2009年02月17日

ちょっと番外、『環』Vol.36 Winter  をぜひお読みください・・・。

  13日のブログ記事でふれたのですが、『環』Vol.36(藤原書店刊)をぜひ手にとってお読みください。

 私自身が、この書の特集「世界大恐慌か?」に掲載されている辻井喬さんのインタビューを担当したことで、ついつい、みなさんにお知らせするのを逡巡してしまったのですが、あらためて、そうした私事を離れて客観的に見なければならないと思い直し、ここは勇気をふるってお知らせすることにしました。
 
 エマニュエル・トッドのインタビューをはじめ、19人のエコノミストや識者が、いま起きている世界的な「金融危機」といわれるものの実体、本質について、さらに「世界のこれから」について、多角的かつ鋭く論じています。

 示唆深く、実に読みごたえのある一書だと、自信を持って言えます。
 
 一度手にとってご覧になってください。
 ちょっと「番外」のお知らせです・・・。
 
posted by 木村知義 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年02月16日

坂道を転げ落ちる石は・・・、メディアが問われる!

 なんという急降下なのでしょうか、先ほど、日本テレビの世論調査で麻生内閣の支持率が10パーセントを切って9.7%に落ち込んだという速報が伝えられました。
 
 《2009年2月16日(月)00:30時事 日本テレビが15日明らかにした世論調査結果によると、麻生内閣の支持率は9.7%に落ち込んだ。郵政民営化をめぐる麻生太郎首相の一連の発言もあり、支持率は低下傾向が続いているが、主要な報道機関の調査で10%台を切ったのは初めて。》 
 
 一方、G7後の記者会見の映像で伝えられた中川財務相の酩酊状態とでもいうほかない、メロメロの姿を見てことばを失いました。
 
 以下は共同電です。
 
 【ローマ15日共同】中川昭一財務相兼金融担当相が、先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)閉幕後に行った14日の記者会見で、日銀の現在の政策金利を言い間違えるなど“迷言”を連発。ろれつが回らなくなったり目を閉じる場面もあったことから、外国メディアの記者らから「深酒」や「居眠り」を疑われた。財務相同行筋は「今まで見た中で一番ひどかった」とはらはらした様子だった。

 文字ではこの程度ですが、映像は正直ですから、酩酊というかまぶたがくっついてメロメロになっている様子がそのまま伝えられ、中川財務相の向かって右に座る白川日銀総裁のなんともいえない表情も放送されました。

 総理大臣が総理大臣なら財務相も財務相!
 もうこの内閣は「死に体」としかいいようがありません。
 
 それにしても、これが世界に配信されたかと思うと、恥ずかしくなります。

 つい最近、夕刊紙のコラムに、アフリカ・ソマリア沖の海賊対策に海上自衛隊を派遣する問題にかかわって「いつから日本はこんな情けない国になったのか。もし、自衛隊艦船が目の前で外国船舶が海賊に襲撃されているのを傍観していたら、日本が世界中から軽蔑されるだけだ・・・」と書いた中川氏。
 
 皮肉なことです、本当に「いつから日本はこんな情けない国になったのか」ですね。

 
 別に大臣だから立派な人格だとは思っていませんが、それでも一応は財務大臣として国際的な会議に出ているのですから、それなりの「体裁」?!というものがあってしかるべきではないでしょうか。
 
 本当に、一体どこから、この国はこんなにひどい状況になってきたのでしょうか。

 もちろんその淵源について語りだすと尽きないほど問題の根は深いと思いますが、さしあたり直近のことについて言うと、いわゆる小泉郵政選挙で圧勝してから、国民の信を問うということを一切経ずに、自民党内のたらいまわしで総理大臣を次から次と変え、それがまた次々に政権を放り出し、というなんとも度し難い「弛緩状況」が続き、野党は野党で政局ばかりに目が行き、議会のあれこれの手練手管ばかりに終始して、この緊張感喪失状況の蔓延に手を貸してきたということに大きな原因があると言えないでしょうか。

 そして、重要なのは、こうしたことをメディアは、本気になって追及しているのかということです。

 性根をすえて、事実をえぐり、そして本質を衝き、この国の政治が、社会がどうあるべきなのか、生き死にをかけて語るべきです。

 いつまでも権力の「使い走り」のようなメディアでいていいはずがありません。
 
 ジャーナリストの矜持はどこに行ってしまったのでしょうか。

 ジャーナリストを自称する人間がこんなに大勢いる国で、一体どこにジャーナリズムの片鱗が見えるというのでしょうか。

 フーテンの寅さんふうに言うと、恥ずかしくてお天道様に顔向けできない「ジャーナリスト」ばかりではないでしょうか。
 
 これを書いているいまは月曜未明です。
 さて、夜が明けて、朝のニュースでどう伝えられるのか、朝刊の紙面は何を語るのか。
 さらには、朝のテレビに出てくるコメンテーターというわけのわからない人たちも何を語るのか、本質的に期待は持てないにしても、注目です。

 本質的に深いメディアを持てないこの社会の不幸を痛感しながら、しかしここはぜひにも、メディアに働く人々の自覚をと痛切に思います。
 
 このブログで何度繰り返すことになるのでしょうか、
 
 いまメディアが問われています。
 そして同時に、わたしたち一人ひとりが・・・・。



posted by 木村知義 at 02:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年02月13日

アジアのなかの日本、「菜の花忌」に・・・

  きのう2月12日は司馬遼太郎氏の命日、「菜の花忌」でした。
 
 司馬さんが亡くなった1996年のこの日、そして翌13日は、私にとって、いまだにある複雑な思いを引きずる「時」となっています。

 それゆえ今年もなんとなくやり過ごそうとしていたのですが、今日未明に届いたメールによって、あらためて問題意識を喚起されることになりました。

 こう書き始めると、そのメールにふれる前に少しばかりの前置きが必要となります。

 放送の世界で仕事をしていると、時代を画する人々やすぐれた先達の死に際してさまざまに「追悼番組」を担当することになりました。
 
 司馬遼太郎氏の逝去は大阪で勤務している時のことです。
 
 阪神淡路大震災一年の特集企画の仕事を終えて、しばし気持ちにゆとりをもって次の企画のことを・・・と思っていた、そんな折、「司馬さんが亡くなったので追悼特番を編成することになった。ついては担当を・・・」と連絡があり、翌13日の夜生放送で全国にむけて追悼番組を放送したのでした。

 司馬さんの作品の良き読者というだけの自信はとてもありませんでしたが、描かれる世界のダイナミズム、歴史の中の人物のとらえ方などに胸躍る思いで読みふける体験を、私もまた、幾度となく持っていました。

 『坂の上の雲』『空海の風景』・・・、小説の「最後」となる『韃靼疾風録』、そして『街道を行く』、また私自身の仕事にかかわる日本と日本語論にかかわるさまざまな著作やエッセイ・・・。

 こころに深く残る書を挙げ始めるときりがありません。
 
 しかし、司馬作品の魅力にひきこまれながらも、一方で、どこか整理のつかない思いも同時に抱いていた私は、追悼番組を担当することになって、実は困惑したのでした。
 
 東京から駆けつけてくださった一人を含め、三人のゲストとともに、司馬さんの存在の大きさ、畏敬の念、そして死を悼み、惜しむ思いを時間いっぱい語りながら番組を終えたのでしたが、放送終了後、出演された一人から「木村さん、どやちょっと付き合わんか・・・」と声をかけられました。

 大阪のキタに足を向けて、店で座ったとたん、「あんたどっかで司馬さんのこと心底信じてないとこがあるんやないか・・・」と切り込まれて、どう答えようかととまどったことが今でも忘れられません。

 「いや、あんたが司馬さんのことを尊敬してない言うてるわけやないねん。なんかひっかかってるとこがあるんやないかと思うて言うただけや・・・」と言われて、なぜかホッとして、考えるところをあるがままに話すことになりました。

 勉強が足りないとはいえ、私も、文学の世界あるいは歴史、さらには「いま」という時代を鋭く見抜く司馬さんの慧眼に敬服することでは人後に落ちない自信はありましたが、過去の戦争にかかわるとらえ方にはどうしても整理がつかないところが残っていました。
 
 そんな心の中をずばり言い当てられてギクリとしたのですが、そう声をかけてくださった方は、司馬さんからの私信を取り出して示しながら、私の複雑な思いに深い理解を示してくださったのでした。

 番組を終えたあとにこうした時間を持つことができて本当に救われた気がしたものでした。
 
 そんなことがよみがえる「菜の花忌」なのですが、折々、鋭い指摘や貴重な情報を寄せてくれる、フリージャーナリストの小石川涼さんからメールが届いて、あらためてきのう(12日)の毎日新聞(夕刊)をじっくり読むことになりました。

 以下はそのメールの一部です。
 
 本日の「毎日」の夕刊に「司馬遼太郎さんの予感」という特集が載っている。
 ベタープレイス・ジャパン社長藤井清孝という人(米国でMBAを取得し、ファーストボストン投資銀行に勤務した体験がある)が米国での体験から今日を予感したという。彼は最近『グローバル・マインド超一流の思考原理』という本を出版したそうだ。投資銀行での仕事を通じて、米国のM&Aに違和感をもち、40歳でウォール街を去ったという。
 藤井氏は、司馬の『アメリカ素描』を読んで「さすが司馬さんと思った。文明の基層に目を向け、ものごとを直観的にとらえておられる」といっている。
 
 「資本主義というものは、モノを作ってそれをカネにするための制度であるのに、農業と高度技術産業はべつとして、モノをしだいに作らなくなっているアメリカが、カネという数理化されたものだけで(いまはだけとはいえないが)将来、それだけで儲(もう)けてゆくことになると、どうなるのだろう」と、『アメリカ素描』の「ウォール街」の一節で司馬は書いて「亡(ほろ)びるのではないか、という不安がつきまとった」と吐露している。
  
 もうひとり、辻井喬氏も登場。かつての同人誌仲間、司馬遼太郎の『アメリカ素描』の感想を語っている。

 司馬が米国での滞在40日の間にレクチャーを受けたのが野村證券のニューヨーク駐在役員の寺沢芳男氏。のちの経済企画庁長官。辻井氏も寺沢氏と交流があり、米国の経済の行方について話を聞いたということだ。米国のモノが売れたのは70年代半ばまでで、80年代には、米国経済はモノづくりがダメになっていたと。
 
 辻井氏はいう。「私にもわからないのですが、アメリカ一極支配が消えたのは確かでしょう。これからはEU(欧州連合)、中国にアメリカが加わった3極になる。日本は極にならないです。なるべきでもない。日本は通商国家ですから、どの極ともいい関係を保ち、平和国家として存続していけばいい。いま、司馬さんがおられたら、きっと、そう教えてくれそうな気がするんです」と。
 
 この言葉の意味は重い。アジアでの生き残りをかけて「日本はアジアで主導的な役割を果たすべき」との論調が「今こそチャンス」という言葉で語られるが、これには戦前の教訓が生きていないか、もしくはひょっとすると同じ道をたどるかもしれないとの自戒の気持ちがないことを感じる。
 辻井氏の言葉をかみしめたいと思う。

 メールにすべてが言い尽くされているので、もはや加えるべきものはないというべきでしょう。
 
 夕刊の「特集ワイド」に掲載された記事から、ひとつには、司馬遼太郎というすぐれた作家が、同時にジャーナリストとしての鋭い目を持っていたことを知るとともに、それを読む藤井清孝、辻井喬という二人の慧眼を通して、そこに、いまわれわれが何を読み取り、何を考えるべきなのか、示唆深い指摘をメールで寄せてくれたと感じます。
 
 実は、先月末刊行された季刊誌『環』の特集「世界大恐慌か?」のなかで、私は、辻井喬氏のインタビュアーを務める機会を得ました。
 インタビューでは、詩人、作家としての鋭い感性と、経済人として激動の時代を歩まれた経験から語られる、辻井氏の実に深いお話に感銘を受けながら聴き入ったものでした。

 我田引水に過ぎるというお叱りを覚悟で、しかし、実に読み応えのある辻井氏のお話をぜひ多くのみなさんにお読みいただきたいと思います。
(『環』Vol.36 2009 Winter 藤原書店)

 この 『環』のインタビューでは時間の関係で、本来は是非うかがいたかった「アジアと日本のあり方」にまで及ぶことができなかったのですが、ここで取り上げることになった「毎日」の特集で語られる辻井氏のお話は、まさにそこを衝くものになっていると、これは小石川氏からのメールで知ることになったのでした。

 とりわけというべきか、東アジア共同体をめぐってさまざまに議論が交わされる今、司馬遼太郎氏の『アメリカ素描』にかかわる特集に記された「辻井氏の言葉をかみしめたい」という小石川氏の指摘には共感するところ実に大です。

 さらにいえば、きのう書いた麻生総理の「自由と繁栄の弧」にかかわる問題意識にも深く通底するものだと思います。

 今年は思いもかけず「菜の花忌」によってもたらされた一通のメールから、実に、重く、大事な問題意識を喚起されました・・・。




posted by 木村知義 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年02月12日

また登場した「自由と繁栄の弧」・・・?

 郵政民営化をめぐる麻生総理大臣の発言に与党内からも厳しい批判がわき起こり、内閣支持率が14パーセント(朝日新聞調査)というズタズタの状態で、まるで無重力状態に浮遊するような政治状況になってしまいました。

 昨年来、麻生内閣を、立ち枯れ状態に陥ったと書いてきましたが、それでも内閣が倒れないのは、選挙の洗礼も経ずに自民党内のたらいまわしで4人目の総理大臣をつくるのはいくらなんでも・・・という「世間の目」?を意識するのと、まかり間違って麻生総理が解散総選挙に打って出れば、議席ばかりか政権党の座を失うかもしれないという恐怖感、ただそれだけの理由で、自民党の誰もが「泥舟」に乗っているしか術がないという、なんとも情けないていたらくによるものです。

 矜持のひとかけらもなくただ政権にしがみつくしか能のない政治家の姿、あるいは政治状況に、このままずるずると時間だけが流れていくようなことでいいのだろうかという思いは多くの人の共通するところだと思います。

 そんな政治状況ゆえにというべきでしょうか、あまり注意が払われなかったのですが、内政だけでなく、見過ごすことができない問題があると思います。

 それは、先月28日の麻生総理の施政方針演説にかかわるものです。

 天皇の即位20年への祝意にはじまったこの演説で、麻生総理は、世界は今、新しい時代に入ろうとしているとして、「新しい世界を創るために、どのように貢献すべきか。新しい日本を創るために、何をなすべきか。私の考えをお話ししたいと存じます。」と切り出しました。

 その後、お決まりの「百年に一度の危機」について語り、世界経済の新しいルールづくりに貢献しなければならないと訴え、経済にとどまらず、「東西冷戦が終わって20年。国際社会の平和と安定に向け、新しい秩序創りにも、参画しなければなりません」と強調しました。

 そして、「安心と活力ある社会」を目指すとして、景気対策や財政政策について語った後、世界への貢献のありかたについて、
「私には、一つの信念があります。それは、経済的繁栄と民主主義を希求する先に、平和と幸福が必ずや勝ち取れるというものです。これは、戦後日本の歩みでもあります。私が『自由と繁栄の弧』という言葉で表現したように、自由、市場経済、人権の尊重などを基本的な価値とする若い民主主義諸国の努力を、積極的に支援します」と力をこめて語りました。

 しばらく耳にしなかった「自由と繁栄の弧」を施政方針演説で聴くことになりました。

 今回の施政方針演説では「基本的な価値」ということばが使われていますが、これまで「普遍的価値」ということばで語られてきたことと対をなすのが「自由と繁栄の弧」でした。

 麻生氏が外務大臣を務めていた3年前におこなわれた講演をふり返ってみます。

 さて皆さん、本日は「価値の外交」という言葉と、「自由と繁栄の弧」という言葉。どちらも新機軸、新造語でありますが、この2つをどうか、覚えてお帰りになってください。
 我が国外交の基本が、日米同盟の強化、それから中国、韓国、ロシアなど近隣諸国との関係強化にある。――このことは、いまさら繰り返して申し上げるまでもありません。今回申し上げますのはその先、日本外交に、もう一本さらに新機軸を加えようということであります。
 第一に、民主主義、自由、人権、法の支配、そして市場経済。そういう「普遍的価値」を、外交を進めるうえで大いに重視してまいりますというのが「価値の外交」であります。
 第二に、ユーラシア大陸の外周に成長してまいりました新興の民主主義国。これらを帯のようにつなぎまして、「自由と繁栄の弧」を作りたい、作らねばならぬと思っております。
 (2006.11.30 日本国際問題研究所セミナー講演)

 このように語り始めて、自由や民主主義、人権と法の支配において完璧な国はないが、日本はそういう普遍的価値を重んじる点で「老舗の部類」に入るとして、「価値の外交」に関する「資格宣言」だとしています。

 その上で、カンボジア、ラオス、ベトナムの頭文字をとってCLVとし、これらCLV諸国を重視すると共に「北東アジアから、中央アジア・コーカサス、トルコ、それから中・東欧にバルト諸国までぐるっと延びる『自由と繁栄の弧』において」「自由と民主主義、市場経済と法の支配、そして人権を尊重する国々が、岩礁が島になり、やがて山脈をなすように」歩みを助けていくべきだとしています。

 こうした「21世紀の前半を捧げるにふさわしい課題に、思いを共にする国々と一緒に取り組めることを、私は喜びたいと存じます。米国はもとより、豪州、おそらくますますもってインド、そしてEUや、NATOの加盟各国等であります」と述べて、このビジョンは「大風呂敷」と言われるかもしれないが、「われわれ日本の善男善女にとってのビジョンであります。日本人ひとりひとり、誇りと尊厳をかけるに足るビジョンであるのであります。」と締めくくっています。

 引用と内容の紹介が長くなりましたが、いままた施政方針演説に「自由と繁栄の弧」が登場する淵源についてしっかりとした理解が必要だと思うからです。

 これらの内容は講演の翌年出版されることになる麻生氏の著、「自由と繁栄の弧」や「とてつもない日本」につながっていくものでもありました。

 こうした発言に対して、一方で中国とは「戦略的互恵関係」を語り、他方では「中国包囲網」を敷いていくという戦略の矛盾が指摘されてきたものです。

 そして、首相就任以来公式の場では「封じ込め」ていた「価値の外交」と「自由と繁栄の弧」がまたここに来て登場する背景について、さまざまにとりざたされています。

 その真意はわかりませんが、私は、一冊の月刊誌に載った「拝啓オバマ様 日本から新政権にご提案します」と題した「論考」になんともいえない奇妙な感慨を抱いたものでした。

 「WEDGE」2009年1月号に掲載されたこの「論考」は、前外務次官の谷内正太郎氏によるもので、オバマ大統領に宛てた「書簡」の形をとりながら、「自由と繁栄の弧」の重要性について力説した内容となっています。

 まず、麻生総理と「ぜひ、お早めに、できれば3月頃にでもお会いになり、率直な意見交換のできる関係をお築きいただきたい」として、「漏れ聞きますところ、麻生総理と会った指導者は、フランスのサルコジ大統領にしろ、中国の胡錦濤主席にしろ、総理の人柄や話の中身にみな関心を示し、それがひとかたならぬものなので、側近を驚かせるほどといいます」と、麻生総理への、これ以上ない賛辞ではじまります。

 そして「麻生総理は従来から、日本外交は普遍的価値を重視しつつ、戦略的思考と柔軟な現実主義にもとづいて展開されるべきだとのお考えです。外相時代に打ち出した『自由と繁栄の弧』という政策もその一環です」と述べると共に「日米同盟を補完し、そこに世界的な役割を付け加える意味をも帯びています」と力説しています。
 
 さらに中国との関係を意識して、「中国に対しては米国大統領として強い関心を払っていかれるに相違ありませんから、日本が最近中国との間で何をしているか、ぜひご承知おきいただきたい」として、昨年5月の胡錦濤主席来日の折に取り交わした共同声明でも「国際社会が共に認めている基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」ことを約束したと指摘しています。

 そしてこれは中国が「自由とか人権、民主主義といった『普遍的価値』をおおっぴらに承認するまで、あとほんの一歩だといえるのではないかと思います」とも述べています。

 オバマ大統領への書簡の形式をとったこの「論考」では末尾に、追伸として「本状写しを麻生総理大臣にお送りします」と記されていますから、多分官邸にも「届けられた」のだろうと思います。

 麻生氏の施政方針演説に先立って、先月20日の閣議で、谷内氏を政府代表に充てる人事が決定されたことはすでに知られていることです。
 この人事を目にして、再度上記の「論考」を読み返してみると、なんとも持って回った物言いなのだろと思うとともに、なんだか茶番めいてきて可笑しくすらあるのでした。

 そうした「余談」?はさておき、先日外務省の幹部職員の話を聴く機会があったので、施政方針演説でまたぞろ「自由と繁栄の弧」が出てきたが、対中外交に有形、無形の影響が出ることはないだろうかと尋ねたところ、「官邸の判断で盛り込んだことだろう。具体的な政策のなかでどう出てくるのか、指示を待っているところだ・・・」という答えが返ってきました。

 あくまでも官邸の判断であって外務省のわれわれとしてはあずかり知らぬことだとも響く、その突き放した物言いにちょっと驚いたものでした。

 そうした危うさとともに、もうひとつ注意しなければならないのは、日米はここでいう「普遍的価値観」で強く結ばれている強固な関係であり、その力をもって中国に対するという発想の底の浅さではないでしょうか。

 たとえば、米国債の最大の引き受け手であるのは中国であるという冷厳な事実ひとつとっても、いまや運命共同体として「普遍的価値」を共有しているのは米中であるということを忘れて、ノーテンキに自由と民主主義という普遍的価値を共有する日米・・・などと言っていると、とんでもないところで足元をすくわれかねないという危惧を拭い去ることができません。

 「自由と繁栄の弧」を夢見ているうちに、気がつけば、独り取り残された「孤独」の「弧」にならなければいいがと思うのはわたし一人でしょうか。

 内政の混迷だけではなく、外交も含めて、なんとも底が浅く危ういものかと、いまさらながら痛切な思いに駆られます。

 まさに無重力状態を浮遊するかのような、情けない政治状況になってしまっている現在(いま)だと言わざるをえません。

 空疎に新機軸であるとか、戦略的思考などと語っていて、どこに、麻生総理がしばしば力説する「誇り」と「自信」を持てるというのでしょうか・・・。

 なんとも情けない国になってしまったものです。




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2009年02月06日

平壌コンフィデンシャル・・・?

 今月に入って、連日、北朝鮮の「テポドンミサイル」の発射準備が進んでいるという報道が続いています。

 いずれも韓国あるいは米国の「情報当局」または「韓国政府筋」、「韓国軍高官」などの情報ソースで書かれています。

 最新のニュースでは、弾道ミサイルが北朝鮮北東部の日本海側、咸鏡北道・ムスダンリ(舞水端里)の発射基地に到着したということで、ミサイルは「テポドン2号の改良型」だと見られると報じられています。

 列車で運搬中を「衛星」に捕捉され、ずっと監視され続けているというわけですからなんとも「間の抜けた」ミサイル運搬だといわざるをえません。

 端的に言えば、もし連日伝えられる情報が事実であれば、北朝鮮はこれ見よがしに「ミサイル」を運んでいるといわざるをえません。

 あるいは、正体を見せない「当局」から、なんらかの意図をもって「リーク」されていると考えざるをえないニュースというべきでしょうか。

 いずれにしても北朝鮮情報は「書き得」とでもいうのでしょうか、最終的には誰も確認できないたぐいの情報ゆえに、何を書いても責任を問われないというわけです。

 昨年来の金正日総書記の健康問題にかかわっては、「金正日はもうとっくに死んでいて、いまわれわれが目にしているのは替え玉だ」と言ってはばからない、メディアでおなじみの北朝鮮「専門家」もいるぐらいです。

 北朝鮮情報については情報の受け手の側が相当しっかりと情報を吟味し読み解く努力をしないと、「赤っ恥」をかくのに付き合わされることになりますのでなかなか大変です。

 このまえの日曜日(2月1日)もテレビを見ていて飛び上がりそうになりました。

 情報の専門家を自認する人物が出演していて、先月23日に行われた、王家瑞中国共産党中央対外連絡部長と金正日総書記の会談は「冒頭撮影だけで会談はなかった・・・」と自信たっぷりに断言したのです。金正日総書記は会談ができるほど回復していないのだと言うのです。

 まるでその場で見てきたような話しに飛び上がりそうになったというわけですが、この人物は、どうやら王家瑞−金正日会談の場にいたメンバーから情報を得ることができるか、あるいはそれらのメンバーから情報を得ることのできる「筋」と深い付き合いがあるということになります?!

 いやはや、情報の真偽を確認できないことであればなんでも言えますし、それを聴く私たちは、ただただ唖然、呆然となるしか術はありません・・・。

 さて、そんななかで、一体どういう形で出てくるか注視し続けていた情報が、ようやく伝えられました。まさにこの王家瑞中国共産党中央対外連絡(中連)部長の訪朝と金正日総書記との会談にかかわる情報です。

 まず今月4日の共同電を引きます。

 【北京4日共同】北朝鮮の金正日総書記が中国共産党の王家瑞対外連絡部長と1月23日に平壌で会談した際、オバマ米政権について「どういう出方をするのか見守りたい」と話していたことが4日分かった。中朝関係に詳しい外交筋が明らかにした。北朝鮮のオバマ政権への認識が明らかになるのは初めて。
 また同筋によると、中国側は金総書記の健康状態について「握手した際の感触や、会談や食事の際のしぐさなどに不自然な印象はなく、何の問題もないように見受けられた」と判断しているという。
 同筋によると、会談でオバマ大統領の就任式が取り上げられた際、金総書記は米朝関係を念頭に置いたように「見守りたい」と発言した。しかし、具体的な評価には言及しなかった。
 オバマ政権で対北朝鮮政策を担当する陣容や政策の方向性が明確になるまでは静観するとともに、米朝対話継続を期待する姿勢を反映したものと受け止められている。
 北朝鮮は3日からクリントン政権時代に北朝鮮政策に関与した元当局者や与党民主党に近い研究者らの訪問団を受け入れており、この訪問団との間でオバマ政権の対北朝鮮政策について集中的に意見交換するとみられる。

 末尾に触れられている米国の「訪問団」は、すでに先月31日の記事で書いた、スティーブン・ボスワース元駐韓大使らの朝鮮半島問題専門家の訪朝団のことです。

 それはさておき、ようやく伝えられた・・・と書きましたが、共同通信が伝えた情報は短いものではあるのですが、きわめて重要なものだと思います。
 
 つまり、王家瑞中連部長の訪朝は、オバマ新政権の発足に合わせて「意見交換」するためのものであったということと、金正日総書記の健康状態を直に確認するものであったということです。
 ことばを変えるなら、北朝鮮側と中国側でこうした「目的」で合意した訪朝だったということです。

 王家瑞中連部長は2004年、05年、そして昨年といずれも春節(旧正月)にあわせて訪朝して金正日総書記と会談すると共に胡錦濤主席のメッセージを伝達してきています。しかし今年の訪朝は単に「新年のメッセージ」を伝えるためだけのものでないことは明らかです。

 そこで上に引いた共同電と対照するための、これまた重要な、ニュースを引きます。
 
 産経新聞のワシントン特派員が伝えたものです。

 【ワシントン=有元隆志】ウッド米国務省副報道官は23日の記者会見で、北朝鮮の金正日総書記が訪朝した中国共産党の王家瑞対外連絡部長との会談で「朝鮮半島の非核化に努力する」と発言したことについて、「よいことだ」と歓迎の意向を表明した。そのうえで、「朝鮮半島の検証可能な非核化」を目指すとした2005年9月の6カ国協議の合意を順守し、核施設への検証を受け入れるよう求めた。
 オバマ新政権の北朝鮮問題への取り組みに関しては、「(6カ国協議の)枠組みには利点がある」として、基本的には同協議を継続させたいとの考えを示した。同時に、「北朝鮮政策の見直しが行われる」とも述べたが、具体的な言及は避けた。
 金総書記の健康状態に関しては「中国から(会談の)情報をもらっていない」と述べるにとどまった。
 中国国営新華社通信によると、金総書記は「朝鮮半島情勢の緊張は望んでおらず、中国との協調を強めて6カ国協議のプロセスを絶え間なく推進していきたい」と表明したという。
 (産経Web2009/01/24 09:08)

 王家瑞―金正日会談と同時進行か、あるいは直後のワシントンでの会見ですが、注意深く読むと、会談の席上、王家瑞中連部長に対して金正日総書記は「「朝鮮半島の非核化に努力する」と発言したということになります。
 それを前提としてウッド米国務省副報道官が「よいことだ」と米国政府としての見解を述べているわけです。その上で、金正日総書記の健康状態に関して、この段階では、「中国から(会談の)情報をもらっていない」と言っています。
 
 さて、ここで中国共産党の中央対外連絡部という機関について少しばかりのことを押さえておかなければなりません。
 
 基本的には、政府対政府の外交は外交部(外務省)の所管ですが、党と党の関係あるいはそれに準ずる関係については政府レベルではなく党の中央対外連絡部(中連)が所管する、とまあここまでは常識的な説明ですが、中連は対外情報の収集、分析をも担当するという重要な任務を帯びている機関でもあるという点です。
 
 当然のことながら今回の王家瑞中連部長の平壌訪問は、北朝鮮がオバマ政権をどう分析し今後の対米関係をどう考えているのか、さらに金正日総書記の健康状態はどうなのかなどの「最高機密」に属する情報を把握するための訪朝であったというべきです。

 実は、中国共産党対外連絡部代表団と入れ替わりのようにして、アレクセイ・ボロダフキン次官を団長とするロシア外務省代表団が27日に平壌に入っていますが、金正日総書記との会見はなされていません。

 つまり、中国はオバマ政権に対して、北朝鮮にかかわる「切り札」ともいえる情報を手の内にしているということになります。

 さて、もうひとつの4日付の共同電ですがこちらはワシントン発です。
 【ワシントン4日共同】米シンクタンク「国際政策センター」のアジア研究部長、セリグ・ハリソン氏は4日、北朝鮮を先月訪問した際に会談した朴宜春外相らが「オバマ政権が北朝鮮政策を変更するという政治決断をすれば、米朝両国は親密な友好国になれる」と述べ、米朝関係正常化に向けた意欲を示したと明らかにした。ワシントン市内での講演で語った。
 北朝鮮側は一方で、核放棄をいつ行うのかについて「米国の核の脅威がないと、いつわれわれが思えるか次第だ」と主張。北朝鮮は既に核保有国になったとの主張を繰り返し、6カ国協議停滞の原因となっている核検証問題では、試料採取に応じる必要がないと述べたという。

 オバマ政権に対する北朝鮮側のスタンスが公式、非公式に伝えられる、そんな局面で「テポドン情報」が「当局」からリークされているというわけです。

 そして、5日の北京での外交部(外務省)の定例会見でのことです。
 【北京5日時事】中国外務省の姜瑜副報道局長は5日の定例会見で、中国が北朝鮮に無償援助の提供を決めたとする北朝鮮メディアの報道について問われ、「中国政府は長年、できる範囲で朝鮮に援助している」と述べ、直接的な回答を避けたが否定はしなかった。 同副報道局長は、具体的な援助の規模や実施時期に関して「提供できる情報はない」としながらも、「援助は朝鮮の人々の経済難克服を助けるのが目的だ」と強調した。 

 米朝、中朝、米中のそれぞれの間で、虚々実々の駆け引きが交錯し、朝鮮半島情勢は水面下で激しく動いています。
 
 そんな中、きょう、クリントン国務長官のアジア歴訪の日程が発表されました。
 
 16〜18日で日本、その後、18、19日にインドネシア、19、20日に韓国、最後に20〜22日の日程で中国を訪れることになりました。
 クリントン国務長官は5日夜、国務省内や大学、シンクタンクなどの東アジア専門家を招いて会食して東アジア情勢について意見交換をしたと伝えられています。

 クリントン女史と中国の駆け引きは事態をどう動かすことになるのか、中国が握っている「切り札」はどう「活用」されるのか、米国、中国そして朝鮮半島の動きから目が離せません。

 それだけに、取材者にとっても、情報の受け手にとっても、情報の吟味と解読、ニュースの読み解きの力が問われます。



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2009年01月31日

消えた人事、その後は・・・

  まず、この記事を書いている最中に、メールで、注目すべき「ニュース」がもたらされました。そのニュースからです。

 韓国の聨合ニュースは30日、2月3日から米国の朝鮮半島専門家チームが平壌を訪問すると報じたということです。訪朝予定者はスティーブン・ボスワース元駐韓大使、レオン・シーガル北東アジア安保協力プログラム局長をはじめとする6〜7名だということで、実現すれば、オバマ政権で初の米朝間の「民間交流」となります。

 さて、これに先立って、いまのところ日本のメデイアでは伝えられていないか、伝えられたとしても小さな扱いであまり注目されていない、朝鮮半島情勢とりわけ米朝関係にかかわる注目すべき「二つ」の情報が伝えられました。

 ひとつは、オバマ政権の北朝鮮問題担当特使にビル・リチャードソン・ニューメキシコ州知事とスティーブン・ボスワース前駐韓大使が候補として検討されているという情報です。
 これはアメリカの「自由アジア放送」(RFA)が28日伝えたもので、その後、韓国の中央日報がキャリーしています。

 もうひとつは、北朝鮮と韓国そして米国の朝鮮半島問題専門家らが参加する学術フォーラムが来月、2月23日から25日まで、米国のジョージア大学(ジョージア州アセンズ市)で行われるというニュースです。
 韓国の聯合ニュースが報じ、同じく韓国の京郷新聞が伝え、日本では共同通信が聯合ニュースからの転電の形をとって伝え、産経新聞も京郷新聞の記事をキャリーする形で記事を掲載しました。
 
 聯合ニュースによれば、ジョージア大学側はすでに北朝鮮のアジア太平洋平和委員会李鐘革副委員長などに招待状を発送しているということです。
 また韓国からは尹永寛・元外交通商部長官をはじめとする外交安保分野の専門家と与野党議員らが、米国からは駐韓国大使を務めたトーマス・ハバート、ジェームズ・レイニー両氏や米韓経済研究所のチャールズ・プリチャード所長(元朝鮮半島和平協議担当大使)などが参加する予定だということです。民間レベルの学術フォーラムとはいえ、オバマ政権発足後初の米国での「米朝接触」ということになります。

 一方、きのう、北朝鮮の祖国平和統一委員会は「南北間の政治・軍事的対決状態の解消に関するすべての合意事項を無効化する」という声明を発表して、南北関係は「もはや収拾する方法も希望もなくなり、戦争の瀬戸際まできた」「過去の北南合意に拘束される必要がないのは自明だ」と、韓国の李明博政権の対北朝鮮政策を厳しく指弾しました。
 
 この動きを、ある新聞は「オバマ米新政権の関心を引こうと躍起になっている」と伝えています。あいかわらずのステロタイプな分析の域を出ないので、なんともうんざりですが、そこで、冒頭の「北朝鮮問題担当特使」にかかわる人事情報です。

 伝えたのが「自由アジア放送」(RFA)という、かつての対アジア「共産圏国」情報工作機関の性格を持つメディアであることから、この情報をどう読むのか、なかなか手強いものがあるのではないかと感じます。

 私が特に注目したのは、ビル・リチャードソン氏です。
 
 昨年末、オバマ次期大統領がニューメキシコ州知事のリチャードソン氏を商務長官に指名したのが12月3日のことでした。

 この人事に、私は、オバマ大統領は米朝関係の改善に相当な決意で取り組むのだなと思うとともに、さて、この人事は大丈夫なのだろうかと思ったのでした。
 
 すると、年明け早々1月4日のことです、リチャードソン氏が指名を辞退するということが発表されました。
 当時のニュースは
 「バラク・オバマ大統領が商務長官に指名したビル・リチャードソンニューメキシコ州知事が4日、州政府と取引のある企業が当局の捜査対象となっていることを理由に、指名を辞退した。
 オバマ氏も『非常に残念だ』としながらも辞退を受け入れ、大統領就任の20日に間に合うよう、ただちに代替者の人選を行うとの声明を発表した。
 ニューメキシコ州アルバカーキの連邦大陪審は現在、リチャードソン州知事に多額の献金を行ったカリフォルニア州の企業、CDRフィナンシャル・プロダクツについて、州政府との事業契約を取り付けた経緯を捜査している。
 これについてリチャードソン氏は、不正は一切ないと釈明。州知事の職を続ける意志を示している。」
(AFP 2009.1.4) と伝えていました。

 少しばかりの注釈が必要でしょうから、リチャードソン氏について簡単に復習してみます。

 リチャードソン氏はクリントン前政権下で国連大使やエネルギー長官を歴任したヒスパニック系の有力政治家で、当初、今回の大統領選の民主党の予備選挙にヒスパニック系初の大統領を目指して立候補していました。
 
 2008年1月に予備選からの撤退を表明した後、オバマ氏への支持を表明し、これによって、オバマ氏と予備選を争うヒラリー・クリントン上院議員の支持基盤でもあるヒスパニック系の人々の、オバマ氏に対する支持拡大につながる可能性がいわれていました。
 
 そして今回のオバマ政権発足に当たってはヒラリー・クリントン上院議員と並んで次期国務長官候補にも名前があがりました。
 
 結局、国務長官はクリントン女史、リチャードソン氏は商務長官ということになったのでしたが、それを辞退せざるを得なくなったというわけです。
 こうした政治家としての略歴に加え、リチャードソン氏は、米朝関係あるいは北朝鮮との深い関わりで注目される存在でした。
 
 以下は、2007年4月10日のロイター電です。
[ソウル 10日 ロイター] 北朝鮮は、1950─53年の朝鮮戦争時に不明になった米兵6人の遺骨を返還することに同意した。北朝鮮を訪れたビル・リチャードソン米ニューメキシコ州知事が明らかにした。リチャードソン知事は、北朝鮮の軍幹部と会談した後に声明を発表し、「北朝鮮政府として、これは極めて前向きなジェスチャーだ」と述べた。また知事は、6カ国協議の合意に基づく北朝鮮の主要核施設閉鎖期限が今月半ばに迫るなか、9日に北朝鮮の核関連特使と会談し、期限の順守、およびすべての核関連活動と核物質に関するリストを提出するよう求めたことを明らかにしたが、それに対する北朝鮮側の反応には触れなかった。
(2007.4.10 11:37 JST=日本時間)

 さらに2006年12月15日のCNN/APのニュースアーカイブからです。

 [ニューメキシコ州サンタフェ]ニューメキシコ州の知事室は13日、ビル・リチャードソン知事が15日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の高官2人と州内で会談する、と発表した。北朝鮮国連代表部からの要請で、12月18日に再開される北朝鮮核をめぐる6者協議が主要議題とみられる。 米国務省が北朝鮮高官に同州訪問の許可を出した。知事は会談について、米政府の代表の資格などで会うわけではないと強調、6者協議の進展の実現を目指す努力の一環としている。会談では、北朝鮮側に核兵器放棄を迫るとしている。 同知事はクリントン前政権で国連大使やエネルギー長官を務めた。昨年10月など5回の訪朝歴があり、北朝鮮の核問題に独自に取り組んでいる。北朝鮮国連代表部の高官が知事を訪ねるのは2度目。
(2006.12.15 Web posted at: 17:10 JST)
 
 5回をこえる訪朝歴があるリチャードソン氏が朝鮮半島問題と関わるようになったいきさつのすべてが明らかになっているわけではありませんが、朝鮮戦争で戦死した米兵の「遺骨」《亡骸》の引き取り、あるいは「行方不明米兵」の調査での訪朝があることは確かでしょう。
 
 朝鮮戦争では、およそ3万3000人の米兵が戦死、現在も8000人をこえる兵士が「行方不明」のままとされています。
 
 六者協議の枠組みが定着する以前から、この誰もが反対できない人道問題である「遺骨」受け取りと「行方不明米兵」の調査での訪朝あるいは「接触」は米朝関係の動向をはかる重要なメルクマールだと言われてきました。

 そこで重要な役割を果たしてきた一人がリチャードソン氏だったのです。あくまでも「私的な使節団」だとされてはいますが、北朝鮮からの「招待」を受けるとリチャードソン氏はただちにホワイトハウスと国務省に「相談」を持ちかけています。
 ブッシュ政権当時、2005年まで退役軍人省長官を務めたアンソニー・J・プリンシピを「共同団長」として派遣しています。
 また今度の政権交代で退いた、ビクター・D・チャ国家安全保障会議(NSC)アジア部長(現ジョージタウン大学教授)らが同行するとともに、米国政府の専用機でピョンヤンに降り立っています。
(なお、米兵の「遺骨」《遺体》受け取りは「使節団」一行が一度ソウルに戻った後、板門店、韓国側DMZ=非武装地帯で行われました。)

 このように米国にあって対北朝鮮政策の実施、展開に深くかかわるところに立っていたリチャードソン氏のオバマ政権入りの人事が「阻まれた」のが年初の「商務長官指名辞退」だったと言うべきです。

 かつて、大学卒業時にメジャーリーグのアスレティックス(当時はカンザスシティ)からドラフト指名をうけたことがあるという「自慢話」が(大学時代、名選手だったことは確かでスカウトとの接触はあったが)実はうそだったと地元メディアに報じられ、「経歴詐称」と非難を受けたことなどは「ご愛敬」というべきでしょうが、今回の商務長官指名辞退の裏側はそう簡単な構図ではないのではないかと考えざるをえませんでした。

 その「消えた人事」がここにきて北朝鮮問題特使候補として「浮上」していることが、諜報=情報関係の背景を持っている自由アジア放送(RFA)がスクープする形で報じられたということは、なかなか複雑な動きだと言わざるを得ません。

 かつて北朝鮮のマネーロンダリングや「ニセドル紙幣」問題で六者協議の一時的な停滞、頓挫を招いたバンコ・デルタ・アジア(BDA)問題が浮上した際も、米国政権内部の暗闘とさえいえる「対立」が問題を長引かせたことをふり返るまでもなく、この後の推移を注意深く見守る必要がありそうです。

 クリントン国務長官が27日の記者会見で「核問題をめぐる六者協議は不可欠だ。北朝鮮に関する問題だけでなく、地域の問題にかかわる参加国にとっても有益だ」として「対話の枠組み」の重要性を語ったこととあわせて、リチャードソン氏の「その後」に眼を凝らす必要があると思います。

 その意味で、消えた人事の「その後」の帰趨によって、スタートしたばかりのオバマ政権の対北朝鮮政策の行方が見えてくるのではないかと思えます。




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2009年01月29日

誰が遠音を聴くのか、 ふたたび、ガザの人々の哀しみと苦しみについて

 アメリカのオバマ政権の外交が動き始めました。
 
 26日から、中東和平問題担当大使に任命されたミッチェル元上院議員が関係各国、地域歴訪の旅に出ました。
 オバマ大統領は「米国が早い段階で建設的に関与することで、(和平に)実質的な前進を得られる」と語っていますが、一方で、国務省のウッド報道官代行は「イスラム過激派」ハマスと話し合うことは否定したと伝えられています。
 
 先週から、日本のメディアも「停戦」が伝えられるガザ地区に入り、現地からのレポートを送ってきています。
 
 無惨なまでに瓦礫の荒野と化した街の映像、ガザ住民が語る、イスラエル兵の無差別ともいうべき殺戮や略奪の証言がもたらされています。

 一方、就任後初のテレビ単独インタビューがアラブ首長国連邦に本拠を置く衛星テレビ局・アルアラビアになったことなど、オバマ大統領の中東安定化への努力の姿勢がメディアで大きく伝えられました。

 このインタビューでオバマ大統領は、自身が世界最大のイスラム教国であるインドネシアに住んだことがあることや親族にイスラム教徒がいることに触れながら、

 「われわれ(米国)は時に過ちをおかすし、完全ではない。しかし歴史をたどれば、われわれは(中東に)植民地を持つ帝国主義国家だったことはない。イスラム世界との間で20〜30年前まで有していた尊敬と協力関係を取り戻せない理由はどこにもない」と語り
 「私は(ミッチェル中東和平担当)特使に、まず聞くことからはじめるよう言った」
 「対話の意思を持って、相違点がどこにあり、前進できる可能性がどこにあるのかを明確に示すことが重要だ」
 と述べたといいます。

 インタビューに答えて語りかけるオバマ大統領の映像を見ていると、至極まっとうに響きます。

 しかし、では少なくとも、この間のイスラエルによるガザ空爆と侵攻をどうとらえ、そこでのパレスチナ民衆の苦しみをどう感じているのかについてはまったく伝わってきません。

 イスラエルの最強、最大の後ろ盾である米国の大統領としての責任をどう考えているのかも、肉声として伝わってきません。

 これまでも引用したことがありますが、ガザから発信されている、アブデルワーヘド・アル=アズハル大学教養・人文学部教授からの直近のメールの一部です。
 (TUP-Bulletin翻訳、配信)
 長くなりますが、引用を許していただきたいと思います。

 「皮肉なことだ。侵攻が終わったのだという。イスラエルの戦車が持ち場から引き揚げていった。言っておくが、侵攻は終わってなどいない。侵略者は今なおガザ地区の中にいるのだから。再配備は撤退を意味しない!」

 「最大の損害のひとつが農業の営みが破壊されたことだ! イスラエルは実に広範に農業地帯を破壊した。ガザ地区全域に比して、それは広大だ。軍事用ブルドーザーで木々を根こそぎにし、温室、作物、収穫物、井戸、灌漑網、電線、そして農地にあるほかのありとあらゆるものを破壊した。文字通り、その周りにあるありとあらゆるものだ! 奴らは家畜、食肉用動物に、鶏まで殺した! 土地の姿が変わってしまった! 小さな土地を仕切る垣根さえ破壊された! 農家の家までも粉々にされた! 農地は、私の掌のようにまっさらになってしまった! イスラエルはガザ地区で暮らすパレスチナ人ことごとくを罰したのだ! 全体の損害のうち、およそ 50%が農地におけるものだと推定されている。ありていに言えば、イスラエルの対ガザ戦争は、ガザ地区のありとあらゆる人々に対する無差別懲罰であったことがはっきりした!それは、来るべき世代を殺害する措置だった。何百人もの幼児や子どもたちが殺されて瓦礫の下に埋まった。また、何百人もの女性が民家への狂気の爆撃で殺された! イスラエルによる正当化や弁解はまったくもってばかげている。国連[事務]総長がガザを訪問した。総長は UNRWAの学校で罪もない市民が非人道的な生活をしている状況を視察し、ジャバリーヤ[難民キャンプ]にあるアル=ファフーラの学校へも足を運んだ。イスラエルの戦車からの砲撃によって、避難していたパレスチナ人 67名が殺され、何十人もが負傷した場所だ! 事務総長は、自身の言葉でもってイスラエルを非難したか? だから何だ? ――私は本気で言っている。国連事務総長の訪問が何だという? 三つの首脳会談が中東地域で開かれたが、イスラエルによる人権侵害と戦争犯罪を非難する言葉は一言も口にされなかった!ガザでは、今なお、同胞の死者を見つけようとする努力が続いている。停戦後の最初の日、103体の遺体が瓦礫の下から発見された。その翌日にはさらに 26体。捜索はなお継続中だ。全家族が、人間性の地図から一掃されてしまったのだ! 一方、どうにか助かって生き残った人々に目を向ければ、保護を必要とする孤児が何十人もいることに気付かないわけにはいかない。いったいこれらの子どもたちを誰が面倒みるのか? 使える設備が何もなく、孤児のための正式な計画社会も何一つないというのに? ガザ地区には孤児院が一つだけあるが、寄付と善意の人に依存する貧乏な施設だ!侵攻後 25日が過ぎ、戦闘行為が中断され停戦になったというのに、イスラエルの戦車がガザ地区の中央部に進攻し、2名を殺害した! 一方、昨日と今朝、イスラエルの軍艦から砲撃があった!言うまでもないことだが、イスラエルの偵察機が複数、依然、頭上を低空飛行していて苛立たしい。そしてイスラエルの戦車も依然、ガザ地区の境界の内側で展開している!」
(2009年1月21日 (水) 14:14)
 TUP-BulletinのWebサイトは
 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/ を参照
 
 アブデルワーヘド教授が「私は本気で言っている」と書くとき、その言葉が私たちの胸に痛切に、そして重く響きます。
 
 重ねて、こうした現地からの叫びに耳を傾け、目をこらすことができるかどうか、メディアが、私たちが問われます。

 エジプトでムバラク大統領と会談した後イスラエル入りしたミッチェル特使は、イスラエルのオルメルト暫定首相と会談して
 「停戦を確固としたものにすることがきわめて重要だと話し合った」と伝えられます。

 では、「停戦を確固としたものにする」とは何を意味するのか、何をどうしなければならないのかについての言説は皆無です。
 
 「中東入りした米国のミッチェル特使は、域内諸国の複雑な事情を勘案しつつ中東安定化の仕組みを探っていく必要がある」という記者の解説がうつろに響くと感じるのは私だけでしょうか。

 「チェンジ」と言うとき、政治や外交とはそんな肉声に耳を傾けることではないという既成の概念を変えることでなければならないのではないのか・・・。

 これを「素人」の考えでしかないとするとき、政治も外交も、「本気」では、従来と何も変わらないことを意味することになるのではないでしょうか。

 オバマ政権の「チェンジ」とは一体何なのか、どのようなものなのか、メディアは、私たちは注意深く見つめる必要があるのではないでしょうか。

 現実から眼をそらすものは、後に、それらから手痛い「清算」を迫られることは、歴史が示している教訓です。
 
 オバマ大統領の演説とわが日本国の総理大臣の演説を比較してあれこれ論評している場合なのでしょうか。

 さて、私たちは、遠音を聴くことができるのか、眼と耳を凝らして・・・。




posted by 木村知義 at 11:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年01月25日

願望を現実に置き換える危惧は・・・

 世界が、メディアが、オバマに興奮、熱狂した一週間が過ぎようとしています。

 ホワイトハウスのホームページのトップページ。
 オバマ大統領の写真の黒い瞳がじっとこちらを見つめます。
 切り替わる2枚目は就任式の写真。
 ぎっしり人で埋まった連邦議会議事堂前の演壇が写し出されています。
 その横には「CHANGE HAS COME to AMERICA」の文字が記されています。

 世界注視のなかで就任式を終えたオバマ大統領は早速、キューバのグアンタナモ基地に設けられた、悪名高い「テロ容疑者収容所」の閉鎖に向けて作業をはじめるように命じたり、イラクからの米軍撤退にむけての計画策定を指示したりしてホワイトハウスでの「仕事」をスタートさせました。
 
 メディアは連日オバマ大統領への期待を語り、アメリカが変わる、世界が変わると伝えています。
 
 本当に変わるのか、あるいは、どう変わるのかについての検証が尽くされた言説かどうか判然としません。

 むしろ、そうあって欲しいという願望を、興奮と熱狂という形で、現実と置き換えたという印象です。

 私は、オバマ大統領の就任演説が抑制された冷静な語り口であったことのほうにむしろある種の感慨を抱きました。これから始まるであろう「厳しい旅」のスタートに際して、オバマ大統領が内に抱く決意といったものを感じました。

 メディアではさかんに「100日間のハネムーン」が語られています。
 この「ハネムーン」については、フランクリン・ルーズベルト大統領が1933年に大統領の座について招集した特別議会が100日間続いたことに由来するとも言われますが、オバマ大統領に100日間の猶予があるのかどうか、それほど楽観を許さないのではないでしょうか。

 なぜそう感じるかと言えば、ホワイトハウスのホームページに発表された、「その他」を含め24項目におよぶアジェンダを読みながら、なんとも言えない「違和感」が残るからです。
 
 「オバマとバイデンは・・・」と語りはじめる各アジェンダの、外交の項でアフガニスタン・パキスタンにはじまりイラン、イスラエルは項目が立てられているのですが、パレスチナについては、「イスラエルとパレスチナの対立」というくだりで、あくまでもイスラエルを強力に支持していくという文脈で触れられているだけです。

 あるいは北朝鮮については項目立てがないなど、私の語学能力が心許ないとはいえ、どうも解せないところが残ってしまうのでした。

 もちろん核兵器に関わる項で、ルールを破るイランや北朝鮮については、NPT(核兵器不拡散条約)を強化することで、自動的に「国際的に強力な制裁」に直面するようにして核兵器の拡散を厳しく取り締まることが述べられてはいます。

 しかし、NPTという、現実には核保有国5カ国にのみ与えられる特権を保証するダブルスタンダードとなってしまっている「枠組み」によってイランと北朝鮮には厳しく対処することを謳っても説得力に乏しいと言わざるをえません。

 ただし、北朝鮮については、外交方針の刷新の項で「すべての国家、友人、敵とも、前提条件なしで、強力かつ弾力的な(タフな)直接外交を追求する」としている点が注目されるところというべきでしょうか。

 考えてみると、「違和感」の根っこにあるのは、依然として「テロとの戦い」というコンセプトが強力に貫かれていて、一方でイラクからの撤退を語りながら、他方で、アフガニスタンでの戦争について熱を込めて語るという、オバマ政権の「矛盾」だと言わざるを得ません。
 単独覇権主義か国際協調主義かという二分法では語れない問題の所在に気づいておかないと、期待という願望を現実に置き換えてしまうことになるのではないかと思います。
 
 依然として「戦争をたたかうアメリカ」からの脱却はほど遠いことを知っておく必要があると思います。

 同様に、メディアにとって、戦争とどう向き合うのかが問われるという命題から自由になるには、まだまだ早いというべきでしょう。

 私もアメリカの変化に熱い期待を寄せる一人であることに違いはありません。
 しかし、オバマ大統領が冷静なリアリストであるのと同様に、私たちも冷静に問題を見据える力を失ってはならないと考えます。

 経済にしても、けさ、アメリカから中継でテレビに生出演したクルーグマン教授は「もう一段の金融困難がありうる」とした上で、「アメリカ国民は100日しか我慢できないということではない。(経済の回復には)オバマ大統領は何年か、かかるだろう」と語りました。ここでも、クルーグマン教授は、願望を現実に置き換える愚を犯さないように警鐘を発しているのだと感じました。

 さらに、冒頭、「世界が、メディアがオバマに興奮、熱狂した・・・」と書き出しましたが、メディアがというのはともかく、世界がというとき忘れてならないのは、メデイアで伝えられない「もっとほかの世界」があることにも気づいていなければならないと思います。
 いまや第三世界などという言葉が死語のようになってしまっていますが、地球上には、私たちの視野に入ってこない世界が広く存在していることに注意を払う必要があると思います。

 加えて、アメリカとは一体どういう歴史に由来する国なのかということについても、もっと深く見据える必要があると思います。
 オバマ大統領の誕生で、黒人という「マイノリティー」について、あるいは黒人差別の歴史については語られていますが、そもそもアメリカ合衆国が成立していく過程には、先住民をまるで獣のように殺戮、駆逐していった「血塗られた歴史」があったことを忘れてはならないと思います。
 
 まさに「異形のアメリカ」というものについて深く見据えることができてこそ、「自由と希望のアメリカ」についても語ることができるという、冷厳な事実について、私たちは知る必要があると思います。

 まだまだ「美しい物語」だけを語るには早すぎる!
 そして願望を現実に置き換えてはならないということを、冷静に知ることができてはじめて、オバマ政権誕生の意義を過不足無く語ることができるのではないか、そんな想念を強くします。





posted by 木村知義 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年01月18日

「一方的停戦」の背後に何を見るべきか

 けさの新聞、放送各メディアは、ガザへの空爆、侵攻で無差別ともいえる激しい攻撃を続けていたイスラエルが「一方的停戦を宣言」したことを伝えました。

 しかし、一方では16日から17日にかけてイスラエル軍はガザのおよそ50カ所への空爆をおこない、北部のベイトラヒヤでは1400人とも1800人ともいわれる住民が避難していたUNRWA(国連難民救済事業機関)の運営する学校に砲撃を加えたということも伝えられています。

 UNRWAの関連施設が攻撃されるのはこれで3度目。
 国連側は「他に逃げる場所のない市民を狙っており、戦争犯罪だ」として激しく非難しています。

 この攻撃で幼い兄弟が死亡したことが伝えられており、きょうの段階で犠牲者は子供410人を含め1300人をこえました。

 AFPが配信した、戦車の上で天に突き上げるようにVサインを掲げる写真からはイスラエル軍兵士の血なまぐさい「雄叫び」が聞こえてきそうな気がしました。

 今回の「一方的停戦宣言」は、イスラエルにとって「特別な関係」にある米国・ワシントンに赴いたイスラエルのリブニ外相とライス国務長官のあいだで「パレスチナ自治区ガザへの武器密輸防止策」をめぐって「合意」があったことが大きな理由として伝えられています。

 しかし、合意に至る文脈を注意深く読めば、国際的に広がるイスラエルへの厳しい眼差し、非難を米国としても無視できない状況に至ったことと、イスラエルとしても今回の空爆、侵攻をなんとか正当化して収める「救いの手」を求めていたことが読み取れます。

 もちろん、イスラエル軍がガザ地区に駐留を続けるとしていることなどを考えるとまだまだ予断を許さない状況であることに変わりはないというべきです。

 それだけの緊張感をはらみながらも、私たちが気づいておかなければならないことは、国連のパン・ギムン事務総長がイスラエルに入り「強い抗議と怒り」を表明するという厳しい姿勢を示したことや、イスラエルに対する国際的な非難の声の広がりを無視出来なくなったことが、「一方的な停戦宣言」の引き金となったということではないでしょうか。

 そして、もうひとつ見落としてならないのは、メディアでは伝えられない、イスラエル国内にわき上がるガザ侵攻への非難、抗議の高まりがあったということです。

 前にこのブログ記事で引いた、有志の人々が力を合わせて、現地からの「叫び」や「もうひとつのニュース」の翻訳と配信を続けているtup_bulletin のメールニュースによると、今月3日、イスラエルの平和人権団体グシュ・シャローム(シオニスト左派)が主導して、その他 23団体の呼びかけで、ガザ侵攻に対する大規模な抗議デモがおこなわれたということです。

 今回のガザ侵攻で、イスラエル国内の民衆の声はどうなのだろうかと気になっていましたが、tup_bulletin 配信によるこの「ニュース」を読んで、「一方的停戦宣言」に至る「背景」に決して見落としてはならない「うごき」があることを痛感しました。

 tup_bulletin ではグシュ・シャロームのウェブページからこのイスラエル国内の抗議行動に関する記事を邦訳して配信していますが、その全文を転載したいと思うぐらいの重要な記事だと感じました。

 原文: "MASSIVE DEMONSTRATION AGAINST THE WAR"   (Saturday 03/01/09)
 平和人権団体 Gush Shalom のウェブページ上の
 英文声明
   http://zope.gush-shalom.org/home/en/events/1231029668
 翻訳、配信についてはtup_bulletin のサイト参照
   http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/ 
 
 とりわけ、イスラエル国内の極右勢力による妨害で、行進の最後に予定されていた市民集会を開くことができなくなったためなされなかった、グシュ・シャロームを代表して行うはずだったウリ・アヴネリのスピーチは読む者の心を深く揺さぶります。

 イスラエル国内で「裏切り者」と指弾されかねないという、いわば命がけの「誹り」をも覚悟しながら、今回の「侵攻」がはらむ問題や背後に横たわる「虚構性」について痛切な叫びでもって訴えかけています。

 メディアでは「一方的停戦宣言」というひと言で語られる「ニュース」の背後に、決して忘れてはならない、イスラエル国内の勇気ある行動があることを知っておかなければならないと、あらためて痛感したのでした。

とともに、今回の「停戦」によって、カベと戦車によって包囲、封鎖されたパレスチナに本質的な平和がもたらされるものではないということ、肉親を失い、多くの人が傷ついて、水と食料、医薬品に事欠く深刻な状況にもなんら変わりはないことを忘れてはならないと思います。

 私たちの、ニュースを読み解く力が深く問われています。
 そして、私たちの想像力が問われます。
 さらに、「停戦」という言葉に惑わされず、事態を厳しく見据える力が問われています。
 
posted by 木村知義 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年01月17日

阪神淡路大震災から14年・・・

 1995年1月17日早朝の阪神淡路大震災から14年。犠牲者は6434人にのぼります。
 神戸市中央区の東遊園地での「1・17のつどい」をはじめ被災地は終日鎮魂の祈りにつつまれました。

 当時大阪に勤務していてドーンというように突き上げる激しい揺れに飛び起きたものの立ち上がれず、揺れがおさまるまで待って身繕いをして職場をめざして飛び出したことを思い出します。
 
 大阪でさえこんな揺れでしたから神戸や淡路ではどれほどの恐ろしい揺れだったろうかと思ったものでした。

 放送メディアで仕事をしていた私は、職場に出て丸三日ほとんど一睡もせず災害報道立ち上げの仕事に携わりました。

 三日目にようやく24時間交代のローテーションが動き始めてひとまず家に戻ったのですが、テレビが転がっている室内にあらためて驚きました。マンションの貯水槽が壊れてしばらく水が出ないというありさまでした。

 被災地からずいぶん離れた大阪でさえこんな状況でした。

 そして発災から一週間たって、神戸の被災地に入り小学校の校庭に作られた仮設スタジオに泊まり込んで仕事をしました。
 
 長田区の商店街や家々をめぐり、どうすればこれほど粉々に壊すことができるのだろうかと思うぐらい建物が壊れているのを目の当たりにして言葉を失いました。
 
 自身が体験したことだけでも記憶は次から次と蘇ります。

 今日の各メディアは被災地でもすでに震災を知らない世代が増えていることや、教訓を次の世代に伝えていくことの重要性を強調しています。
 
 かつて関東大震災直後、この恐ろしさは少なくとも三世代、つまり被災した人達の孫の世代までは深く記憶されるだろうと言われたと言います。しかし、実際にはそうはならず、いわば「のど元過ぎれば・・・」ということになり、こうした都市型の大地震に対する備えをはじめ、汲むべき教訓は忘れ去られていたと指摘されたものです。
 
 あらゆる安全神話が崩壊したこと、市街地で大勢の高齢者が被災することによる新たな都市型災害となったこと、さらには中小、零細企業などが集まる長田地区のものづくりの被災、復興問題、家を失った人々が長く仮設住宅での生活を強いられ、住まいを再建したとしても重い二重ローンに苦しむことになったこと、そして仮設住宅での孤独死、・・・など、震災によって多くの人命が失われたということにとどまらず、深い傷を残すとともに数多くの重い課題を浮き彫りにしたのでした。

 こうして思い返すと14年という年月が過ぎたことが信じられないくらい鮮明に当時のことが蘇りますが、ある「ことば」、つぶやきというべきでしょうか、に出会ったことがいまだにトゲのようにひっかかったまま忘れることができずにいます。

 阪神大震災の記憶ということでは、阪神高速の高架道路が倒壊した光景を思い起こす人も多いのではないかと思います。
 
 繁華街の大きなビルが倒れたり、ペしゃんこにつぶれたりした光景もショックでしたが、倒れるはずがないとされていた高速道の高架が倒壊したことで衝撃が走ったものでした。

 震災の関連取材をして歩いているときのことです、大阪の釜が崎で「震度7で胸なでおろしとる連中が大勢おるで・・・」という言葉(つぶやき)に出会いました。

 複雑な言い回しなので、どういうことかとただすと、

「わからんのかい?仮にやな、あんなもんが倒れて震度6やったちゅうことやったら立場のうなってしまう人間がいっぱい出るやないか、震度7ちゅうことやから、しゃーないなちゅうことになるわけや。ワシらが工事してきとるのやから一番知っとるがな・・・」

 新幹線の高架の橋脚のコンクリートのなかから鉄筋ならぬ木片が露出したとか、さまざまな「不具合」が露見したこともありましたので、なるほど釜が崎のおっちゃん達の「つぶやき」は鋭く、かつ含むところが深いなと感じたのでした。

 私たちはこのような大規模なインフラ工事の多くは、こうした釜が崎の労働者によって担われてきたことを知らずに過ごしているのですが、工事の内情について一番知っているのはこの人たちなのでした。
 
 「震度7で胸をなでおろした人がいたはずだ・・・」というおっちゃんの逆説的な話しに、なるほどと合点がいったものでした。

 当時関係者の口の端に上った「手抜き工事」云々については、震災の被害の大きさの背後に隠れて、その後追究されることもなく立ち消えになりました。つまり、すべては震度7という「想定をこえた激震」ということで説明されて忘却の彼方という次第でした。

 もちろんいまとなっては真偽のほどはわかりません。
 
 しかし、わたしはいまだに釜が崎のおっちゃん達の「つぶやき」がこころの片隅にひっかかったままです。

 こう考えると、きょうの各メディアが「風化させてはならない・・・」と伝えるとき、一方では、本来検証されなくてはならなかった問題がまだまだ残っているのではないかと思えてなりません。

 震災から14年。もうすでに「のど元すぎれば」という状況が起きていることを考えると、立派に復興した中心街のビルの「背後」には、「心の傷」に苦しみ、生活を取り戻せずにいる多くの見えざる人々がいることを忘れてはならないと思います。
 
 同時に、災害の大きさ故に、追究、検証すべき数多くの問題が忘れ去られたままになってしまったことも思い起こす必要があると思います。


 今日の記事のまえに、12日月曜日、一件記事を書いたのでしたが、アップするときに手違いがあったのか、サーバーに残されておらず、掲載できていませんでした。記事の間隔があいてしまいました。


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2009年01月07日

ガザからの悲鳴と日比谷公園からの悲鳴

 けさの新聞、ニュースは、パレスチナ自治区ガザに侵攻したイスラエル軍が、ガザ市と近郊のジャバリヤ難民キャンプ、第2の都市ハンユニスにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営する学校を砲撃して、そこに避難していた住民が少なくとも45人が死亡したと伝えています。(7日朝現在)
 
 昨年12月27日にイスラエルによる空爆が始まって避難していた住民たちです。

 AFP通信は、空爆開始からの犠牲者は635人に上ると、次のように伝えています。

 「死者数は6日までに少なくとも635人に上り、そのうち4分の1が子どもだ。支援団体関係者は、生き残った子どもたちも生涯にわたって精神的な傷に悩まされるだろうと語っている。
 また、自宅内や戦闘を避けるために避難する車の中などで、一家全員が殺害される例も相次いでいる。
 ガザ市(Gaza City)では6日、自宅にいた子ども7人を含む12人の家族がイスラエル軍による空爆で死亡した。医療関係者や目撃者によると、女性3人と男性2人とともに死亡したのは、1歳から12歳までの幼い子どもたちだったという。」(AFP7日午前4時32分)
 
 また、ガザのアル・アズハル大学教養・人文学部のアブデルワーヘド教授が27日のイスラエルによる空爆開始から世界に発信し続けているメールを、翻訳家約40人が、ボランティアで手分けして翻訳し、配信しているのですが、その直近のメールで、

 「市民は逃げ場を失い右往左往している!ガザ市内のシュジャイヤ(人口がとくに過密な地区だ)で、妊娠中の女性が4人の娘とともに砲撃で死んだ。私の子どもたちは、隣の建物が狙い撃ちされてから、ますます緊張と不安を募らせている。私は努めて子どもたちに話しかけ、できるだけ落ち着かせようとしている。しかし、実際は、航空機、ヘリコプター、無人飛行機が大砲や戦車の砲撃に加わって、私たちは緊張を解いたり和らげたりする暇もないのだ!」
 
 「多くの民間人が、ガザ市の境界地域に対する爆撃で死んだ。電気と水が、ガザの人間すべてにとって依然、主要な問題となっている。発電機はまだ動くので、私はこれらのメッセージを大急ぎで書くことができる!携帯は麻痺し、地上電話はつながらなかったり、聞き取れなかったりすることもあるが、はっきりと聞こえることもある! 数分前、すぐ近くが空襲された。どこだか特定できないが、恐怖におののいた。近所の建物に着弾したのだ!ほんの3軒向こうの建物だ。犠牲者もいる!」

 「昨晩、空襲はますます激しさを増した:30回以上にわたり、ビーチ難民キャンプ東部にある保健センターをはじめ、さまざまな地点が空襲の標的になった。4階建ての建物が1軒、F16に爆撃され、完全に破壊された。何百人もの人々が次々に、戦闘地帯となっている市の郊外から命からがら脱出した。彼らは市内に住む親戚を頼ったり、UNRWAの学校に避難している。」
 (翻訳、配信はtup_bulletinによる。  
  http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/

 このように現地からの悲痛な訴えが届いてきます。

 そのUNRWAの学校が砲撃されたのでした。
 
 これがリブニ・イスラエル外相が会見で述べた、
「戦争では民間人が代償を払うこともある」
 ということの実態です。

 まさにアメリカの政権交代という「空白期」を狙いすましたかのように始まったイスラエルの空爆と侵攻に、いま世界が試されています。

 またそれを伝えるメディアが試されていると思います。
 
 私がまだ中学生だった1960年代初めの頃、『Time』誌の表紙に写真が載ったパレスチナの子供が、旬日をおかず何者かによって殺害されたということを読んで戦慄を憶えたことがありました。
 イスラエルの「諜報特務局」の関与がとりざたされているということとともにです・・・。
 
 パレスチナからの悲痛な訴えに、いま世界はどう応えられるのか試されています。

 少なくとも、自分たちが殺しておいて「戦争では民間人が代償を払うこともある」などという言説がそのまま許される状況をつくってはならないと思います。

 とともに、戦争というもが常に「自衛のため」という名目を掲げて行われるという、歴史の教訓をいま一度思い出す必要があると思います。

 侵略のため、あるいは他国を絶滅するために戦争をするなどと言った為政者は皆無です。

 「自衛のため」という言説を厳しく検証して、事実によってその「偽りの姿」をあきらかにしていくことがメディアに迫られています。

 ここにいささかのあいまいさも許されないと思います。

 さて、国内です。
 昨年末、東京の日比谷公園に開設された「年越し派遣村」について連日ニュースで伝えられ、多くの人が「派遣切り」という問題、労働、雇用問題について考えることになりました。

 この「年越し派遣村」の設営と運営に当たったみなさんの苦労と「格闘」に頭が下がる思いですが、「派遣切り」で仕事だけではなく住む場所も失い、生存のぎりぎりのところに追いやられた人たちを支えるということにとどまらず、現在の日本の労働・雇用問題の「問題のありか」について鮮明にし、多くの人々に考える機会を創り出したということに深い意義があると思います。

 きのうの国会の衆議院本会議代表質問でも「雇用問題」が、残念ながら質疑に深まりが合ったとは言えませんが、大きな論点になりました。

 坂本哲志総務政務官が、総務省の仕事始めの「あいさつ」でこの「年越し派遣村」について、「本当なのかと思った。本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べる姿をテレビのニュースで見ながら、ここには非常に重要な、本質的な問題が隠されていることを思い起こしました。

 その後、メディアで取り上げられて「悪者」にされてしまった坂本政務官は、「関係している多くの方々に不快な思いや迷惑をかけた」「実態をよく把握しないまま発言した」と「謝罪」して発言を撤回したのでしたが、私たちはもっと重要な問題について気づいておく必要があると思うのです。

 それは「まじめに働こうとしているのかどうか」ということをめぐる認識についてです。

 今回の「派遣切り」で切り捨てられた人々、またこれから切り捨てられようとしている人々についていえば、まじめに働いてきたし、働こうという気持ちを持ちながら「切られた」のですから、ここでは坂本政務官のいうことは、ただただ論外!ということで終わるのでしょうが、私にはこの間気になる「もうひとつ」の「年越し」がありました。

 それは大阪の「あいりん地区」、いわゆる釜が崎や東京の山谷などで厳寒の年越しをする人たちのことです。

 もう十年ほど前でのことでしたが、大阪の釜が崎の「越冬」立ち上げ集会に立ち会ったことがありました。

 日雇いでなんとか暮らしを支える人たちにとって、世の中が一週間休暇に入って仕事がなくなる年末年始は、まさに生死にかかわる大変な時期です。

 そうした人たちを支えるために炊き出しをしたり、お金がないため宿泊場所を失って路上で一夜を過ごさざるを得ない人たちに毛布を配り、健康状態を確かめるために街を巡回したりする取り組みをはじめるスタートがこの「越冬」立ち上げの集会です。

 例年、釜が崎の通称「三角公園」でおこなわれています。

 釜が崎では、年末年始から2月、3月はじめころまでの厳寒期に路上で夜を明かさざるを得ない人たちから、必ず、何人か亡くなる人が出ます。

 それはずっと続いてきましたし、日本の社会がこのままであれば、これからもそうだろうと思います。

 日本が高度成長を果たした背後には、こうした、釜が崎に暮らすおっちゃんたち、おばちゃんたちが、雇い主の都合で「適当に」切られたり雇われたりということが日常茶飯に行われるという、極めて不安定な雇用状況におかれながら働いてきたことがあったことを、わたしたちは思い起こす必要があると思います。
 
 そして今、派遣の人たちが直面せざるを得なくなった状況を「日常」として強いられながら、もう何十年と過ぎてきていることを知らなければならないと思います。

 さてそこで、ここでも、「本当にまじめに働こうとしている人たちなのか」という問題に対して、今回の「派遣切り」問題への視線と同じ問題意識、認識で立ち向かうことができるのかどうか、私たちが、そしてメディアが問われているのだと、私は、思います。

 ガザからの痛切な「悲鳴」を聴くことができるか?!

 そして、「派遣切り」に苦しむ人々だけではなく、物言う術をも奪われている、釜が崎や山谷など、全国の多くの人たちの、言葉にならない悲痛な叫びを聴くことができるか?!
 
 いま、私たちが問われています。



 
posted by 木村知義 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年01月04日

かくも深き闇、日米同盟・・・

 2009年元旦、玄関からずしりと重い新聞を抱えて戻って各紙をひらくうち、毎日新聞一面の「米政府異例の謝辞」という見出しに思わず息をのみました。
 やはりそうだったか!という思いに駆られながら活字を追いました。

 三菱UFJフィナンシャルグループから米金融大手モルガン・スタンレーへの約90億ドルの出資の裏に日米両政府の「緊密な関与があった」というもので「ビジネスの論理を超えて同盟の経済安全保障が発動された緊迫の舞台裏」を緻密な取材で明らかにしたスクープでした。

 「米東部時間の13日早朝、ニューヨーク・マンハッタンのオフィスを訪れた三菱UFJの担当者がモルガン側に1通の小切手を手渡した。記載された額面は90億ドル・・・」
 2008年10月14日、当時の速報はこのように伝えていました。
 「金融危機」が叫ばれるなか、三菱UFJのモルガンスタンレーへの出資については、三菱UFJの社長、頭取がワシントンに出向き、その後、期限を一日繰り上げて、ニューヨークで「担当者」が額面90億ドルという途方もない額の小切手で払い込みを済ますなど、「異例」ずくめであることが指摘されていました。

 金融界にかぎらず大きな「話題」になりましたが、、その背後に何があったのかについては十分に追究されることなく、あれこれの憶測が語られるにとどまっているうち、次から次に起きてくる「問題」にかき消されてしまった感がありました。

 9月にこの動きが報じられた当初、「サブプライムでアメリカの金融機関が弱った今こそチャンス・・・」などともっともらしく解説する「専門家」のコメントも飛び出したこともありました。
 こうした噴飯ものの「解説」が意図的なものだったのかどうか定かではありませんが、その後、ほとんどのメディアがこの問題を深く掘り下げることはありませんでした。
 
 以下は、普段からさまざまに情報交換、討論をする人物の一人から2日朝受け取ったメールです。

 「昨日(元旦)の毎日新聞は、2面に渡って三菱フィナンシャルグループがモルガンスタンレーに9000億円を出資した背景に、日米政府の合意と後押しがあったことを詳細にルポしています。西山記者が、『密約』を報じて以来のスクープです。国民の血税で米国の赤字国債を購入することにも怒り心頭に発していたのに、預金者には利息もつけないで、こんなに多額の金を、米国の私企業に投資するなんて、どうして預金者はそういうことを赦すのか。この国の救いがたさを痛感します。」

 確かに、同じ毎日新聞の西山太吉元記者による「沖縄返還」にまつわる「密約」の大スクープに匹敵するものだというのもうなずけます。
 
 三菱UFJがモルガンスタンレーに出資することが伝えられた直後の去年9月、「社内の稟議がどうなっていたのかもよくわからない、とにかく慌しく決まったようだ・・・」と経済関係者から聞いていたのですが、年明けの、この毎日の記事を読んでなるほどと事情が飲み込めました。
 
 とともに、まさに「息を呑むような」緊迫感が伝わってきます。

 そして、3日の「毎日」朝刊です。

 「三菱UFJフィナンシャル・グループ(FG)と、みずほFGの08年10〜12月期連結決算が最終(当期)赤字に陥る見通しになった。金融危機の深刻化で10月以降に株価が急落し、保有する株式で数百億円の損失処理を迫られていることが響いた。赤字額はそれぞれ数百億円規模になる可能性があり、09年3月期の最終利益も下方修正される公算が大きい。」
 
 上に引いたメールの「怒り」が、まさに的中といえば表現が変ですが、ここまでして米国のためにという、底知れぬ「闇」の深さを感じます。

 「三菱のためじゃない。日米のためにやった。日米だからできた」という「日本政府高官」のコメントも「背景」を語って余りあるものです。

 「1960年の日米安保改定から間もなく半世紀。軍事・経済・社会・文化まで、同盟は広範に深化してきた。次の半世紀の成熟した関係はどうあるべきかを探っていく」としたこの「毎日」の企画のタイトルが「アメリカよ−新ニッポン論」となっているところが象徴的です。
 
 昨年から目の当たりにしてきた世界の「動揺」を見据えるとき抱く、世界史的な転換点に立ったという時代認識は、とりもなおさず、アメリカという存在とどう向き合うのかという問題として、われわれの前に立ち現れてくることを示しています。

 昨年何人かの近しい人々との議論や意見交換の際引いたのですが、米外交問題評議会会長のリチャード・N・ハースが『フォーリンアフェアーズ』の5・6月号に載せた論文の表題は「アメリカの相対的衰退と無極秩序の到来」というものでした。

 「アメリカ後の時代を考える」と副題に銘打ったこの論文の書き出しは、
 「21世における国際秩序の主要な特質の一つが、(一極支配でも、多極化でもない)無極化(ノンポラリティー)になることが、ますますはっきりとしてきている。無極化、あるいは無極秩序とは、1〜2カ国はおろか、3〜4カ国でもなく、実に数十のアクター(国際政治のプレーヤー)がさまざまなパワーを持ち、それを行使することで規定される秩序のことだ。当然これまでの秩序は劇的に変化していく。」
 というものでした。

 これを読んだ昨年5月当時、ほかでもなくアメリカからこうした見方が提示されることにきわめて暗示的なものがあると感じたものでした。

 「無極化へとますます向かいつつある世界秩序は、アメリカ、そして世界のほとんどの国にとってはマイナスに作用する。」としながら、「無極秩序は外交を遂行しにくくする。・・・特に同盟関係は今後その重要性を失っていくと思われる。・・・もはやアメリカにも、『われわれとともにあるか、それとも、われわれに敵対するか』といった乱暴なレトリックを弄するような余裕はない。」
 
 リチャード・N・ハースのこの指摘を、いまどう「読む」べきなのか、私たちの世界と時代への認識が問われます。

 きょう4日午前中のテレビの報道・情報番組は共通して、アメリカというものをどうとらえるのかというテーマ設定でした。
 
 まさに、今年、日本の行き方を考えることが即ち日米同盟というものへの「対し方」を問われる最終局面に至った、そういう感を強くします。

 「新ニッポン論」が「アメリカよ」ということであるという問題意識が、連載を「三菱UFJのモルガン出資決断」の背後で何が起きていたのかということの解読からはじめさせたということなのでしょう。

 この一年、向き合うべき問題がよりくっきりとしてきたと感じます。

 日米同盟論ということでは、いくつかの「虚妄」と「幻影」について正面から語っていくことが必要になると思います。
 あるいは、日米同盟をめぐるさまざまな言説の「虚構性」について切り結ぶ覚悟が必要になると考えます。

 とりわけ、朝鮮半島問題をはじめ東アジアの現在と未来について考えるとき、避けて通れない「虚構性」との”たたかい”が、言論にそしてメディアにとって不可避となると感じます。

 論理と事実をもって、そうした、ある意味では困難な課題に立ち向かうことができるかどうか、深く、重く問われる一年の始まりだと考えます。

追伸、ブログ記事の文字が小さくて読みづらいというご指摘にこたえて、新年から文字を大きくしました。




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2008年12月31日

何処から、何処へ、いまメディアは・・・

 2008年も余すところわずかとなった年の瀬、若きすぐれた編集者達と語り明かす一夜を持ちました。
 20代から30代、年長者でも40そこそこという編集者たちです。
 普段の仕事のこと、いま編集作業で抱えているテーマなどのあれこれから話しの主題は、いま我々がおかれている世界、時代をどうとらえるのか、そこからどこに向かうべきなのかということになっていきました。

 誰もが現在(いま)を歴史的な転換点だと感じているということがあって、それゆえ、「何処に向かうべきか」ということに議論が向かうことになりました。

 この間のグローバリズムというものをどうこえていくのか、その際、日本は果たしてアメリカ一辺倒から脱却できるのか、その先にどんな「風景」がひらけるのか、そこで打ち立てるべき「哲学」は・・・と熱をおびながら朝を迎えることになりました。

 今年、2008年が「百年に一度の危機」ということばで語られるものになったが故に、こうした議論になっていくのは当然と言えば当然ですが、難しいのは何処へ向かうべきなのかについてはかならずしも「視界」がひらけているわけではないことでした。
 
 しかし議論に通底するのは、今は変わらなければならない、今を変えなければならないという真摯な時代認識だったと思います。

 私からすれば「若き世代」の議論の中に身を置きながら、その真剣さに心揺さぶられるとともに、なによりも、本質的に、深く、考えるということが、この困難な時代を生きるとき、不可避、不可欠であり、かつ、何ものにも代え難く重要だということを、あらためて痛感することになった一夜でした。

 若い世代への信頼や連帯を感じることができる幸せというものがあるものだと、いささか年寄りめいた感慨を抱きながら、始発時間帯のターミナル駅のまるでラッシュアワーのような雑踏をぬいながら家路についたのでした。

 真摯に、深く、本質的に・・・。

 大事だということはわかっていても、今の時代、求めようとしてなかなか求め得ないことなのではないでしょうか。
 
 そこで、メディアです。

 少し遡って、今週はじめ「既得権調整の職人芸に安住する官僚も、表面的で、微温的な報道に流れがちなメディアも罪が深い」と書く「専門編集委員」のコラムに出会いました。

 そう、そうなんだ!そういう問題意識があるならぜひそのようなメディア状況を打ち破るために努力してほしいと思いながら読みました。

 また「企業の責任はどこへ行った」と題する社説で「不況直前までの大手企業の好業績を支えたのが、低賃金で働く非正規の人たちだった。この間、大手企業は多額の収益を従業員に回さずに内部留保としてためこみ、不安定な働き方を放置してきた。今こそ、その収益を非正規の雇用維持のために向けるのが筋ではないか。」というくだりを「見つけ」?ました。

 前にこのブログ記事でも書いたことなので、ようやくここに触れる論説が出てきたかと思ったのですが、それにしてもこれなどは「少数派」というべきで、前のブログで引いた共同の記事を深めていく動きは見られません。

 さらに論説という場で語るだけではなく、まさに事実を重ねながら問題を具体的に追究していく報道は、いまのところ皆無(に近い?)と言うべきです。

 自ら「表面的で微温的なメディアも罪が深い」と書く限り、具体的に責任を果たしていかなければならないでしょう。

 「所与の前提」ということばに出会ったのは、中学生か高校に進む頃のことですから、もう「大昔」?のことです。
 目の前にある枠組みは前提として動かし難いものに見えるかもしれないが、一人ひとりが、そうした枠組みを創っていく一人ひとりであるということを知るならば、与えられた枠組みに身の丈を合わせるという思考ではなく、自らが枠組みを創り出す一人として何をすべきかを考える必要がある・・・、多分そんなことを憶えた時の言葉だったと思います。

 表面的、微温的になってしまうメディアにはこの「所与の前提」という言葉をかみしめる必要があるのではないかと思います。

 与えられた枠組みの中で、それは動かし難いものだとして、前提にしてものを考える思考しか働かなくなっているために、そうした「表面的で微温的なメディア・・・」と言わなければならなくなるのではないでしょうか。

 そして、具体性の方へ!です。
 まさにそうした視点、視角に立って、それを具体的な事実でもって説得力高く語っていくことが、いまこそメディアに求められているのだと思います。
 
 一方、年の暮れも押し迫って「次の世界―危機の後に」と題したシリーズが新聞に掲載されました。

 「超大国・米国の時代が終わるとは思わない。金融危機が深まっても、影響を受けるのは米国だけではない」
 「米国の力を見くびってはいけない・・・」
 「BRICsなどの台頭で、世界は多極化の方向に進んでいる。この二十年間と同じ支配力は維持できない。しかし米国はなお強大だ」
 これはそのシリーズに登場したフランシス・フクヤマ氏(米ジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院教授)の言説です。
 またこのシリーズの最終回では「資本主義に代役はない」という見出しが躍りました。

 また別の新聞で、大晦日の今日から「世界/変動 危機の中で」というシリーズが始まりました。
 一回目のけさの見出しは「逃げ場のない嵐 生き延びるため どう変わる どう変える」でした。

 筆を執ったのは、もう三十年あまり前、大学在学中に石川啄木を描いた作品で、ある文芸誌の賞を受賞し、その後新聞社に入って活躍してきた記者です。
 当時、掲載誌で作品を読んで、そのみずみずしい感性が深く記憶に残っていたのでしたが、その後新聞記者になったということを耳にして驚いたこともありました。

 その記者(編集委員)が「生き延びるため、どう変わる、どう変える」と小見出しに掲げる企画報道でどのような「世界」を展開するのか年を越えて注視してみたいと思います。

 それにしても、真摯に、深く、本質的にということの難しさを痛感することばかりで一年が過ぎます。
 最後は、年の暮れ恒例の一年のニュースを回顧するテレビ番組です。
 出す本、出す本がことごく売れて、いま話題の経済評論家と称する女性がスタジオでコメントし、若者に人気の作家がコメントするこの番組を見ていて、ひとつひとつの言葉の軽さ、深さと重みの欠如に耐えられなくなって、そして、私自身も身を置いた放送の世界であることを思って哀しくなってしまいました。

 こんなふうに感じたのは私一人なのかと思って少し意見を交わしてみましたが、そうではありませんでした。

 もしかしたら、若者に人気があるゲストを出せば番組も人気に支えられて見てもらえるのではないか、あるいは難しいニュースをわかりやすく・・・というのでこういうこと(演出)を考えるのかもしれないけど、まったく違っているね!世の中には「難しいこと」もいっぱいあって、それと正面から向き合うことが必要だと考えている人が大勢いるのであって、こんなことをしていたら放送にとって本当に大事な視聴者が離れていってしまいますね・・・。

 実に余すところなく語っています。

 フツーの視聴者を「馬鹿」にしてはならない!と制作者は知るべきだと、あらためて思い知らされたのでした。

 ブログを書くという「ささいな」営みもまた同じだと深く肝に銘じたのでした。
 言説に依るということ、言論という営為の厳しさをメデイアに身を置く人々がどれほどの痛切さでとらえることができるのか、依然として重い課題として新しい年に向かうことになります。

 なによりも、真摯に、深く、本質的に・・・。
 これは私の課題であり、また、このブログの読者である、あなたの課題でもあります。
 
 変わる、あるいは変えなければならない時代と世界に向き合いながら、さて、何処から、何処へ向かうべきなのか、この一年を深く反芻しながら、2008年の残された時間を過ごしたいと考えます。
 この今の今も、ガザではイスラエルの空爆、攻撃によって多くの人が斃れ、傷ついています。
 
 仕事を奪われた(紅白歌合戦で審査員として座っている人物が「仕事にあぶれた人たちを歌で励ますことができれば・・・と語っていましたがここは断じて「あぶれた」のではなく、奪われた、あるいは切り捨てられたと言うべきです!)多くの人たちが、今の今、寒さに耐えながら年を越そうとしています。

 いかに、真摯に、深く、本質的に在り得るのか、メディアが問われ、私たちが問われています。

 
 
posted by 木村知義 at 16:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年12月24日

いま、伝えるべき事は何か?!

「派遣切り」「内定切り」?!・・・。
 雇用の悪化が連日メディアで伝えられています。
 世界的な「金融危機」といわれるものから製造業をはじめとする実体経済への波及、そして雇用情勢の悪化へと、底なしともいえる経済状況の悪化はあまりにも急というべきです。

 このところの雇用をめぐる報道を目にしながらずっと気になっていたことがあったのですが、きのうブログの記事を書き終わってしばらくして、夜、共同通信が注目すべき記事を流しました。
 以下はその記事からです。

 「大量の人員削減を進めるトヨタ自動車やキャノンなど日本を代表する大手製造業16社で、利益から配当金などを引いた08年9月末の内部留保合計額が、景気回復前の02年3月期から倍増し空前の約33兆6000億円に達したことが23日共同通信の集計で明らかになった。過去の好景気による利益が人件費に回らず巨額余資として企業内部に積み上がった格好だ。」

 実は、連日の派遣労働者、期間労働者の雇用打ち切りの報道に接するたびに、私の中には、つい少し前まで各企業が「史上最高益を更新!」と伝えられた、あれは一体どうなってしまったのだろうかという疑問が渦巻いていました。
 また役員報酬や株主への配当などは、どうなっているのだろうかという疑問も募っていました。
 そこに、この共同の記事です。

 ここに登場する「日本を代表する大手製造業」はまた同時に「派遣切り」の先頭を走る企業でもありました。
 つまり大規模な人員の削減を進める一方で利益を溜め込んで「空前の規模に」積み上げているというわけです。
 また一部に株主配当を見直す可能性もあるということですが、2008年度、最終的に減益が見込まれる企業でも増配予定を変えないところもあるというのです。

 グローバル化を背景に、バブル崩壊後の日本ですさまじいまでの資本の側による「利潤回復運動」が展開されたということ、つまりかつてのような労働側への分配の仕組みが働かなくなって、「果実」の絞り汁が「滴り落ちる」ことを期待することができなくなったということを如実に示すデータだと言わざるを得ません。

 さてそこで、こうした企業に内在する問題、言葉を変えれば現在の資本主義に内在する問題を見据えようとするとき、見逃すことのできない、重要な問題があるのではないかと思います。

 それは、ひとつには、金融危機だ!、世界的危機だ!あるいは景気後退、不景気、不況だと、まさに集中豪雨的な報道をしていながら、こうした企業のあり方にかかわる検証に目を向けることができないのはどうしてなのかという問題、もうひとつ、米国のサブプライム問題云々を報じていた、つい半年前、あるいは三ヶ月前ぐらいまでは、日本の経済は健全だとかファンダメンタルズは底堅いので・・・などといってはばからなかった人々、そしてメディアはこの「急変ぶり」をどう考えているのか、恥じるところはないのかという問題、さしあたりこの二つの問題を見過ごすことはできない!と思うのです。

 「世界的な景気の急落で各社は減産に追い込まれ、苦渋の選択として雇用調整が行われている」(御手洗富士夫経団連会長)

 「世界同時不況と急速な円高という未曾有の逆境だ。この状況がいつまで続くか、全く見通しが立たない」(国内、海外で16000人の削減を発表したソニーの業務執行役員)

 さて、こうした談話を読んでいて、状況をなぞった説明は説明として、経営者としての矜持、責任というもののひとかけらもそこに感じられないのはどういうことなのだろうかと、私は、思います。

 そしてこの間のメディアの報道でも、そうした観点から衝くべき点を衝いて報じている言説、論説にお目にかかれないのはどうしてなのだろうかと思います。

 昔、「反省だけならサルにもできる」という言葉がはやりましたが、いまや「反省」もできない経営者がいて、それをまた批判もできないメディアがあり、そうしたメディアのあり方を反省もできない・・・と、まるで無間地獄のような荒野が目の前に広がっていて、言葉を失います。

 もっとも、「ロサンゼルス・タイムズ」や「シカゴ・トリビューン」を発行しているアメリカのトリビューン社の経営が立ち行かなくなって連邦破産法11条の申請を余儀なくされた際に、
 「なすすべのない、いくつかの要因が最悪の事態を生み出した・・・」とオーナーが言うのを目の当たりにすると、もはやジャーナリズムは死んだという人たちに反論する術もないことを思い知らされます。

 すべては「なすすべのない」ことのせいで、あげく「いくつかの要因が最悪の事態を生み出」すというわけです。

 本当に経営をサルにでも代わって貰いたい情けないご時世です。
 
 ところで、続々と失業者が街に放り出される状況に、地方ではいま、自衛隊が「安定した」就職先として浮上していて、高校生たちが自衛隊を目指すのだけれども、その自衛隊もかつてのように除隊者が出なくて、「採用内定者」が入隊できないといった事態が起きているということを耳にします。

 ハローワークに出かけて職探しに切羽詰っている若者相手に「ふんふん・・・マッ、自分が何をしたいのか目的意識をはっきり持たにゃー・・」などと説教してみたり、「国民生活の不安を取り除き、先進国の中で最も早く不況から脱出することを目指し、あらゆる努力をする・・・」などと言う麻生総理のパフォーマンスやことばがいかにも虚ろに響きます。

 もちろん、まあしばらく我慢すればまた景気も良くなる・・・とお気楽に言ってくれる経済評論家もいないわけではありませんので、麻生さんもあまり責めることができないのかもしれません。

 がしかし、一方では恐慌の再来!という警鐘も聞こえてきます。

 そこで、私たちがしっかりと目を見開いて歴史というものを思い返しておかなければならないことがあるのではないかと思います。
 
 アメリカのオバマ新大統領誕生と共に「新・ニューディール政策」とか「グリーンニューディール」といった言葉が聴かれます。

 1929年10月24日の「暗黒の木曜日」といわれるニューヨーク株式市場の大暴落に端を発する1930年代の世界恐慌を、新たに政権についたルーズベルト大統領がおこなったニューディール政策でのりこえたとされることになぞらえて、オバマ政権の「新・ニューディール」ということが言われるわけですが、注意しておかなければならないのは、当時のニューディールが一定の効果を持ったことは否定できないまでも、アメリカ経済を立て直したのは、実は戦時経済への移行であったという事実です。
 
 日本との戦争に入る1941年になって、アメリカは、ようやく失業率10%を切ることになりました。
 同様に日本もまた中国への侵略という、戦時態勢に踏み出すことで不況を脱することになったという、恐慌あるいは不況と戦争との関係をいま一度思い起こしておかなければならいことを歴史は教えています。

 なすすべのない、いくつかの要因が重なって最悪の事態を生み出したなどと言わなくてもいいように、ここはしっかりと問題のありかを見据える必要があります。

 経営者の無責任さを批判できるかどうかということにとどまらず、いま伝えなければならないことは何かという問題に、メディアは真摯に向き合う必要があります。

 それにしても、冒頭に挙げた巨大な内部留保!
 取材者として何も感じないのでしょうか。
 疑問を抱かないのでしょうか。
 いつまでも『派遣切り』といったことだけを、横並びで記事に、あるいはニュースにしてお茶を濁している事は許されません。
 
 いま伝えるべきことは何か!
 まさに、突き詰めて、突き詰めて考えるべきときです。
 
posted by 木村知義 at 23:57 | TrackBack(0) | 時々日録

2008年12月23日

「クリスマスプレゼント」が決めた日本の戦後

 きのう都内の靖国神社界隈を歩いていて、靖国通りの街灯という街灯に日の丸がはためいていることに気づきました。
 期せずして、翌日のきょうが天皇誕生日であることを思い出すこことになったのですが、そこからある歴史的な「出来事」を思い出すことになりました。
 昭和23年12月23日未明。
 60年前のきょうです。
 この日時を目にしてなんのことかすぐ思い当たる人がどれだけいるでしょうか。
 以前私が担当していた放送番組の中に「きょうは何の日」というミニコーナーがありました。
 まさに、きょうは何の日?・・・です。

 桶谷秀昭の『昭和精神史』の記述を引きます。

 「昭和二十三年十二月二十三日午前零時になった。土肥原、東條、武藤、松井の四人が、松井の音頭で『大日本帝国ばんざい、天皇陛下ばんざい』を三唱し、土肥原から順に十三階段を登って行った。」

 そうです、極東国際軍事裁判のA級戦犯、東条英機をはじめ廣田弘毅、板垣征四郎、松井石根、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の7人への絞首刑の執行が行われた日です。

 上記4人に続いて板垣、廣田、木村の三人も教誨師花山信勝の読経を聞き、焼香して葡萄酒を呑み処刑場に向かったということですが、桶谷は廣田弘毅に焦点を当ててそのときの情景を以下のように記しています。教誨師の花山が廣田に、何か家族に伝えることはあるかとたずねたのに対しての廣田の応答以降のくだりです。

 「ただ健康で黙々と死に就いていつたといふ事実をどうかお伝へ下さい」
 それから花山に、
 「いま、マンザイをやってゐたんでせう」
 「マンザイ?あ、バンザイですか」
 「さう、マンザイですよ」
 廣田は板垣と木村に、「われわれもやらう」といひ、板垣に「あんた、おやりなさい」といつた。
 二人のもと武官が大声で万歳を三唱した。廣田はひとり唱和せず「マンザイ」とまた、いつた。
 廣田の郷里福岡では、バンザイを訛って、さう発音することがある。それを意識的に利用した。廣田の放つた最後の諧謔である。

 桶谷秀昭の描く7人の「最期」ですから、このとおりであったかどうか、定かではありません。
 しかし、含みの多い記述ではあります。
 東京裁判で問われるべきことは何であったのか、これについては立場を異にしながら、さまざまに議論、論考が重ねられています。
 きょうこれを書きはじめたのは、そのことについてではありません。東京裁判についての議論そのものについては機会を改めたいと思います。
 
 この7人の処刑の報を聞いて、巣鴨プリズンでの日記に最後の一行を記した人物がいたことについてです、きょうの記事は。

 「今暁零時半から東条氏以下の絞首刑が執行せられた(と)いふ情報が伝へられる。まだ真偽は判らぬけれどもどうもあったらしい気配である」と記して、翌日、巣鴨プリズンの扉の閉まる音を背中に聴いて、外界への一歩を踏み出した男がいたことを、天皇誕生日が、そしてそれが思い起こさせる東条ほかの処刑が、私に思い出させるのでした。

 冒頭、靖国通りを歩きながら思い出した「出来事」とはこのことです。
 
 その人物とは岸信介です。 
 1948年12月24日、クリスマスイブに巣鴨から「自由の身」となって「娑婆」に戻ったA級戦犯容疑者19人の一人にして、後に内閣総理大臣をつとめ日米安全保障条約の改定で重要な役割を果たすことになる岸信介です。

 岸を訴追せず「自由の身」とした背景に何があったのかについてはまだ「究明」が定まらないというべきですが、わたしはいつもこの時期になると、「東条処刑さる」の報を耳にしながら一夜を過ごし、その翌日釈放を告げられ、即、外界に出ることを許されるという「劇的」な結末をむかえた岸の心中はどのようなものだっただろうかと考えるのでした。

 まさに不安の一夜から、一転して驚天動地ともいえる「喜びの朝」を迎えたであろうことは想像に難くないと思います。
 東条らが処刑されたということを耳にして己の身の上に恐怖や不安が一層募る一夜となったでしょうから、それだけ余計に、喜びはいかばかりであったろうかと想像します。

 これぞまさに究極の「クリスマスプレゼント」というべきではないでしょうか。
 誰からの?!
 いうまでもなく米国からのです。

 上に引用した岸信介の「日記」や直接のインタビューなどをもとに詳細な論考を重ねている原彬久氏の労作「岸信介」には巣鴨在監時期の「揺れ惑う岸の心理的葛藤」についても記述があって興味深いのですが、そこには岸が、米ソ冷戦を己の身の上にとって「好機」としてとらえていたことが述べられています。

 「アメリカが対日占領政策を一日も早く断ち切って、『反共』のために闘う対等の『盟友』として日本を遇すべきことを主張する」岸は、釈放一ヶ月余り前の「日記」に「『東亜全体の赤化』に通じる中国共産党の『天下』を阻止するために、アメリカはドルと武器で蒋介石を助けること(『焼け石に水』)はやめて、アメリカがみずからの軍隊をもって直接毛沢東軍を『抑圧』すべきこと、しかもこのアメリカ軍は日本の義勇兵をもって編成されるべきだ」という「時局認識」を記していたといいます。(原彬久氏)

 原氏は「『日本の出番』が『日本の好機』であり、『日本の好機』がとりもなおさず岸自身の『好機』であったことはいうまでもない」と指摘しています。

 そして米ソ冷戦の本格化のなかで、GHQの「情報・治安」担当部局である、ウイロビー少将率いるG2から「岸釈放勧告」が出されたことも十分に注目に値することでしょう。
 
 巣鴨を後にした岸がまず向かった先は弟、佐藤栄作が住む永田町の官房長官公邸であったといいます。

 3年3ヶ月にわたる獄中生活から解放されて真っ先に目指したのが永田町であり、佐藤栄作の元であり、かつ官房長官公邸であったというのはその後の日本の政治史を考えるとき象徴的だと言えないでしょうか。
 
 原氏は「岸が以後十年を経ずして今度は官房長官公邸どころか首相官邸そのものの主人におさまってしまうという、いまひとつの光景をこれに重ねてみるとき、われわれは歴史の巧まざる妙を感じないわけにはいかない」と記しています。

 さて、「歴史の巧まざる妙」とはなんだったのか・・・。

 きょう12月23日がめぐり来るたびに思い起こす想念、つまり、東条らの処刑による不安と恐怖の一夜から一転翌朝に「解放」を知らされた岸の心中とはどのようなものであっただろうかということと、そしてこのクリスマスイブの「プレゼント」は一体何によってもたらされたのだろうかというさまざまな思い、それらが戦後日本の歴史にもたらしたものを反芻するとき、この「クリスマスプレゼント」のあまりの大きさと重さに立ち尽くす思いがします。

 解明には、もちろん詳細かつ稠密な究明、論考が必要です。
 
 しかし最近手にしたニューヨークタイムズ記者、ティム・ワイナーの「CIA秘録、その誕生から今日まで」には戦後日本にあって「アメリカの国益を高め、新しい日本政府をアメリカの国益に沿った方向に向けさせることを企図」してCIAが「重要な人物を操ることを目指す」数々の秘密工作を行っていたことが記されています。

 ワイナー記者は「CIA、ホワイトハウス、国務省の公文書館から入手」した5万点以上の文書と、二千点を超える「諜報担当官、兵士、外交官らのオーラル・ヒストリー(口述歴史記録)」そして十人の元長官を含むCIA職員、元職員らに対する300以上のインタビューを元に書き記した本書で、岸信介についても触れています。
 
 巣鴨を後にして、占領下の政府の官房長官をつとめていた佐藤栄作を訪ねた岸に対して弟は、「拘置所での制服を着替えるようにと、兄に背広を手渡した」といいます。
 以下少しばかりの引用をお許しいただきたい。
 
 「おかしなものだな」と岸は弟に言った。「いまやわれわれはみんな民主主義者だ」。
 それから7年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑者から首相へと変身させた。
 (中略) 
 岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ。
 (中略)
 岸は一年ほどの間、隠密にCIAや国務省の当局者とハッチンスン(筆者注、元OSS・米戦略情報局要員で東京の米国大使館情報宣伝担当官)家の居間で会っていた。「彼がアメリカ政府から少なくとも暗黙の支援を求めていたことは明らかだった」とハッチンスンは回想している。一連の会談はその後四十年間の日米関係の土台を築くことになった。
 (中略)
 岸は日本の外交政策をアメリカの望むものに変えていくことを約束した。アメリカは日本に軍事基地を維持し、日本にとっては微妙な問題である核兵器も日本国内に配備したいと考えていた。岸が見返りに求めたのは、アメリカからの政治的支援だった。・・・

 ワイナー記者は、また続けて、「CIAと自民党の間で行われた最も重要なやりとりは、情報と金の交換だった。・・・アメリカ側は、三十年後に国会議員や閣僚、長老政治家になる、将来性のある若者との間に金銭による関係を確立した。」とも記しています。

 日本の戦後を決定づけたものがいかなるものかについて余すところなく述べられていると言うべきです。
 戦後日本を左右した「見えざる手」について、その暗部と共に空恐ろしいまでの感慨を禁じえません。

 とともに、60年前のきょう、処刑台への13段の階段を登った7人と、戦後日本を決定づける内閣総理大臣に駆け上った一人の男とを分けたものは何だったのかをも思わざるを得ません。

 さらに、いまの日本はこうした「呪縛」から自由でありうるのかとも。

 解明されるべき「歴史の闇」というものについて、あらためて深い感慨を抱きます。 
 
 そして「派遣切り」「内定切り」などという言葉が新聞やニュースに踊るいま、「クリスマスプレゼント」などというものに無縁の大勢の人々の現在(いま)に痛切な思いがめぐります。

 それゆえに、メディアが、ジャーナリズムが果たすべき責任もまた一層重いと言うべきです。

 きょうは何の日・・・と反芻しながら。
 



posted by 木村知義 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年12月10日

「民(たみ)の力」はどこに行った・・・

 けさの新聞に「ソニー1万6000人削減」という見出しが躍りました。
 企業で規模の大きなリストラの嵐が吹きはじめました。
 また、「求人取り消し高卒悲鳴」
 「リストラの冬に就職氷河期再び」
 と、雇用の悪化を伝える記事が相次ぎます。 
 内定の取り消しや非正規雇用が3万人削減されるという報道に続いて、景気の悪化が雇用に深刻な影響を及ぼし始めていることが伝えられています。
 
 一方、政治面では、
 「自民議員一斉に動く」
 「首相に強まる圧力」、そして・・・
 「今は攻めない民主」
 「当面は自民の自滅待ち」
 「官邸『反麻生』の動き警戒」
 「政界再編にらむ」・・・。
 とまあ、見出しを並べるだけで政治というより「政局」をめぐる「うごめき」と言うべき「右往左往」が伝わってきます。

 けさのテレビの「ワイドショー」(このなんだかわからないコメンテーターメディアのあり方は別に吟味して論じる必要がありますが)でも、政権批判を強めている自民党の政治家が「いまは非常時だ!」と力説すると、スタジオのコメンテーターからは、再編を言うなら選挙前に新党を立ち上げて問わなければならない、いや!(自民を割って新党をつくるというのではなく)二大政党制での政権交代を目指すべきだ・・・とかまびすしくはやし立てて、挙句の果てに、キャスター?!から「がんばってください!」と激励をうけて大団円という始末です。
 
 もううんざりですが、付け加えると、
 自民党の森喜朗元首相、青木前参議院議員会長、山崎拓前副総裁が昨夜都内の料理屋で会談して、「次期衆議院選挙後は政界再編が不可避」との認識で一致したとも伝えられました。

 さらに、町村前官房長官は数日前の講演で
 「人の弱みにつけこんで足を引っ張るのは、まともな人のやることではない・・・こういう人はどんどん出て行ってもらいたい」と言ったとかなんとか・・・。
 
 まあ本当にうんざりする「ニュース」ばかりで、取り上げれば枚挙にいとまがありません。
 
 政権末期症状というのはこういうものだと言ってしまえばそうなのかもしれませんが、忘れてはならない重要なことがあるのではないかと思います。

 このブログ記事の中で、では代わるべき”者”は誰なのか、それがいない「不幸」ということを何度か書いてきました。

 それは自民党や民主党の誰々何某ということを言おうとしたのではありません。
 ですから”者”と括弧つきで記したのです。

 さてそこで、話は少し跳びます。
 12月8日(月)にあるシンポジウムの聴講に出かけました。

 12月8日という日付でピンと来る人が段々少なくなってきている・・・という話でシンポジウムが開会したことでもわかるように、かつてのアジア太平洋戦争の「日米開戦」の日をとらえて、日米関係について考えようというシンポジウムでした。

 とりわけ、世界的な「金融危機」を契機に、アメリカ一極支配の世界秩序(世界システム)が崩壊して、新たな世界のあり方を考えることを迫られているという時代認識からは、日米関係をどうとらえ、今後どうして行くべきかは、日本のわれわれにとって避けて通ることのできない重い課題としてあるわけですから、そこでの議論に期待して出かけました。
 
 会場に足を踏み入れてまず気づいたのは、私自身も含めてですが、参加者の「高齢化」です。
 おおむね「団塊の世代」といわれる年代より上と見受けられる中高年がほとんどで、若い世代の顔を見つけることがむずかしい(もちろんチラホラとはいますが)という会場の「風景」でした。

 またそこでの議論(というほどの議論にはならなかったのですが)も、おおむねアメリカというものの「お勉強」に終わってしまって、「であるから、どうすべきなのか」というところに深まっていきませんでした。

 ただし、基調講演をした先生の名誉にために申し添えれば、もちろん「お勉強」の内容は、それだけでも大いに触発されるに足るものではありました。

 しかし会場の片隅に身を置きながら、ふとあることばがよみがえりました。
 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのだ。・・・」
 永らく忘れていた「ことば」でした。
 
 もちろん「どう解釈するのか」は、大事なことです。
 軽佻浮薄な言説が跋扈する今、思索し吟味して深められなければならない課題として存在しています。

 しかし、考える、あるいは深めるという行為は、何のためにということが明確でなければ意味を持ってこないということも確かです。

 いま、何のためにということ、つまりどういうところに立ってものを考え、発言するのかということが鋭く問われる時代に立ち至っているということを忘れるわけにはいきません。

 誰にとっても、ではどうするのがいいと考えるのか、そしてそのためにどう行動するのかということが問われています。

 ささやかな営みであっても、依って立つ立場、それを思想といってしまうと堅苦しくなるかもしれませんが、要は思想が、問われ、立場が問われ、行動が問われている、そんな時、ところに、私達は来ているのだろうと痛感します。

 その際のキィーワードは「変える」つまり変革だと思います。

 市民のフォーラムやシンポジウムが熱をこめて重ねられ、考え、深めるという営為が積み重ねられてきて、しかし、まるで「空中戦」のような「政局の右往左往」を、あーだこーだと見ているだけの社会でよいのか。

 もっと言えば、民の力はどこに行ってしまったのだろうかということを考えざるを得ない、「状況の荒野」が目に前に広がります。

 ふたたび、けさのテレビのワイドショーでのことです。

 「日本人って静かですよね!新聞見てですよ、どうなるのかなって・・・、昔だったら、もう、国会にいっぱい押し寄せてますよね・・・」
 あるコメンテーターの発言です。
 
 もし、深めなければならないとしたら、ここではないでしょうか。
 なぜ!こうした民の力はどこかにいってしまったのか?!
 あるいは、なぜ、こうした「見る社会」になってしまったのか?!

 代わるべき”者”をめぐる思考は、やれ自民党、やれ民主党の誰それ・・・ということではなく、本質的に、何を、どう変えるべきなのか、そのために、どうすべきなのかということをめぐって、私たち自身が問われているということではないでしょうか。

 それにしても、テレビに出て「自民党から50人、民主党から50人!それぐらい引っ張って出るリーダーがいればスゴイことだと思いますよ!でもいないじゃなないですか・・・」とインタビューに答える、若手「二世議員」のしたり顔を見ていると、私達の国の政治の貧寒というものを思わざるを得ません。
 本当に、いたたまれなくなります。

 民の力はどこに行ったのだろうか・・・。
 
 そのことばを何度も反芻しながら、考える朝です。
  
 

 

 
posted by 木村知義 at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年12月07日

「関与政策はナイーブ(幼稚)に過ぎる」のか?!

 先日、韓国の金大中元大統領の外交安保首席補佐官や統一相、国家情報院院長大統領特別補佐役をつとめた林 東源氏の講演を聞く機会を得ました。

 林 東源氏といえば、2000年6月にひらかれた、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日国防委員長(総書記)との歴史的な南北首脳会談を実現させるための「産婆役」(林氏)をつとめ、その「回顧録」が日本で出版されたことでも知られています。

 演壇の林氏は、柔和な表情のなかにも眼光鋭く、元陸軍少将で軍事戦略、安保問題の専門家として鍛えられてきた重厚な経歴を感じさせるものがありました。

 「李明博政権が発足して南北関係は膠着状態に陥っている。北朝鮮に対する包容政策(いわゆる太陽政策)に反対するハンナラ党政権が、あたかもブッシュ政権が発足時にクリントン前政権を全否定した『ABC』(Anything But Clinton)のように、前政権との差別化をはかり、北朝鮮を刺激する発言を重ねている。・・・『非核3000』という、支援するための経済協力ではなく、条件を満たせば施すという非現実的な政策を掲げているが、これは米国のネオコンのアプローチを想起させるもので、対話、協力を拒否し屈服を強要するものとなっている。金正日総書記の重病説が出ると軍事介入策を立案する動きに出た・・・」と厳しく断じて話が始まりました。

 また、「北朝鮮は核問題の解決、米朝関係改善の分水嶺を越えたが、韓国(の李明博政権)は認めていない」とも語り、南北関係は、いま、破局に向かうのか、和解、協力に向かうのか、重大な時期を迎えているとして、それゆえに、包容政策(エンゲージメントポリシー:関与政策)のこの20年に目を向ける必要があると、熱を込めて語りました。

 そしてあらためてこの20年を精緻にふり返りながら、「統一は目標であるとともに、過程だ」と語り、南北の信頼構築の重要性を強調しました。

 歴史に真摯に向き合う矜持とでもいうべき林氏の凛とした姿に、講演を聴きながら背筋がしゃんと伸びる思いがしたものです。

 その、林氏が著した「回顧録」のなかで、2002年4月に大統領特使として北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談した折、「米国には朝鮮半島問題に関心と愛情を持つ専門家が非常に多い。彼らをしょっちゅう平壌に招いて意見を聞くのがいい。米国は世論が左右する国なので、民間次元の『トラック2』のアプローチを活用する必要がある」と勧めたことを明かしています。

 その時、「どんな人物がいいのか」と金正日総書記から聞かれた林氏は、セリグ・ハリソンをはじめ元駐韓大使のドナルド・グレッグ、ジェームズ・レイニー、スティーブン・ボワーズ、ドン・オーバードーファー、レオン・シーガルらの名前を挙げたことを記しています。

 そこに登場するドン・オーバードファーといえば元ワシントンポスト紙の記者であり『二つのコリア』(THE TOW KOREAS)の著書でも知られる米国有数のジャーナリストです。

 この名前を目にして、私には記憶に残るある記事がよみがえりました。

 2002年10月、アメリカのジェームズ・ケリー国務次官補が平壌を訪問した時、北朝鮮が、高濃縮ウランによる核開発計画を秘密裏にすすめていることを認めたとして、世界に衝撃が走る大ニュースになりました。

 結果的にはこれが引き金になって、後に、1994年の「枠組み合意」の崩壊につながりました。
 
  その記事というのは、ケリー訪朝直後平壌に入ったオーバードーファー氏がワシントンポストに寄稿した「MY Private Seat At Pyongyan’s Table」(ワシントンポスト2002.11.10)です。
  オーバードーファー氏は北朝鮮の高官たちの取材をもとに、この記事の中で、
 ケリー国務次官補は、挨拶を交わす前に、北朝鮮が高濃縮ウラン製造の秘密プログラムを持っていると非難したこと、これに対して、翌日、北朝鮮の姜 錫柱第一外務次官が「増大する米国の脅威に対抗して国の安全を守るために核兵器を持つ権利を有している」と述べたため、これを米国側が「ケリーの非難が正しいということを認めたと解釈する」としたことなど、経緯の詳細を報じるとともに、
 「平壌での対話で私は、朝鮮半島の新たな核危機は対話が行われれば避けられると確信した。しかし、もしブッシュ政権が圧力と厳しいレトリックのみを適用するならば、危機がもたらされよう。われわれが会った北朝鮮の高官らは情勢について率直に議論し、米国の言葉や行動について怒りを表すときでさえ、きわめて冷静であった。われわれは、ウラン濃縮計画は中止されるべきだと主張した。もし米国が、隣国がしてきたように彼らの政権を受け入れるならば、彼らはその用意があるようにみえた。」と記していました。
 
 北朝鮮の核開発問題がその後たどった展開を考えると、実に冷静で深い分析だというべきです。

 あす8日から北京で六カ国協議の首席代表会合がひらかれます。

 北朝鮮の核開発計画の検証手順について試料採取の取り扱いをめぐって難航しそうだと各メディアで伝えられています。

 そんなときにあわせたように、
 「六カ国協議は当初、北朝鮮を封じ込めるために構想されたが、関与政策を決める場に変わった。外交修辞を尽くした文書はできても核廃棄に向けた実質的な展開はない。」
 「関与政策で北朝鮮が変わると考えるのはナイーブに過ぎる」
  《この記者は別の行で、”ナイーブ(幼稚)”としています》
 として、オバマ次期大統領が、北朝鮮の政治犯収容所で生まれ、2005年に収容所を脱出して韓国に逃れた「脱北者」の申東赫氏の手記を読めば、ライス国務長官やヒル国務次官補の路線からの「転換を決意するに違いない。できないなら『チェンジ(変革〉』の看板が泣く」という論説が新聞に掲載されました。

 林 東源氏の講演を聴いてきたばかりだったので、この米国通らしい?記者の論説を目にしたとき、オーバードファー氏の記事を思い出しながら、メディアで働くことはたやすくても、ジャーナリストであることはそれほどたやすいことではないのだと、しみじみ考えさせられたのでした。
 
 もういい加減に、薄っぺらな「圧力と対話」論をこえて、本質的に深い議論をしなければならないのではないか。
 
 そんなことを考えながら林 東源氏の講演を反芻したのでした。
 
 それにしても日本のジャーナリズムの困難を思い知らされる日々です。


   
posted by 木村知義 at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年12月02日

坂道を転げ落ちるが如く・・・

 きのう朝、新聞を広げて思わず声を上げそうになりました。
 「内閣支持率急落31%」(日経12月1日朝刊)という見出しが躍っていました。
 10月末の前回調査に比べて17ポイントの下落、福田前首相が退陣する直前の水準に近づいたということで、関連記事を掲載した2面には「政権迷走に視線厳しく」という見出しが載りました。

 麻生内閣の支持率が急速に下がったというのは別に驚くことではありませんので、そこで声を上げそうになったということではなく、予測した展開になるのがあまりにも早いことにです。

 自民党の閣僚経験者の話から、「最早迷走という段階ではなく、麻生内閣の『立ち枯れ』とでもいう事態がじわじわと広がっている」と、ここに書いたのは11月18日のことでした。

 その時点では、各メディアはそこまでの論調にはなっていませんでした。
 
 この記事を書きながら、私は自分のとらえ方に確信ともいえるものがありましたが、各メディアとはまだ距離感があったので、このブログの読者諸氏には、そうはいっても信じられないという感覚が残ったかもしれません。
 
 しかしその後の「展開」は急でした。

 新聞各紙、テレビなど各メディアの論調も、ちょうどその後ぐらいから雪崩を打ったように「麻生危うし」に変わりました。
 いまや「もうもたない!」というのが自民党内の空気となってきました。
 
 そしてきょうの産経です。
 「内閣支持率27.5%」「”麻生節”に冷たい目」という記事が一面トップを飾り?!ました。
 さらに3面には「麻生内閣支持率危険水域に」、5面には「自民に反麻生連合の兆し」とこれでもかこれでもかという紙面構成になっています。
 これはもう極めつきとでもいうものでしょう。

 よく、新聞記事の引用で埋めるブログが見られるので、そいうことはしない、オリジナルな情報とオリジナルな見方、切り口、分析でというポリシーではじめたこのブログですが、ここはちょと原則を曲げざるを得ません。

 けさの記事の書き出しの一部です。
 「自民党の細田博之幹事長は1日昼、国会内での政府自民党協議会で、『支持率に一喜一憂しません』と淡々と語った。
  『”一喜”したことがありましたっけ?』
  出席したある幹部は思わずこう突っ込みを入れたくなったが、努力してその言葉をのみこんだ。」

 麻生総理にとって、本来は心強い味方であるはずの産経新聞の記事がこうなるようでは、もう末期的と言わざるを得ません。
 
 放言、失言がどうのこうのという次元の問題ではなく、少なくとも内閣スタート時点で、この程度の総理、内閣を持ち上げていたメディアは、本質的なところで恥じて反省すべきです。
 
 放送は録画、録音でもしておかなければ残らないのですが、新聞は紙面として残りますので、ちょっと新聞の山をひっくり返すと遡って検証できてしまいます。

 麻生氏は「選挙の顔」云々と言われて自民党総裁選挙に圧勝したはずでしたが、その少し前、次期衆議院選挙に出る予定の自民党のある候補者の「励ます会」がひらかれた、9月はじめのことです。
 
 その当時は、自民党総裁選挙目前、そして、すぐにも解散総選挙という「臨戦モード」に入っていたときでしたので、その「励ます会」には総理経験者や派閥の領袖、党、政府の有力政治家がずらりと顔を揃え、メディアの注目度もヒートアップという状況。テレビ各局のカメラもほとんど全局が並ぶという、そんな熱気ムンムンの会場となっていました。
 
 各有力政治家のスピーチが重ねられる中、麻生氏は遅れて到着、候補予定者を激励するスピーチをしたのですが、なんとその候補予定者の選挙区を間違えてしまったのでした。
 都府県が全く違うので、会場を埋めた後援会の人々も一瞬ことばを失ったようでしたが、麻生氏本人は全く気づかずスピーチを終えて意気揚々と引き上げて行ったのでした。
 まわりも、まさか選挙区の都府県を間違えるなどということは予想もしていなかったでしょうから、あっけにとられたというのか、なんとも言い難い複雑な会場の空気になったものでした。
もちろん、何事もなかったかのように、「熱気にあふれた」励ます会は続いたのでしたが。

 こんな「昔の話」を蒸し返したのは、「選挙の顔」とは言ってもこれでは危ういなと思ったことを思い出すからです。

 そして、きのう、きょうの支持率下落の記事です。
 「副幹事長の一人は『もう麻生さんしかいないから、心中するしかないんだよ』と、ぽつりと語った」(産経12月2日)というのです。

 たしかに、先週会った自民党関係者からも「だからといって、では誰が代わるのかというと、これがいないんですよねー。困ったもんです・・・」としみじみ吐露するのを聞かされたばかりでしたから、この記事もむべなるかなというところです。

 しかし!と言うべきです。

 自民党の”みなさん”が「麻生さんと心中する」のは勝手でしょうが、国民にとっては迷惑千万と言うべきで、そんなことに付き合わされるいわれはまったくないと言うべきです。

 迷走などと言っていられる場合ではなくなってきました。
 
 坂道を転げ落ちる石はもう止められないというところにきていると言うべきです。
 となると本当に、私たちの不幸は、代わるべき“者”を持ち合わせていないというところにあるということではないでしょうか。

 この間の政治の退廃、衰亡は本当に深刻な問題を引き起こしたということでしょう。
 それをも私たちは正面から見据えて、この国の行くべき道を真剣に考えなければならないと思います。

 坂道を転がる石は止めようがないのですから。
 
posted by 木村知義 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年11月30日

地方で出会った学生たちと、地域のいま

 今月下旬、高知大学が取り組んでいる「学生支援プログラム」についての委員会で高知に出かける機会を得ました。

 このプログラムは地域社会での、なんらかの実践活動の企画、実施を通じて「自律型人材」を育てていくことをめざすもので、「社会と協働して行う教育プログラム」を掲げているものです。

 この取り組みを実践的にすすめるために、学生たちの企画能力や議論、コミュニケーション能力を育み、鍛える「場」を設けて、その上に学生自身がグループを組んで、なんらかの地域活動を自ら企画、提案して、地域に出かけて地域の人たちと手を携えて実践しようというものです。
 
 大きく言えば、大学教育の改革の取り組みの一環をなすものと言えるのでしょうが、「社会協働」と「自律」というキィワードに問題意識を刺激されながら「委員会」の一員に加わっています。

 このプログラム自体については、高知大学のしかるべき広報にゆだねることにして、ここではあえて深く触れることは控えます。

 しかし、今回出かけてみて、いわゆる地方の大学で学ぶ学生たちの生き生きとした活動にふれたことで、ただでさえ社会の閉塞感が募るいま、実にすがすがしく力づけられる思いがしたものでした。
 
 出会った学生たちはいずれも地域に足を運び、そこで地域に暮らす人々に出会い、というより、ある意味ではそこで「頭をぶつける」経験をして、地域に根づいて生き、暮らすということがどういうことであるのかを身体で学ぶという体験をしはじめていました。
 
 学生たちが足を踏み入れる地域というのは、高知県だからということではなく、現在の日本では地方の共通した状況だと言うべき、過疎化や高齢化の著しい地域で、何かの取り組みとなると必ずお年寄りたちとの出会いがあり、そうしたなかで学び、考えるという体験をすることになるわけです。
 
 学生たちと話をするなかで、この、お年寄りとの出会いがいかに若い世代にとって大事なものになっているのかを痛感しました。

 たとえば、医学部2年の学生たちの例です。
 ある村に入って、はじめ考えていた「生活の質の向上をめざす啓蒙活動」といった目標の設定の内に、いわば高みから見る「目線」になってしまっているのではないかと気づき、活動を根本から考え直して、「今、地域で学ぶべきこと、自分たちにできることは何なのか」と問題を立て直して、地域の実際から出発して、そこに必要なものは何かを見つけ出すという体験の場になっているのでした。
 
 そして、女性向けには、「べっぴんさん体操」というネーミングの体操を考え出して、おばあさんたちの筋力や運動機能の維持をはかる取り組みをしたり、男性には食事や運動の改善「道場」を開いて、一緒になって料理を作りながら健康維持について考えるという取り組みをはじめたというのです。

 この医学生たちが2年というのに、どうも少しばかりひねた「オッサン顔」?!なのに気づいて話を聞いてみると、いずれも一度大学を卒業し、ある者は社会を経験して、そこから医学の道を志望して再度大学の医学部を受験して入学したというのでした。

 前の大学では何を勉強したのかと聞くと、経営学であったり福祉であったりさまざまなのですが、高知大学医学部ではなんと2割ぐらいはそうした再入学もしくは学士入学の学生だというので驚きました。
 
 この学生たちの話では、多分全国の医学部のなかでも、その比率はトップもしくは上位に来るだろうということでした。
 
 今活動に入っている村に「恋した」とか、あるいは地域の診療所の医師の「目線」や立ち居振る舞い、村人との接し方がとても勉強になっていると、実に楽しそうに話すのを聞いていると、それぞれの問題意識の持ち方と目的意識が明確なことに、こちらが励まされる思いがしました。

 将来は地域医療に携わりたいという希望を語るこの青年たちに、こころから声援を送りたくなったものです。

 いま、医療のあり方、人材の育成、確保がさまざまに問題になるのですが、政策を動員して、緊急に解決すべきことが数多くあることは当然として、陳腐に響いても、やはり地域に根ざして暮らす人々と向き合いながら、具体的な人間の「生の営み」に肌で触れて、そこで医というものの本質的なあり方を考えるという体験を持つことの重要性に、あらためて目を向ける必要があると感じたのでした。

 また、一度大学で学んで、社会を経験して医学部を目指したという学生の話から、「純粋培養」かつ「促成栽培」で医師の養成を急ぐという施策の限界を知る思いがしたものです。
 
 今回は、医学生だけに限らず、農業を志して、農村に入って地域の人々に農業を学びながら農業の未来について考える活動を企画した女子学生のグループにも出会いました。
 
 農業の現状をなんとかしたいという仲間を増やす活動をしたいと目標を立てているのですが、聞いてみると多くが将来何らかの形で農業に携わることを考えていました。

 全員が一年生のグループでしたが、これまた大いに勇気づけられる女子学生たちでした。

 いびつなまでに東京一極集中がすすむ中で、地方大学という響きにはどこか「おとなしい」というか地味、もっと率直に言うと、疲弊と衰退著しい地域と一体となったイメージをぬぐえない印象も否定できないと感じていたのでしたが、どうしてどうして、むしろ地域のほうが、未来に希望を感じることのできる力強さにあふれているのではないかと思いました。

 もちろん、商店街などは「静か」で、閉店した店舗や取り壊されて更地になった「空き地」があちこちに点在するといった、全国どこの地方都市でも出会う風景なのですが、今回出会った学生たちには、熱と希望があふれていると感じました。

 日本の将来、あるいは大学改革を考える際に、こうした地域には示唆するものが沢山あると思いました。

 当たり前のことではあるのですが、私達が中央―東京というところにだけに目を奪われていてると、見えてこない「日本」というものがある!とあらためて考えさせられたのでした。
  
 目を地域へ!です。
 
 そしてメディアもまた、そうした地域への視線を大事にして、情報を掬い上げ、全国に伝えていく役割を果たすべきだと思います。
 
 いまこそ、地域へ、そして地方から、地域からという視点の重要性に目を見開く必要があると考えます。

 
posted by 木村知義 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2008年11月19日

『いやな感じ』・・・

 元厚生事務次官宅を狙った凄惨な連続殺傷事件が起きました。

 きのう、ブログ記事を書き終わったころ、二つの事件の関連性が浮上して、「テロ」という可能性も取りざたされる事態になっていました。

 事件の背景や、これが本当に「テロ」なのか、今の段階では定かではありませんが、きのう、このブログで、
「迷走が暴走に『発展』」していった苦い歴史を、いま一度思い起こしてみるべきではないか」
「そんな不吉な思いを振り払えない時代状況であることを、私たちはもっと深刻に知るべきではないでしょうか」
 と書いたばかりだったので、実に複雑な思いがしました。

 まだこの事件がどういうものかわからないにもかかわらず、メディアに登場する識者たちの「分析」に、年金にかかわる「鬱積した不満」について言及するものがいくつもあることを考えると、こうしたことが起きる「時代の空気」というものについて、深刻な思いが募ります。

 けさからの事件の報道を目にしながら、一冊の書物を思い出していました。
 高見順の『いやな感じ』です。

 夕方、陽に焼けて、埃をかぶって、すっかり黄ばんでしまったこの書物を本棚から取り出しました。
 1960年(昭和35年)1月から63年(昭和38年)5月にかけて「文学界」に連載されたこの小説は、高見順が食道がんでこの世を去る2年前に書き上げた長編です。

 手許に取り出したのは1974年3月に出版された分厚い文庫版の初版本ですが、その表紙の裏には、「戦争前夜の暗い時代を背景に、生命の燃焼に飢えた若きテロリストが辿る凄絶な運命を描いて、激動の昭和史の断面を鋭く抉りだした不滅の大長編」と記されてあります。

 アナキストからマルクス主義者、そして国家主義運動、「大陸浪人」さらには青年将校らのクーデタ計画・・と、時代の「空気」を映したさまざまな「舞台」が描かれ、主人公の加柴四郎が中国・上海に渡り、ついには中国人「捕虜」の首を、日本軍人の軍刀を借りて刎ねるという凄惨な結末に至ります。

 一度では首を切り落とせず、もう一度刀を振り下ろして、「血しぶきを浴びながら、『やったぞ』と快哉を叫んだ」が、それでもまだ「首がつながっている」、そんな惨劇のなかで(いやな感じ!)という文言がなんどか繰り返されるのでした。

 解説の筆を執った秋山駿は、この『いやな感じ』を、「二・二六事件あたりを中軸とする戦争直前の激動の一時期を、主人公である若いテロリストの内面の行動と共に、また、この内面の動きと鼓動を伝え合う時代の現実的な細部を、全体的な像としても、捉えて、描き出そうとしたものである」と記しています。

 また、この作品の完結の時期が「ケネディ暗殺の年」であることをとらえて、「この後しだいに、あの暴力というものが、人間の背後や社会の裂け目から、薄気味悪い顔をのぞかせて、われわれを戦慄させるようになってくる」とも書いています。
 
 後に「暗黒の木曜日」といわれる、1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所での株の暴落を引き金に起きた世界恐慌、そして1930年代の日本のたどった道を思い起こしながら、現在(いま)の社会の状況と照らしてみると、まさに「いやな感じ」が、じわじわと「薄気味悪い顔」をのぞかせてきます。

 今年6月、社会を震撼させた「秋葉原無差別殺傷事件」をはじめ、「誰でもいいから殺したかった」という残忍な事件があいつぎ、そしていま、今回の「連続殺傷事件」です。

 もう一度きのうの記事の一行を引くなら、

 経済の危機的状況、そして政治の「迷走」、行き場のない閉塞感・・・。

 いま、私たちがどんなところに立ち至ったのか、それぞれを切れ切れの「事件」としてではなく、大きく、深くとらえ、真剣に考えてみなければ、とりかえしのつかないところに行ってしまうのではないか、そんな危惧を抱きます。
 いやな感じ・・・。
 実に、いやな感じ、です。

 
posted by 木村知義 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録