや新聞など各メディアで、2016年夏のオリンピック開催都市を決めるIOC・国際オリンピック委員会の総会が十数時間後に迫ったという話題が取り上げられました。

 テレビでは「総会まであと何時間!」として、総会開催地コペンハーゲンだけではなく、候補になっている各都市を中継で結んで伝えるという熱の入れ方の局もありました。

 また、IOC総会でのプレゼンテーションを前に、1日、デンマークのコペンハーゲンを訪れている東京の招致委員会の関係者らが最後の決起集会を開いたということも伝えられました。

 この決起集会では、「乾杯」ではなく「完勝!」の掛け声でグラスを交わし、あいさつに立ったマラソンの高橋尚子さんは「マラソンも招致レースも最後の最後まで勝敗はわかりません。みんなで頑張りましょう」と訴え、会場からは大きな拍手が巻き起こったということです。
 
 出席の予定だった石原東京都知事は、IOC委員との面会の約束がとれたため「招致活動を優先して」欠席したということですが、それに先立つ記者会見で「投票する委員が開催計画など技術的な部分を冷静に評価してくれれば東京は勝てる」と述べて、招致に自信を示したということです。

 余談ですが、テレビの映像では石原都知事の横に森喜朗元首相の姿が映し出されていました。
 
 どこでもなかなかの存在感の、元「闇のキングメーカ」?ではあります。

 さて、各メディアは、国民の支持、熱が、各候補地のなかで一番低いのが弱点だと伝えています。
 
 しかし私は、これだけみんなが?頑張っているのに「熱が足りない」から負けるかもしれない・・・という論調に何とも言えない違和感をぬぐえないのでした。

 東京五輪の開催への賛否はそれぞれ自由だと思いますし、盛り上がりたい気持ちにちょっかいを入れて水を差すほどの「悠長」な暮らしでもありませんので、そこに介入するつもりはありません。

 がしかし!、メディアはもう少し、それこそ「冷静に」考える必要があるのではないかと、危惧を抱くのです。

 我々はこれだけ頑張っているのに、国民の熱が足りない!

 あたかも、東京五輪の開催に賛成しないものは「非国民」といった空気を醸成していく、そのことに問題意識があるのか?!という危惧です。

 実は、これは、いま書き綴っている「東アジア共同体へのハードル」というテーマと密接にかかわる問題なのです。

 私は石原慎太郎氏が都知事として五輪の開催に奔走することに特段の異を唱えようというほどの「酔狂」な気持はないのですが、氏のこれまでの排外主義的な発言や近隣の国、とりわけ韓国・朝鮮、中国への差別、蔑視の言説については、看過できないと思ってきました。

 ここでその一つひとつを「蒸し返す」のは控えます。
 ただし、いまは、その時間的余裕がないという意味であって、どうでもいいということではありません。
 
 それらを具体的に、詳らかにして、きちんと検証、批判する作業は非常に重要だと考えています。

 ただ、私の身近な事柄を一つだけ上げておくならば、高校時代の同級生、故新井将敬元衆議院議員にかかわる問題が蘇ります。

 先に断っておきますが、私は新井将敬氏の政治的スタンスに共感を抱いているわけではありません。

 彼が自死という道を選んだあと月刊誌から取材を受けた際も、「彼の苦悩を理解はするが、彼のしてきたことに共感はできない」と答えたものでした。

 ちなみに、彼のことを高く評価する知人、友人たちの談話のなかで、際立って厳しいコメントになって掲載されたものでした。

 その「苦悩を理解する」と言ったのは何かといえば、彼が在日朝鮮人子弟として、ことばにできない差別に苦しみ、帰化という道を選ばざるをえず、その苦悩の裏返しとでもいうべき「上昇志向」を胸の奥深くにしまい、必死にもがき、たたかった、そのことへの胸が痛むまでの思い、あるいは私自身が日本人として、そうした民族差別をなくすためにいかほどの事もなしえていないことへの、悔恨の念だというべきです。

 さて、彼が旧大蔵官僚を辞して、地盤もカバンも看板もない旧東京二区から初めて衆議院選挙に立った際のキャッチフレーズは「日本を担う、将来の総理総裁!」というものでした。

 渡辺美智雄元蔵相の秘書官として重用された経歴から、将来の総理総裁の器だという激励を背に政界に打って出たのでした。

 そのとき、もっとも脅威を感じたのは同じ選挙区から国会に議席を持っていた石原慎太郎氏でした。

 在日の人間に日本の将来の総理など務まるものか!(もっとはっきりいうと、おぞましいほどの表現ですが、朝鮮人に総理大臣なんかやらせていいのか!)といった新井将敬氏の出自を取り上げた「攻撃」を陰に陽に、執拗に繰りひろげたのは石原氏の陣営でした。

 事実、新井氏の選挙ポスターに民族差別、蔑視そのものとしかいいようのない「シール」を貼って、選挙妨害の現行犯で、石原氏の秘書が検挙されるということまで起きました。

 その後も、「シナ発言」をはじめ、石原氏の民族差別、蔑視発言は枚挙にいとまがありません。

 私は石原氏をあげつらってどうこう言おうとしているのではありません。

 それほど氏に関心があるわけではありません。
 
 ちなみに、私が生き方として深く敬意を抱いてきた作家の高橋和巳が、氏の「太陽の季節」が芥川賞を受賞した折の事を書き遺しているのを興味深く読んだことで記憶にとどめてきたという程度です。

 しかし、東京五輪実現にむけて「国民の熱が足りない」という言説が流布されていく、そうして醸し出されていく「空気」と、そのお先棒をかつぐメディアをまのあたりにして、ここは一度「深呼吸」をして熟慮、吟味すべきところではないのかと思うのです。

 私は、世に言う「五輪の思想」を、無批判に受けとっているわけではありませんが、それでも、民族や国家をこえて世界が平和でひとつになる、そんな意味での「スポーツの祭典」としてある、ということを踏まえて「冷静に」考えてみると、その障害になるのは石原知事その人の民族蔑視、差別思想ではないのかと思うのです。

 「国民の熱が足りないこと」を問題にする前に、石原知事の反省こそが、世界の共感を引き寄せる力になることを、メディアは語るべきではないでしょうか。

 そして、日本にいる、私も尊敬する、著名な中国人研究者らが、わざわざ石原知事の東京五輪開催にかける「熱意」を支持する旨の論説を各メディアで掲げるのを目の当たりにして、釈然としない思いを抱いたことも言い添えておかなければなりません。

 国際政治の、まさにマヌーバーとして五輪と石原知事を「もてあそぶ」べきではないと、これはきっぱりという必要があると思います。
 (表向きのご都合主義ではなく、心底石原知事を支持しているのなら、もっと激烈な議論が必要になることはいうまでもありません)

 今、日本で何を問題として取り組むべきなのか、五輪は本当に「夢と希望」をもたらすものなのか、いま日本に本当に必要なものは五輪なのか(もちろんゼネコンやある部類の建築家などにとっては必要であることは言うを待たないことですが)について、メディアは「冷静に」考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 あるいは世界の連帯、協力を高めていくために、たとえば南米大陸で最初であり、しかも移民の歴史という観点から、私たち日本人に深い関係のあるリオデジャネイロを応援するために、日本国内に住むブラジルの人たちと力を合わせるといった、「もう一つの選択」についても考えてみる価値はないのか・・・。

 語るべきことは、それこそ、いっぱいあるのではないでしょうか。

 折々書いていることですが、物事の結論が出てから「後証文」で、実はわたしはそう思っていたのですと、あたかもアリバイを証明するかのような論説は、ジャーナリストにあるまじきことですので、五輪招致への投票結果が出る前に、考えを鮮明にしておかなければならないと思いました。

 いま書き綴っている「東アジア共同体へのハードル」に深くかかわる問題として、東京五輪招致問題があるというのが、私の問題意識です。

 識者といわれる人々、メディアで東京五輪招致を力説する人びとに、「冷静な評価」を迫ることは、それほど無意味なことではないと、私は考えるのですが、どうでしょうか。
 
 取り急ぎの「付記」です。



posted by 木村知義 at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年09月27日

「東アジア共同体」へのハードル 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜(その2)

 「力がなければ、民族も、国家も滅びる、悲惨なものだ・・・」

 在日朝鮮人の方たちと意見を交わす中で出てきた、呻きに似たことばであることは書きました。

 とりわけ、中朝国境地帯という戦略的にも複雑な地域に立って、あるいは高句麗という、中国との間で「歴史論争」になっている、その地で考える朝鮮民族の歴史を踏まえるなら、このことばはむべなるかなというものではある、というより誰しも否定できないというぐらいの重みを持ったことばだと思います。

 確かに過去の歴史をふり返ればそうであるかもしれないし、私たちが生きる現在もまた、その論理を否定できない状況であるかもしれない、そうなのだけれども、しかし、その先を、未来を考えるべきなのではないか、私たちは・・・。

 民族というものをどう定義づけするのが正しいのか、あるいは国家は・・・と、学問的には歴史にもとづく深い研究と考察が必要であることは承知しています。

 しかし、いまここで語ろうとするのは、そうした専門研究に属することではありません。

 ただし、少なくとも近代国民国家というものが民族という論理とは必ずしも一致しない形で形成されてきたことは、現実として認めるべきだと考えます。

 しかも、帝国主義の時代にあって、植民地というものが生まれ、その分割、再分割闘争としての戦争を経て、国、国家というものが、民族の論理とは無関係に「線引き」されて形成されたという現実もあります。

 したがって、冷戦構造の「崩壊」のなかで、ひとたび「抑圧」する力として働いてきた「国家」が揺らぐと、一気に噴出した民族(意識)との軋轢の中で凄惨なまでの「争い」を目の当たりにすることになりました。

 旧ユーゴや旧アルバニアなどを例にあげるまでもなく、いま現在、それらの国がどうなっているのか、どんな名称の国でどのような版図を占めているのか、地図で正確に示すことすら容易ではない状況だといわざるをえません。

 中国でいえば一つの国家の中に56もの民族が暮らし、それらの中には自治区であったり自治州といった民族ごとの「自治、自決」を謳った地域もあります。

 そして、いま、チベットで、新疆ウイグル自治区で、「騒乱」、「暴動」を目の当たりにしているのです。

 こうした状況を前に、力がなければ民族もなにもあったものではないという論理は、現実論としては反論の余地はないのだろうと思います。

 しかし、私たちの生きる21世紀という時代のあいだに解決できるかどうか、それはわからないというぐらいの長い射程のはなしなのですが、結局、どう力を得たとしても、力によっては根本的に解決できない問題として残るのではないのか、ということです。

 そうなると、欧州の「実験」をすべてよしとするのではありませんが、究極的には、平和の中で生きるためには力においてではなく、強力的あるいは「暴力的」に線引きした現在の国家というものをどれだけゆるやかで、柔らかい存在にしていけるのかにかかってくるのではないか。

 象徴的に言えば、黒々とした実線の国境を薄い「点線」にするという営みの積み重ねにしか未来はひらけないのではないか、ということです。

 もちろん、もう一度、地球の破滅しか意味しない「世界戦争」を戦おうという場合は別ですが・・・。

 国境を点線にするという営為の中で、ひとつひとつの「国家」をこえて、あるいは「国家」の内部にも、多数の民族が平和的に共存していく道を模索していくべきではないのか・・・。

 なんとも、口はばったくも、青臭い論を述べたものだと気恥ずかしくなるほどでした。

 それよりも、在日朝鮮人の人びとが、いま、どれほどの苦難に耐えて生活を営んでいるのか、そんなこととは「別世界」のような空論に長広舌をふるったものだと、自己嫌悪に陥るぐらいのものでした。

 しかし、です!空論ではなく現実論として、力においてではなく、論理においてあるいはもっといえば、理念と理想において生きる時代をひらくべきではないのか、これは私の頑固な「思いこみ」ですらあるのです。

 であるがゆえに、中国・東北の地に立って歴史を見つめ、考える旅の意味があるのではないか、というのが私の述べた要旨でした。

 さて、しかし、ここには避けて通れないというべきか、最低でも、二つの語るべきことが残されているというべきです。

 ひとつは、北朝鮮はなぜ崩壊せずに生き続けているのかという問題。

 もうひとつは、中国・東北、つまり旧満州の地に立って、こうした「理想」を語る際に忘れてはならない問題、つまり歴史の記憶という問題があるということ。
 この二つです。

(つづく)



 
posted by 木村知義 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

「東アジア共同体」へのハードル 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜(その1)

 8月下旬中国・東北、中朝国境地帯を旅してきたことはすでに書きました。

 瀋陽から長春、朝鮮族自治州に入って延吉、龍井、白頭山および山麓一帯、通化を通って集安、鴨緑江沿いに丹東へ、そして大連へ、陸路2600キロにおよぶ旅でした。

 瀋陽から長春そして延吉までと丹東から大連の間はよく整備された高速道路を快適に駆け抜けました。
 長春までの高速道路は以前も通ったことがありましたが、その時は、延吉へは鉄道を使ったので、高速道路ははじめてでした。

 貨物満載の大型トラックの間をBMWやアウディ、ホンダ(広州ホンダ)のアコードなどが猛烈なスピードで駆け抜けていく光景を目にして、いまの中国の”勢い”を象徴しているように感じました。

 高速道路網の整備は中国経済の成長のスピードの象徴でもあるのだと実感しました。

 このように、現場に立って、自分の目と耳で中国の現在(いま)にふれ、そこで考えることが旅の目的でもあるのですが、今回の旅では中国の人たち、とりわけ朝鮮族の人びとの話を聞くことができただけではなく、、日本に住む在日朝鮮人の方たちとも意見を交わす機会を得ました。

 昨年、法政大学教授の田島淳子さん、東京芸術大学準教授、毛利嘉孝さんらが中心になって取り組んでこられた、「在日外国人地域ボランティアネットワーク円卓会議」の活動の末席に加えていただいた際、大学生の皆さんと一緒にブラジル人学校や朝鮮学校を訪問して、多文化共生について、本当にささやかにですが私なりに活動に加わる機会を得たことはありましたが、旅先とはいえ、今回ほど深く在日朝鮮人の方々と意見を交わす経験ははじめてでしたので、私にとってはとても貴重な機会となりました。

 中国・東北地方、特に朝鮮族の人たちが住む地域や中朝国境地域に、韓国からだけではなく、在日朝鮮人の人たちも出かける背景には、ここが朝鮮民族にとって歴史的にも深いかかわりのある地域だということに加えて、長白山(朝鮮名白頭山)の存在があると思われます。

 余談ですが、朝鮮民族にとって白頭山がどれほど思い入れの強い存在であるのかを痛感した経験があります。

 90年代初頭、北朝鮮の核開発問題が持ち上がったとき、ある人物のインタビューを録るために韓国ソウルに出かけたことがあるのですが、収録のために訪れたある「施設」の玄間の壁面いっぱいに巨大な絵が掲げられていました。

 わたしは何も思わずその前を通って奥に行こうとしたのですが、撮影助手の韓国人の若者がしばしその絵の前に佇んだまま動かないのです。

 「どうしたの?」と声をかけると「ペクトゥサン!」と声を弾ませて言うのでした。

 「で、それがどうしたの」とことばを返すと、「すばらしい!」と言って「この山は韓国人なら(つまり朝鮮民族ならと言う意味ですが)死ぬまでに一度は登りたい、登らずには死ねないそんなあこがれの山なんですよ!」とことばを続けたのでした。

 不勉強を恥じなければならないのですが、そのときまで白頭山というものがいかなるものかまったく知らずにいたので、認識を新たにしたという次第でした。

 韓国の人びとにとって、「分断」という状況にある現在の南北関係では、白頭山に登るには中国側からしか道がないということですし、「制裁」が実施されていて母国との往来にさまざまな「困難」がある状況の下、在日朝鮮人にとっても白頭山に至る道は中国に出かけるのが早道という事情もあるのでしょう。

 とにかく、旅をしていても、まわりでは朝鮮語(地域に住む人たちの朝鮮語と韓国からの旅行者の韓国語)の会話が飛び交いました。

 もちろん朝鮮族自治州の延吉などでは街のなかもハングル表記に溢れていますし、朝鮮族の人たち(とりわけ年配者)は、日常会話は朝鮮語、必要に応じて中国語を併用するという生活です。

 余談ついでにといえば語弊がありますが、白頭山の素晴らしさをことばではなかなか説明できませんので、頂上にある「天池」の写真を掲載しておきます。



長白山(白頭山):中国側山頂から天池を望む、向こう側は北朝鮮

 さて、旅先で在日朝鮮人の方々と交わした、会話、議論です。

 なお、はなしの前提として「朝鮮籍」という問題を歴史的にきちんと認識しておくことが不可欠なのですが、ここで、そこに踏み込むとそれだけで何回かのコラムを費やさなければなりませんので、いまは控えます。
 ただし、非常に乱暴な「要約」であることを承知の上で、重要な点だけを押さえておくと、

 日本の敗戦により植民地支配から解放された後、サンフランシスコ講和に至るなかで、それまで強制的に「皇国の民」、日本人とされてきた朝鮮人が、突然「何国人」でもない存在に投げ出され、母国に戻ることのできた人は別として、大勢の朝鮮人が、便宜的に地域を示す「朝鮮籍」において、「特別永住許可」の下日本で暮らしを営むことになったこと、植民地支配からの解放が祖国の再建を意味することなく南北に分断国家が生まれ、戦後世界の「冷戦」の悲惨を一身に負うかのように同族血で血を洗う朝鮮戦争へと至ったこと、そして1965年の日韓基本条約により南半分の韓国籍のみが国籍として認められるという、きわめて「複雑」な歴史を生きざるをえなかった在日朝鮮人の苦難というものへの歴史的認識と想像力がなければ、現在の朝鮮半島問題を考える際、事の本質が見えてこないのではないかと思います。


 今回の旅の中で交わした会話の中にも「北であれ南であれわが祖国」ということばが在日の方の口から聞かれました。
 長白山(白頭山)への「あこがれ」はそうした文脈で受けとめるべき思いなのだと痛感しました。

 ただし、旅から戻って手にした文芸誌のページをめくるうち、このことばの「元祖」的な存在である在日作家の連載で、しばらく目にしなかった「北であれ南であれわが祖国」という活字に出会いましたが、この作家については、とりわけ「国籍」問題でさまざまに議論、論争のあるところですから、旅先で耳にした在日の方のことばは、さしあたりはこの作家のスタンスとは関係なく語られていることを、念のため書いておきます。


 なぜこれほどのさまざまな「注釈」が必要なのか、本当に苛立たしくなるぐらいですが、それが在日朝鮮人にかかわって何かを語ろうとする際、現在の”日本”のなさしめるところだと思います。

 なんの「注釈」もなしに語ることのできる時代と社会を一刻も早くひらかなければならないと思います。

 さて、本論に戻らなければなりません。

 「やはり力がなければ、国も滅びるのだ!力がなければ国も民族も生きていけないことを本当に痛感した・・・」
 在日の、学識豊かな、とりわけ歴史分野に深い知識を持つ人物から漏れた呻きのようなことばです。
 吉林省東南部、鴨緑江沿いにある小都市、集安でのことです。

 世界文化遺産にも登録されている好太王碑(広開土王碑)で知られる、この集安という地は、高句麗の歴史的位置づけをめぐって、韓国と中国との間でもデリケートな歴史問題として議論の絶えないところでもあるのです。

 その地で、このことばを聞いて、私は、ハッとさせられ、そして、しかし「力」ということばにどこか抵抗感が残って、立ち尽くす思いを抱いたのでした。

 その「抵抗感」が顔に出たのかもしれません、会話は、民族、国家というものをめぐる議論へと発展したのでした。

 初対面で踏み込む議論ではなかったかもしれません。
 しかし、ここは在日朝鮮人という存在に正対するためには、あるいは信頼関係の中で問題を考えるためには、あいまいに言葉を濁してやりすごすべきではないと、思ったのでした。


 しかしその会話の先に、 「あなたは、民族、国家というものはこえていけると思うか、そう思うなら、どうこえていくのか。あるいは、私たちが日本の社会で、いま、本当に息もできないほどの生活を余儀なくされている、そのことをわかってもらえるだろうか・・・」と問われることになりました。

 「力がなければ悲惨なものだ!」と、重ねられることばが一層強く私の胸に刺さりました。

 現在の日朝関係の下で、在日朝鮮人というだけでどれほどの苦しみに、いま、耐えながら暮らしを営んでいるのか、そのことがひしひしと伝わってくるだけに、ことばを返すことができなくなるのでしたが、それでも勇を振るって、青臭い議論だと思われるかもしれませんが少し私の話を聞いてもらいたいと、私は話を切り出したのでした。
(つづく)






posted by 木村知義 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録