この間、朝鮮半島をめぐる問題、イランの大統領選挙その後、中国の「ウイグル問題」とユーラシアの民族問題などの研究会に参加して、世界、とりわけアジアの現在(いま)の動きについて考える日々が続きました。
また、メディアとのかかわりでいえば、いくつかの放送番組の企画をめぐる検討、議論に参画して、これまた今年から来年にかけての世界と日本についていろいろな角度から考えをめぐらせる必要に迫られました。
しかし、そうした「動く現在(いま)」について考えながら、一方では慌ただしく過ぎる日常への、いささかの「内省」の思いが頭をもたげてきて、うまく制御できずに困るというのか、思いがどんどん巡って、さて、いまなすべきことは何なのかと考える日々になっています。
こうした「内省」の契機は、この間、ごくごく短期だったとはいえ病院というところに身を横たえ、生まれて初めて身体にメスを入れるという体験をしたことと無関係ではないように感じます。
重篤な病気で入院している人がほとんどの大学病院の外科病棟で、私などは、病といえるほどのものではないのですが、それゆえにというべきか、あらためて「生老病死」というものについて考えさせられる時間になりました。
ごく短時日でたいしたことではないにしても、一応入院生活ということで、その間で読み切れる薄い書物を一冊持って行きました。
結果的には、手術後翌日までは点滴につながれ絶対安静、絶食を強いられたので、書物を読むことができたのは、その後の、実質1日半ほどでしたが、持参したものは読み切ることができました。
その書は柄谷行人氏の「政治を語る」でした。
読んでみて、このタイトルはかならずしも適切ではないと感じるのですが、要は柄谷氏の60年代以降の思考の経路をふり返りながら、氏の問題意識の歩みをたどるという趣の書でした。
その意味ではタイトルを、「思想を語る」とでもすべき書だと感じました。
これまでも氏のいくつかの著作を読み、というより1960年代末に文芸誌「群像」の評論部門で新人賞を受けて「文壇」に颯爽と登場した氏に鮮烈な印象を抱いて以来、折々に書物を読む機会を持ってきて、しかし、私にとってははっきりとは読み解けなかった「思考の経路」、つまり思想的遍歴が、より明確に見えてきて、柄谷氏が何と「たたかってきた」のかが、つまり、柄谷行人という存在の意味がわかったという気がしたのでした。
私は柄谷氏と言葉を交わしたことはなかったのですが、一度だけ身近に「身を置いた」ことがありました。
畏友、藤原良雄氏が主宰する藤原書店から「日本語と日本思想」を上梓した浅利誠氏がフランスから帰国してひらかれた「合評会」に参席する機会を得た際、私から一人か二人おいて左の席についていたのが柄谷氏でした。
しかし、この会が急遽持たれたため、別の予定があった私は浅利氏の報告が終ったところで中座せざるを得ず、柄谷氏がどういう発言をするのかを楽しみにしていたにもかかわらず、聞くことも、ましてや、ことばを交わすこともできずに終わったのでした。
それはともかくとして、病院のベッドでこの書を読みながら、頭脳明晰というのか、俗にいえば「やはり世の中には頭のいい人は、いるものなのだな・・・」ということがひとつ、もうひとつは、これまた通俗的な言い方ですが、やはり深く勉強しなければダメだ、思索を深く、深く掘りすすむ営みを重ねなければということを、またあらためて思ったのでした。
書物を読み、ものを考えるということにおいては、一応人並みというのか、それほど恥じなければならないものではないという思いがこころの片隅にありながら、しかし、自己の浅さ、狭さを思い、私の「小ささ」に思いをめぐらせたのでした。
私にとって、静かに生老病死について考えることを迫られるというのは、こういうことなのかと思ったものでした。
時間というものと、自己の存在というものを直視せざるをえない病院のベッドでの感慨でした。
そして、このところ研究会やあれこれで慌ただしく過ごしながら、短時日とはいえ病院のベッドで過ごさなければならなくなった、いわばその「引き金」となった原因ともいえる「重い書物」の山から、ふと一冊を手にして、一層その思いが募りました。
本当に偶然手にしたその書には、高橋和巳の闘病の記である「三度目の敗北」という一文がありました。
「疾病にもそれを通してなされる認識の深化はあるはずであり、私にも一、二悟るところがなくはなかったとはいえ、人間存在が好むと好まざるとにかかわらず持っている対社会的関係性がその期間極小化されて、ただ存在の苦痛という一点に集約されてしまうことがすばらしい状態であるはずはない。」
と書く高橋は、重篤な病魔との闘いについて、
「脳の動きも、生命を支える中枢である脳幹の作用を残して、大脳皮質、その理性的機能はもちろん、感情や想像力も目に見えておとろえてゆくのが、自分にも解ったものだ。」
としながら、
「もっともそれは病者にとって、一種の救いでもあって、客観的に重篤とみなされる状態の時には、本能的な生命への執着はありながらも、し残した仕事やそれまでの人間関係の対立抗争についての意識はぼやけていて、なにか徹底的に受け身で寛大な気分になっているものだ。その寛大な気分のあいまを縫って、脳裏を駆けすぎるさまざまのイメージも、それがたとえ浄土の表象ではなくても、現実の人間の諸相が持っている地獄性もまた薄らいでいる。」
と記しています。
京都大学での学園闘争の真っただ中、病に倒れ、「造反教官」なるレッテルの下で、「苦悩する知性」として情況と対峙し続けた高橋和巳のベッドでの姿が哀切なまでに浮かび上がってくる文章です。
「・・・またもし幸いにして死生の境から還行することができれば、なにか物すさまじい転機がその人に起るはずである。だが悲しいかな、私たち凡俗の者にとっては肉体の衰えは同時に思考や情念の衰弱であり、優しくもの悲しい気分も、生の帰結というよりは、幼時への退行にすぎない。もっとも日常的には意識にのぼらなかった遥かなる記憶が病床で不意に蘇るということはあって、ああ、私にとって本当はこういうことが気懸りだったのかと悟ることもなくはない。」
病というほどの病でもなく、ましてや高橋などとは比較にならないほどの「凡俗」である私などは、深さにおいても「物すさまじい転機」など望むべくもないのですが、それでも、ああ、私にとって本当はこういうことが「気懸り」だったのかと悟ることはあるものです。
もちろん「世界と時代の現在(いま)」に目をふさぎ、状況にかかわることなくあれこれと時を重ねることの愚は犯してならないと思いつつ、しかしここにきて、本当に歴史に深く根ざす思念の重要性を痛感するなかで、いたずらに目の前の「うごき」に目と時間を奪われるのではなく、じっくりとした研鑽と思索が、いまこそ必要だと、またあらためて感じるのでした。
「状況への発言」あるいは「情況」について語る言説は数々あるのですが、いま問われなければならないのは、何を語るのかの前に、何のために語るのかではないかと思います。
そのためには、いたずらに状況に流されず、深く読み、深く考えるという研鑽と思索の時を持たなければと痛切に思うのです。
言説の、あるいは言論の厳しさを、いままた時代の大きな転換期を迎えて、痛切に思います。
何のために語ろうとするのか。
その、「何のために」ということが厳しく問われているのだと、いまさらながらですが、思います。
当たり前のことでありながらそれだけに難しい、まさにこれこそが「現在の困難」(アポリア)として存在していると考えるのです。
高橋がこの一文を書くことになった入院先と、場所は異なるのですが、奇しくも同じ大学病院だったことに加えて、高校生時代に当時の「朝日ジャーナル」に連載された高橋の「邪宗門」を読んだことでその後の私の生き方や人生観に大きな影響があったことなどをふりかえりながら、いままた、「何のために」ということを反芻して考えることになりました。
ここ一、二年の「『蟹工船』ブーム」、あるいはマルクスの再評価などを考えると現在の社会が何に行きあたっているのか明白なのですが、こうした「マルクス再評価」もまた社会現象としてのブームやファッションに終わらせてはならないと思います。
「いくら現実を批判してみても、その批判には、あいかわらず、現実がしみこんでいる。だから、自分のなかの現実と対決しないでは現実をみることができない。現実をみるとは、現実をあたらしくすることである。」
これまた、学生時代に出会った、状況と緊張関係の中で対峙しながら生きた哲学者の言説の一部です。
いま、私が自身のありかたにかかわって、あれこれに慌ただしく流されるのではなく、じっくりとした深い学びと突きつめた思索の必要性を痛感する所以です。
大学病院の外科病棟での「短期滞在」を終えて外界に出て、まず手にした書物が竹内好の「予見と錯誤」そして「方法としてのアジア」であり、「尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア」でした。
いま胸の奥深くで、深い思索をという声とともに、何のために?!という問いかけが重く響きます。
先ほど、テレビによって衆議院の解散が伝えられました。
この間のあれこれに一層輪をかけて喧しくなるでしょう。
しかし、です!
時流に流されず、目先の「利得」に右往左往せず、時代と対峙する精神のありようについて、あらためて反芻する、いま、です。
何のために考え、何のために語り、何のために生きるのか。
まさにこここそがすべてをわける分水嶺です。
それが厳しく問われる時代に、私たちは生きているのだという、当たり前ではあっても実に困難な命題を、いま一度思い起こす必要に迫られているのだと思います。
2009年07月21日
2009年07月13日
ウルムチ暴動緊急短信
中国の新疆ウイグル自治区での「暴動」について、小島正憲氏から、きょう午後、「緊急短信」が届きました。
先ほどホームページにアップしました。
イタリアのラクイラで開かれたサミットの、新興国グループが参加する主要経済国フォーラム(MEF)に出席する予定だった、中国の胡錦濤主席が急きょ帰国することになった、ウルムチ「暴動」については、依然としてその実体、真相があきらかになっていません。
メディアでは漢族とウイグル族の対立、ウイグル族の「怨念」ともいえる差別、支配に対する「怒り」などが伝えられていますが、一方ではさまざまに分析や「説」が分かれてます。
なかには、サミットのフォーラムで取り上げられるテーマについて「議論」を避けたかった胡錦濤主席にとっては、帰国の口実になる、「渡りに船」ともいえる「暴動」だったという見方を示す人もいます。
中国のメディアが伝えているように、
「民族分裂を図るラビアをはじめとする『世界ウイグル会議』」が、「国外から指揮、扇動」し、「国内の組織が実行した計画的、組織的な暴力犯罪」
という、いわば海外から「指嗾」されて起きたものかどうかについても、厳密な検証が必要です。
ましてや、日本のメディアが伝える「人権」レベルの問題なのか、相当慎重な分析が必要でしょう。
そんな折、小島正憲氏から、実に示唆深い「緊急レポート」が届きました。
こうした際、皮相に流れがちな、メディアの報道や、私たちの「思いこみ」に対して、鋭く警鐘を鳴らす「短信」といえます。
ぜひ、ご一読ください。
サイトは、
http://www.shakaidotai.com/CCP041.html
です。
先ほどホームページにアップしました。
イタリアのラクイラで開かれたサミットの、新興国グループが参加する主要経済国フォーラム(MEF)に出席する予定だった、中国の胡錦濤主席が急きょ帰国することになった、ウルムチ「暴動」については、依然としてその実体、真相があきらかになっていません。
メディアでは漢族とウイグル族の対立、ウイグル族の「怨念」ともいえる差別、支配に対する「怒り」などが伝えられていますが、一方ではさまざまに分析や「説」が分かれてます。
なかには、サミットのフォーラムで取り上げられるテーマについて「議論」を避けたかった胡錦濤主席にとっては、帰国の口実になる、「渡りに船」ともいえる「暴動」だったという見方を示す人もいます。
中国のメディアが伝えているように、
「民族分裂を図るラビアをはじめとする『世界ウイグル会議』」が、「国外から指揮、扇動」し、「国内の組織が実行した計画的、組織的な暴力犯罪」
という、いわば海外から「指嗾」されて起きたものかどうかについても、厳密な検証が必要です。
ましてや、日本のメディアが伝える「人権」レベルの問題なのか、相当慎重な分析が必要でしょう。
そんな折、小島正憲氏から、実に示唆深い「緊急レポート」が届きました。
こうした際、皮相に流れがちな、メディアの報道や、私たちの「思いこみ」に対して、鋭く警鐘を鳴らす「短信」といえます。
ぜひ、ご一読ください。
サイトは、
http://www.shakaidotai.com/CCP041.html
です。
2009年07月08日
続・核持ち込み密約報道をどう読む・・・
前回のコラムで「この間の政治の液状化、政権の「迷走ぶり」を目の前にして、その背後で、確かに、いま、何かが動き始めていると確信する」と書きましたが、その動きは急です。
今朝の読売新聞の一面トップには、
「核の傘」日米協議へ 有事の運用確認 月内にも初会合
という見出しが躍りました。
前回のコラムで引いた『WEDGE』7月号に掲載された「北朝鮮の暴走 日米同盟強化のため今こそ核の傘の議論を」の筆者、読売新聞政治部次長の飯塚恵子記者によるワシントン発の記事です。
【ワシントン=飯塚恵子】日米両政府は7日、米国の「核の傘」を巡る両国の協議の場を初めて正式に設け、月内にも初会合を開く方向で検討を始めた。
複数の日米関係筋が明らかにした。外務、防衛両省と米国務省、国防総省の局次長・審議官級の枠組みとする方向で、協議では、有事の際の核兵器の具体的な運用に関して日本側が説明を受け、オバマ大統領が目指す大幅な核軍縮と核抑止の整合性などを話し合う。
日本に対する「核の傘」は、日米安全保障条約に基づき、米国が保有する核兵器によって日本に対する第三国からの核攻撃を抑止する仕組みだ。米国は、同様の仕組みを持つ北大西洋条約機構(NATO)諸国とは、有事の際の核兵器の運用や手順などの具体的な情報を共有している。
これに対し、唯一の被爆国である日本では、国民に核兵器への抵抗感が強く、運用について協議すれば、野党などから強い反発が出る状況だった。また、米側には日本の機密漏洩への懸念も根強く、日米間ではほとんど議題に上らなかった。
しかし、北朝鮮が5月に2回目の核実験を行い、中国も核戦力の近代化を進めるなど、東アジアの安全保障環境は不安定さを増している。米韓両国は6月、米国による「核の傘」の韓国への提供を明記する首脳合意文書を交わした。日本政府でも「核の傘」の有用性を再確認し、米側から運用の具体的説明を受けるべきだとの声が高まっていた。
一方、米側では、オバマ大統領が4月、究極の目標として「核兵器のない世界」を目指す考えを表明した。今月6日のロシアとの協議では、12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START1)に代わる新たな取り組みとして、核弾頭配備数を双方が最低レベルで1500個まで大幅削減することで合意した。
新方針は、オバマ政権が12月にまとめる、米史上3回目の「核戦力体制見直し(NPR)」に反映される予定だ。日本としてはこの時期までに、有事に備えた「日米共同作戦計画」に核兵器使用がどう組み込まれているかなど運用について説明を受けたうえで、日本側の要望を伝える考えだ。NPRの全容は非公開で、協議内容も基本的には公表されない見通しだ。
この一面の記事に加えて、飯塚記者は二面の「解説記事」で、
「日米両政府が『核の傘』に関する協議を初めて正式に行う方向で検討を始めたのは、北朝鮮の核開発の進展などを受けて、『核の傘』の信頼性の確認を日本側が求めたのがきっかけだ。」
「日本側の懸念は、米国の核軍縮や核弾頭の老朽化の中で、「核の傘」は有事の際に本当に機能するのか、という点にある。」
「一方、米国でも保守系議員や識者らを中心に、『米国が信頼できる「核の傘」の姿を示さなければ、日本や韓国は北朝鮮などの動きに対処するため、自ら核武装するのではないか』という警戒感がうまれている。こうした事情から、米政府も日本の要請を受け入れる必要があると判断した。」
と書いています。
けさの各紙の中では読売の「特ダネ」として掲載されたこの記事ですが、先にふれた『WEDGE』7月号に掲載された飯塚氏執筆の内容と見事に平仄が合っていることに気づきます。
またけさは、毎日新聞の一面トップには、
核艦船寄港の容認検討 三原則修正 74年、田中内閣時 大河原元駐米大使証言
という見出しで、
「1974年11月のフォード米大統領(当時)の来日に合わせ、日本政府が非核三原則の「持ち込ませず」を事実上修正し、核搭載艦船の寄港を公式に認める方向で検討をしていたことがわかった。外務省アメリカ局長から官房長に就任していた大河原良雄元駐米大使(90)が毎日新聞の取材に明らかにした。核搭載艦船については60年安保改定交渉時に結ばれた寄港を認める密約がある。現職米大統領の初来日をきっかけに密約を解消し米国の核の傘を明確化する動きだったとみられる。」という記事が載りました。
この動きは、金脈問題などにからんで当時の田中首相が退陣したため「話はそのまま立ち消えになったという。」としています。
毎日も二面に「解説記事」を掲載して、その末尾で須藤孝記者は、
「米国の『核の傘』という現実と、非核三原則に象徴される唯一の被爆国の立場との間の矛盾を密約であいまいにしたことが、日米間の不透明な関係を作った。その矛盾は今も変わらない。
オバマ米大統領は『核兵器のない世界』を掲げ、新しい核政策を推進しようとしているが、北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の「核の傘」は今すぐには手放せない状況にある。
しかし、日本の核政策の根本にある矛盾に日本政府が向き合わない限り、日米関係に潜む不透明さはより増幅されていくだろう。」
と述べています。
ただし、私の読解力が足りないのか、「北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の『核の傘』は今すぐには手放せない状況にある。」ということと、最末尾の「しかし」以降のくだりが、一体何を言おうとしているのか曖昧で、要は非核三原則を見直せと言っているのか、守れと言っているのか、須藤氏の考えるところが明確には読み取れないのですが、それにしても、証言者は、またもや外務省元高官です。
この前の日曜日(7月5日)の午前、NHKで放送された「日曜討論」で外務省OBの岡本行夫氏は、非核3原則の「見直し」について、政策論議はあってよいと思うとして、少なくとも核搭載艦船の領海通過は認めていい、その意味では「3点5ぐらい」でもいいのではないかと述べていました。
この「日曜討論」では、拓殖大学学長の渡辺利夫氏が「集団的自衛権の行使」について、政策概念であって法理概念ではない!明日からでも政府解釈で変えられることだ、として、「日本の核」についても、保有、レンタル、開発などさまざまな選択肢について議論すべきだと主張していました。
「核」にかかわる日米の「密約」問題についての外務省元高官の証言による「スクープ」で「火がついた」この問題ですが、こうして見ると、今回のあれこれが偶然の符合などではないことが一層鮮明に見えてきます。
前回のコラムで、「スクープ」をめぐる風景が一変すると書いた所以です。
また、「メディアで仕事をすることの容易ならざる『手ごわさ』を思い、複雑な気持ちになるのは、さて、私だけなのだろうか」とも書きました。
そこでもうひとつ、きのう(7月7日)の産経新聞「正論」欄に元駐タイ大使の岡崎久彦氏が「村田発言の誠意を無にするな」と題して筆を執っています。
岡崎氏は冒頭で、
「核問題に関する村田良平・元外務次官の発言を新聞で見た時は、私はこの問題の新たな発展を期待して胸を躍らせた。
村田氏とは電話一本していないが、捨て身の発言であることは聞かなくても分かる。公務員には職務上知り得た秘密を守る義務があり、それは退職後も適用され、懲役1年に及ぶ罰則もある。その危険を敢(あ)えて冒しても真実を語ろうという覚悟と見受けられた。
永年の牡蠣(かき)がらのように固まった政府答弁を崩すにはこの位の捨て身の業が必要なのであるが、その後の展開は従来と全く変わらないのには失望した。」
と、「密約問題」について証言した村田元外務事務次官の「捨て身の業」を賞賛しながら、しかし「その後の展開」が「従来と全く変わらない」ことに失望したと嘆いています。
しかし、少なくとも、岡崎氏の「失望」についていえば、「心配には及ばない」?!と言える展開になってきているのではないでしょうか。
それはとりもなおさず、私たちにとっては「大いに心配な」展開なのですが・・・。
外務省元高官が何人も登場していますので、最後にもう一人、外務省OBの言説に耳を傾けておきたいと思います。
それはこの4月まで日朝国交正常化交渉政府代表を務めた美根慶樹氏です。
昨日、あるジャーナリストの会合で美根氏のお話を聴く機会を得たのですが、日朝交渉にかかわる部分はオフ・ザ・レコードの約束ですのでここで詳らかに触れることは控えます。
ただし、核問題にかかわっては、先月はじめ(6月4日)の朝日新聞のオピニオン欄に「オバマ軍縮 非核国への核不使用から」という美根氏の所論が掲載されていますので、それを活用しながら、昨日のお話の重要な「示唆」について記しておきたいと考えます。
美根氏は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」として「核廃絶」に向けて努力することを語ったオバマ大統領のプラハ演説について「日本人としては感動した」としながらも、「しかし、核の使用については何も語っていない。オバマ演説は、自国がしていることの意味を客観的にとらえられていない・・・」と力を込めて語りました。
北朝鮮の核実験は「相変わらずの暴挙だが、北朝鮮なりの事情もあれば、考えもある。とくに北朝鮮は米国からの核攻撃を恐れているが、米国は歴代政権の一貫した方針として核兵器を使う可能性をいつも残している。北朝鮮はこの安全保障上の問題がある限り核兵器を放棄しないだろう。
90年代の米朝枠組み合意でも、また6者協議でもこの問題は取り上げられたが、米国は不完全な対応しかしなかった。これに対し、北朝鮮は安全保障を確保する必要から核開発するという態度をとってきた。北朝鮮の核問題を解決するには、査察の強化もさることながら、米国が北朝鮮に対し、『核兵器を保有し続ける限り核攻撃する可能性は保持する。北朝鮮が核兵器を放棄すれば攻撃しないことを明確に約束する』という論理で迫っていくべきだ。」
(朝日 2009年6月4日オピニオン欄)
とする美根氏は、
「このように交渉するには、米国が政策変更し、核兵器を持たない国には核攻撃しないこととしなければならない」と強調し、オバマ演説が核廃絶について語りながら「核兵器の使用問題」については何も触れていないと、鋭く問題を指摘しています。
私たちは、美根氏の言説にこそ、いま耳を傾けるべきだと思います。
さて、ここまで見てきたメディア状況を考えると、あるいは記者たちの記事と美根氏の言説を重ねてみると、ジャーナリストたらんとすることはなんと「手ごわい」営みだろうかと気の遠くなる思いがします。
いや!記者は「事実」を伝えるのが仕事であって意見を述べるのは本務ではないという声が聞こえてきそうです。
さて、そういう人とは、では「事実とは何か」という本質的な議論をしなければならないでしょうね。
問題意識のありようについて問われているということが、問題の核心なのです。
問題識とは何か?!
まさかそこまで語らなければ話が通じないということは、ないでしょう。
否、ない、と信じたいと思います。
この間の「核密約問題」報道をどう読み解くのか、いまメディアが内包する問題性と、私たちの問題意識のありように鋭く迫る問題としてあることを痛感します。
今朝の読売新聞の一面トップには、
「核の傘」日米協議へ 有事の運用確認 月内にも初会合
という見出しが躍りました。
前回のコラムで引いた『WEDGE』7月号に掲載された「北朝鮮の暴走 日米同盟強化のため今こそ核の傘の議論を」の筆者、読売新聞政治部次長の飯塚恵子記者によるワシントン発の記事です。
【ワシントン=飯塚恵子】日米両政府は7日、米国の「核の傘」を巡る両国の協議の場を初めて正式に設け、月内にも初会合を開く方向で検討を始めた。
複数の日米関係筋が明らかにした。外務、防衛両省と米国務省、国防総省の局次長・審議官級の枠組みとする方向で、協議では、有事の際の核兵器の具体的な運用に関して日本側が説明を受け、オバマ大統領が目指す大幅な核軍縮と核抑止の整合性などを話し合う。
日本に対する「核の傘」は、日米安全保障条約に基づき、米国が保有する核兵器によって日本に対する第三国からの核攻撃を抑止する仕組みだ。米国は、同様の仕組みを持つ北大西洋条約機構(NATO)諸国とは、有事の際の核兵器の運用や手順などの具体的な情報を共有している。
これに対し、唯一の被爆国である日本では、国民に核兵器への抵抗感が強く、運用について協議すれば、野党などから強い反発が出る状況だった。また、米側には日本の機密漏洩への懸念も根強く、日米間ではほとんど議題に上らなかった。
しかし、北朝鮮が5月に2回目の核実験を行い、中国も核戦力の近代化を進めるなど、東アジアの安全保障環境は不安定さを増している。米韓両国は6月、米国による「核の傘」の韓国への提供を明記する首脳合意文書を交わした。日本政府でも「核の傘」の有用性を再確認し、米側から運用の具体的説明を受けるべきだとの声が高まっていた。
一方、米側では、オバマ大統領が4月、究極の目標として「核兵器のない世界」を目指す考えを表明した。今月6日のロシアとの協議では、12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START1)に代わる新たな取り組みとして、核弾頭配備数を双方が最低レベルで1500個まで大幅削減することで合意した。
新方針は、オバマ政権が12月にまとめる、米史上3回目の「核戦力体制見直し(NPR)」に反映される予定だ。日本としてはこの時期までに、有事に備えた「日米共同作戦計画」に核兵器使用がどう組み込まれているかなど運用について説明を受けたうえで、日本側の要望を伝える考えだ。NPRの全容は非公開で、協議内容も基本的には公表されない見通しだ。
この一面の記事に加えて、飯塚記者は二面の「解説記事」で、
「日米両政府が『核の傘』に関する協議を初めて正式に行う方向で検討を始めたのは、北朝鮮の核開発の進展などを受けて、『核の傘』の信頼性の確認を日本側が求めたのがきっかけだ。」
「日本側の懸念は、米国の核軍縮や核弾頭の老朽化の中で、「核の傘」は有事の際に本当に機能するのか、という点にある。」
「一方、米国でも保守系議員や識者らを中心に、『米国が信頼できる「核の傘」の姿を示さなければ、日本や韓国は北朝鮮などの動きに対処するため、自ら核武装するのではないか』という警戒感がうまれている。こうした事情から、米政府も日本の要請を受け入れる必要があると判断した。」
と書いています。
けさの各紙の中では読売の「特ダネ」として掲載されたこの記事ですが、先にふれた『WEDGE』7月号に掲載された飯塚氏執筆の内容と見事に平仄が合っていることに気づきます。
またけさは、毎日新聞の一面トップには、
核艦船寄港の容認検討 三原則修正 74年、田中内閣時 大河原元駐米大使証言
という見出しで、
「1974年11月のフォード米大統領(当時)の来日に合わせ、日本政府が非核三原則の「持ち込ませず」を事実上修正し、核搭載艦船の寄港を公式に認める方向で検討をしていたことがわかった。外務省アメリカ局長から官房長に就任していた大河原良雄元駐米大使(90)が毎日新聞の取材に明らかにした。核搭載艦船については60年安保改定交渉時に結ばれた寄港を認める密約がある。現職米大統領の初来日をきっかけに密約を解消し米国の核の傘を明確化する動きだったとみられる。」という記事が載りました。
この動きは、金脈問題などにからんで当時の田中首相が退陣したため「話はそのまま立ち消えになったという。」としています。
毎日も二面に「解説記事」を掲載して、その末尾で須藤孝記者は、
「米国の『核の傘』という現実と、非核三原則に象徴される唯一の被爆国の立場との間の矛盾を密約であいまいにしたことが、日米間の不透明な関係を作った。その矛盾は今も変わらない。
オバマ米大統領は『核兵器のない世界』を掲げ、新しい核政策を推進しようとしているが、北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の「核の傘」は今すぐには手放せない状況にある。
しかし、日本の核政策の根本にある矛盾に日本政府が向き合わない限り、日米関係に潜む不透明さはより増幅されていくだろう。」
と述べています。
ただし、私の読解力が足りないのか、「北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の『核の傘』は今すぐには手放せない状況にある。」ということと、最末尾の「しかし」以降のくだりが、一体何を言おうとしているのか曖昧で、要は非核三原則を見直せと言っているのか、守れと言っているのか、須藤氏の考えるところが明確には読み取れないのですが、それにしても、証言者は、またもや外務省元高官です。
この前の日曜日(7月5日)の午前、NHKで放送された「日曜討論」で外務省OBの岡本行夫氏は、非核3原則の「見直し」について、政策論議はあってよいと思うとして、少なくとも核搭載艦船の領海通過は認めていい、その意味では「3点5ぐらい」でもいいのではないかと述べていました。
この「日曜討論」では、拓殖大学学長の渡辺利夫氏が「集団的自衛権の行使」について、政策概念であって法理概念ではない!明日からでも政府解釈で変えられることだ、として、「日本の核」についても、保有、レンタル、開発などさまざまな選択肢について議論すべきだと主張していました。
「核」にかかわる日米の「密約」問題についての外務省元高官の証言による「スクープ」で「火がついた」この問題ですが、こうして見ると、今回のあれこれが偶然の符合などではないことが一層鮮明に見えてきます。
前回のコラムで、「スクープ」をめぐる風景が一変すると書いた所以です。
また、「メディアで仕事をすることの容易ならざる『手ごわさ』を思い、複雑な気持ちになるのは、さて、私だけなのだろうか」とも書きました。
そこでもうひとつ、きのう(7月7日)の産経新聞「正論」欄に元駐タイ大使の岡崎久彦氏が「村田発言の誠意を無にするな」と題して筆を執っています。
岡崎氏は冒頭で、
「核問題に関する村田良平・元外務次官の発言を新聞で見た時は、私はこの問題の新たな発展を期待して胸を躍らせた。
村田氏とは電話一本していないが、捨て身の発言であることは聞かなくても分かる。公務員には職務上知り得た秘密を守る義務があり、それは退職後も適用され、懲役1年に及ぶ罰則もある。その危険を敢(あ)えて冒しても真実を語ろうという覚悟と見受けられた。
永年の牡蠣(かき)がらのように固まった政府答弁を崩すにはこの位の捨て身の業が必要なのであるが、その後の展開は従来と全く変わらないのには失望した。」
と、「密約問題」について証言した村田元外務事務次官の「捨て身の業」を賞賛しながら、しかし「その後の展開」が「従来と全く変わらない」ことに失望したと嘆いています。
しかし、少なくとも、岡崎氏の「失望」についていえば、「心配には及ばない」?!と言える展開になってきているのではないでしょうか。
それはとりもなおさず、私たちにとっては「大いに心配な」展開なのですが・・・。
外務省元高官が何人も登場していますので、最後にもう一人、外務省OBの言説に耳を傾けておきたいと思います。
それはこの4月まで日朝国交正常化交渉政府代表を務めた美根慶樹氏です。
昨日、あるジャーナリストの会合で美根氏のお話を聴く機会を得たのですが、日朝交渉にかかわる部分はオフ・ザ・レコードの約束ですのでここで詳らかに触れることは控えます。
ただし、核問題にかかわっては、先月はじめ(6月4日)の朝日新聞のオピニオン欄に「オバマ軍縮 非核国への核不使用から」という美根氏の所論が掲載されていますので、それを活用しながら、昨日のお話の重要な「示唆」について記しておきたいと考えます。
美根氏は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」として「核廃絶」に向けて努力することを語ったオバマ大統領のプラハ演説について「日本人としては感動した」としながらも、「しかし、核の使用については何も語っていない。オバマ演説は、自国がしていることの意味を客観的にとらえられていない・・・」と力を込めて語りました。
北朝鮮の核実験は「相変わらずの暴挙だが、北朝鮮なりの事情もあれば、考えもある。とくに北朝鮮は米国からの核攻撃を恐れているが、米国は歴代政権の一貫した方針として核兵器を使う可能性をいつも残している。北朝鮮はこの安全保障上の問題がある限り核兵器を放棄しないだろう。
90年代の米朝枠組み合意でも、また6者協議でもこの問題は取り上げられたが、米国は不完全な対応しかしなかった。これに対し、北朝鮮は安全保障を確保する必要から核開発するという態度をとってきた。北朝鮮の核問題を解決するには、査察の強化もさることながら、米国が北朝鮮に対し、『核兵器を保有し続ける限り核攻撃する可能性は保持する。北朝鮮が核兵器を放棄すれば攻撃しないことを明確に約束する』という論理で迫っていくべきだ。」
(朝日 2009年6月4日オピニオン欄)
とする美根氏は、
「このように交渉するには、米国が政策変更し、核兵器を持たない国には核攻撃しないこととしなければならない」と強調し、オバマ演説が核廃絶について語りながら「核兵器の使用問題」については何も触れていないと、鋭く問題を指摘しています。
私たちは、美根氏の言説にこそ、いま耳を傾けるべきだと思います。
さて、ここまで見てきたメディア状況を考えると、あるいは記者たちの記事と美根氏の言説を重ねてみると、ジャーナリストたらんとすることはなんと「手ごわい」営みだろうかと気の遠くなる思いがします。
いや!記者は「事実」を伝えるのが仕事であって意見を述べるのは本務ではないという声が聞こえてきそうです。
さて、そういう人とは、では「事実とは何か」という本質的な議論をしなければならないでしょうね。
問題意識のありようについて問われているということが、問題の核心なのです。
問題識とは何か?!
まさかそこまで語らなければ話が通じないということは、ないでしょう。
否、ない、と信じたいと思います。
この間の「核密約問題」報道をどう読み解くのか、いまメディアが内包する問題性と、私たちの問題意識のありように鋭く迫る問題としてあることを痛感します。
2009年06月30日
核持ち込み密約報道をどう読む・・・
6月もきょうで終わります。
一年の半分が過ぎたことになります。
政治は迷走などということばではとても言い表せないほどの液状化がすすみ、言うべきことばも見つかりません。
昨年秋以降、今年初めにかけて、このコラムで迷走する麻生政権について「立ち枯れ・・・」と書きましたが、その後の経過を見ると、まさにその通りの展開だと言わざるをえません。
メディアではあいかわらず解散総選挙はいつ・・・ということが云々されていますが、その「背後」で極めて重要な「スクープ」があったことを忘れるわけにはいきません。
スクープにカギカッコをつけたわけは、最後までお読みいただけば分かっていただけると思います。
さて、その「スクープ」とは、アメリカの「核持ち込み密約」問題についてです。
時は一カ月さかのぼります。
口火を切ったのは、6月1日付東京新聞の一面トップを飾った「60年安保『核持ち込み』密約、外務官僚が管理」「歴代4次官が管理」「伝達する首相を選別」という記事でした。
これは共同通信が配信した価値あるスクープでした。
重要な内容なので、共同通信が5月31日午後配信したものを再録しておきます。
1960年の日米安全保障条約改定に際し、核兵器を積んだ米軍の艦船や航空機の日本立ち寄りを黙認することで合意した「核持ち込み」に関する密約は、外務事務次官ら外務省の中枢官僚が引き継いで管理し、官僚側の判断で橋本龍太郎氏、小渕恵三氏ら一部の首相、外相だけに伝えていたことが31日分かった。
4人の次官経験者が共同通信に明らかにした。
政府は一貫して「密約はない」と主張しており、密約が組織的に管理され、一部の首相、外相も認識していたと当事者の次官経験者が認めたのは初めて。政府の長年の説明を覆す事実で、真相の説明が迫られそうだ。
次官経験者によると、核の「持ち込み(イントロダクション)」について、米側は安保改定時、陸上配備のみに該当し、核を積んだ艦船や航空機が日本の港や飛行場に入る場合は、日米間の「事前協議」が必要な「持ち込み」に相当しないとの解釈を採用。当時の岸信介政権中枢も黙認した。
しかし改定後に登場した池田勇人内閣は核搭載艦船の寄港も「持ち込み」に当たり、条約で定めた「事前協議」の対象になると国会で答弁した。
密約がほごになると懸念した当時のライシャワー駐日大使は63年4月、大平正芳外相(後に首相)と会談し「核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは『持ち込み』でない」との解釈の確認を要求。大平氏は初めて密約の存在を知り、了承した。こうした経緯や解釈は日本語の内部文書に明記され、外務省の北米局と条約局(現国際法局)で管理されてきたという。
核を搭載した米艦船や航空機などの「核持ち込み」については、これまでも言われてきたことでしたし、米側文書の公開などで、いわば常識といってもいい「暗黙の既定事実」になっていましたから、内容についての驚きはありませんでしたが、ここにきて4人もの外務事務次官経験者が揃って「認めた」ことは、驚きでした。
まさに共同通信の大スクープだと言っていいと思います。
これで、「事前協議の申し入れがないのだから、日本への核の持ち込みもない」という倒錯した、論理ともいえない論理を口にすることは少しははばかられる空気になるだろうか・・・という思いも、したものです。
その後、これまた共同通信が、政府が宗谷、津軽などの重要な海峡の領海幅を、領海法で可能となっている12カイリではなく3カイリにとどめてきたのは、アメリカの原子力潜水艦などの核搭載艦船への配慮だったというスクープを配信しました。
これも、6月22日の東京新聞に掲載されたましたのでお読みになった方もいらっしゃると思います。
念のため、6月21日午後配信の記事を以下に再録します。
政府が宗谷、津軽など五つの重要海峡の領海幅を3カイリ(約5・6キロ)にとどめ、法的に可能な12カイリ(約22キロ)を採用してこなかったのは、米軍の核搭載艦船による核持ち込みを政治問題化させないための措置だったことが21日、分かった。
政府判断の根底には、1960年の日米安全保障条約改定時に交わされた核持ち込みの密約があった。
複数の元外務事務次官が共同通信に証言した。
これらの海峡は、ソ連(現ロシア)や中国、北朝鮮をにらんだ日本海での核抑止の作戦航行を行う米戦略原子力潜水艦などが必ず通らなければならないが、12カイリでは公海部分が消滅する海峡ができるため、核が日本領海を通過することになる。
このため、核持ち込み禁止などをうたった非核三原則への抵触を非難されることを恐れた政府は、公海部分を意図的に残し核通過を優先、今日まで領海を制限してきた。表向きは「重要海峡での自由通航促進のため」と説明してきており、説明責任を問われそうだ。
外務次官経験者によると、領海幅を12カイリとする77年施行の領海法の立法作業に当たり、外務省は宗谷、津軽、大隅、対馬海峡東水道、同西水道の計5海峡の扱いを協議。
60年の日米安保改定時に密約を交わし、米核艦船の日本領海通過を黙認してきた経緯から、領海幅を12カイリに変更しても、米政府は軍艦船による核持ち込みを断行すると予測した。
そこで領海幅を3カイリのままとし、海峡内に公海部分を残すことを考案。核艦船が5海峡を通過する際は公海部分を通ることとし、「領海外のため日本と関係ない」と国会答弁できるようにした。
その後この問題は、濃淡の差こそあれ、各紙、各メディアで伝えられました。
しかし、「密約」そのものの問題性よりも、歴代の外務事務次官の間で秘かに「引き継がれてきた」こと、密約について告げ知らせる首相を次官の側で「選んでいた」という問題に力点が置かれるようになってきているように感じます。
つまり、官僚と政治家の関係の問題に焦点が移ってきている印象がぬぐえない報道ぶりではないかといわざるをえません。
そうした問題を一時置くとしても、私が気になるのは、なぜここにきてこの問題が明るみに出たのか、つまり、なぜ、いま「日の目を見る」ことになったのだろうかということです。
「日の目を見る」というのはいかにも表現としてヘンだということは承知の上で、そうとしか言えないのです。
そこでもう少し注意深くメディアを浚ってみると、意外なことにつき当りました。
朝日新聞社、いや、もう別会社の朝日新聞出版になっているのですが、その朝日新聞出版発行の「週刊朝日」の5月22日号で、前外務事務次官で、麻生総理の下で政府代表を務める谷内正太郎氏が、1972年の佐藤政権下での沖縄返還時に「核の再持ち込みの密約」があったと思う、と語っているのです。
なんとなく「構図」が見えてくるような気がしてきます。
そこで、あと二つの言説に、私は注目しました。
まず、6月19日の産経新聞のコラム、「正論」欄です。
元防衛大学長で現在は平和・安全保障研究所理事長の西原 正氏が「非核三原則の一部緩和が必要」と題して「自民党の国防部会では、日本の敵基地攻撃能力の保有を提言しているとのことである。ところが敵のミサイル基地を攻撃することで武力紛争が拡大した場合に、どう対応するのかがはっきりしない。そうした敵側への攻撃能力を検討しておくことは重要だとしても、より緊急に必要なのは、自衛隊と米軍との共同作戦の策定と指揮権の調整である。また米国の核抑止力の効果を高めるために、日本が非核三原則の一部を修正し、米国の核ミサイル搭載艦の日本寄港を容認することも真剣に検討すべきである。北朝鮮の行動を抑止するのは国連決議だけでは不十分である。」と説いています。
そして『WEDGE』7月号に掲載された読売新聞政治部次長の飯塚恵子氏の「北朝鮮の暴走 日米同盟強化のため今こそ核の傘の議論を」です。
このなかで飯塚氏は、今こそ核に関する開かれた議論を始めるべきだとして「日米間の『核の傘』をめぐる話し合いは、戦後から今日まで極めて手薄になってきた分野だ。北朝鮮が核計画を発展させ、中国でも核兵器の近代化が進む現在、日米核協議は同盟強化のために必要な根本的な仕事だといえる。」「一方、日米間で協議を進めるなら、日本国内でも核をめぐる安全保障問題について、冷静でオープンな議論を国会などではじめるべきだろう。政治的エネルギーが必要な課題だが、オバマ政権の登場はそれを始めることを日本に迫っている。」と説いています。
昨年9月から米国のブルッキングス研究所客員研究員も務める飯塚氏と上記の西原氏の言説を重ね合わせて、もう一度、谷内氏が「週刊朝日」誌上で明かした「秘密」を思い返してみると、今回の「スクープ」をめぐる風景が一変してしまうことに気づきます。
もちろんそれで共同通信の記者のスクープを何ら損なうものではないでしょう。大いに賞賛されてしかるべきだと考えます。
しかし、と・・・私は考え込んでしまうのです。
なぜ、いま、あれほどまでに否定され続けてきた「密約」は「日の目を見た」のだろうか、と。
メディアで仕事をすることの容易ならざる「手ごわさ」を思い、複雑な気持ちになるのは、さて、私だけなのだろうか、と。
この間の政治の液状化、政権の「迷走ぶり」を目の前にして、その背後で、確かに、いま、何かが動き始めていると確信するのでした。
中国「維権」運動と小島氏の最新レポート
ホームページの小島正憲氏の「凝視中国」に最新レポート「5月暴動情報検証」を掲載しました。
広東省の英徳市に住む、ベトナムから帰国した華僑たちの生活改善要求の「抗議行動」をはじめ、湖南省醴陵市の農地収用をめぐる、農民と警官隊の衝突など、この間各地で起きた地域の政府や行政当局などへの抗議行動について、詳細な報告がなされています。
また、日本でも知られるようになった中国の検索サイト「百度」の華南地域の従業員が、「達成不可能な目標数値を盛り込んだ能率給に近い」賃金制度の改革に対してストライキに突入したという、実に興味深いレポートもあります。
このレポートを読みながら、先日参加した研究会(中国朝鮮族研究学会)で聴いた慶應義塾大学非常勤講師の呉 茂松氏の報告を思い起こしました。
呉 茂松氏の報告は「中国タクシー業界における運転手たちの維権運動」というものでした。
呉氏はこの日の報告のテーマとした「タクシー運転手たち」にとどまらず、中国社会の各分野、各階層で起きている権利保護や、行政当局への訴え、抗議の動きを詳細に拾い上げながら、それらが総体として中国社会にどのような影響を及ぼして行くのかを分析、考察するという意欲的な研究を重ねているのですが、そこでのキィワードが「維権」という言葉でした。
以下に呉氏の解説を引かせていただくと、
「『維権』(Weiquan)とは中国語の『維護権利』の略語であり、合法的な利益・権利を擁護する意味でよく使われる。1990年代半ば、メディアが、青少年の権利、女性権利の保護、消費者権益の保護を提唱する際に作り出した言葉であるが、用語の適用範囲が拡大し、出稼ぎ労働者、失地農民、弱者グループ、所有権者たちの諸権利に対する様々な領域まで広く使用されている。なお、インターネットなどのメディアだけではなく、一般市民レベルにおいても権利意識の覚醒、権利主張のシンボルとして深く定着している。この言葉は、常に『民生』とともに現れたことであり、侵害された利益への抵抗、権利への訴えが同伴した。『維権』現象は、市民生活への浸透とともに地理的、領域的適用範囲も広がりを見せている。日本語の適訳はないが、憲法を守る意味で提唱された『護憲』の『憲』を権利の『権』に置換え造語にした『護権』に最も近いと思われる。」
ということです。
小島氏の「暴動情報検証」は毎月「定例」のレポートですが、呉氏の報告を聴いて、小島氏のレポートの意味(価値)が、よりくっきりと見えてくる気がしました。
「改革開放」「中国の特色ある社会主義市場経済」さらには現在の指導部が掲げる「和諧社会」(調和のとれた社会)といった言葉で語られる中国の現在と未来にかかわる重要な示唆が読み取れるレポートだと感じます。
中央における政治権力の移行(奪取)による革命から60年。
社会のさまざまな領域、分野で起きている「変容」とそれが引き起こす人々の意識の変化をどうとらえ、そうした「動態」がこれからの中国の行方をどのように左右することになるのかを考えることは、北東アジアの隣国に生きる私たちにとって重要かつ不可欠な営みとならざるをえないと考えます。
その意味でも、中国での実地調査を重ねながら分析、考察を重ねる呉 茂松氏の「維権」をめぐる研究や小島氏のレポートに注目していきたいと思います。
一般的なメディアでは、よほどの「大事件」にならないかぎり伝えられない、中国社会の底流で起きているこれらの「動き」にしっかりと目を凝らして中国のこれからを考えて行くうえで貴重な情報になると確信します。
こうした視点、視角で、ホームページのレポートをお読みいただければと思います。
最新レポートのページは以下の通りです。
http://www.shakaidotai.com/CCP038.html
広東省の英徳市に住む、ベトナムから帰国した華僑たちの生活改善要求の「抗議行動」をはじめ、湖南省醴陵市の農地収用をめぐる、農民と警官隊の衝突など、この間各地で起きた地域の政府や行政当局などへの抗議行動について、詳細な報告がなされています。
また、日本でも知られるようになった中国の検索サイト「百度」の華南地域の従業員が、「達成不可能な目標数値を盛り込んだ能率給に近い」賃金制度の改革に対してストライキに突入したという、実に興味深いレポートもあります。
このレポートを読みながら、先日参加した研究会(中国朝鮮族研究学会)で聴いた慶應義塾大学非常勤講師の呉 茂松氏の報告を思い起こしました。
呉 茂松氏の報告は「中国タクシー業界における運転手たちの維権運動」というものでした。
呉氏はこの日の報告のテーマとした「タクシー運転手たち」にとどまらず、中国社会の各分野、各階層で起きている権利保護や、行政当局への訴え、抗議の動きを詳細に拾い上げながら、それらが総体として中国社会にどのような影響を及ぼして行くのかを分析、考察するという意欲的な研究を重ねているのですが、そこでのキィワードが「維権」という言葉でした。
以下に呉氏の解説を引かせていただくと、
「『維権』(Weiquan)とは中国語の『維護権利』の略語であり、合法的な利益・権利を擁護する意味でよく使われる。1990年代半ば、メディアが、青少年の権利、女性権利の保護、消費者権益の保護を提唱する際に作り出した言葉であるが、用語の適用範囲が拡大し、出稼ぎ労働者、失地農民、弱者グループ、所有権者たちの諸権利に対する様々な領域まで広く使用されている。なお、インターネットなどのメディアだけではなく、一般市民レベルにおいても権利意識の覚醒、権利主張のシンボルとして深く定着している。この言葉は、常に『民生』とともに現れたことであり、侵害された利益への抵抗、権利への訴えが同伴した。『維権』現象は、市民生活への浸透とともに地理的、領域的適用範囲も広がりを見せている。日本語の適訳はないが、憲法を守る意味で提唱された『護憲』の『憲』を権利の『権』に置換え造語にした『護権』に最も近いと思われる。」
ということです。
小島氏の「暴動情報検証」は毎月「定例」のレポートですが、呉氏の報告を聴いて、小島氏のレポートの意味(価値)が、よりくっきりと見えてくる気がしました。
「改革開放」「中国の特色ある社会主義市場経済」さらには現在の指導部が掲げる「和諧社会」(調和のとれた社会)といった言葉で語られる中国の現在と未来にかかわる重要な示唆が読み取れるレポートだと感じます。
中央における政治権力の移行(奪取)による革命から60年。
社会のさまざまな領域、分野で起きている「変容」とそれが引き起こす人々の意識の変化をどうとらえ、そうした「動態」がこれからの中国の行方をどのように左右することになるのかを考えることは、北東アジアの隣国に生きる私たちにとって重要かつ不可欠な営みとならざるをえないと考えます。
その意味でも、中国での実地調査を重ねながら分析、考察を重ねる呉 茂松氏の「維権」をめぐる研究や小島氏のレポートに注目していきたいと思います。
一般的なメディアでは、よほどの「大事件」にならないかぎり伝えられない、中国社会の底流で起きているこれらの「動き」にしっかりと目を凝らして中国のこれからを考えて行くうえで貴重な情報になると確信します。
こうした視点、視角で、ホームページのレポートをお読みいただければと思います。
最新レポートのページは以下の通りです。
http://www.shakaidotai.com/CCP038.html
2009年06月19日
小島正憲氏の最新レポート
ホームページの小島正憲氏の「凝視中国」に最新リポート「2年遅れの中国認識」を掲載しました。
いつも小島氏の現地レポートに触発されるところが大なのですが、今回も刮目すべきということばがあてはまるレポートです。
研究者の「論文」を厳しく検証して、浅薄な中国分析を完膚なきまでに論破していますが、決して他をあげつらうという姿勢ではなく、現場に赴き、事実によってステレオタイプな「中国像」のあやうさを浮き彫りにしています。
研究者ならずとも教えられるところが多々あります。
また私は、研究者にとどまらず、「中国のいま」を伝えるメディアのあり方についても、警鐘を鳴らしているものだと感じました。
ぜひご一読ください。
以下のサイトです。
http://www.shakaidotai.com/CCP037.html
いつも小島氏の現地レポートに触発されるところが大なのですが、今回も刮目すべきということばがあてはまるレポートです。
研究者の「論文」を厳しく検証して、浅薄な中国分析を完膚なきまでに論破していますが、決して他をあげつらうという姿勢ではなく、現場に赴き、事実によってステレオタイプな「中国像」のあやうさを浮き彫りにしています。
研究者ならずとも教えられるところが多々あります。
また私は、研究者にとどまらず、「中国のいま」を伝えるメディアのあり方についても、警鐘を鳴らしているものだと感じました。
ぜひご一読ください。
以下のサイトです。
http://www.shakaidotai.com/CCP037.html
物事を多面的、多角的に、そして深く見るということ(続々)
私のささやかなブログコラムですが、本当にありがたいことに多くの方が読んでくださって感想や意見を寄せてくださいます。
もちろん、私のものの見方、考え方に同意できないという方からも書き込みや意見を頂戴します。
言論、言説において広く世に問うという「いとなみ」を試みる限り、お前の考えには到底賛成できないという意見があることは覚悟の上です。
とりわけ朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮とどう向き合うのかといった問題設定で言説を重ねる際、賛否がより鮮明に、そして先鋭に表れることは当然のことかもしれないと思います。
そのうえで、だがしかし!と言わざるをえません。
先日、6月14日のブログコラム記事に対して、「反日メディア」などのサイトを記してコメントは「白紙」という「意見」が届きました。
書き込みをしてくださった方ご自身の意見が記されていないのが残念ですが、私の書いたことをもって「反日」だと非難していることは伝わってきます。
しかし、この方に、「反日」なのはどちらだろうかと、問い返したいと考えます。
私が朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮にどう向き合うのかという問題意識で書いていること、さらに同時に運営しているホームページの内容をじっくり読み込んでいただきたいと思います。
じっくり読み込めば、「反日」などという通り一遍の非難で片付くことかどうか、自明だと思います。
私は、誰よりも「国を思う」一人であり、日本の行くべき道について、真剣に考えていることがわかると思います。
日本の行くべき道に誤りがないように、いま何を考えなければならないのかを、そして、未来を生きる若い世代の人々のためにも、「あの時日本は行く道を誤った・・・」などと悔やむことのないように、いま真剣に時代と状況に向き合おうと、力不足ではあっても、ひたすら考え続けているのです。
「反日」などというレッテル貼りで満足できるのであれば、それほど気楽なことはないと思います。
とりわけ、アジアと日本の近代と真正面から向きあいながら、連帯と侵略という両義性の絡まり合う複雑さの中で、では歴史から学ぶべきことは何なのかという問いに、いまを生きる我々一人ひとりが自身のことばによる「解」を迫られている、現在(いま)だと考えます。
「反日」などというレッテルを貼ってすべて解消というほどのお気楽なことでは言論、言説の責任は果たせないと肝に銘じるべきです。
さて、一方では、こころ励まされる「意見」「感想」を寄せてくださる方々も大勢います。
そして、ここで「こころ励まされる」というのは、ある意味では、もっともっと勉強と思索を深めていけ!という叱咤であると私は受けとめています。
その意味では、うれしい事でありながら、身の引き締まる思いがするのでした。
宮城県で、このブログとともに私が運営するホームページを読んでくださっている方から届いた「便り」です。
「このタイミングで中江要介さんのインタビューを世に問うたセンスに感服しつつ、飛翔体!ミサイル!と騒ぎまくった挙げ句、迫りくる本質的な危機には鈍感で会社の中のあれこれに一喜一憂している人々の『情景』を目の前にして、これまた舌打ちしかできない自分の非力さを痛感している今日この頃です。
やっぱりアメリカだと思います。北朝鮮が『逆噴射』して得をするのはアメリカです。
アメリカに残された最後の巨大産業である『軍産複合体』を発動させて、金融危機の損失を取りかえすとともに、アメリカ国債の信用も維持しようという狙いでしょう。
ババ(アメリカ国債)を掴まされている日本と中国も乗ってくるだろうという計算も当然織り込み済みのはずです。
バイデンが副大統領になった時『オバマはこれから半年のうちに重大な決断を迫られることになるだろう』と発言していたのはこういうことだったのかと思います。
安保理の『決議文』に中国がどう反応してくるかが大きなタ−ニングポイントで、中国の首脳の中に中江さんご指摘の『将来のビジョン』を持った指導者がいることを期待するのみです。
民主党の小沢前代表への強制捜査などを見ているとアメリカが民主党政権になると面倒だと見ているのは明白なので、選挙前に動くはずです。
韓国でも元大統領が[自殺』しましたしね。
むかしうちのじいさんや近所のおやじたちが『日本の戦後復興は朝鮮戦争のおこぼれちょうだいで始まった』と自嘲気味にはなしていたのを思い出します。
今の巷に[自嘲」できるほどのリテラシーが感じられないことにもため息です。
とにかく『社会』あるいは『公共』を常に意識して仕事に向かうしかないと思っています。」
このメールは北朝鮮のいわゆる「ミサイル発射」で、日本とメディアが「騒然」となっていたときに届いたものです。
やはりメディアの世界で真摯に仕事に向き合っている、この方のメールを読みながら、このように自己に引きつけて、自身の世界を見る目と響き合うものとしてホームページやブログを読み込んで下っていることに、感謝すると同時に背筋が伸びる思いがしたものです。
また、ブログに対して、ご自身の思いと論を実に丹念に書き込んでくださった西 泰志さんは私よりふた世代以上も若い編集者です。
(コメント欄をひらいて、みなさんもお読みになったかもしれませんね)
人に尊敬、あるいは畏敬の念を抱くことに年代、歳の上下は関係ない事を西さんとの「出会い」で痛感したものです。
優れた仕事を重ねる氏の編集者としての姿勢に深く感動を覚えながら、こうした若き世代がいることに、未来への希望を失わずにいられる幸せというものを感じたものです。
と同時に、もっともっとしっかりしなければと、叱咤される思いで書きこまれたコメントを熟読したのでした。
その西さんから、先日のブログについて、以下のコメントが届きました。
「記事に刺激を受けつつ、この『年表』には、(加えることでどのようなことが見えてくるかはまだクリアではないのですが)以下の2つの出来事も加えられるのでは、あるいは加えてその意味を考えるべきなのかもしれない、と思いました。
1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件
1979年の朴正熙暗殺
1980年の光州事件 」
まったくそうです!
1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件こそがその後のアフガニスタン、パキスタン、もっと言えば、米国とアラブ世界のその後を大きく規定することになる転回点としてあったというべきです。
そして、朝鮮半島のその後を動かす契機として、1979年の朴正熙暗殺、そして1980年の光州事件をしっかりと見据えておくことは欠かせないと思います。
貴重な、そして本質的な指摘をいただいたと思います。
また、その後、この日のコラムを読み返してみて、ことばを補っておかなければならないと感じた所があるので、以下のようにしたことをお断りしておきたいと思います。
「北朝鮮と中国の間には朝中友好協力相互援助条約があり、ソ連との間にも同様の軍事同盟条約である朝ソ友好協力相互援助条約がありましたが、2000年にロシアとの間で軍事援助条項のない「友好親善協力条約」に変わり、中国との間の「相互援助条約」も、私の知る中国の北朝鮮政策関係者の話では軍事同盟としては「名存実亡」という状態だと言われます。」
「軍事同盟としては『名存実亡』という状態・・・」としました。
ブログのコラム記事そしてホームページに対する、みなさんからいただく意見、感想に触発されながら、分析と思索を深めて、少しでも社会に意味のある言説、言論活動をめざせればとこころに念じています。
ここに引用しない多くの「お便り」も含め、感想や意見を寄せていただいているみなさんに、あらためて、こころからのお礼を申し上げるとともに、深みのあるブログにしていくために一層の努力を重ねたいと考えます。
もちろん、私のものの見方、考え方に同意できないという方からも書き込みや意見を頂戴します。
言論、言説において広く世に問うという「いとなみ」を試みる限り、お前の考えには到底賛成できないという意見があることは覚悟の上です。
とりわけ朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮とどう向き合うのかといった問題設定で言説を重ねる際、賛否がより鮮明に、そして先鋭に表れることは当然のことかもしれないと思います。
そのうえで、だがしかし!と言わざるをえません。
先日、6月14日のブログコラム記事に対して、「反日メディア」などのサイトを記してコメントは「白紙」という「意見」が届きました。
書き込みをしてくださった方ご自身の意見が記されていないのが残念ですが、私の書いたことをもって「反日」だと非難していることは伝わってきます。
しかし、この方に、「反日」なのはどちらだろうかと、問い返したいと考えます。
私が朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮にどう向き合うのかという問題意識で書いていること、さらに同時に運営しているホームページの内容をじっくり読み込んでいただきたいと思います。
じっくり読み込めば、「反日」などという通り一遍の非難で片付くことかどうか、自明だと思います。
私は、誰よりも「国を思う」一人であり、日本の行くべき道について、真剣に考えていることがわかると思います。
日本の行くべき道に誤りがないように、いま何を考えなければならないのかを、そして、未来を生きる若い世代の人々のためにも、「あの時日本は行く道を誤った・・・」などと悔やむことのないように、いま真剣に時代と状況に向き合おうと、力不足ではあっても、ひたすら考え続けているのです。
「反日」などというレッテル貼りで満足できるのであれば、それほど気楽なことはないと思います。
とりわけ、アジアと日本の近代と真正面から向きあいながら、連帯と侵略という両義性の絡まり合う複雑さの中で、では歴史から学ぶべきことは何なのかという問いに、いまを生きる我々一人ひとりが自身のことばによる「解」を迫られている、現在(いま)だと考えます。
「反日」などというレッテルを貼ってすべて解消というほどのお気楽なことでは言論、言説の責任は果たせないと肝に銘じるべきです。
さて、一方では、こころ励まされる「意見」「感想」を寄せてくださる方々も大勢います。
そして、ここで「こころ励まされる」というのは、ある意味では、もっともっと勉強と思索を深めていけ!という叱咤であると私は受けとめています。
その意味では、うれしい事でありながら、身の引き締まる思いがするのでした。
宮城県で、このブログとともに私が運営するホームページを読んでくださっている方から届いた「便り」です。
「このタイミングで中江要介さんのインタビューを世に問うたセンスに感服しつつ、飛翔体!ミサイル!と騒ぎまくった挙げ句、迫りくる本質的な危機には鈍感で会社の中のあれこれに一喜一憂している人々の『情景』を目の前にして、これまた舌打ちしかできない自分の非力さを痛感している今日この頃です。
やっぱりアメリカだと思います。北朝鮮が『逆噴射』して得をするのはアメリカです。
アメリカに残された最後の巨大産業である『軍産複合体』を発動させて、金融危機の損失を取りかえすとともに、アメリカ国債の信用も維持しようという狙いでしょう。
ババ(アメリカ国債)を掴まされている日本と中国も乗ってくるだろうという計算も当然織り込み済みのはずです。
バイデンが副大統領になった時『オバマはこれから半年のうちに重大な決断を迫られることになるだろう』と発言していたのはこういうことだったのかと思います。
安保理の『決議文』に中国がどう反応してくるかが大きなタ−ニングポイントで、中国の首脳の中に中江さんご指摘の『将来のビジョン』を持った指導者がいることを期待するのみです。
民主党の小沢前代表への強制捜査などを見ているとアメリカが民主党政権になると面倒だと見ているのは明白なので、選挙前に動くはずです。
韓国でも元大統領が[自殺』しましたしね。
むかしうちのじいさんや近所のおやじたちが『日本の戦後復興は朝鮮戦争のおこぼれちょうだいで始まった』と自嘲気味にはなしていたのを思い出します。
今の巷に[自嘲」できるほどのリテラシーが感じられないことにもため息です。
とにかく『社会』あるいは『公共』を常に意識して仕事に向かうしかないと思っています。」
このメールは北朝鮮のいわゆる「ミサイル発射」で、日本とメディアが「騒然」となっていたときに届いたものです。
やはりメディアの世界で真摯に仕事に向き合っている、この方のメールを読みながら、このように自己に引きつけて、自身の世界を見る目と響き合うものとしてホームページやブログを読み込んで下っていることに、感謝すると同時に背筋が伸びる思いがしたものです。
また、ブログに対して、ご自身の思いと論を実に丹念に書き込んでくださった西 泰志さんは私よりふた世代以上も若い編集者です。
(コメント欄をひらいて、みなさんもお読みになったかもしれませんね)
人に尊敬、あるいは畏敬の念を抱くことに年代、歳の上下は関係ない事を西さんとの「出会い」で痛感したものです。
優れた仕事を重ねる氏の編集者としての姿勢に深く感動を覚えながら、こうした若き世代がいることに、未来への希望を失わずにいられる幸せというものを感じたものです。
と同時に、もっともっとしっかりしなければと、叱咤される思いで書きこまれたコメントを熟読したのでした。
その西さんから、先日のブログについて、以下のコメントが届きました。
「記事に刺激を受けつつ、この『年表』には、(加えることでどのようなことが見えてくるかはまだクリアではないのですが)以下の2つの出来事も加えられるのでは、あるいは加えてその意味を考えるべきなのかもしれない、と思いました。
1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件
1979年の朴正熙暗殺
1980年の光州事件 」
まったくそうです!
1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件こそがその後のアフガニスタン、パキスタン、もっと言えば、米国とアラブ世界のその後を大きく規定することになる転回点としてあったというべきです。
そして、朝鮮半島のその後を動かす契機として、1979年の朴正熙暗殺、そして1980年の光州事件をしっかりと見据えておくことは欠かせないと思います。
貴重な、そして本質的な指摘をいただいたと思います。
また、その後、この日のコラムを読み返してみて、ことばを補っておかなければならないと感じた所があるので、以下のようにしたことをお断りしておきたいと思います。
「北朝鮮と中国の間には朝中友好協力相互援助条約があり、ソ連との間にも同様の軍事同盟条約である朝ソ友好協力相互援助条約がありましたが、2000年にロシアとの間で軍事援助条項のない「友好親善協力条約」に変わり、中国との間の「相互援助条約」も、私の知る中国の北朝鮮政策関係者の話では軍事同盟としては「名存実亡」という状態だと言われます。」
「軍事同盟としては『名存実亡』という状態・・・」としました。
ブログのコラム記事そしてホームページに対する、みなさんからいただく意見、感想に触発されながら、分析と思索を深めて、少しでも社会に意味のある言説、言論活動をめざせればとこころに念じています。
ここに引用しない多くの「お便り」も含め、感想や意見を寄せていただいているみなさんに、あらためて、こころからのお礼を申し上げるとともに、深みのあるブログにしていくために一層の努力を重ねたいと考えます。
2009年06月16日
小島正憲氏の最新レポート
ホームページの「小島正憲の凝視中国」に最新レポート『日本人(経営者)はビジネスモラルを守れ』を掲載しました。
中国でのビジネスの「難しさ」がさまざまな場面で話題になり、語られます。
しかし、あれこれの「うわさ話」が伝わるうちに「膨らむ」ケースや、一事をもって万事としてしまったり、実態が正しく反映されていなかったりというケースも少なくありません。
小島氏は自分の足と目で確かめながら、中国でのビジネスシーンでの問題を、具体例で示しながら、問題提起しています。
このレポートはあくまで「一例」にすぎないという見方もあるかもしれませんが、小島氏の豊富な中国ビジネス体験から発せられる警鐘に耳を傾けることは、意味のないことではないと感じます。
またこのレポートから、メディアで伝えられる中国ビジネスの「話題」やニュースについて、鵜呑みにせず情報を吟味してみなければならないとも感じます。
私たちの「読み解きの力」が問われるのだということと合わせて小島氏のレポートを興味深く読みました。
ぜひ、一読を。
以下のページです。
http://www.shakaidotai.com/CCP036.html
中国でのビジネスの「難しさ」がさまざまな場面で話題になり、語られます。
しかし、あれこれの「うわさ話」が伝わるうちに「膨らむ」ケースや、一事をもって万事としてしまったり、実態が正しく反映されていなかったりというケースも少なくありません。
小島氏は自分の足と目で確かめながら、中国でのビジネスシーンでの問題を、具体例で示しながら、問題提起しています。
このレポートはあくまで「一例」にすぎないという見方もあるかもしれませんが、小島氏の豊富な中国ビジネス体験から発せられる警鐘に耳を傾けることは、意味のないことではないと感じます。
またこのレポートから、メディアで伝えられる中国ビジネスの「話題」やニュースについて、鵜呑みにせず情報を吟味してみなければならないとも感じます。
私たちの「読み解きの力」が問われるのだということと合わせて小島氏のレポートを興味深く読みました。
ぜひ、一読を。
以下のページです。
http://www.shakaidotai.com/CCP036.html
2009年06月14日
物事を多面的、多角的に、そして深く見るということ(続)

手書きのこんな拙い「図」から、何がはじまるのだろうかと思われる方もいらっしゃるでしょうね。
これは先日のアジア記者クラブの定例研究会「米ソ冷戦下で翻弄され、今も苦しむアフガニスタンの真実」で講師の金 成浩さん(琉球大学教授 政治・国際関係論)が報告の終わりのパートで白板に描かれた図を、私がノートにメモしたものです。
この研究会で金 成浩さんは、1979年のソ連による「アフガニスタン侵攻」の背後で米国とソ連がどのような「せめぎあい」を重ねていたのかを、公開された外交文書を深く読み込むことで解明し、米ソ冷戦の熾烈な実体をあぶりだしながら、実に示唆深い報告をされました。
詳細な内容は主催者であるアジア記者クラブの報告にゆだねるべきなので、ここでは控えますが、この報告の終盤で「9・11事件の淵源となってしまったアフガンでの米ソ冷戦」という指摘に続いて「アフガン侵攻と東アジア」という注目すべき話がありました。
その際に金 成浩さんが白板に描いたのが上記の図だというわけです。
東アジアに関心を持たれている方はこの図で、もう何を言いたいのか察知されたかもしれませんが、少し我慢してお読みください。
結論から言うと、いま世界注視の北朝鮮の核問題の淵源に「アフガン問題」という要因を見ておく必要があるという、実に示唆深い金成浩さんの分析、解析が提示されたのでした。
論を端折って「舌足らず」になる恐れを覚悟の上で要約すれば、
1979年のソビエトによるアフガン侵攻は、ソビエトの側からの「必要性」で起きたというだけではなく、そこにはカーター政権下のアメリカがカブールの親ソ体制への敵対勢力に秘密の軍事援助を行うことで、ソビエトの軍事介入を「誘発することになるであろう」ということをあらかじめ織り込み済みだったという状況で起きたというのです。
金 成浩さんは外交文書読み込みによってこのことを浮き彫りにしていくのですが、そこで引用された、当時の安全保障担当大統領補佐官ブレジンスキーが記者に語ったことばが象徴的です。
反ソ勢力への秘密の軍事援助についてカーター大統領に「私見」を覚書にして提出したというブレジンスキー氏は記者から、
「(ソ連の軍事介入という)危険性をも顧みず、あなたはこの『秘密行動』の支持者だった。しかし、そうならば、あなたは、ソ連を戦争に陥れ、挑発することをのぞんだということか?」 と聞かれて、
「我々がソ連を軍事介入に追い込んだのではない。しかし、意図的に力を加え、ソ連がそう出てくる蓋然性を高めっていったのだ」と答えているというのです。
(記者との応答は金 成浩さんの報告資料をもとに引用)
さて、このことだけでも実に興味深くさらに深く考察されるべき問題ですが、ここはアフガン問題について述べようということではありませんので、ここまでにとどめます。
しかし、世界で起きている「出来事」を見る際に、あるいは日々起こる「問題」について考える時、どれほどの注意深さを必要とするのかあるいは、情報の背後にまで鋭く迫り、深い思考と多角的、多面的な分析がいかに不可欠であるかを如実に示す一例だと思います。
そこで私たちが注目すべきなのは、このようにして「引き起こされた」ソビエトによるアフガン侵攻(金 成浩さんは「アフガンという”サッカーボール”をアメリカとソ連が蹴り合ったとでもいうべきで、大国のパワーポリティックスに翻弄された結果だ」と述べています)がその後の世界にもたらした「影響」についてです。
そこで少しばかりの年表が必要になります。
1979年 ソ連のアフガン侵攻
1980年 モスクワオリンピック 西側諸国がボイコット
1984年 ロサンゼルスオリンピック モスクワ五輪の「報復」として東側諸国がボイコット
1988年 9月ソウルオリンピック
12月シェワルナゼ・ソ連外相平壌訪問「ソ連は『クロス承認』と南北国連加盟によって『2 つの朝鮮』を作り出そうとする南朝鮮当局(韓国)の企てに反対する。南朝鮮との関係における原則立場を変更しない・・・南朝鮮当局と外交関係を結ばない」と明言。
1989年 ベルリンの壁「崩壊」 冷戦の「終焉」、の始まり・・・
1990年 8月 シェワルナゼ外相、ソ連が韓国と外交関係を樹立する旨記した書簡を北朝鮮に送る
9月2日 シェワルナゼ外相平壌訪問
9月30日 ソ連−韓国 国交樹立
1991年 国連に南北同時加盟
1992年 8月24日 中国−韓国 国交樹立
1992年 11月 エリツィン大統領、韓国を訪問。韓ロ基本条約に調印。韓ロ首脳会談でエリツィン大統領、ソ朝条約の廃棄か大幅修正を示唆。ロシアは、北朝鮮に対し攻撃的兵器は供給しないと明言。
1993年 1月エリツィン大統領、北朝鮮にソ朝条約の軍事支援条項の廃止の意向を正式に通告。
ソビエト−ロシアを軸に据えた国際関係論の優れた研究者である金 成浩さんは、
・アフガンへのソ連軍侵攻が引き金になって西側諸国がモスクワ五輪をボイコット
・それに対する報復措置として次回のロサンゼルス五輪は東側諸国がボイコット
・こうした展開が伏線になって、南北分断の下で開かれる1988年のソウル五輪で、韓国としてはソ連の参加を実現しなければ成功させることができないということで、ソ連への「秘密外交」を展開することになった
ということを指摘しました。
そして、こうした動きに危機感を抱いた北朝鮮の金日成主席が、1986年にモスクワに赴き、ゴルバチョフ首相にソウル五輪に参加しないように説得したが、ゴルバチョフの同意を取り付けることができなかったということ、ソウル五輪ではソ連のメディアが韓国に入り韓国の経済などの躍進ぶりを伝えたこと、さらに1990年にソ連が韓国と国交を樹立することを告げに平壌を訪問したシェワルナゼ外相に北朝鮮のキム・ヨンナム外相(当時)が、同盟条約があるにもかかわらず事前に相談もせず南朝鮮(韓国)と国交とは・・・と、激怒するとともに「ある兵器を開発する」と核兵器の開発を示唆したということを述べて、上記の図を白板に描いたのでした。
そこでこの図をじっくり眺めてみてください。
日本と米国の間には日米安全保障条約、韓国と米国の間には韓米相互防衛条約があります。
北朝鮮と中国の間には朝中友好協力相互援助条約があり、ソ連との間にも同様の軍事同盟条約である朝ソ友好協力相互援助条約がありましたが、2000年にロシアとの間で軍事援助条項のない「友好親善協力条約」に変わり、中国との間の「相互援助条約」も、私の知る中国の北朝鮮政策関係者の話では「名存実亡」という状態だと言われます。
拙い図なのですが、要は38度線を境に南北で対峙する、韓国と朝鮮民主主義人民共和国それぞれがロシア、中国、日本、米国とどのようなどのような「関係」、「構図」の下にあるのかが一目瞭然です。
この図で、北朝鮮の側に立って背後と前面に広がる「風景」を想像して見るだけで、どのような危機感、あるいはある種の「失望感」(「絶望感」とさえ言ってもいいかもしれません)に駆り立てられるか容易に想像できるというものです。
この図を北朝鮮の側に身を置いて「眺め」ながら、今起きていることを深く考えてみることは決して無駄なことではないと考えます。
これは、北朝鮮の政治体制、金正日政権にシンパシーを持つかどうかという感情の問題とは区別して冷静に考えてみるべき問題だと思います。
私自身は日朝関係が少し「緩和」に動いていた1993年に一回北朝鮮に旅した経験があるだけで、それもなにかのグループの訪朝団というたぐいの旅ではなく、単純に、観光旅行団に加わっただけですから、北朝鮮のいわゆる「要人」との会見などとは無縁の旅行でした。
従って、金正日政権に何らかのシンパシーを抱いているわけでもなんでもありません。
ただジャーナリストたらんという志を持つ一人として、なによりも現地、現場に立って自分の目で見て、自分の頭で考え、認識と問題意識を深めなければならないという問題意識で、観光団にしか加わるしか術がなかったので、出かけたのでした。
貧しい国でした。そして私たちの感覚からするとさまざまに違和感のある国でした。
しかし、と私は思うのです。
貧しいということで蔑まれ、非難されるべき故はないというのが、戦後世代とはいえ、日本の貧しい時代を生きてきた私の思いです。
また自分の国の常識とかけ離れていることをもって他を非難することでは問題の本質的な解決にはならないというのが、この「異国」を旅しての感慨でした。
そして、なによりも、どのような政治体制の下でも、そこには日々の暮らしを懸命に生きる庶民の姿があり、私が望むのは、そうした人々にこそ平和とすこしでも豊かな暮らしへの希望がもたらされることだという、ただそれに尽きることでした。
この拙い一枚の図を見つめながら、それにしても・・・と、いま思うのです。
もちろん「南北クロス承認」というものに南北双方の考えの違い、イデオロギー上の相克もあるかもしれませんし、それが最良の選択であるのかどうかむずかしいところですが、それでも、もし、中国、ソ連(ロシア)による大韓民国承認−国交の正常化と並行して米国、日本による朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化が行われていればこの図に描かれる構図は大きく変わっていたでしょうし、多分、いま私たちが「そこにある危機」として向き合うことを迫られる北朝鮮の核、ミサイル問題は大きく異なっていたはずだと思います。
歴史に、「もし」であるとか「仮に」ということはない!という冷厳な事実を承知しながら、であるがゆえに、いま私たち、つまり日本であり、それと強力な軍事同盟関係にある米国に課せられた課題が、この一枚の図から見えてくると思うのです。
物事を深く、多角的、多面的に見るとは、歴史に謙虚に学ぶということも重要な構成部分としてあると、これは私自身への戒めとしても、忘れてならないことだと考えます。
金 成浩さんという優れた国際関係の研究者に出会うことで、こうした確信が一層強くなったと言えます。
金 成浩さんが、北朝鮮と緊張関係にある韓国の大学にさえ「北韓(北朝鮮)学部」や「北韓大学院」があるのに、日本では北朝鮮の研究を深める専門の学科も存在しない・・・とおっしゃっていたことは重要な示唆だと思いました。
ちなみに、在日三世である金 成浩さんは東大大学院時代に北朝鮮研究を専門としたいと言った際、指導教授から、日本ではむずかしいのでよしたほうがいいと、もちろん親切心にもとづくものですが、助言を受けたということです。
私たちが、そして日本の社会が抱えている重い課題についても見えたと思いました。
2009年06月09日
Web掲載のお知らせです
このブログを読んでくださっている方々はご存知だと思いますが、私が運営しているWebサイトに「小島正憲の凝視中国」というページがあります。
現場に足を運び、現場に立って中国を見つめる小島氏のレポートからは「中国の現在(いま)」が実にビビッドに伝わってきて、多くの方々から反響と高い評価をいただいています。
その小島氏の最新レポートを2本、ウエッブにアップしました。
「長征:東路軍の悲劇」
「残念!活かせなかった『東寧』の地縁」
です。
http://www.shakaidotai.com からお入りください。
中国革命史で重要な意味を持つ「長征」について、小島氏は独自のフィールドワークで衝撃的ともいえる「仮説」を提示しています。
小島氏の「仮説」への賛否はさまざまでしょうが、中国革命史を相対化し、検証していくことの重要性について重い問題提起となっていると感じます。
また、中露国境地帯の東寧からのレポートは、「大儲けのチャンスを逃した・・・」という小島氏の韜晦を注意深く読みこむことで、中露国境地帯の現在とそこで熱を帯びるビジネスの現況について実に貴重な現状が見えてきます。
かつて、ウラジオストクにかかわる企画を立てて現地に赴いた際中国・黒竜江省の綏芬河と接する中露国境の街、グロデコボで国境貿易の様子を取材したことを思い出しながらこのレポートを読みました。
なお、小島氏のレポートで随時「暴動情報」が伝えられることについて質問を受けることがありますので、一言コメントしておきます。
先週も「天安門事件」から20年ということで現在の中国社会が抱える課題や問題についていくつものレポートが各メディアで伝えられました。
改革開放が進む中で、中国の庶民の意識や暮らしぶりも大きく変化しました。
日本のメディアではあまり詳しく報じられていませんが、中国各地で住民が地域の行政当局と対峙したり、労働者が経営者、あるいは行政当局と対立したりということが数多く起きています。
そうした、庶民が立ち上がって「異議申し立て」をしていくという動きの中に、これからの中国の行方を大きく左右する可能性を秘めたものもあることを痛感します。
その意味で、小島氏の「暴動情報」はレポートのタイトルが刺激的であることを置いて、注視していく価値があると感じています。
そうした文脈で注意深く読み込んでいただければと考えます。
なお、まだメディアで報じられていませんし、確認もとれていませんが、中国(北京)駐在の日本人記者が「買春行為」によって退去を余儀なくされたという情報が入ってきました。
正直に言いますと、またか!という思いです。
実に恥ずかしく、情けないことです。
ジャーナリストとしての矜持というものを思い起こすべきだと思います。
またその記者を送っていた企業の責任者たちは、問題を深刻に受け止めるべきだと思います。
ジャーナリズムとして、などという「ないものねだり」はしないにしても、メディアの責任ということをもう一度かみしめるべきだと思います。
現場に足を運び、現場に立って中国を見つめる小島氏のレポートからは「中国の現在(いま)」が実にビビッドに伝わってきて、多くの方々から反響と高い評価をいただいています。
その小島氏の最新レポートを2本、ウエッブにアップしました。
「長征:東路軍の悲劇」
「残念!活かせなかった『東寧』の地縁」
です。
http://www.shakaidotai.com からお入りください。
中国革命史で重要な意味を持つ「長征」について、小島氏は独自のフィールドワークで衝撃的ともいえる「仮説」を提示しています。
小島氏の「仮説」への賛否はさまざまでしょうが、中国革命史を相対化し、検証していくことの重要性について重い問題提起となっていると感じます。
また、中露国境地帯の東寧からのレポートは、「大儲けのチャンスを逃した・・・」という小島氏の韜晦を注意深く読みこむことで、中露国境地帯の現在とそこで熱を帯びるビジネスの現況について実に貴重な現状が見えてきます。
かつて、ウラジオストクにかかわる企画を立てて現地に赴いた際中国・黒竜江省の綏芬河と接する中露国境の街、グロデコボで国境貿易の様子を取材したことを思い出しながらこのレポートを読みました。
なお、小島氏のレポートで随時「暴動情報」が伝えられることについて質問を受けることがありますので、一言コメントしておきます。
先週も「天安門事件」から20年ということで現在の中国社会が抱える課題や問題についていくつものレポートが各メディアで伝えられました。
改革開放が進む中で、中国の庶民の意識や暮らしぶりも大きく変化しました。
日本のメディアではあまり詳しく報じられていませんが、中国各地で住民が地域の行政当局と対峙したり、労働者が経営者、あるいは行政当局と対立したりということが数多く起きています。
そうした、庶民が立ち上がって「異議申し立て」をしていくという動きの中に、これからの中国の行方を大きく左右する可能性を秘めたものもあることを痛感します。
その意味で、小島氏の「暴動情報」はレポートのタイトルが刺激的であることを置いて、注視していく価値があると感じています。
そうした文脈で注意深く読み込んでいただければと考えます。
なお、まだメディアで報じられていませんし、確認もとれていませんが、中国(北京)駐在の日本人記者が「買春行為」によって退去を余儀なくされたという情報が入ってきました。
正直に言いますと、またか!という思いです。
実に恥ずかしく、情けないことです。
ジャーナリストとしての矜持というものを思い起こすべきだと思います。
またその記者を送っていた企業の責任者たちは、問題を深刻に受け止めるべきだと思います。
ジャーナリズムとして、などという「ないものねだり」はしないにしても、メディアの責任ということをもう一度かみしめるべきだと思います。