2009年09月19日

動く!朝鮮半島、長白山で考えたこと・・・

 政権交代、民主党政権発足という、国内の「激動」ともいうべき動きを追うことが先になって、先月下旬からの中国・東北地方、中朝国境地帯への旅の報告が手つかずのままとなっていました。

 瀋陽から長春、延吉、龍井、長白山(白頭山)一帯、集安、鴨緑江沿いに丹東、そして大連まで、走行距離2600キロに及ぶ今回の旅は、あらためて近代日本と東アジアの関係を見つめ直し思索を深める旅になりました。

 同時に中国と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の国境地域をめぐりながら、あらためて朝鮮半島問題、とりわけ北朝鮮をめぐるさまざまな問題について考える旅になりました。

 今回は旅先のネット事情が分からなかったのでパソコンを持参しなかったため、現地、現場からの即時的なレポートをこのブログに載せることができませんでした。

 結果的にはどこでもネット環境は不自由なく整備されていて、情報ツールを持ってこなかったことを反省したのでしたが、その分PCに向かうのではなく、人や街との出会い、語らいそしてウオッチに時間を割くことができて、「旅」に集中できたと思いました。

 さてそこで、旅の中で見聞し、考えたことを書く際、単なる『旅行の記録』ではなく、できるだけ「いま」の動きに即して、そこにかかわる点にふれながら記してみたいと考えます。

 まず、旅に出る前後から朝鮮半島をめぐる動きは慌ただしくなっていました。

 すでに伝えられているように、「六カ国協議再開に向けた努力の一環として」という「留保」つきながら、米朝2国間の直接「対話」(協議)が現実のものになりつつあります。

 この間、米国側からもたらされた情報によるものですが、北朝鮮・朝鮮半島情勢は動くということを確信させる「うごき」になっています。

 とりわけ、米国が朝鮮半島の非核化にむけて「包括的」提案をする意向であることが伝えられ、目の離せない段階にきていることを痛感させられます。

 この動きに対して、依然として日本のメディアでは、「関係国の間では、北朝鮮との関係で『自国だけがバスに乗り遅れないか、関係国同士で疑心暗鬼になる』といった空気も漂い始めている。こうした事情から、米朝対話で米国側が『包括提案』を提示できるかどうかは微妙な情勢だ。」と「六者協議筋」という実体のわからない「スジ」をソースとして、ネガティブな伝えられ方もしています。

 そこで、私自身の頭の整理ということも含めて、この間の動きのポイントを時系列で整理してみます。

 いつも言っていることですが、ジャーナリズムというものは、「後証文」で、結果を見てから「実はそう思っていたのだ・・・」などともっともらしく語るのは恥ずかしいことで、動いている事態の真っただ中で、いまの「うごき」が何を意味するのかを的確に分析し今後どう動くのかを論理的に示す、まさに歴史の検証に耐えうる正確な解析、予測ができなければなりません。

 その意味で、さかのぼって動きを整理するという際にも、そうした点をわきまえて、自制しながら行うということが大事だと考えます。

 ある「情報誌」の9月号で「いまだに不可解なのは8月4日にクリントン元米大統領が訪朝し、金正日総書記と会談したことだ。国連安保理が6月12日に採択した対北朝鮮制裁決議を米国を中心に各国が実施しつつある最中、不法越境した米人記者2人の釈放を要請するために、大統領の経験者、しかも夫人は現在の国務長官である人物が『政府と無関係』に平壌を訪れた。米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう。」というくだりに出くわしました。
 
 クリントン訪朝を「不可解」とし「奇妙な動き」とするこの筆者のスタンスは、この間の米国の動きを懐疑的に見ているものであることは確かですが「米側が何らかの譲歩をしたと考えて当然だろう」という指摘は的を射ているというべきです。

 やはり、クリントン元大統領の訪朝の意味(と「限界」)を、その後の「動き」を見る中で確認しておくことは不可欠だと考えます。

8月10日 韓国現代グループ玄貞恩会長訪朝
北朝鮮の金永日(キム・ヨンイル)外務次官が、モンゴル・ウランバートルで同国の外交当局者らと会談した席で、近いうちに米朝関係に重大な進展があるとの立場を示し、米朝対話に向けた作業が最終段階にあることを示唆。

13日 3月30日以来開城工業団地で身柄を拘束されていた現代峨山の社員が四カ月半ぶりに解放され帰国。

16日 玄貞恩会長、金正日総書記と会見。会見後、現代グループと北朝鮮の朝鮮アジア太平洋平和委員会は、ことしの秋夕(旧盆)の金剛山での南北離散家族面会など、5項目からなる交流事業に合意し、これらを盛り込んだ共同報道文を発表。
主な内容は、
・毘盧峰観光を含めた金剛山観光の早期再開
・金剛山観光の便宜と安全保障
・陸路通行と滞在に関する制限の解除
・開城観光の再開と開城工業団地の活性化
・白頭山観光の開始
・旧盆の南北離散家族再会

18日 金大中・韓国元大統領死去
    クリントン元大統領、ホワイトハスでオバマ大統領に「訪朝」報告。オバマ大統領は「ホワイトハウスの緊急対応室(シチュエーションルーム)でビル・クリントン元大統領と約40分にわたって会談し、クリントン氏が今月北朝鮮を訪問したことにより、同国に拘束されていた2人の米国人記者の解放が実現したことに謝意を表した。」「その後大統領は、同氏を大統領執務室に招き、さらに30分ほど会談したという。」会談後「夫人のヒラリー・クリントン国務長官は記者団に対し「夫と同行者の報告は北朝鮮の情勢を理解する手がかりとして極めて有用だった」と述べた。(ロイター)
注:シチュエーションルームはホワイトハウス西ウイング、盗聴などを防ぐ特殊保安装置のある部屋。
 
19日 リチャードソン・米ニューメキシコ州知事、北朝鮮国連代表部の金明吉公使と会談。北朝鮮側は核問題で「新たな対話」の用意があると表明。ただし「6カ国協議の枠組みではなく、明確に直接対話を求めている」とした。

21日 金大中元大統領を弔問する北朝鮮代表団が平壌から特別機で空路ソウル入り。2008年2月の李明博政権発足後、北朝鮮高官が訪韓したのは初めて。弔問団は閣僚級の金己男朝鮮労働党書記を団長とする6人。

23日 金大中元大統領国葬
李明博韓国大統領、北朝鮮弔問団の金己男朝鮮労働党書記、金養建朝鮮労働党統一戦線部長(アジア太平洋平和委員会委員長)らと青瓦台(大統領府)で会談。金書記らは南北協力の進展に関する金正日総書記の口頭メッセージを李大統領に伝えた。

26日 南北赤十字会談、北朝鮮金剛山ではじまる。離散家族再会問題を協議。
最終日の28日、離散家族の再会を9月26日から10月1日に実施することで合意。離散家族の再会は、約2年ぶり。


 
 さて、そこで、今回の旅です。

 金大中元大統領の国葬がソウルで執り行われた日、長白山にいました。

 延吉にいた前日まで抜けるような青空だったのですが、この日は一転朝から雲が低く垂れこめ、ほどなく雨になりました。

 長白山に着いた昼すぎには雨も強まり風も出てきて気温が下がりました。

 長白山には4年前にはじめて登ったのですが、その折は素晴らしい青空で、頂上の天池は引きこまれるような深い青の水をたたえ、北朝鮮側までぐるっと見渡す360度のパノラマに感激したものでした。

 しかし今回は頂上に登ってみると、まさに一寸先も見えない深い霧。氷雨のような冷たい雨に強い風が加わって体温を奪い、震えながら頂上をあとにしました。

 そして少し下りたところにある温泉で身体を温めてようやく人心地ついたのでした。

 長白山には、北朝鮮側から登れないという事情から、韓国からのツアー客が大勢来ています。「死ぬまでに一度は白頭山(中国名・長白山)に登りたい」という韓国人が、まさに押し寄せている状況です。

 温泉にもそんな韓国人の一団が訪れていました。
 霧に包まれた露天風呂で身体を伸ばしていると「DJの葬儀に行かずこんなところに来てしまったので雨になったのだ!」というため息混じりの話声が聞こえてきました。
 
 ここまで来ても金大中元大統領への尊敬と思慕の念を忘れない「普通の人々」がいるのだと感じ入ったものでした。

 李明博大統領への辛口なもの言いとあわせ、韓国での金大中元大統領の包容政策(太陽政策)が韓国社会にもたらした深い影響について考えさせられました。

 また、長白山麓のホテルでは韓国KBSの衛星放送が伝える国葬の中継(録画で何度も放送された)に見入る人もいて、葬儀だけでなく北朝鮮の金己男書記と李明博大統領の会談(会見)のニュースにも注目が集まっていました。

 「金正日総書記からのメッセージはどんなものだろうか」
 「これで南北関係も少しは変わるのではないか」
 「いや、変わらざるを得ない!」
 などという会話が、食堂での夕食の際、交わされるのでした。

 「普通の人びと」の感覚の確かさを思い、あらためてメディアのあり方をふり返らざるをえなくなりました。

 こうした「変化のきざし」を導き出す「糸口」になったのは、やはり、クリントン元大統領の「完全にプライベートな」電撃訪朝だったことは明らかです。

 この訪朝に、日本のあるテレビのモーニングショーで、「日米同盟というのだからクリントンさんには日本の拉致被害者の解放についてもしっかりやってもらいたい・・・」などと、エコノミストとしての肩書で知られる?コメンテーターが言っているのを目にして驚いたものでした。

 なにを寝ぼけたことを言っているのだ!「しっかりやってもらいたい」と言うべき相手は日本の総理大臣であり、政治家でしょう!と怒鳴りつけたくなりましたが、スタジオでなんら恥じることなくこんなバカげたことを言い放ち、しかも、まわりのキャスターと呼ばれる人や他のゲストも「そうですねぇー」と言うに至って、唖然としたのでした。

 救い難いというべきメディア状況ではないでしょうか・・・。

 まさに、長白山麓で出会った韓国の「普通の人びと」の感覚に、朝鮮半島問題を考える際の重要なカギ(のひとつ)があると痛感したものでした。(つづく)



 








posted by 木村知義 at 02:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年09月11日

「政権交代」に何を見るべきなのか?!

 仙台から戻って、中国に出かけていた10日間も含めて、この三週間ほどの国内と世界、とりわけ北東アジア、中国、朝鮮半島の「動き」をトレースしていますが、「動き」と情報の脈絡を押さえるのが大変で、あらためて8月下旬から、アジアそして日本が激動のなかにあることを痛感しています。

 言うまでもないことですが、世界が歴史的な大転換期にあるいま、その「渦中」に身を置いていると、変化あるいは「転換」というものの歴史的な意味を的確に認識することがとても難しいということをあらためて痛感します。

 後から振り返って意味づけることは誰でもできる、といえば語弊がありますが、比較的たやすくできるのでしょうが、問題は動きの真っただ中で後の評価に耐えうる分析と問題の提示ができるか、さらには展望を語ることができるかどうか、まさに言論が厳しく問われるところだと思います。

 その意味ではこのコラムを書く筆が重くなってしまいます。

 以前にも述べましたが、書くべきことは「山積」していますが、まず政権交代です。

 民主、社民、国民新党の「連立合意」がなんとか成立して、メディアは新内閣の顔ぶれの予想と人物月旦に「懸命」です。

 またテレビやスポーツ紙では「芸能情報」として民主党の新人議員の「経歴」が面白おかしく伝えられています。

 「マスコミは、ただ批判すればよいという風潮が出来てしまって、『批判のための批判』という報道が多くなったことも、戦後の弊害ではあります。わたくしからみれば、『批判』でもなく、『評論』でもなく『面白おかしく茶化している』という感じです。別にNHKのようなスタイルがよいとも思っていませんが。『批判』も『批評』もだれのためのものなのか、視点が一番大事です。政治も、誰のための政治なのか。それが一番問題です。」

 これは日頃から私のブログのコラムやホームページの記事について厳しく読み込んで叱咤してくれている人物からきのう届いたメールに記されていたものです。

 また、「とにかく、自民党『一党独裁』ではないにしろ、『自民党ごまかし政権』を続けてきたツケを、解決していかねばならないわけで、政権交代を引き受けた民主党には、期待をするだけではなく、国民がみなで支える努力をしないといけません。」ともありました。

 いまのメディアのあり方を鋭く衝く指摘だと思います。

 誰が大臣になるのかの予想で盛り上がるのも、それはそれで重要な意味もあるわけですが、まさにどういう視点で関心を持つのか、なぜ、なんのために人事に注目するのかが問われます。

 一週間余りの仙台滞在中、夫妻で力を合わせて「コリア文庫」を主宰し優れた翻訳活動を重ねている青柳純一氏と2夜にわたって日本の政治状況、文化をめぐる状況、朝鮮半島情勢について意見を交わす機会を持ちました。
 
 また青柳氏の配意で、毎月、月刊総合誌を読み真摯な議論を重ねている年配の方々とも話し合う時間を持つことができました。

 そのいずれの場でも、当然のことながら、今回の「政権交代」をどうとらえるのかが最大のテーマになりました。

 そこから浮かび上がってくるのは、今回の「政権交代」が必ずしも民主党の掲げるマニフェストに盛られた「政策」のひとつひとつに同意、賛成したがゆえに実現したわけではないということです。
 
 いわば個別には賛成できないこともあるがそれでも民主党に投票したということで、民主党の掲げるものをすべてよしとしたわけではないということです。

 この点は極めて重要なところだと思います。

 つまり、それだけ多くの人に、なんとかして現状を変えなければならないという思いが強く、切実に働いたということであり、それが選挙を通じた「政権交代」を現実のものにしたということです。

 従って、そこには当の民主党がこの「政権交代」にこめられた国民の思いを誠実、正確に受けとめることができるかどうかという重い課題と、さまざまな留保をのりこえて票を投じた有権者、国民の側にも相応の重い責任が生じたということです。

 この点について青柳氏との討論では、「楽観の青柳、悲観の木村ですね、二人を足して二で割るとちょうどいいでしょうか・・・」と笑い話になったのですが、論点は「市民の力」という問題に集中しました。

 つまり、民主党の構成や政治思想、志向するものにはさまざま異論や問題があるが、それでも民主党を政権に押し上げた「市民の力」というものは、民主党自身が決して無視できるものではなく、大きな力として民主党を取り巻いていくことになるはずで、そこにこそ今回の「政権交代」の意味があるというのです。

 楽観と悲観について言うならば、青柳氏と私で考え方が異なるというのではなく、この日本で「市民の力」というものに期待と希望を持ちたいという点では一致するのですが、私は、本当にそれだけの「市民の力」が日本の社会に根付いているだろうかという点で、それほど楽観できないのではないかというものでした。

 もちろん青柳氏も楽観はしていないのですが、希望を持つことこそがこれからの歴史をひらく力になるという立場でした。

 そして、意見を交わす機会を持った年配の方々も、やはり「政権交代」を後退させないために市民の力が大事になる、問われるということで一致していました。

 こうして書いてみると、いかにもメディアの取り上げている問題や「論調」(これをもって本当に「論」というに値する質的深まりがあるかどうかはなはだこころもとないのでカギカッコに入れているのですが)などとかけ離れた、ユートピアのような議論をしているように響くかもしれません。
 
 現実の政治というのはそんなもんじゃないんだよ!という「玄人筋」の声が聞こえてきそうです。

 しかし、ここはまさに私たちもまたその一人である「市民」の声に誠実に耳をそば立て、耳を傾けてみなければならないのではないかと思います。

 つまり、政治をふつうの市民の感覚で考え、行っていくという、これまたごくごく普通のあり方を取り戻すことが、今回の「政権交代」にこめられた民意だったというべきではないでしょうか。
 
 そのような「玄人筋」の政治を転換するべきだというのが、今回の「政権交代」にこめられた意味だったというべきです。

 ここまで政権交代にもまたカギカッコをつけて語ってきたのはそうした意味を込めたもので、従来の政治屋的感覚で権力の移動をとらえ、「器」が変わっただけでここぞとばかり党利党略、私利私欲に走る構造を続けるならば、それこそ市民からのしっぺ返しに会うことを覚悟すべきだと考えます。

 またその意味で、われわれの一人ひとりが等しく、今回の政権交代を実現させた責任を自覚する必要があると思うのです。

 つまり、その意味で、そうした「われわれ」の一構成要素としてのメディアもまた等しく責を負うべきだという認識が問われてくるのだと思います。

 こうして考えてくると、民主党が政権についてまずしなければならないことは、「55年体制」といわれるものを含め、戦後の日本がたどった道筋のなかで、私たちの目から隠され、口をつぐんで覆い隠されてきたさまざまな「仕組み」や「問題」をどこまで洗いざらい白日の下にさらすことができるのか、そしてわれわれの検証に委ねることができるのかということではないでしょうか。

 週刊誌でさえが『民主党革命・日本が変わる』と表紙に掲げたのはこういうことを言うのではないでしょうか。

 もちろん私は、今回の選挙を通じての「政権交代」をもって革命だなどと夢のようなことを考えているのではありません。

 しかし、少なくとも「いまを変えなければならない」という多くの人びとの切実な思いの結集がこの「政権交代」であったという、この一点について、戦後日本社会のあり方を批判的に検証する立場から、あるいはもっと言えば近代日本のあり方を見据えながら、いましっかりと考えてみなければならなのではないかと痛切に思うのです。

 メディアで働く人びとの歴史意識もまた、その意味で厳しく問われているのだろうと思います。

 さて、スポーツ紙やテレビもまた、新人議員が「濡れ場」を演じていたなどと面白おかしくあげつらっている場合でしょうか。

 あるいは大臣の予想をあたかも競馬の勝ち馬予想のごとく語ることでしょうか。

 メディアであれ、われわれであれ、いま試されているのは、愚直なまでの真剣さ、誠実さではないでしょうか。

 そうした「ふつうの感覚」を取り戻すことの大事さをこそ、今回の選挙が、そしてその結果としての「政権交代」が語りかけているのだと確信するのです。



追伸、私の運営するホームページのなかの「小島正憲の凝視中国」のページに、小島氏からの最新レポート「民主党大勝:中国マスコミの意外な論評」をアップしました。
 また9月4日付の「ウルムチ暴動緊急短信」も掲載しています。せひご一読ください。

Webサイトは
http://www.shakaidotai.com/index.html
です。








posted by 木村知義 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年08月31日

「55年体制」終焉の先に・・・

 朝刊には「民主308 政権交代」「自民 歴史的惨敗」の見出しが躍りました。

 歴史的な大きな「変化」を、いま、私たちは体験しています。

 古典的「革命」理論によれば、議会を通じての「階級」間の権力の移行はありえないことになっていますが、少なくとも議会を通じた政権の移行は可能であることを、はじめて私たちは目の当たりにしていることになります。

 55年体制というものの崩壊、終焉が言われて久しい気がしますが、根底的な崩壊、終焉まで、奇しくも(ほぼ)55年を要したことになります。 

 それだけに、いま日本の政治に起きている「変化」を歴史の中でどう位置づけるべきなのか、選挙を通じた政権交代という「変化」の意味とこれからを深く吟味していく必要があると思います。

 鳩山由紀夫代表自身が語っているように、いまようやくスタートラインについたばかりということですから、新たな政権が問われることは、広く深いというべきですが、とりわけ、私の問題意識にふれて言うならば、鳩山代表が、選挙戦の中で語ってきた「東アジア共同体構想」については、近代日本の再検証とあわせ、深く分け入って考察する必要があると感じます。

 27日付のニューヨークタイムズに掲載された鳩山氏の論文「日本の新たな道」をはじめ、これまでの発言や論考をじっくり読み込んで、アジアのなかの日本のこれからについて深めていくことが不可欠だと思います。
 
 その作業をすすめる際、やはり、16日のブログに記した竹内好の「文章」のはらむ思想的な課題について忘れることはできません。
 近代日本にとって、アジアとは連帯と支配、侵略という二律背反の葛藤をはらみながらあり続けたという「両義性」をどう総括するのかという重い課題を私たちに突きつけていると言うべきです。

 私たちの心の奥深くに埋め込まれたこの矛盾をどう乗りこえていくのかという課題と向き合うことなしに、「アジアのなかの日本」のこれからを構想することはできません。

 きわめて困難で、重く深い、思想的命題だと思います。

 こうした課題をはじめ、このところ山積みになっている「問題」と格闘しながら、追々、考えるところを記していくつもりですが、8月下旬、中国・東北、中朝国境地域を歩いてきました。

 中国・東北(旧満州)を歩きながら、あらためて近代日本とアジア、中国、さらには朝鮮半島について思索を迫られる毎日となりました。
 
 およそ2600キロを駆け抜けながら、矛盾と葛藤に満ちた「満州」と一層重く向き合う日々が続きました。

 また中朝国境地域を歩きながら、まさに「指呼の間」というべき「向う岸」を見つめ、胸に深く突き刺さるものがありました。

 次から次と思いが募ることばかりですが、いま仙台にあってこれをしたためざるを得ない状況で、いま少しの暇をと思います。

 この間中国・東北への旅に出ていたため、HPの更新に手付かずでしたが、昨日、小島正憲氏の「凝視中国」の2本のレポート、「09年7月暴動情報検証」と「ブレながら上昇する中国経済」を掲載しました。

 いずれも、小島氏の慧眼、鋭い分析と現場主義に徹した考察に頭の下がる思いで、深く触発されながら読みました。

 ぜひご一読ください。
 サイトは
  http://shakaidotai.com/CCP056.html
  http://shakaidotai.com/CCP057.html 
 です。 


 

 
 
  
posted by 木村知義 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年08月20日

「続編」を書き継ぐべきですが・・・

 これまでの2回のコラムは、まだ続きを書かなければなりませんが、少し間隔があくことにならざるをえません。

 朝鮮半島情勢については、クリントン元大統領の訪朝、そして金大中元大統領の死去と大きな出来事があいつでいることも含め、書かなければならないことが積もっています。

 また、「8月15日」をはさんで、テレビで放送された関連番組についても、検証が必要だと感じています。

 そうしたいくつもの問題が重なっているのですが、同時に、中国・東北の中朝国境地帯のいまの「様子」を見て来るために、少し時間を取りたいと考えます。

 書き継ぐべきことは「その後」ということになります。

 なお、ブログでお知らせするのが遅れてしまいましたが、6月におこなった李 鍾元氏のインタビューをWebに掲載していますので、ぜひお読みいただきたいと思います。

 長いものですが、どうか熟読していただきたいと思います。

 以下のサイトです。

  http://www.shakaidotai.com/CCP045.html


posted by 木村知義 at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年08月16日

ふたたび、語るべき「悲惨」さとは何かをめぐって

きのう書いたことには「続き」がどうしても必要です。

まず、全国戦没者追悼式での麻生首相の「式辞」について、きのうは引用しなかった部分から始めます。

「戦争の教訓を継承」 戦没者追悼式 首相、加害に言及

これは、ある新聞のきのうの夕刊の見出しです。

見出しに続いて、参列者の人数など基礎情報を書いた後、
「麻生首相は式辞でアジア諸国への加害責任について言及し、悲惨な戦争の教訓を、次の世代に継承していくと述べた。」
と記事が続きます。

そこで、「加害責任」ということについて、式辞の原文で確認しておきます。

深く読み込み、注意深く読み分ける必要があると思います。

 「先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、愛する家族を案じつつ、亡くなられました。戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異境の地において亡くなられました。また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。
終戦から64年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の国民の、たゆまぬ努力の上に築かれております。
 世界中の国々や各地域との友好関係が、戦後の日本の安定を支えていることも、忘れてはなりません。
 私達は、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません。
 本日、ここに、我が国は、不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していくことを誓います。国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります。」

 ここでも、きのうのコラムで問題にした、「悲惨な戦争の教訓」という文言が登場します。
一見過不足なく語られているように見えますが、何をもって悲惨なのかについては明確には伝わってきません。

さらに「アジア諸国への加害責任に言及し・・・」と新聞で報じられたくだりは、誰でもわかることですが、戦後50年に際して出された「村山談話」を下敷きにしたものです。

 今度の総選挙には出馬せず引退することになった河野洋平前衆議院議長は朝日新聞のインタビュー「河野洋平の感慨」第4回のなかで、社会党の村山富市委員長を担いだ政権の歴史的な意味は何だったか、との問いに答えて、

「一つは村山・河野・武村(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作ったこと。戦争への反省、アジアへの謝罪を明確にしたのは日本にも国際社会にとっても極めて重要で、村山政権でなければできなかった。」
 
 と語っています。

 村山談話については、過去の侵略戦争と植民地支配について、認識と表現に本質的な限界も指摘されていますが、それでもとにかくここまでこぎつけたということでは河野氏の言う通りなのでしょう。

 しかし、問題は、とにかくこの村山談話を適宜引用しておけば、あるいは下敷きにして語っておけば、まあまあなんとかなるだろうといった、いわば「免罪符」として活用されるということが起きていることです。

 その意味で、村山談話はいいように「食い物」にされているといっても言い過ぎではないでしょう。

 心底そのように考えてもいない人物が、その場しのぎで使うために村山談話があるのではないということを、今私たちは深く考える必要があると思います。

 問われているのは認識の問題であり、思想なのです。
 口先だけで適当に語るのなら誰にでも出来ます。

 そうしたことを考えず、「加害に言及」などという見出しを掲げる新聞の、記者の認識の浅薄さが問われてしかるべきだと考えます。
 さてそこで、認識の問題であり思想的課題として横たわっているということについて、考えるための材料を提示しておきたいと考えます。

 少し長くなりますが読んでください。


 歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打ち顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。

 十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼ざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。

 何びとが、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争はみじめであるとしか考えなかった。実は、その考えのほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。ここに道があったかとはじめて大覚一番、顧みれば昨日の鬱情は既に跡形もない。
 
 (中略)

 わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。美言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといい、民族を解放するということの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。何者も枉げることの出来ぬ決意である。われらは、わが日本国と同体である。見よ、一たび戦端の開かれるや、堂々の布陣、雄宏の規模、懦夫をして立たしめるの概があるではないか。この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。
 
 東亜から侵略者を追い払うことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。
 
 大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。

 (後略)

 さて、これは一体何なのでしょうか。

 狂信的な国家主義者が書いたものでもなく、ファナティックな戦争賛美論者が書いたのでもありません。

 魯迅の研究者であり、アジアと近代、そして日本のありようを深く問い続けた思想家、竹内好が1942年1月発行の『中国文学』80号の巻頭に無署名で掲げた文章の一部です。

 勉強が足りないとはいえ、私自身、深く尊敬する思想家、竹内好をあげつらうためにこの「一文」を引っ張り出したものではないことは当然です。

 前年12月8日の米英との開戦にいたる、当時の知識人の精神のありようを知ることで、時代の「空気」というものを重く受け止め、戦争を総括し、歴史認識を深める上での困難(アポリア)について考え、それがいかに思想課題として重いものであるのかを知るために掲げたものです。
 
 近代というものと、あるいはアジアのなかの日本と(アジアと日本ではなく!)どう向き合うのかという重い思想課題を基底に据えることなく語られる「加害責任への言及」などアジアの人々の心に響くわけがありません。

 この問題はアジアと、あるいは歴史と向き合う際の私たちのありようにむけて、鋭い矢となって突き刺さってくることは当然です。

 ここ数日、テレビでは「終戦特集」の番組がいくつも放送されました。

 しかし、残念ながら、魂に深く届くものに出会えませんでした。

 放送については、稿を改めて述べることにしますが、昨日から問題にしている「戦争の悲惨」について語るということをめぐって、再度問いを記しておかなければならないと思います。

 さて、戦争の、一体何が悲惨だったのだろうか、何をもって悲惨と言うのだろうか、と。



 
 
posted by 木村知義 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年08月15日

語るべき「悲惨」さとは何か

 ブログのコラムの「間隔」が随分あいてしまいました。
 言い訳のできない間隔です。
 もちろんそれは自覚していますので、なんとかこの空白を取り戻すべく努力したいと思います。

 この間、クリントン元大統領の北朝鮮訪問、広島、長崎の「原爆の日」があり、そして総選挙にむけて「マニフェスト」をめぐる論議がさかんにおこなわれています。
 一昨日は麻生VS鳩山の党首討論が行われ、翌朝の紙面はこの記事で占められました。

 そしてきょうは「終戦の日」です。
 
 朝から、テレビは「きょうは終戦の日。戦争を知らない世代に悲惨な体験をどう伝えていくのか・・・」と繰り返し、新聞も「あの戦争の記憶をどう受け継いでゆくか。年々難しくなる課題に私たちは直面している」と綴っています。

 敗戦から64年の夏のことです。

 敗戦を「終戦」という言葉に置き換えて64年の時間を重ねて、依然として「ここから」一歩も出ることのない言説が重ねられるのを目の当たりにして、この国の言論に絶望的な思いを、今年もまた抱くのでした。

 では、「ここから」一歩も出ることのないという際の「ここ」とはどこなのでしょうか。

 北朝鮮問題をはじめ記すべきことが積み重なっているなかで、まず「きょう」のことから述べておこうと思います。

 きょう日本武道館で執り行われた「全国戦没者追悼式」で遺族代表の男性は「悲しい歴史を絶対繰り返さないことを改めて誓う」と語りました。

 麻生首相も式辞で「悲惨な戦争の教訓を、風化させることなく、次の世代に継承していかなければならない」と述べました。

 ところで、ここでいう「悲惨な」とは、あるいは「悲しい」というのは一体何をさして「悲惨」といい「悲しい」と言っているのでしょうか。

 さらに言えば新聞が語る「あの戦争の記憶」とは、何をもって受け継いでゆくべき「記憶」だと言っているのでしょうか。

 問題はここです。

 私は、毎年この日が来ると、いつも!同じ「問い」に立ち尽くしてしまうのです。
 物心がついて以来ずっと、です。

 残念ながらこの問いに答える(応答する)メディアは皆無と言うべきです。

 そのような「悲惨さ」「悲しい体験」を、メディアは語り続けて、もう64年なのです。

 否!語られていないわというけではない、と言うべきでしょう。

 その意味では「答え」は明瞭なのです。

 戦争で肉親を失った悲しさ、食べるものにも事欠いた戦時下の苦しい生活、空襲の下逃げ惑った地獄のような体験・・・と上げればきりがないほどの「悲惨」で「悲しい」あれこれです。

 さて、もう一度静かに考えてみましょう、何が悲惨なのかと。

 なにやらわけのわからない「問答」に時間を費やしようと思っているのではありません。しかし、こここそがすべての始まりであり、ここをあいまいにしてやり過ごそうとするから、わけのわからない「問答」を重ねなくてはならなくなっているのだと思うのです。

 私は、と思うのです・・・、私は、悲惨であったというなら、私たちの親や祖父、祖母たちの世代が、侵略戦争を押しとどめることができなかったことの悲惨であり、朝鮮半島をはじめとする植民地支配をやすやすと行わせてしまった悲惨ではないのかと思うのです。

 さらに言えば、一度として言論が戦争を押しとどめる経験を歴史に記すことなく今に至った悲惨もあると言うべきです。

 「なぜ肉親は戦場で死ななければならなかったのか?!」この問いへの答えは、「敵の銃弾に当たったから」などという子供だましのようなものではないことは自明です。

 そのような戦争をはじめたからにほかならないのです。
 
 ましてやいうところの「外地」での死であれば答えはもっと明白です。

 侵略の銃を執ったからに他なりません。

 では、空襲による「内地」での死はどうなのでしょうか。

 もちろんこの場合も、空襲による爆弾で、あるいは忌むべき焼夷弾によって焼かれてということが本質的な答えになるものではないことは明白です。

 なぜなら、そのような「悲惨な状況」は、なぜ、生み出されたのかということに答えていないからです。

 それは、正義のない、誤った戦争をはじめたからにほかありません。

 それを明確に語ることを避けて、戦争の悲惨さを語り継がなければならない、などともっともらしい事を述べ続け、あるいは書き続けてきたがゆえに、いまだに何も問題が解決せず「風化」してゆくのです。

 さらに、これまた当たり前のことですが、戦争とは「一人」でできるものではありません。
 
 「敵」が、つまり相手があってはじめてできる業です。

 であるならば、戦争について語ると言うのは、その戦争の歴史を両者で共有するということでなければならないはずです。
 
 では、そこでの戦争の悲惨とは、悲しい歴史とは、一体何なのか・・・?。
 なにも難しいことを言おうとしているのではありません。

 侵略戦争をはじめなければ肉親は死ななくてもよかったでしょうし、その戦争が発端となって「発展」した「帝国」同士の戦争で命を落とすこともなかったでしょう。

 つまり、なぜ肉親を失う悲惨を体験せざるをえなかったのかを考えるとは、なぜ戦争をはじめてしまったのかを考えることでなければならず、その戦争がどのような戦争であったのかを曇りなく突き詰める営為でなければならないのです。

 空虚な「悲惨」についてのみ語り続けて64年もの時を重ねてきたからこそ、戦争の歴史を共有できず、戦争の一方の「当事者」つまり侵略された側、あるいは植民地支配を受けた側から信頼を得られないのです。

 こんな「簡単明瞭」なことにどうして目をつぶろうとするのか。 なぜ本質に切り込んで物事を語ろうとしないのか。
 
 無知なのか、あるいは知りながらあたかもわからない風を装っているのか、それも含めて、私は何とも言い難いもどかしさに襲われるのです。

 「空襲で死んでいった人たちに守られて、いま私たちはあるのだと思います」などという、無知でなかったとするなら悪辣としかいいようのないコメントを得々と画面から語るキャスターはもう舞台から降りるべきでしょうし、「あの戦争の記憶、世代を超え、橋を架ける」などというもっともらしい題を掲げて活字を連ねることにも終止符を打つべきでしょう。

 間違った戦争をはじめたなら、たとえ意図するしないにかかわらず、それによって被る死は覚悟しなければならないということをこそ語らなければならず、侵略の銃を執るかぎり、その人の善意や徳目と無関係に、その責任は負わなければならないという冷厳な歴史の教訓を語るべきなのです。

 敗戦から64年。
 私たちは、その程度には歴史の前で謙虚に、そして賢明にならなくてはならぬと、今年もまた、思うのでした。

 私たちは、なぜ自己の「被害体験」については語ることができても、他者の被害体験について語ることができないのか、加害体験を直視できないのか、その悲惨についてこそ語るべきです。

 その「悲しい歴史の教訓」をこそ語らなければならない!のです。

 いたたまれないほどの歯がゆい思いで、今年の敗戦の日も暮れました。

 メディアが、そして私たち一人ひとりの認識と存在が、深く、厳しく問われています。










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2009年07月27日

続「世界第二の経済大国」そして、中国、日本・・・

  きのうの記事の続きです。
 ぜひ書いておかなければならないと思う問題が残っています。

 その前に、ひとつ。
 ある会合で自民党の大臣経験者の話を身近に聞く機会を得ました。
 もちろん来月末にひかえた選挙、そして巷間言われる「政権交代」について、話が及びました。
 というより、それに尽きるというべきなのですが・・・。
 
 以下は、私なりの理解に基づく、その時の話の要旨です。


 今度の選挙では政権交代が言われるが、どこが政権を取ろうとも、経済の再建が一番大事な課題となる。
 自民党はマニフェストがまだ出ていないが、民主党のマニフェストを読んで、外交・安保政策ということになると不安を禁じ得ない。
 このところ軌道修正しているとはいえ、外交・安保での大きな変更があるとすれば、国策、国益上好ましくない。
 たとえば国連中心主義も結構だが、空理空論ではなく、日米を基軸としながら、中国とも良い関係を保っていくということが大事だ。
 また、憲法をどうするのかも大事だ。しかし、民主党内はまとまっていない。
 自民党はすでに(憲法改正草案を)出した。
 この点でどんな憲法をつくるのかを言わなければ一人前とは言えない。
 政権交代も結構だが、政権交代をして何をするのかが明確ではない。
 「うっかり一票、がっかり4年」ということになりかねない。


 話はもっと多岐に及びましたが、主たるところはこうしたものでした。

 仮に政権交代ということになったとしても、自民党はしっかりした野党として、いろいろとやれることがある!と力説する姿に、下野を覚悟しつつも、いかにも悔しいという響きがこもっていました。当然と言えば当然でしょう。

 それにしても、「うっかり一票、がっかり4年」はよく言ったものだと、妙に感心しました。

 とともに、強力な風が吹いていると言われる民主党の痛いところを突いているなと、もちろん自民党やこの大臣経験者に共感するという意味ではなく、感じたのも確かです。

 外交・安保ということになると、自民党のいわゆる「タカ派」(私はこんなカテゴリーで物事をとらえていませんし、私自身のことばとしてはこういう用語は使いませんが)でさえ顔負けというスタンスの人々が、民主党には、大勢いることも確かです。

 とりわけ、中国、朝鮮半島への眼差し、アジア政策についていえば、とてもじゃないがこんな人たちに国政を委ねることはできないと思うこともしばしばです。

 ですから、本当に不幸です。

 まさに、選択の余地がなく、どこにも行き場のない状況だと言わざるをえません。

 こうした感慨について、まず、書いたのはわけがあります。

 ことばは下品で不穏当ですが、いまや、ミソもクソもへったくれもない!と言わざるをえない「状況」が目の前に広がるからです。
 
 それはいうまでもなく、北朝鮮の核あるいは朝鮮半島問題をめぐってです。
 
 きのう書いた中国の対日外交関係者の一人の話で、北朝鮮の核問題にかかわるくだりを思い出していただきたいと思います。
 
「北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。」と実に素っ気なく書いておきましたが、実は、このくだりに関しては、ただ黙って聞いていたわけではないのです。

 北朝鮮の核実験には絶対反対だ!北朝鮮の非核化をしなければならない、そのために忍耐も・・・という「原則論」に対して、私は、要旨次のような「問い」を投げかけてみたものです。

 先生は北朝鮮の核は絶対に許せないとおっしゃったが、私は中国が初めて核実験をした当時のことを思い返す。
 中国が核実験を誇る記録映画まで見たものだ。
 はっきりと記憶している。
 もちろん日中国交回復のはるか前のことだ。
 北朝鮮の核が許せないということは分かるが、ではそれですべてなのか。
 オバマ大統領ですら、といえば失礼だが、「核なき世界」を掲げ始めている。
 もちろんそれがことばでいうほどたやすい途だとは考えないが、それでも世界に向けてメッセージを発している。
 では中国はどうなのか。北朝鮮の非核化とおっしゃったが、めざすべきは世界の非核化であり東アジアの非核化ではないのか。
 もちろん、そうなると「核の傘」の下にある日本の私たちのあり方にも矢が戻ってくることは承知している。
 私たちも、「非核三原則」があるだとか「唯一の被爆国だ」などと言っていられる場合ではないということを覚悟しなければならない。
 それを踏まえた上で、では、中国はどうするのか。
 少なくとも、核保有五大国の特権を保障するというNPT体制の矛盾に対して自ら立ち向かわなければならないのではないか、あるいは東アジアの非核化にむけてイニシアティブをとって、世界に語りかけ、具体的な努力をするという姿を見せなければ、共感も得られないのではないか・・・。

 この「問いかけ」に対する答えは、実に淡々としたものでした。
 
 いや、私がそう感じただけかもしれません。 
 先方は「なんと青くさいことを言うやつだ、始末に負えんわい」というぐらいのことだったかもしれません。

 あなたのおっしゃることは、中国だけでできることではない。
 国際社会の協力が必要だ。
 中国の核に対する立場はこれまでも明確にしてきている。
 (中国としては先に核を使用することはしないということを宣明しているということを指すのだろうと、私は理解しました)
 核廃絶という問題はむずかしい。それを言うなら問題は(核弾頭の保有数からも)まず米国であり、ロシアではないか。
 日本では北朝鮮の核問題にかかわって(言うことを聞かせられないと)中国と北朝鮮を並列して非難している。
 中国と北朝鮮(の問題)はまったく性格が異なる。
 「核なき世界」はすばらしい。
 しかしそれを言うならまずアメリカだ。
 日本はそのアメリカに「核の傘」を求めているではないか。
 核廃絶を言うなら、同盟国として、もっと日本がアメリカに働きかけてほしいですね・・・。

 あくまでも私の理解で敷衍するならばこういうことだったと思います。

 そういうことではないでしょう、私が問いかけていることは!ということばは、当然のことながら飲み込みました。

 もちろん、私も、もはやかつて中国が掲げていたような、世界の被抑圧人民とともに!などという言説を中国に求めているわけではありませんし、そんな「夢物語」のようなバカげた感覚は持っていません。

 しかし、中国が、たとえば、途上国の一員としてといった言説をもって国際社会で発言する場面をしばしば目にする昨今です。

 あるときは途上国の一員として、またあるときは米国と並ぶ世界の大国の一つとして、というように都合良く使い分けられるとしたら、いくらそれが国際政治のリアリズムといっても、人々の共感は得られないのではないかと思うのです。

 ましてや、いよいよGDPで日本を抜いて「世界第二の経済大国」になるという現実を目の前にして、果たすべき責任というものもあるのではないかと、私は思うのです。

 「・・・米中関係は世界的範囲で戦略的協力関係が展開されようとしている。その結果、北朝鮮が米中間の矛盾を利用した瀬戸際外交を展開する余地は著しく狭められている。現北朝鮮政権は、これについての分析能力はゼロに近いようだ。さて、このような北朝鮮に対してまともな対応を図ろうとしても無駄である。正常な国家外交を行うようになるまで、辛抱強く待つ姿勢が必要だ。・・・」

 これはある新聞に掲載された、著名な中国人研究者の言説です。
 
 「忍耐が必要だ」と語った、対日外交担当者の一人の言と通底するものを感じながら、

 「現在、5カ国は北朝鮮への制裁をめぐって若干の食い違いがあるが、情勢の基本認識においては空前の一致を見ている。それは北朝鮮の現実離れの国際政治認識と中米関係の相互信頼の増進という国際情勢の大きな変化によるものである。」

 こうした言説をしみじみ考えさせられながら読んだものです。

 そういえば、きょう27日はアメリカワシントンで「米中戦略・経済対話」がはじまったのでした。

 世界のふたつの「超大国」による「戦略・経済対話」で、望むべくは、世界の「途上国」の人々への眼差しが失われないことをと、青臭いと嗤われることは承知で、切に思います。

 まもなくGDPで日本を抜いて、「世界第二の経済大国」になる中国。
 
 そして、中華人民共和国建国から60年。

 まさに、世界注視の中で、試練の時が近づいているというべきではないでしょうか。

 

 




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2009年07月26日

「世界第二の経済大国」そして、中国、日本・・・

 先日、日中関係にかかわる会合で、中国の対日外交関係者の話を聴く機会がありました。

 「北京の中日関係者の間では、どこでも、日本の政局の話でもちきりだ」と、中国の日中関係に携わる人々の、今の、主たる関心事は日本の政局の動向だという話からはじまりました。

 要は民主党は政権の座に就くのか、次の総理大臣は、そしてその場合の対中政策は・・・ということに尽きるのですが・・・。

 「3年前にようやく『障害』をのりこえて正常なレールに乗って、戦略的互恵関係を発展させるというところに来た。中日関係で歴史上初めて『戦略的』と謳った。昨年には海軍艦船の相互訪問も実現して、なかなかできなかった軍事交流もできるようになった。本当の信頼関係を実現していく長いプロセスを一歩一歩歩んでいる。戦略的互恵関係を推し進めるためにも戦略的な相互の信頼関係を築けるかどうかが重要になる。」
 と、とりわけ、戦略的ということを何度も強調して、日中関係の重要性をあらためて力説する話からはじまりました。

 そして中国は平和的発展をめざすということを強調しながら、日本国内にある「中国脅威論」にふれて、「日本の多くの識者は、中国の発展は日本にとって、脅威ではなくチャンスだと認識している」と語り、「この地域の大きな二つの国、日本と中国が、平和的発展を堅持する国として協力関係を発展させることができれば、これまでと全く違った局面がひらける」と語りました。

 また、中国と日本は東アジアの一体化のために貢献しなければならないとして、ASEAN諸国と日・中・韓の連携を強化することが重要だと語りました。

 ただし、一方では「中日がアジアで何かをやろうとすると、すぐ主導権争いになる。これでは戦略的互恵関係に合致しない」と率直なことばも漏れました。

 北朝鮮の核問題について、核実験には我々も絶対反対だとしつつも、北朝鮮の非核化のためには、制裁ばかりでは決していい方法だとはいえない、忍耐も必要だと、中国の原則的立場を重ねて述べました。

 これまでとは際立っていると感じたのは、話が経済問題におよんだくだりでした。
 
 昨年からの世界金融危機にふれながら、「中国の経済の発展、成長はかつてとは変わっている。今回の危機を通じて、貿易、投資の面でチェンジするいいチャンスだというべきだ。自国の経済を救うためではなく、世界を救うために二国間、多国間の協力が必要だ。そのなかで日中両国の協力がとりわけ重要になる」と、自信に満ちた言葉が相次ぎました。

 さらに、「今年、中国のGDPが日本をこえる可能性がマスコミでとり上げられている。日本国内には中国に対する『心配』も出ているが、これは自然の現象として、中日関係の発展にとってわるいことではない」と力強く語りました。

 「GDPで日本を抜いたとしても中国は平和的発展の道を歩んでいく。中国の発展によって中日の協力関係はもっと高いレベルになりうる!」と重ねて強調する姿に、GDPで日本を追い抜くという局面が予想よりも早まる可能性があるということに、いかに強い関心を持ち、注意を払っているのかが読み取れました。

 ところで、私などは日本から「世界第二の経済大国」という「冠詞」が取れることにいかほどの「痛み」も感じませんが、米国に次いで世界第二の・・・ということで自らを語ることができなくなる、しかも抜かれるのが中国ということが「許せない」といった感情が起きるのではないかと、懸念する人がいることもたしかです。

 事実、最近、ある実業界OBの親睦団体で、定例の会合で恒例となっている「講演」を中国経済の動向をテーマにしたらどうかという提案に対して、なんとも複雑な空気があって、結局「却下」されたということを耳にしました。

 う〜む、私などの感覚は甘いのかと、唸ったものでしたが、「あの中国に抜かれるのは我慢がならない!」という「空気」が生まれているというのです。

 この国の狭隘さを嗤うのは簡単ですが、事はそれほど単純ではないようです。

 どこか、行き場のない閉塞感と裏表をなして、敵愾心と複雑な「蔑視」が絡み合うように醸し出されて、じわじわと広がってきていることに危惧を抱かずにはおれません。

 社会の底流に堆積する「やりきれなさ」、鬱積する「絶望感」が排外主義と絡み合うとき、この国に何をもたらしたか、いま一度真摯に歴史をふり返ってみる必要があるのではないか・・・。

 杞憂であればいいのだが、と考えざるをえません。

 一方、中国にも、日清戦争以来の屈辱を晴らすときが来た!というような、ネット「世論」に見られるような空気も、なきにしもあらずです。

 話を聞いた対日外交関係者の力説するところはそれとして、いよいよ、日中関係はむずかしいところに来たなというのが率直な感慨です。

 それだけに、いまこそ、過去の歴史に深く、謙虚に向き合うことが大事だと、痛切に思います。

 1930年前後あるいはそれ以降の日本で、中国についてどんな論調が支配したのか、あるいは社会の「空気」はどんなものだったのかをふり返ればふり返るほど、深刻にならざるをえません。

 時を隔て、時代も移ろい、世界も大きく変わったことは認めつつ、しかし、時代の「空気」というものの、恐ろしいまでのアナロジー(類似性)に、ことばを失うばかりです。

 選挙だ、「政権交代」だと浮かれているわけにはいかない、そんな思いの募る日々です。


 さて、こうした問題にも触れる、実に興味深いレポートが小島正憲氏から届いています。
 「稲荷大社と関帝廟」というなにやら「判じ物」のようなタイトルですが、実業家という立場から、小島氏独特の諧謔も交えながら、寸鉄人を刺すというべき、問題提起の一文です。
 ぜひ、ご一読ください。

 サイトは
 http://www.shakaidotai.com/CCP042.html
 です。
 

 






 


 
 
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2009年07月21日

生老病死と「何のために」のはざまで・・・

 この間、朝鮮半島をめぐる問題、イランの大統領選挙その後、中国の「ウイグル問題」とユーラシアの民族問題などの研究会に参加して、世界、とりわけアジアの現在(いま)の動きについて考える日々が続きました。

 また、メディアとのかかわりでいえば、いくつかの放送番組の企画をめぐる検討、議論に参画して、これまた今年から来年にかけての世界と日本についていろいろな角度から考えをめぐらせる必要に迫られました。

 しかし、そうした「動く現在(いま)」について考えながら、一方では慌ただしく過ぎる日常への、いささかの「内省」の思いが頭をもたげてきて、うまく制御できずに困るというのか、思いがどんどん巡って、さて、いまなすべきことは何なのかと考える日々になっています。

 こうした「内省」の契機は、この間、ごくごく短期だったとはいえ病院というところに身を横たえ、生まれて初めて身体にメスを入れるという体験をしたことと無関係ではないように感じます。

 重篤な病気で入院している人がほとんどの大学病院の外科病棟で、私などは、病といえるほどのものではないのですが、それゆえにというべきか、あらためて「生老病死」というものについて考えさせられる時間になりました。

 ごく短時日でたいしたことではないにしても、一応入院生活ということで、その間で読み切れる薄い書物を一冊持って行きました。

 結果的には、手術後翌日までは点滴につながれ絶対安静、絶食を強いられたので、書物を読むことができたのは、その後の、実質1日半ほどでしたが、持参したものは読み切ることができました。

 その書は柄谷行人氏の「政治を語る」でした。
読んでみて、このタイトルはかならずしも適切ではないと感じるのですが、要は柄谷氏の60年代以降の思考の経路をふり返りながら、氏の問題意識の歩みをたどるという趣の書でした。
 
 その意味ではタイトルを、「思想を語る」とでもすべき書だと感じました。

 これまでも氏のいくつかの著作を読み、というより1960年代末に文芸誌「群像」の評論部門で新人賞を受けて「文壇」に颯爽と登場した氏に鮮烈な印象を抱いて以来、折々に書物を読む機会を持ってきて、しかし、私にとってははっきりとは読み解けなかった「思考の経路」、つまり思想的遍歴が、より明確に見えてきて、柄谷氏が何と「たたかってきた」のかが、つまり、柄谷行人という存在の意味がわかったという気がしたのでした。

 私は柄谷氏と言葉を交わしたことはなかったのですが、一度だけ身近に「身を置いた」ことがありました。

 畏友、藤原良雄氏が主宰する藤原書店から「日本語と日本思想」を上梓した浅利誠氏がフランスから帰国してひらかれた「合評会」に参席する機会を得た際、私から一人か二人おいて左の席についていたのが柄谷氏でした。

 しかし、この会が急遽持たれたため、別の予定があった私は浅利氏の報告が終ったところで中座せざるを得ず、柄谷氏がどういう発言をするのかを楽しみにしていたにもかかわらず、聞くことも、ましてや、ことばを交わすこともできずに終わったのでした。

 それはともかくとして、病院のベッドでこの書を読みながら、頭脳明晰というのか、俗にいえば「やはり世の中には頭のいい人は、いるものなのだな・・・」ということがひとつ、もうひとつは、これまた通俗的な言い方ですが、やはり深く勉強しなければダメだ、思索を深く、深く掘りすすむ営みを重ねなければということを、またあらためて思ったのでした。

 書物を読み、ものを考えるということにおいては、一応人並みというのか、それほど恥じなければならないものではないという思いがこころの片隅にありながら、しかし、自己の浅さ、狭さを思い、私の「小ささ」に思いをめぐらせたのでした。

 私にとって、静かに生老病死について考えることを迫られるというのは、こういうことなのかと思ったものでした。

 時間というものと、自己の存在というものを直視せざるをえない病院のベッドでの感慨でした。

 そして、このところ研究会やあれこれで慌ただしく過ごしながら、短時日とはいえ病院のベッドで過ごさなければならなくなった、いわばその「引き金」となった原因ともいえる「重い書物」の山から、ふと一冊を手にして、一層その思いが募りました。

 本当に偶然手にしたその書には、高橋和巳の闘病の記である「三度目の敗北」という一文がありました。

 「疾病にもそれを通してなされる認識の深化はあるはずであり、私にも一、二悟るところがなくはなかったとはいえ、人間存在が好むと好まざるとにかかわらず持っている対社会的関係性がその期間極小化されて、ただ存在の苦痛という一点に集約されてしまうことがすばらしい状態であるはずはない。」

 と書く高橋は、重篤な病魔との闘いについて、
 
 「脳の動きも、生命を支える中枢である脳幹の作用を残して、大脳皮質、その理性的機能はもちろん、感情や想像力も目に見えておとろえてゆくのが、自分にも解ったものだ。」

 としながら、

 「もっともそれは病者にとって、一種の救いでもあって、客観的に重篤とみなされる状態の時には、本能的な生命への執着はありながらも、し残した仕事やそれまでの人間関係の対立抗争についての意識はぼやけていて、なにか徹底的に受け身で寛大な気分になっているものだ。その寛大な気分のあいまを縫って、脳裏を駆けすぎるさまざまのイメージも、それがたとえ浄土の表象ではなくても、現実の人間の諸相が持っている地獄性もまた薄らいでいる。」

 と記しています。

 京都大学での学園闘争の真っただ中、病に倒れ、「造反教官」なるレッテルの下で、「苦悩する知性」として情況と対峙し続けた高橋和巳のベッドでの姿が哀切なまでに浮かび上がってくる文章です。

 「・・・またもし幸いにして死生の境から還行することができれば、なにか物すさまじい転機がその人に起るはずである。だが悲しいかな、私たち凡俗の者にとっては肉体の衰えは同時に思考や情念の衰弱であり、優しくもの悲しい気分も、生の帰結というよりは、幼時への退行にすぎない。もっとも日常的には意識にのぼらなかった遥かなる記憶が病床で不意に蘇るということはあって、ああ、私にとって本当はこういうことが気懸りだったのかと悟ることもなくはない。」

 病というほどの病でもなく、ましてや高橋などとは比較にならないほどの「凡俗」である私などは、深さにおいても「物すさまじい転機」など望むべくもないのですが、それでも、ああ、私にとって本当はこういうことが「気懸り」だったのかと悟ることはあるものです。

 もちろん「世界と時代の現在(いま)」に目をふさぎ、状況にかかわることなくあれこれと時を重ねることの愚は犯してならないと思いつつ、しかしここにきて、本当に歴史に深く根ざす思念の重要性を痛感するなかで、いたずらに目の前の「うごき」に目と時間を奪われるのではなく、じっくりとした研鑽と思索が、いまこそ必要だと、またあらためて感じるのでした。

 「状況への発言」あるいは「情況」について語る言説は数々あるのですが、いま問われなければならないのは、何を語るのかの前に、何のために語るのかではないかと思います。

 そのためには、いたずらに状況に流されず、深く読み、深く考えるという研鑽と思索の時を持たなければと痛切に思うのです。

 言説の、あるいは言論の厳しさを、いままた時代の大きな転換期を迎えて、痛切に思います。

 何のために語ろうとするのか。

 その、「何のために」ということが厳しく問われているのだと、いまさらながらですが、思います。

 当たり前のことでありながらそれだけに難しい、まさにこれこそが「現在の困難」(アポリア)として存在していると考えるのです。

 高橋がこの一文を書くことになった入院先と、場所は異なるのですが、奇しくも同じ大学病院だったことに加えて、高校生時代に当時の「朝日ジャーナル」に連載された高橋の「邪宗門」を読んだことでその後の私の生き方や人生観に大きな影響があったことなどをふりかえりながら、いままた、「何のために」ということを反芻して考えることになりました。

 ここ一、二年の「『蟹工船』ブーム」、あるいはマルクスの再評価などを考えると現在の社会が何に行きあたっているのか明白なのですが、こうした「マルクス再評価」もまた社会現象としてのブームやファッションに終わらせてはならないと思います。

 「いくら現実を批判してみても、その批判には、あいかわらず、現実がしみこんでいる。だから、自分のなかの現実と対決しないでは現実をみることができない。現実をみるとは、現実をあたらしくすることである。」

 これまた、学生時代に出会った、状況と緊張関係の中で対峙しながら生きた哲学者の言説の一部です。

 いま、私が自身のありかたにかかわって、あれこれに慌ただしく流されるのではなく、じっくりとした深い学びと突きつめた思索の必要性を痛感する所以です。

 大学病院の外科病棟での「短期滞在」を終えて外界に出て、まず手にした書物が竹内好の「予見と錯誤」そして「方法としてのアジア」であり、「尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア」でした。

 いま胸の奥深くで、深い思索をという声とともに、何のために?!という問いかけが重く響きます。

 先ほど、テレビによって衆議院の解散が伝えられました。
 この間のあれこれに一層輪をかけて喧しくなるでしょう。

 しかし、です!

 時流に流されず、目先の「利得」に右往左往せず、時代と対峙する精神のありようについて、あらためて反芻する、いま、です。

 何のために考え、何のために語り、何のために生きるのか。

 まさにこここそがすべてをわける分水嶺です。

 それが厳しく問われる時代に、私たちは生きているのだという、当たり前ではあっても実に困難な命題を、いま一度思い起こす必要に迫られているのだと思います。








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2009年07月13日

ウルムチ暴動緊急短信

 中国の新疆ウイグル自治区での「暴動」について、小島正憲氏から、きょう午後、「緊急短信」が届きました。

 先ほどホームページにアップしました。

 イタリアのラクイラで開かれたサミットの、新興国グループが参加する主要経済国フォーラム(MEF)に出席する予定だった、中国の胡錦濤主席が急きょ帰国することになった、ウルムチ「暴動」については、依然としてその実体、真相があきらかになっていません。

メディアでは漢族とウイグル族の対立、ウイグル族の「怨念」ともいえる差別、支配に対する「怒り」などが伝えられていますが、一方ではさまざまに分析や「説」が分かれてます。

なかには、サミットのフォーラムで取り上げられるテーマについて「議論」を避けたかった胡錦濤主席にとっては、帰国の口実になる、「渡りに船」ともいえる「暴動」だったという見方を示す人もいます。

 中国のメディアが伝えているように、

「民族分裂を図るラビアをはじめとする『世界ウイグル会議』」が、「国外から指揮、扇動」し、「国内の組織が実行した計画的、組織的な暴力犯罪」

 という、いわば海外から「指嗾」されて起きたものかどうかについても、厳密な検証が必要です。

 ましてや、日本のメディアが伝える「人権」レベルの問題なのか、相当慎重な分析が必要でしょう。

 そんな折、小島正憲氏から、実に示唆深い「緊急レポート」が届きました。
 こうした際、皮相に流れがちな、メディアの報道や、私たちの「思いこみ」に対して、鋭く警鐘を鳴らす「短信」といえます。
 ぜひ、ご一読ください。
 サイトは、
 http://www.shakaidotai.com/CCP041.html
 です。
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2009年07月08日

続・核持ち込み密約報道をどう読む・・・

  前回のコラムで「この間の政治の液状化、政権の「迷走ぶり」を目の前にして、その背後で、確かに、いま、何かが動き始めていると確信する」と書きましたが、その動きは急です。

 今朝の読売新聞の一面トップには、

 「核の傘」日米協議へ 有事の運用確認 月内にも初会合

 という見出しが躍りました。

 前回のコラムで引いた『WEDGE』7月号に掲載された「北朝鮮の暴走 日米同盟強化のため今こそ核の傘の議論を」の筆者、読売新聞政治部次長の飯塚恵子記者によるワシントン発の記事です。

【ワシントン=飯塚恵子】日米両政府は7日、米国の「核の傘」を巡る両国の協議の場を初めて正式に設け、月内にも初会合を開く方向で検討を始めた。

 複数の日米関係筋が明らかにした。外務、防衛両省と米国務省、国防総省の局次長・審議官級の枠組みとする方向で、協議では、有事の際の核兵器の具体的な運用に関して日本側が説明を受け、オバマ大統領が目指す大幅な核軍縮と核抑止の整合性などを話し合う。
 
 日本に対する「核の傘」は、日米安全保障条約に基づき、米国が保有する核兵器によって日本に対する第三国からの核攻撃を抑止する仕組みだ。米国は、同様の仕組みを持つ北大西洋条約機構(NATO)諸国とは、有事の際の核兵器の運用や手順などの具体的な情報を共有している。
 
 これに対し、唯一の被爆国である日本では、国民に核兵器への抵抗感が強く、運用について協議すれば、野党などから強い反発が出る状況だった。また、米側には日本の機密漏洩への懸念も根強く、日米間ではほとんど議題に上らなかった。
 
 しかし、北朝鮮が5月に2回目の核実験を行い、中国も核戦力の近代化を進めるなど、東アジアの安全保障環境は不安定さを増している。米韓両国は6月、米国による「核の傘」の韓国への提供を明記する首脳合意文書を交わした。日本政府でも「核の傘」の有用性を再確認し、米側から運用の具体的説明を受けるべきだとの声が高まっていた。
 
 一方、米側では、オバマ大統領が4月、究極の目標として「核兵器のない世界」を目指す考えを表明した。今月6日のロシアとの協議では、12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START1)に代わる新たな取り組みとして、核弾頭配備数を双方が最低レベルで1500個まで大幅削減することで合意した。
 
 新方針は、オバマ政権が12月にまとめる、米史上3回目の「核戦力体制見直し(NPR)」に反映される予定だ。日本としてはこの時期までに、有事に備えた「日米共同作戦計画」に核兵器使用がどう組み込まれているかなど運用について説明を受けたうえで、日本側の要望を伝える考えだ。NPRの全容は非公開で、協議内容も基本的には公表されない見通しだ。
 
 この一面の記事に加えて、飯塚記者は二面の「解説記事」で、

 「日米両政府が『核の傘』に関する協議を初めて正式に行う方向で検討を始めたのは、北朝鮮の核開発の進展などを受けて、『核の傘』の信頼性の確認を日本側が求めたのがきっかけだ。」

 「日本側の懸念は、米国の核軍縮や核弾頭の老朽化の中で、「核の傘」は有事の際に本当に機能するのか、という点にある。」

 「一方、米国でも保守系議員や識者らを中心に、『米国が信頼できる「核の傘」の姿を示さなければ、日本や韓国は北朝鮮などの動きに対処するため、自ら核武装するのではないか』という警戒感がうまれている。こうした事情から、米政府も日本の要請を受け入れる必要があると判断した。」

 と書いています。 

 けさの各紙の中では読売の「特ダネ」として掲載されたこの記事ですが、先にふれた『WEDGE』7月号に掲載された飯塚氏執筆の内容と見事に平仄が合っていることに気づきます。
 
 またけさは、毎日新聞の一面トップには、

 核艦船寄港の容認検討 三原則修正 74年、田中内閣時 大河原元駐米大使証言

 という見出しで、

 「1974年11月のフォード米大統領(当時)の来日に合わせ、日本政府が非核三原則の「持ち込ませず」を事実上修正し、核搭載艦船の寄港を公式に認める方向で検討をしていたことがわかった。外務省アメリカ局長から官房長に就任していた大河原良雄元駐米大使(90)が毎日新聞の取材に明らかにした。核搭載艦船については60年安保改定交渉時に結ばれた寄港を認める密約がある。現職米大統領の初来日をきっかけに密約を解消し米国の核の傘を明確化する動きだったとみられる。」という記事が載りました。
 
 この動きは、金脈問題などにからんで当時の田中首相が退陣したため「話はそのまま立ち消えになったという。」としています。

 毎日も二面に「解説記事」を掲載して、その末尾で須藤孝記者は、
 
 「米国の『核の傘』という現実と、非核三原則に象徴される唯一の被爆国の立場との間の矛盾を密約であいまいにしたことが、日米間の不透明な関係を作った。その矛盾は今も変わらない。
 
 オバマ米大統領は『核兵器のない世界』を掲げ、新しい核政策を推進しようとしているが、北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の「核の傘」は今すぐには手放せない状況にある。
 
 しかし、日本の核政策の根本にある矛盾に日本政府が向き合わない限り、日米関係に潜む不透明さはより増幅されていくだろう。」

 と述べています。

 ただし、私の読解力が足りないのか、「北朝鮮の核実験の脅威を受ける日本にとって、米国の『核の傘』は今すぐには手放せない状況にある。」ということと、最末尾の「しかし」以降のくだりが、一体何を言おうとしているのか曖昧で、要は非核三原則を見直せと言っているのか、守れと言っているのか、須藤氏の考えるところが明確には読み取れないのですが、それにしても、証言者は、またもや外務省元高官です。

 この前の日曜日(7月5日)の午前、NHKで放送された「日曜討論」で外務省OBの岡本行夫氏は、非核3原則の「見直し」について、政策論議はあってよいと思うとして、少なくとも核搭載艦船の領海通過は認めていい、その意味では「3点5ぐらい」でもいいのではないかと述べていました。

 この「日曜討論」では、拓殖大学学長の渡辺利夫氏が「集団的自衛権の行使」について、政策概念であって法理概念ではない!明日からでも政府解釈で変えられることだ、として、「日本の核」についても、保有、レンタル、開発などさまざまな選択肢について議論すべきだと主張していました。

 「核」にかかわる日米の「密約」問題についての外務省元高官の証言による「スクープ」で「火がついた」この問題ですが、こうして見ると、今回のあれこれが偶然の符合などではないことが一層鮮明に見えてきます。

 前回のコラムで、「スクープ」をめぐる風景が一変すると書いた所以です。

 また、「メディアで仕事をすることの容易ならざる『手ごわさ』を思い、複雑な気持ちになるのは、さて、私だけなのだろうか」とも書きました。

 そこでもうひとつ、きのう(7月7日)の産経新聞「正論」欄に元駐タイ大使の岡崎久彦氏が「村田発言の誠意を無にするな」と題して筆を執っています。

 岡崎氏は冒頭で、

 「核問題に関する村田良平・元外務次官の発言を新聞で見た時は、私はこの問題の新たな発展を期待して胸を躍らせた。

 村田氏とは電話一本していないが、捨て身の発言であることは聞かなくても分かる。公務員には職務上知り得た秘密を守る義務があり、それは退職後も適用され、懲役1年に及ぶ罰則もある。その危険を敢(あ)えて冒しても真実を語ろうという覚悟と見受けられた。

 永年の牡蠣(かき)がらのように固まった政府答弁を崩すにはこの位の捨て身の業が必要なのであるが、その後の展開は従来と全く変わらないのには失望した。」

 と、「密約問題」について証言した村田元外務事務次官の「捨て身の業」を賞賛しながら、しかし「その後の展開」が「従来と全く変わらない」ことに失望したと嘆いています。
 
 しかし、少なくとも、岡崎氏の「失望」についていえば、「心配には及ばない」?!と言える展開になってきているのではないでしょうか。

 それはとりもなおさず、私たちにとっては「大いに心配な」展開なのですが・・・。

 外務省元高官が何人も登場していますので、最後にもう一人、外務省OBの言説に耳を傾けておきたいと思います。

 それはこの4月まで日朝国交正常化交渉政府代表を務めた美根慶樹氏です。

 昨日、あるジャーナリストの会合で美根氏のお話を聴く機会を得たのですが、日朝交渉にかかわる部分はオフ・ザ・レコードの約束ですのでここで詳らかに触れることは控えます。

 ただし、核問題にかかわっては、先月はじめ(6月4日)の朝日新聞のオピニオン欄に「オバマ軍縮 非核国への核不使用から」という美根氏の所論が掲載されていますので、それを活用しながら、昨日のお話の重要な「示唆」について記しておきたいと考えます。

 美根氏は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」として「核廃絶」に向けて努力することを語ったオバマ大統領のプラハ演説について「日本人としては感動した」としながらも、「しかし、核の使用については何も語っていない。オバマ演説は、自国がしていることの意味を客観的にとらえられていない・・・」と力を込めて語りました。

 北朝鮮の核実験は「相変わらずの暴挙だが、北朝鮮なりの事情もあれば、考えもある。とくに北朝鮮は米国からの核攻撃を恐れているが、米国は歴代政権の一貫した方針として核兵器を使う可能性をいつも残している。北朝鮮はこの安全保障上の問題がある限り核兵器を放棄しないだろう。
 
 90年代の米朝枠組み合意でも、また6者協議でもこの問題は取り上げられたが、米国は不完全な対応しかしなかった。これに対し、北朝鮮は安全保障を確保する必要から核開発するという態度をとってきた。北朝鮮の核問題を解決するには、査察の強化もさることながら、米国が北朝鮮に対し、『核兵器を保有し続ける限り核攻撃する可能性は保持する。北朝鮮が核兵器を放棄すれば攻撃しないことを明確に約束する』という論理で迫っていくべきだ。」
(朝日 2009年6月4日オピニオン欄)
 
 とする美根氏は、
 
 「このように交渉するには、米国が政策変更し、核兵器を持たない国には核攻撃しないこととしなければならない」と強調し、オバマ演説が核廃絶について語りながら「核兵器の使用問題」については何も触れていないと、鋭く問題を指摘しています。

 私たちは、美根氏の言説にこそ、いま耳を傾けるべきだと思います。

 さて、ここまで見てきたメディア状況を考えると、あるいは記者たちの記事と美根氏の言説を重ねてみると、ジャーナリストたらんとすることはなんと「手ごわい」営みだろうかと気の遠くなる思いがします。

 いや!記者は「事実」を伝えるのが仕事であって意見を述べるのは本務ではないという声が聞こえてきそうです。

 さて、そういう人とは、では「事実とは何か」という本質的な議論をしなければならないでしょうね。

 問題意識のありようについて問われているということが、問題の核心なのです。
 
 問題識とは何か?!

 まさかそこまで語らなければ話が通じないということは、ないでしょう。

 否、ない、と信じたいと思います。


 この間の「核密約問題」報道をどう読み解くのか、いまメディアが内包する問題性と、私たちの問題意識のありように鋭く迫る問題としてあることを痛感します。









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2009年06月30日

核持ち込み密約報道をどう読む・・・


 6月もきょうで終わります。
 一年の半分が過ぎたことになります。

 政治は迷走などということばではとても言い表せないほどの液状化がすすみ、言うべきことばも見つかりません。
昨年秋以降、今年初めにかけて、このコラムで迷走する麻生政権について「立ち枯れ・・・」と書きましたが、その後の経過を見ると、まさにその通りの展開だと言わざるをえません。

メディアではあいかわらず解散総選挙はいつ・・・ということが云々されていますが、その「背後」で極めて重要な「スクープ」があったことを忘れるわけにはいきません。

 スクープにカギカッコをつけたわけは、最後までお読みいただけば分かっていただけると思います。

 さて、その「スクープ」とは、アメリカの「核持ち込み密約」問題についてです。

 時は一カ月さかのぼります。

 口火を切ったのは、6月1日付東京新聞の一面トップを飾った「60年安保『核持ち込み』密約、外務官僚が管理」「歴代4次官が管理」「伝達する首相を選別」という記事でした。

 これは共同通信が配信した価値あるスクープでした。

 重要な内容なので、共同通信が5月31日午後配信したものを再録しておきます。

 1960年の日米安全保障条約改定に際し、核兵器を積んだ米軍の艦船や航空機の日本立ち寄りを黙認することで合意した「核持ち込み」に関する密約は、外務事務次官ら外務省の中枢官僚が引き継いで管理し、官僚側の判断で橋本龍太郎氏、小渕恵三氏ら一部の首相、外相だけに伝えていたことが31日分かった。

 4人の次官経験者が共同通信に明らかにした。

 政府は一貫して「密約はない」と主張しており、密約が組織的に管理され、一部の首相、外相も認識していたと当事者の次官経験者が認めたのは初めて。政府の長年の説明を覆す事実で、真相の説明が迫られそうだ。

 次官経験者によると、核の「持ち込み(イントロダクション)」について、米側は安保改定時、陸上配備のみに該当し、核を積んだ艦船や航空機が日本の港や飛行場に入る場合は、日米間の「事前協議」が必要な「持ち込み」に相当しないとの解釈を採用。当時の岸信介政権中枢も黙認した。

 しかし改定後に登場した池田勇人内閣は核搭載艦船の寄港も「持ち込み」に当たり、条約で定めた「事前協議」の対象になると国会で答弁した。

 密約がほごになると懸念した当時のライシャワー駐日大使は63年4月、大平正芳外相(後に首相)と会談し「核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは『持ち込み』でない」との解釈の確認を要求。大平氏は初めて密約の存在を知り、了承した。こうした経緯や解釈は日本語の内部文書に明記され、外務省の北米局と条約局(現国際法局)で管理されてきたという。



 核を搭載した米艦船や航空機などの「核持ち込み」については、これまでも言われてきたことでしたし、米側文書の公開などで、いわば常識といってもいい「暗黙の既定事実」になっていましたから、内容についての驚きはありませんでしたが、ここにきて4人もの外務事務次官経験者が揃って「認めた」ことは、驚きでした。

 まさに共同通信の大スクープだと言っていいと思います。

 これで、「事前協議の申し入れがないのだから、日本への核の持ち込みもない」という倒錯した、論理ともいえない論理を口にすることは少しははばかられる空気になるだろうか・・・という思いも、したものです。

 その後、これまた共同通信が、政府が宗谷、津軽などの重要な海峡の領海幅を、領海法で可能となっている12カイリではなく3カイリにとどめてきたのは、アメリカの原子力潜水艦などの核搭載艦船への配慮だったというスクープを配信しました。

 これも、6月22日の東京新聞に掲載されたましたのでお読みになった方もいらっしゃると思います。

 念のため、6月21日午後配信の記事を以下に再録します。

政府が宗谷、津軽など五つの重要海峡の領海幅を3カイリ(約5・6キロ)にとどめ、法的に可能な12カイリ(約22キロ)を採用してこなかったのは、米軍の核搭載艦船による核持ち込みを政治問題化させないための措置だったことが21日、分かった。

政府判断の根底には、1960年の日米安全保障条約改定時に交わされた核持ち込みの密約があった。

複数の元外務事務次官が共同通信に証言した。

これらの海峡は、ソ連(現ロシア)や中国、北朝鮮をにらんだ日本海での核抑止の作戦航行を行う米戦略原子力潜水艦などが必ず通らなければならないが、12カイリでは公海部分が消滅する海峡ができるため、核が日本領海を通過することになる。

 このため、核持ち込み禁止などをうたった非核三原則への抵触を非難されることを恐れた政府は、公海部分を意図的に残し核通過を優先、今日まで領海を制限してきた。表向きは「重要海峡での自由通航促進のため」と説明してきており、説明責任を問われそうだ。

 外務次官経験者によると、領海幅を12カイリとする77年施行の領海法の立法作業に当たり、外務省は宗谷、津軽、大隅、対馬海峡東水道、同西水道の計5海峡の扱いを協議。

 60年の日米安保改定時に密約を交わし、米核艦船の日本領海通過を黙認してきた経緯から、領海幅を12カイリに変更しても、米政府は軍艦船による核持ち込みを断行すると予測した。

 そこで領海幅を3カイリのままとし、海峡内に公海部分を残すことを考案。核艦船が5海峡を通過する際は公海部分を通ることとし、「領海外のため日本と関係ない」と国会答弁できるようにした。


 その後この問題は、濃淡の差こそあれ、各紙、各メディアで伝えられました。

 しかし、「密約」そのものの問題性よりも、歴代の外務事務次官の間で秘かに「引き継がれてきた」こと、密約について告げ知らせる首相を次官の側で「選んでいた」という問題に力点が置かれるようになってきているように感じます。

 つまり、官僚と政治家の関係の問題に焦点が移ってきている印象がぬぐえない報道ぶりではないかといわざるをえません。

 そうした問題を一時置くとしても、私が気になるのは、なぜここにきてこの問題が明るみに出たのか、つまり、なぜ、いま「日の目を見る」ことになったのだろうかということです。

「日の目を見る」というのはいかにも表現としてヘンだということは承知の上で、そうとしか言えないのです。

 そこでもう少し注意深くメディアを浚ってみると、意外なことにつき当りました。

 朝日新聞社、いや、もう別会社の朝日新聞出版になっているのですが、その朝日新聞出版発行の「週刊朝日」の5月22日号で、前外務事務次官で、麻生総理の下で政府代表を務める谷内正太郎氏が、1972年の佐藤政権下での沖縄返還時に「核の再持ち込みの密約」があったと思う、と語っているのです。

 なんとなく「構図」が見えてくるような気がしてきます。

 そこで、あと二つの言説に、私は注目しました。

 まず、6月19日の産経新聞のコラム、「正論」欄です。

 元防衛大学長で現在は平和・安全保障研究所理事長の西原 正氏が「非核三原則の一部緩和が必要」と題して「自民党の国防部会では、日本の敵基地攻撃能力の保有を提言しているとのことである。ところが敵のミサイル基地を攻撃することで武力紛争が拡大した場合に、どう対応するのかがはっきりしない。そうした敵側への攻撃能力を検討しておくことは重要だとしても、より緊急に必要なのは、自衛隊と米軍との共同作戦の策定と指揮権の調整である。また米国の核抑止力の効果を高めるために、日本が非核三原則の一部を修正し、米国の核ミサイル搭載艦の日本寄港を容認することも真剣に検討すべきである。北朝鮮の行動を抑止するのは国連決議だけでは不十分である。」と説いています。

 そして『WEDGE』7月号に掲載された読売新聞政治部次長の飯塚恵子氏の「北朝鮮の暴走 日米同盟強化のため今こそ核の傘の議論を」です。

 このなかで飯塚氏は、今こそ核に関する開かれた議論を始めるべきだとして「日米間の『核の傘』をめぐる話し合いは、戦後から今日まで極めて手薄になってきた分野だ。北朝鮮が核計画を発展させ、中国でも核兵器の近代化が進む現在、日米核協議は同盟強化のために必要な根本的な仕事だといえる。」「一方、日米間で協議を進めるなら、日本国内でも核をめぐる安全保障問題について、冷静でオープンな議論を国会などではじめるべきだろう。政治的エネルギーが必要な課題だが、オバマ政権の登場はそれを始めることを日本に迫っている。」と説いています。

 昨年9月から米国のブルッキングス研究所客員研究員も務める飯塚氏と上記の西原氏の言説を重ね合わせて、もう一度、谷内氏が「週刊朝日」誌上で明かした「秘密」を思い返してみると、今回の「スクープ」をめぐる風景が一変してしまうことに気づきます。

 もちろんそれで共同通信の記者のスクープを何ら損なうものではないでしょう。大いに賞賛されてしかるべきだと考えます。

 しかし、と・・・私は考え込んでしまうのです。

 なぜ、いま、あれほどまでに否定され続けてきた「密約」は「日の目を見た」のだろうか、と。

 メディアで仕事をすることの容易ならざる「手ごわさ」を思い、複雑な気持ちになるのは、さて、私だけなのだろうか、と。

 この間の政治の液状化、政権の「迷走ぶり」を目の前にして、その背後で、確かに、いま、何かが動き始めていると確信するのでした。




posted by 木村知義 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

中国「維権」運動と小島氏の最新レポート

 ホームページの小島正憲氏の「凝視中国」に最新レポート「5月暴動情報検証」を掲載しました。

 広東省の英徳市に住む、ベトナムから帰国した華僑たちの生活改善要求の「抗議行動」をはじめ、湖南省醴陵市の農地収用をめぐる、農民と警官隊の衝突など、この間各地で起きた地域の政府や行政当局などへの抗議行動について、詳細な報告がなされています。
 
 また、日本でも知られるようになった中国の検索サイト「百度」の華南地域の従業員が、「達成不可能な目標数値を盛り込んだ能率給に近い」賃金制度の改革に対してストライキに突入したという、実に興味深いレポートもあります。

 このレポートを読みながら、先日参加した研究会(中国朝鮮族研究学会)で聴いた慶應義塾大学非常勤講師の呉 茂松氏の報告を思い起こしました。

 呉 茂松氏の報告は「中国タクシー業界における運転手たちの維権運動」というものでした。

 呉氏はこの日の報告のテーマとした「タクシー運転手たち」にとどまらず、中国社会の各分野、各階層で起きている権利保護や、行政当局への訴え、抗議の動きを詳細に拾い上げながら、それらが総体として中国社会にどのような影響を及ぼして行くのかを分析、考察するという意欲的な研究を重ねているのですが、そこでのキィワードが「維権」という言葉でした。

 以下に呉氏の解説を引かせていただくと、

 「『維権』(Weiquan)とは中国語の『維護権利』の略語であり、合法的な利益・権利を擁護する意味でよく使われる。1990年代半ば、メディアが、青少年の権利、女性権利の保護、消費者権益の保護を提唱する際に作り出した言葉であるが、用語の適用範囲が拡大し、出稼ぎ労働者、失地農民、弱者グループ、所有権者たちの諸権利に対する様々な領域まで広く使用されている。なお、インターネットなどのメディアだけではなく、一般市民レベルにおいても権利意識の覚醒、権利主張のシンボルとして深く定着している。この言葉は、常に『民生』とともに現れたことであり、侵害された利益への抵抗、権利への訴えが同伴した。『維権』現象は、市民生活への浸透とともに地理的、領域的適用範囲も広がりを見せている。日本語の適訳はないが、憲法を守る意味で提唱された『護憲』の『憲』を権利の『権』に置換え造語にした『護権』に最も近いと思われる。」

 ということです。

 小島氏の「暴動情報検証」は毎月「定例」のレポートですが、呉氏の報告を聴いて、小島氏のレポートの意味(価値)が、よりくっきりと見えてくる気がしました。

 「改革開放」「中国の特色ある社会主義市場経済」さらには現在の指導部が掲げる「和諧社会」(調和のとれた社会)といった言葉で語られる中国の現在と未来にかかわる重要な示唆が読み取れるレポートだと感じます。

 中央における政治権力の移行(奪取)による革命から60年。
 社会のさまざまな領域、分野で起きている「変容」とそれが引き起こす人々の意識の変化をどうとらえ、そうした「動態」がこれからの中国の行方をどのように左右することになるのかを考えることは、北東アジアの隣国に生きる私たちにとって重要かつ不可欠な営みとならざるをえないと考えます。

 その意味でも、中国での実地調査を重ねながら分析、考察を重ねる呉 茂松氏の「維権」をめぐる研究や小島氏のレポートに注目していきたいと思います。

 一般的なメディアでは、よほどの「大事件」にならないかぎり伝えられない、中国社会の底流で起きているこれらの「動き」にしっかりと目を凝らして中国のこれからを考えて行くうえで貴重な情報になると確信します。

 こうした視点、視角で、ホームページのレポートをお読みいただければと思います。

最新レポートのページは以下の通りです。

http://www.shakaidotai.com/CCP038.html


 





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2009年06月19日

小島正憲氏の最新レポート

 ホームページの小島正憲氏の「凝視中国」に最新リポート「2年遅れの中国認識」を掲載しました。

 いつも小島氏の現地レポートに触発されるところが大なのですが、今回も刮目すべきということばがあてはまるレポートです。

 研究者の「論文」を厳しく検証して、浅薄な中国分析を完膚なきまでに論破していますが、決して他をあげつらうという姿勢ではなく、現場に赴き、事実によってステレオタイプな「中国像」のあやうさを浮き彫りにしています。

 研究者ならずとも教えられるところが多々あります。
 また私は、研究者にとどまらず、「中国のいま」を伝えるメディアのあり方についても、警鐘を鳴らしているものだと感じました。

 ぜひご一読ください。
 以下のサイトです。
http://www.shakaidotai.com/CCP037.html

 
posted by 木村知義 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

物事を多面的、多角的に、そして深く見るということ(続々)

 私のささやかなブログコラムですが、本当にありがたいことに多くの方が読んでくださって感想や意見を寄せてくださいます。

 もちろん、私のものの見方、考え方に同意できないという方からも書き込みや意見を頂戴します。

 言論、言説において広く世に問うという「いとなみ」を試みる限り、お前の考えには到底賛成できないという意見があることは覚悟の上です。
 とりわけ朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮とどう向き合うのかといった問題設定で言説を重ねる際、賛否がより鮮明に、そして先鋭に表れることは当然のことかもしれないと思います。

 そのうえで、だがしかし!と言わざるをえません。
 先日、6月14日のブログコラム記事に対して、「反日メディア」などのサイトを記してコメントは「白紙」という「意見」が届きました。

 書き込みをしてくださった方ご自身の意見が記されていないのが残念ですが、私の書いたことをもって「反日」だと非難していることは伝わってきます。

 しかし、この方に、「反日」なのはどちらだろうかと、問い返したいと考えます。

 私が朝鮮半島問題、あるいは北朝鮮にどう向き合うのかという問題意識で書いていること、さらに同時に運営しているホームページの内容をじっくり読み込んでいただきたいと思います。

 じっくり読み込めば、「反日」などという通り一遍の非難で片付くことかどうか、自明だと思います。

 私は、誰よりも「国を思う」一人であり、日本の行くべき道について、真剣に考えていることがわかると思います。

 日本の行くべき道に誤りがないように、いま何を考えなければならないのかを、そして、未来を生きる若い世代の人々のためにも、「あの時日本は行く道を誤った・・・」などと悔やむことのないように、いま真剣に時代と状況に向き合おうと、力不足ではあっても、ひたすら考え続けているのです。

 「反日」などというレッテル貼りで満足できるのであれば、それほど気楽なことはないと思います。

 とりわけ、アジアと日本の近代と真正面から向きあいながら、連帯と侵略という両義性の絡まり合う複雑さの中で、では歴史から学ぶべきことは何なのかという問いに、いまを生きる我々一人ひとりが自身のことばによる「解」を迫られている、現在(いま)だと考えます。

 「反日」などというレッテルを貼ってすべて解消というほどのお気楽なことでは言論、言説の責任は果たせないと肝に銘じるべきです。

 さて、一方では、こころ励まされる「意見」「感想」を寄せてくださる方々も大勢います。

 そして、ここで「こころ励まされる」というのは、ある意味では、もっともっと勉強と思索を深めていけ!という叱咤であると私は受けとめています。
 その意味では、うれしい事でありながら、身の引き締まる思いがするのでした。

 宮城県で、このブログとともに私が運営するホームページを読んでくださっている方から届いた「便り」です。

「このタイミングで中江要介さんのインタビューを世に問うたセンスに感服しつつ、飛翔体!ミサイル!と騒ぎまくった挙げ句、迫りくる本質的な危機には鈍感で会社の中のあれこれに一喜一憂している人々の『情景』を目の前にして、これまた舌打ちしかできない自分の非力さを痛感している今日この頃です。
やっぱりアメリカだと思います。北朝鮮が『逆噴射』して得をするのはアメリカです。
アメリカに残された最後の巨大産業である『軍産複合体』を発動させて、金融危機の損失を取りかえすとともに、アメリカ国債の信用も維持しようという狙いでしょう。
ババ(アメリカ国債)を掴まされている日本と中国も乗ってくるだろうという計算も当然織り込み済みのはずです。
バイデンが副大統領になった時『オバマはこれから半年のうちに重大な決断を迫られることになるだろう』と発言していたのはこういうことだったのかと思います。
安保理の『決議文』に中国がどう反応してくるかが大きなタ−ニングポイントで、中国の首脳の中に中江さんご指摘の『将来のビジョン』を持った指導者がいることを期待するのみです。
民主党の小沢前代表への強制捜査などを見ているとアメリカが民主党政権になると面倒だと見ているのは明白なので、選挙前に動くはずです。
韓国でも元大統領が[自殺』しましたしね。
むかしうちのじいさんや近所のおやじたちが『日本の戦後復興は朝鮮戦争のおこぼれちょうだいで始まった』と自嘲気味にはなしていたのを思い出します。
今の巷に[自嘲」できるほどのリテラシーが感じられないことにもため息です。
とにかく『社会』あるいは『公共』を常に意識して仕事に向かうしかないと思っています。」

 このメールは北朝鮮のいわゆる「ミサイル発射」で、日本とメディアが「騒然」となっていたときに届いたものです。

 やはりメディアの世界で真摯に仕事に向き合っている、この方のメールを読みながら、このように自己に引きつけて、自身の世界を見る目と響き合うものとしてホームページやブログを読み込んで下っていることに、感謝すると同時に背筋が伸びる思いがしたものです。

 また、ブログに対して、ご自身の思いと論を実に丹念に書き込んでくださった西 泰志さんは私よりふた世代以上も若い編集者です。
(コメント欄をひらいて、みなさんもお読みになったかもしれませんね)

 人に尊敬、あるいは畏敬の念を抱くことに年代、歳の上下は関係ない事を西さんとの「出会い」で痛感したものです。

 優れた仕事を重ねる氏の編集者としての姿勢に深く感動を覚えながら、こうした若き世代がいることに、未来への希望を失わずにいられる幸せというものを感じたものです。

 と同時に、もっともっとしっかりしなければと、叱咤される思いで書きこまれたコメントを熟読したのでした。

 その西さんから、先日のブログについて、以下のコメントが届きました。

「記事に刺激を受けつつ、この『年表』には、(加えることでどのようなことが見えてくるかはまだクリアではないのですが)以下の2つの出来事も加えられるのでは、あるいは加えてその意味を考えるべきなのかもしれない、と思いました。

1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件
1979年の朴正熙暗殺
1980年の光州事件  」

 まったくそうです!
 1979年のイラン革命と米国大使館占拠事件こそがその後のアフガニスタン、パキスタン、もっと言えば、米国とアラブ世界のその後を大きく規定することになる転回点としてあったというべきです。
 そして、朝鮮半島のその後を動かす契機として、1979年の朴正熙暗殺、そして1980年の光州事件をしっかりと見据えておくことは欠かせないと思います。

 貴重な、そして本質的な指摘をいただいたと思います。
 
 また、その後、この日のコラムを読み返してみて、ことばを補っておかなければならないと感じた所があるので、以下のようにしたことをお断りしておきたいと思います。

「北朝鮮と中国の間には朝中友好協力相互援助条約があり、ソ連との間にも同様の軍事同盟条約である朝ソ友好協力相互援助条約がありましたが、2000年にロシアとの間で軍事援助条項のない「友好親善協力条約」に変わり、中国との間の「相互援助条約」も、私の知る中国の北朝鮮政策関係者の話では軍事同盟としては「名存実亡」という状態だと言われます。」

 「軍事同盟としては『名存実亡』という状態・・・」としました。

 ブログのコラム記事そしてホームページに対する、みなさんからいただく意見、感想に触発されながら、分析と思索を深めて、少しでも社会に意味のある言説、言論活動をめざせればとこころに念じています。

 ここに引用しない多くの「お便り」も含め、感想や意見を寄せていただいているみなさんに、あらためて、こころからのお礼を申し上げるとともに、深みのあるブログにしていくために一層の努力を重ねたいと考えます。






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2009年06月16日

小島正憲氏の最新レポート

 ホームページの「小島正憲の凝視中国」に最新レポート『日本人(経営者)はビジネスモラルを守れ』を掲載しました。
 
 中国でのビジネスの「難しさ」がさまざまな場面で話題になり、語られます。

 しかし、あれこれの「うわさ話」が伝わるうちに「膨らむ」ケースや、一事をもって万事としてしまったり、実態が正しく反映されていなかったりというケースも少なくありません。

 小島氏は自分の足と目で確かめながら、中国でのビジネスシーンでの問題を、具体例で示しながら、問題提起しています。

 このレポートはあくまで「一例」にすぎないという見方もあるかもしれませんが、小島氏の豊富な中国ビジネス体験から発せられる警鐘に耳を傾けることは、意味のないことではないと感じます。

 またこのレポートから、メディアで伝えられる中国ビジネスの「話題」やニュースについて、鵜呑みにせず情報を吟味してみなければならないとも感じます。

 私たちの「読み解きの力」が問われるのだということと合わせて小島氏のレポートを興味深く読みました。

 ぜひ、一読を。
 以下のページです。
 
 http://www.shakaidotai.com/CCP036.html







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2009年06月14日

物事を多面的、多角的に、そして深く見るということ(続)



 手書きのこんな拙い「図」から、何がはじまるのだろうかと思われる方もいらっしゃるでしょうね

 これは先日のアジア記者クラブの定例研究会「米ソ冷戦下で翻弄され、今も苦しむアフガニスタンの真実」で講師の金 成浩さん(琉球大学教授 政治・国際関係論)が報告の終わりのパートで白板に描かれた図を、私がノートにメモしたものです。

 この研究会で金 成浩さんは、1979年のソ連による「アフガニスタン侵攻」の背後で米国とソ連がどのような「せめぎあい」を重ねていたのかを、公開された外交文書を深く読み込むことで解明し、米ソ冷戦の熾烈な実体をあぶりだしながら、実に示唆深い報告をされました。

 詳細な内容は主催者であるアジア記者クラブの報告にゆだねるべきなので、ここでは控えますが、この報告の終盤で「9・11事件の淵源となってしまったアフガンでの米ソ冷戦」という指摘に続いて「アフガン侵攻と東アジア」という注目すべき話がありました。

 その際に金 成浩さんが白板に描いたのが上記の図だというわけです。

 東アジアに関心を持たれている方はこの図で、もう何を言いたいのか察知されたかもしれませんが、少し我慢してお読みください。


 結論から言うと、いま世界注視の北朝鮮の核問題の淵源に「アフガン問題」という要因を見ておく必要があるという、実に示唆深い金成浩さんの分析、解析が提示されたのでした。

 論を端折って「舌足らず」になる恐れを覚悟の上で要約すれば、
1979年のソビエトによるアフガン侵攻は、ソビエトの側からの「必要性」で起きたというだけではなく、そこにはカーター政権下のアメリカがカブールの親ソ体制への敵対勢力に秘密の軍事援助を行うことで、ソビエトの軍事介入を「誘発することになるであろう」ということをあらかじめ織り込み済みだったという状況で起きたというのです。

 金 成浩さんは外交文書読み込みによってこのことを浮き彫りにしていくのですが、そこで引用された、当時の安全保障担当大統領補佐官ブレジンスキーが記者に語ったことばが象徴的です。

 反ソ勢力への秘密の軍事援助についてカーター大統領に「私見」を覚書にして提出したというブレジンスキー氏は記者から、
 「(ソ連の軍事介入という)危険性をも顧みず、あなたはこの『秘密行動』の支持者だった。しかし、そうならば、あなたは、ソ連を戦争に陥れ、挑発することをのぞんだということか?」 と聞かれて、
 「我々がソ連を軍事介入に追い込んだのではない。しかし、意図的に力を加え、ソ連がそう出てくる蓋然性を高めっていったのだ」と答えているというのです。
(記者との応答は金 成浩さんの報告資料をもとに引用)


 さて、このことだけでも実に興味深くさらに深く考察されるべき問題ですが、ここはアフガン問題について述べようということではありませんので、ここまでにとどめます。
 しかし、世界で起きている「出来事」を見る際に、あるいは日々起こる「問題」について考える時、どれほどの注意深さを必要とするのかあるいは、情報の背後にまで鋭く迫り、深い思考と多角的、多面的な分析がいかに不可欠であるかを如実に示す一例だと思います。

 そこで私たちが注目すべきなのは、このようにして「引き起こされた」ソビエトによるアフガン侵攻(金 成浩さんは「アフガンという”サッカーボール”をアメリカとソ連が蹴り合ったとでもいうべきで、大国のパワーポリティックスに翻弄された結果だ」と述べています)がその後の世界にもたらした「影響」についてです。


そこで少しばかりの年表が必要になります。

1979年 ソ連のアフガン侵攻
1980年 モスクワオリンピック 西側諸国がボイコット
1984年 ロサンゼルスオリンピック モスクワ五輪の「報復」として東側諸国がボイコット
1988年 9月ソウルオリンピック
      12月シェワルナゼ・ソ連外相平壌訪問「ソ連は『クロス承認』と南北国連加盟によって『2 つの朝鮮』を作り出そうとする南朝鮮当局(韓国)の企てに反対する。南朝鮮との関係における原則立場を変更しない・・・南朝鮮当局と外交関係を結ばない」と明言。

1989年 ベルリンの壁「崩壊」 冷戦の「終焉」、の始まり・・・

1990年 8月 シェワルナゼ外相、ソ連が韓国と外交関係を樹立する旨記した書簡を北朝鮮に送る
       9月2日  シェワルナゼ外相平壌訪問
       9月30日 ソ連−韓国 国交樹立

1991年 国連に南北同時加盟

1992年 8月24日 中国−韓国 国交樹立

1992年 11月 エリツィン大統領、韓国を訪問。韓ロ基本条約に調印。韓ロ首脳会談でエリツィン大統領、ソ朝条約の廃棄か大幅修正を示唆。ロシアは、北朝鮮に対し攻撃的兵器は供給しないと明言。

1993年 1月エリツィン大統領、北朝鮮にソ朝条約の軍事支援条項の廃止の意向を正式に通告。

 ソビエト−ロシアを軸に据えた国際関係論の優れた研究者である金 成浩さんは、
・アフガンへのソ連軍侵攻が引き金になって西側諸国がモスクワ五輪をボイコット
・それに対する報復措置として次回のロサンゼルス五輪は東側諸国がボイコット
・こうした展開が伏線になって、南北分断の下で開かれる1988年のソウル五輪で、韓国としてはソ連の参加を実現しなければ成功させることができないということで、ソ連への「秘密外交」を展開することになった
ということを指摘しました。

 そして、こうした動きに危機感を抱いた北朝鮮の金日成主席が、1986年にモスクワに赴き、ゴルバチョフ首相にソウル五輪に参加しないように説得したが、ゴルバチョフの同意を取り付けることができなかったということ、ソウル五輪ではソ連のメディアが韓国に入り韓国の経済などの躍進ぶりを伝えたこと、さらに1990年にソ連が韓国と国交を樹立することを告げに平壌を訪問したシェワルナゼ外相に北朝鮮のキム・ヨンナム外相(当時)が、同盟条約があるにもかかわらず事前に相談もせず南朝鮮(韓国)と国交とは・・・と、激怒するとともに「ある兵器を開発する」と核兵器の開発を示唆したということを述べて、上記の図を白板に描いたのでした。

 そこでこの図をじっくり眺めてみてください。
 日本と米国の間には日米安全保障条約、韓国と米国の間には韓米相互防衛条約があります。

 北朝鮮と中国の間には朝中友好協力相互援助条約があり、ソ連との間にも同様の軍事同盟条約である朝ソ友好協力相互援助条約がありましたが、2000年にロシアとの間で軍事援助条項のない「友好親善協力条約」に変わり、中国との間の「相互援助条約」も、私の知る中国の北朝鮮政策関係者の話では「名存実亡」という状態だと言われます。

 拙い図なのですが、要は38度線を境に南北で対峙する、韓国と朝鮮民主主義人民共和国それぞれがロシア、中国、日本、米国とどのようなどのような「関係」、「構図」の下にあるのかが一目瞭然です。

 この図で、北朝鮮の側に立って背後と前面に広がる「風景」を想像して見るだけで、どのような危機感、あるいはある種の「失望感」(「絶望感」とさえ言ってもいいかもしれません)に駆り立てられるか容易に想像できるというものです。

 この図を北朝鮮の側に身を置いて「眺め」ながら、今起きていることを深く考えてみることは決して無駄なことではないと考えます。

 これは、北朝鮮の政治体制、金正日政権にシンパシーを持つかどうかという感情の問題とは区別して冷静に考えてみるべき問題だと思います。
 
 私自身は日朝関係が少し「緩和」に動いていた1993年に一回北朝鮮に旅した経験があるだけで、それもなにかのグループの訪朝団というたぐいの旅ではなく、単純に、観光旅行団に加わっただけですから、北朝鮮のいわゆる「要人」との会見などとは無縁の旅行でした。
 
 従って、金正日政権に何らかのシンパシーを抱いているわけでもなんでもありません。

 ただジャーナリストたらんという志を持つ一人として、なによりも現地、現場に立って自分の目で見て、自分の頭で考え、認識と問題意識を深めなければならないという問題意識で、観光団にしか加わるしか術がなかったので、出かけたのでした。

 貧しい国でした。そして私たちの感覚からするとさまざまに違和感のある国でした。

 しかし、と私は思うのです。

 貧しいということで蔑まれ、非難されるべき故はないというのが、戦後世代とはいえ、日本の貧しい時代を生きてきた私の思いです。

 また自分の国の常識とかけ離れていることをもって他を非難することでは問題の本質的な解決にはならないというのが、この「異国」を旅しての感慨でした。
 そして、なによりも、どのような政治体制の下でも、そこには日々の暮らしを懸命に生きる庶民の姿があり、私が望むのは、そうした人々にこそ平和とすこしでも豊かな暮らしへの希望がもたらされることだという、ただそれに尽きることでした。

 この拙い一枚の図を見つめながら、それにしても・・・と、いま思うのです。

 もちろん「南北クロス承認」というものに南北双方の考えの違い、イデオロギー上の相克もあるかもしれませんし、それが最良の選択であるのかどうかむずかしいところですが、それでも、もし、中国、ソ連(ロシア)による大韓民国承認−国交の正常化と並行して米国、日本による朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化が行われていればこの図に描かれる構図は大きく変わっていたでしょうし、多分、いま私たちが「そこにある危機」として向き合うことを迫られる北朝鮮の核、ミサイル問題は大きく異なっていたはずだと思います。

 歴史に、「もし」であるとか「仮に」ということはない!という冷厳な事実を承知しながら、であるがゆえに、いま私たち、つまり日本であり、それと強力な軍事同盟関係にある米国に課せられた課題が、この一枚の図から見えてくると思うのです。

 物事を深く、多角的、多面的に見るとは、歴史に謙虚に学ぶということも重要な構成部分としてあると、これは私自身への戒めとしても、忘れてならないことだと考えます。
 
 金 成浩さんという優れた国際関係の研究者に出会うことで、こうした確信が一層強くなったと言えます。

 金 成浩さんが、北朝鮮と緊張関係にある韓国の大学にさえ「北韓(北朝鮮)学部」や「北韓大学院」があるのに、日本では北朝鮮の研究を深める専門の学科も存在しない・・・とおっしゃっていたことは重要な示唆だと思いました。

 ちなみに、在日三世である金 成浩さんは東大大学院時代に北朝鮮研究を専門としたいと言った際、指導教授から、日本ではむずかしいのでよしたほうがいいと、もちろん親切心にもとづくものですが、助言を受けたということです。
 
 私たちが、そして日本の社会が抱えている重い課題についても見えたと思いました。



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2009年06月09日

Web掲載のお知らせです

 このブログを読んでくださっている方々はご存知だと思いますが、私が運営しているWebサイトに「小島正憲の凝視中国」というページがあります。
 現場に足を運び、現場に立って中国を見つめる小島氏のレポートからは「中国の現在(いま)」が実にビビッドに伝わってきて、多くの方々から反響と高い評価をいただいています。
 その小島氏の最新レポートを2本、ウエッブにアップしました。

 「長征:東路軍の悲劇」
 「残念!活かせなかった『東寧』の地縁」
 です。
 http://www.shakaidotai.com からお入りください。

 中国革命史で重要な意味を持つ「長征」について、小島氏は独自のフィールドワークで衝撃的ともいえる「仮説」を提示しています。
 小島氏の「仮説」への賛否はさまざまでしょうが、中国革命史を相対化し、検証していくことの重要性について重い問題提起となっていると感じます。

 また、中露国境地帯の東寧からのレポートは、「大儲けのチャンスを逃した・・・」という小島氏の韜晦を注意深く読みこむことで、中露国境地帯の現在とそこで熱を帯びるビジネスの現況について実に貴重な現状が見えてきます。

 かつて、ウラジオストクにかかわる企画を立てて現地に赴いた際中国・黒竜江省の綏芬河と接する中露国境の街、グロデコボで国境貿易の様子を取材したことを思い出しながらこのレポートを読みました。

 なお、小島氏のレポートで随時「暴動情報」が伝えられることについて質問を受けることがありますので、一言コメントしておきます。

 先週も「天安門事件」から20年ということで現在の中国社会が抱える課題や問題についていくつものレポートが各メディアで伝えられました。

 改革開放が進む中で、中国の庶民の意識や暮らしぶりも大きく変化しました。

 日本のメディアではあまり詳しく報じられていませんが、中国各地で住民が地域の行政当局と対峙したり、労働者が経営者、あるいは行政当局と対立したりということが数多く起きています。

 そうした、庶民が立ち上がって「異議申し立て」をしていくという動きの中に、これからの中国の行方を大きく左右する可能性を秘めたものもあることを痛感します。

 その意味で、小島氏の「暴動情報」はレポートのタイトルが刺激的であることを置いて、注視していく価値があると感じています。
 そうした文脈で注意深く読み込んでいただければと考えます。

 なお、まだメディアで報じられていませんし、確認もとれていませんが、中国(北京)駐在の日本人記者が「買春行為」によって退去を余儀なくされたという情報が入ってきました。

 正直に言いますと、またか!という思いです。
 実に恥ずかしく、情けないことです。
 ジャーナリストとしての矜持というものを思い起こすべきだと思います。
 またその記者を送っていた企業の責任者たちは、問題を深刻に受け止めるべきだと思います。

 ジャーナリズムとして、などという「ないものねだり」はしないにしても、メディアの責任ということをもう一度かみしめるべきだと思います。

 

 
posted by 木村知義 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

物事を多面的、多角的に、そして深く見るということ

 見てはならないものを見てしまった。そんな思いを強くする番組を目の当たりにして、テレビメディアの退廃というか荒廃も極まれりと暗澹たる気持ちになりました。

毎日のニュースで「挑発的言動を繰り返す北朝鮮・・・」という「まくら言葉」はそれなりに慣れっこになったというぐらいのものですが、その没論理あるいは視る者、聴く者への「刷り込み」としかいえない没ジャーナリズムの言説にこの国のメディアの行く先に暗澹たる思いを抱くのは私だけでしょうか。

 さて、その「驚き」の番組です。

 これまで放送番組や新聞の記事を批判的に取り上げるときにはできるだけ「名指し」は避けてきました。
 
 それは同じくメディアに身をおいてきた者として、他をあげつらってそれで終わりと言うものではなく、あるいはタメにする批判に堕することを避けたいという思いがあったからです。

 しかし放送からほぼ十日になろうとしていますので、何を批判しているのかわからなくなるというのはかえって責任ある批判にならないと思いますので、番組名を明記することにします。

 5月31日(日)の朝放送された「サンデーモーニング」(TBS系列)でのことです。

 関口宏氏が軽やかに進行するこの番組を私はほぼ欠かさず見ています。

 この番組の最後に「風をよむ」というコーナーがあります。
 そこに、ごみを山のように積み上げて隣近所に悪臭やなにやかやを撒き散らして臆するところのない、あるいは犬などを何匹もむやみに飼って迷惑を及ぼすといった「困った隣人」が取り上げられて、そういう状況に直面すると隣近所の人々は、まずはごみをなんとかするようにと言いに行くのだが、ごみ屋敷の主に『逆ギレ』される、あるいは犬に噛まれて怪我をする・・・というストーリーで、まさにこれが北朝鮮だ!と展開していくのでした。

 制作者の認識の低さあるいは退廃をあげつらうのは簡単ですが、それよりなによりスタジオに居並ぶ「識者」たちが、この「例え」あるいはレポートの構成に疑問を提出することなく「困った隣人北朝鮮!」についてあれこれのコメントを重ねたのでした。

 いやいや!この番組はあなたが言うようにジャーナリズムなどではないから目くじら立てるものではないと「慰めて」くれる人がいないでもないのですが、それにしても見ていて唖然としてことばが出ませんでした。

 ミサイル、核実験・・・と立て続けに「挑発的言動を重ねる」北朝鮮をやりこめてやろうという意図だけは十分に伝わってきて、なかには溜飲を下げた視聴者もいたのでしょうが、これが時代の「風をよむ」営みといえるのだろうかと、考え込まざるをえませんでした。

 ごみ屋敷を登場させたからというわけではなく、それこそマスコミではなく「マスゴミ」といわれても、これでは反論する論理を持てないのではないかと思いました。

 見るものの「劣情」に訴えることで同意や支持を得ようとするさもしい気持ちを持ちはじめたとたん、そこには退廃と堕落の荒野しか広がらないことを肝に銘じておくべきだと、もはやこの番組の制作者や出演者たちに何かを語りかけても無駄かもしれないとは思いつつ、しかし、なにがしかの問題意識と良心のかけらがあるなら、こうした番組に対する恥というものを知ってほしいと思ったのでした。

 北朝鮮の核やミサイル開発に一片の共感も抱くことのない私ですが、国際政治の中にあるいは歴史の文脈のなかにこの問題を据えて見つめるとき、北朝鮮を「ごみ屋敷に文句を言ったら逆ギレされてしまった困った隣人」などという例えで語るなどということはしないだけの節度は持っているべきだと思います。

 制作者たちはあるいはスタジオで進行する役割をふられた人々は、そしてコメンテーターの「識者」?たちは、それぐらいの最低限の感性と問題意識を持っているべきだと、これは放送の世界で40年近く仕事をしてきただけに、より強く思うのでした。

 それにしても、北朝鮮がテーマなら何を言っても言ったもの勝ちという風潮に、言論そしてメディア(あえてジャーナリズムなどとは言いますまい!)はどれだけの論理性を持てるのか、厳しく問われる時を迎えているのだろうと思います。

 さて、先週は「天安門事件」から20年ということで、メディアで大きく取り上げられました。
 「6・4」直前の5月末、テレビの「緊急特番」を担当した後、戒厳令下の北京に出かけたことを思い返しながら、先週後半、20年前の「事件」の一連の流れについて反芻して過ごしました。

 学生と労働者の形容しがたい熱とある種の「倦怠感」がないまぜになった天安門広場を歩き、「本部」の置かれた人民英雄記念碑の石段を登ったこと、はりぼての「自由の女神像」の下で若者のすすめに従ってカンパと引き換えにバッジを手にしたことなどを思い出します。
 そしてなにより、もう少し留まるべきだという中国の青年たちの「すすめ」に、仕事をかかえているという事情を話して6月1日に日本に戻った私に、6月4日早朝北京からかかってきた友人からの電話の切迫した声が、二十年という時間を経てもなお、耳に残っていることを知ることになったのでした。

 それはなにも「感傷」に浸っているのではなく、いまだに整理のつかない思いを引きずっているということを、あらためて反芻したという意味です。

 少なくとも、権力の腐敗とものの値段が上がり貧富の格差が生まれていることをはじめ、政治、経済にわたるいくつもの問題に対する青年たちの「異議申し立て」には理があり、それゆえ多くの労働者、庶民の支持が集まったことは間違いのないことだったと思います。

 しかし一方ではことばにできない、ある種の「不可思議さ」が拭えず、結局「天安門事件」とは何であったのかという問いに十分な答えを得るところに至っていないことを思い知ります。

 いささかの飛躍を許していただけば、結局「冷戦崩壊」とは何であったのかという問題と通底するものでもあります。

 いま、まだ十分に語りうる「ことば」を獲得できていない恨みがあるのですが、どこかに「見えざる手」の存在を意識させるものが拭えません。

 なぜこんなこと書くかと言えば、世界で起きている問題には、当然といえば当然ですが、さまざまな「顔」が隠されていて、一面的にしかものを見ることができない場合は事の本質、実体を見落とす怖さが、いつもついて回ると思うからです。

 とりわけ、いま私たちが目の当たりにしている「北朝鮮問題」はよほど注意しながら向き合わないと、大きな読み違いを重ねることになるのではないかと危惧を抱きます。

 いささか感覚に傾いた話になったかもしれませんが、いまの私の正直な感慨です。

 いまはまだ具体性に踏み込んだことが言えず、もどかしくてなりませんが、少なくとも「ごみ屋敷の逆ギレ」のように、戯画化してしまうことには「わきまえ」ということが必要だと思っています。

 ところで、北朝鮮の核実験をうけて、HPに掲載するべく、北東アジアの安全保障などをご専門にされている李 鐘元さん(立教大学法学部教授)にインタビューをお願いしました。

 冷静かつ論理性に富み実に深いお話をうかがえました。
 いま、字に起こし、Web掲載をめざして作業をすすめています。
 
 先週出向いたいくつかの「会合」のことも含めて、もう少し「報告」を続けたいと考えています。
(続く)


 
posted by 木村知義 at 02:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年05月30日

何をめざすのか・・・

 ブログの筆を執るのが間遠になっている間も、当然のことですが、世界は、日本は大きく動いていて、書くという営為が情勢についていっていないことに忸怩たる思いが募っていました。

 「貧乏ヒマなし」って本当だね・・・などと軽口をたたきながら、片づけなければならない目の前のあれこれに追われる日々が続き、ブログにむかうこともままなりませんでした。

 また、なによりも日々起きてくる問題について「勉強」し、研究を深め、分析と思索を深めるという、もっとも基本的なことに時間の不足と力不足を痛感して焦る毎日でもありました。
 とりわけ「過去」(歴史)というものへの勉強が足りないことを哀しいほど痛感する日々になっています。
 
 さて、北朝鮮の核実験によってメディアが、言論が揺れています。

 エッ!世界が揺れていると言うべきだろう・・・とお思いの方も多いかもしれませんが、世界は極めて冷静に問題と向き合っているのに、日本のメディアと言論が揺れているというのが私のこの間の感慨です。

 まず前提として明確にしておかなければならないのは、アメリカのオバマ大統領でさえ「核の廃絶」を、世界で初めて核を使用した国としての「道義的責任」だと、言いはじめているときに、核開発に走ることに賛成することなどできないことは自明のことだということです。

 私は、ジャーナリストだった父の影響で、小さい時から世界、あるいは社会にそして歴史に目を向けることの大切さを、厳しくと言っていい環境で、教えられてきました。

 もちろん、だからといって自慢できるほどのことではありません。当然といえば当然のことです。

 しかし、たとえば核の問題についていえば、幼い時から広島の原爆について映画や書物を通じて学ぶことを迫られました。

 そして、映画「生きていてよかった」(亀井文夫監督1956年)を見に連れてゆかれ、小学校の低学年でしたが、原爆というもの、原爆投下を、絶対に許すことのできないものだという思いを心の奥深くに刻むことになりました。

 小学校の高学年にさしかかるころには原水爆禁止世界大会の会場で『原爆許すまじ』を歌う少年になっていました。

 当時は「原水爆禁止運動」は「国民運動」として大きな盛り上がりをみせていて、政党、政派による分裂が持ち込まれる前でした。

 私の「自分史」を書くのが目的ではないので、ここまでにしますが、核を憎むという気持ちにおいて人後に落ちないといういささかの自負は揺るがないということです。

 もうひとつ付け加えると、放送の仕事の中で、「生ましめんかな」の詩で知られる詩人の栗原貞子さんを広島にお訪ねして取材したり、長崎局で勤務して原爆投下当時の生き証人ともいえるみなさんにお話をうかがう機会を得たこともありました。

 核廃絶に向けての思いを、さらに、さらに強くする体験を重ねても来ました。

 さて、そこで、しかし今回の北朝鮮の核実験についての日本のメディアと言論の冷静さを失った「ゆらぎ」については、同じメディアに長く身を置いてきた者として、なんともいたたまれなくなるものです。

 けさのテレビのある「ニュースショー」のオープニングは「北朝鮮の暴挙に国際社会はどう立ち向かうのか!」とはじまり「繰り返される挑発行為に国際社会は結束して当たれ!」「北朝鮮の暴走を止めるために・・・」さらに「ミサイル、核実験の先には北朝鮮による韓国侵攻という恐怖のシナリオも!」と繰り返していました。

 このブログを書くPCラックの横には、1992年から今年までの「北朝鮮問題」を特集した各論壇誌が並んでいます。それらを読み直しながら気づくのは、目の前に起きた事象だけに右往左往せず、歴史的な視点を失わず、問題の構造的なありようを深く見据えて、分析、思考することがいかに大事であるかということです。

 こんなあたりまえのことを言うのは恥ずかしいことですが、実は北朝鮮問題をめぐる、最低でも過去20年ぐらいの言説を読み返すと、この恥ずかしいほどの初歩的なことが日本のメディアや言論の世界で十分になされていないということに突き当ってしまいます。

 いやはや、これは「執念深く」?記憶を刻んでおかないと、いつも同じ失敗の繰り返しだ!と痛感するものです。

 たとえば、「アメリカを自分のほうに向かせるための、いつもの瀬戸際作戦」と十年一日のごとく繰り返すのは、それはそれで結構なのだけれども、何も説明したことにはならないことにそろそろ気づくべきです。

 さて、いま深めなければならない問題意識という意味で、いくつかのポイントについて、ランダムにですが、あげておきたいと思います。
 このブログの読者の皆さんと一緒に考えを深めていくための手掛かりという意味でもあります。

 1.まず、国連の安保理決議をめざして、日本が「厳しい制裁」の取りまとめに奔走している様子が連日伝えられていますが、前回の「ミサイル発射」にかかわる議長声明でも、日本は米国から梯子をはずされた格好で、ふりあげたこぶしの下ろしどころに苦慮したことを教訓として事にあたっているのか。

 2.北朝鮮は、なぜ、いま、核実験に踏み切ったのかをありきたりの「俗説」に陥ることなく、冷静かつ論理的に分析するとどうなるのか。とりわけ北朝鮮からは「予告的」な言明があり、アメリカのメディアは今月初めから核実験の予兆について報じていたこと、またアメリカのボズワース北朝鮮政策特別代表も今月はじめには北朝鮮の核実験に言及して、実験に踏み切るかもしれないが止めることはできないといった発言をしてたことをどう分析するのか。

 3.オバマ政権になってから北朝鮮政策が定まらないのはなぜなのか。幾人かの「識者」の指摘にあるように、本当に政策の「優先順位」が低いのか。政権内に、あるいはアメリカの政治、経済にもっと別の要因が内在するということはないのか。
 
 4.北朝鮮の体制内の『焦り』がいわれますが、実体はどういうものなのか。日本のメディアが言うように、金正日総書記の健康問題と後継者への権力継承問題が背景にあるという分析は正しいのかどうか。

 5.「アメリカを自分のほうに向かせたい」という論調を否定するものではないが、少なくとも北朝鮮の「核危機」(核開発への危惧)が言われはじめた1990年代初頭以来の展開を見ると、北朝鮮は冷静、周到に米国政権、あるいは国際情勢について分析しているとかんがえるべきではないか。

 6.国連の制裁強化をという動き自体は「否定できない」と言えるのだろうが、もっと慎重に見据えないと日本の政策判断を誤るおそれがなきにしもあらずではないか。
米国は日本に決議の「とりまとめ」をさせるという「流れ」だが、ここは「注意」が必要ではないか。

 7.オバマ大統領が「核の廃絶」に向けて発言する(プラハ発言)中で、結局は五大国だけが核保有を「許される」というNPT体制の内包する矛盾と正面から向き合うことなしに北朝鮮の核を「非難する」だけでは問題の本質が見えなくなるのではないか。

 8.さらに、イスラエル、インド、パキスタンなどNPTの枠組の「外」に存在する核保有国にかかわる、NPT体制の矛盾、ダブルスタンダードについて説得力ある論理と政策がなければ北朝鮮の核問題の解決はむずかしいのではないか。

 8.つまるところ東アジアの非核化という問題にどう向き合うのかが、「核の傘」の下にある日本に問われてくるという、問題の構造をしっかり認識する必要があるのではないか。

 9.ミサイル、核で揺さぶられる北東アジアおよび朝鮮半島の安全保障問題の根本的な解決に向かうためには、結局は、米朝関係の本質的な転換−朝鮮戦争、あるいは冷戦構造の歴史的な「清算」を避けて通ることができないことを浮き彫りにしていると言うべきで、そこへの認識が迫られてくるという問題の構造に戻っていく。

 10.こうした本質的な問題(の構造)を突きつけてきているのがミ北朝鮮のサイル、核実験というものではないか。であるならば、本当に、もうこのあたりで、日本の(政府、メディア、そしてわれわれの)「思考」を変えなければ、東アジアの平和と安定には向かえないのではないか。

 さて、これらの問題意識を集約して言うなら、めざすべきことは北朝鮮への制裁なのか、ガツンと一発いわしておく(突然の関西弁で恐縮ですが「いわす」とは懲らしめるとか叩きのめすといったニュアンスですが・・・)ことなのか?!ということです。

 メディアも言論も皮相に北朝鮮を「いわす」ことに走っているのを前にして、ちょっと頭を冷やして考えると、めざすべき目標は「いわす」ことにあるのではなく、北朝鮮の核の放棄であり、核やミサイルの実験が不要になる、あるいは無意味になる状況をどうすれば創りだせるのかということだということは、赤子でもわかることだと思います。
 (「いわす」ことが目的ではないと言うが、あんな奴らはいわしておかなければ気が済まない、あるいは許せないという人もいるでしょう。が、しかし相手は「いわされて」も、「いわされて」もとことんやるぞ!と言っているのです。さて共倒れするまで「いわし」つづける「根性」を示してでも「いわしたる!」というのでしょうか。つまりそれは戦争ということを意味するのですが、そういう人たちは真っ先に腹に爆弾でも巻いて北朝鮮に突っ込んでいこうとでもいうのでしょうか。冷静に考えればすぐわかる理屈です。)

 さて、繰り返しです、ここまで簡単、平易な言葉で語ってきましたが、しかつめらしく言えば、外交のミッション(目標)とは何かという本質的な問題です。

 その目標に対してどういう道筋をたどって実現していくのか!
 そのことに対しての深い分析とそれにも勝る深い思索が、いま必要とされているのです。

 さて、私たちはなにをめざそうとしているのでしょうか。

 北朝鮮をガツンといわすことなのでしょうか。

 それとも、東アジアが平和で安定した発展のできる環境をめざそうとするのでしょうか。

 あるいは、オバマ大統領でさえ!語り始めた世界の、そして東アジアの核廃絶と平和をめざそうというのでしょうか。

 もう一度くりかえしです。
 われわれは何をめざすのか・・・。
 
 なお、私が運営しているウエッブ(ホームページ)で今回の核実験について急きょインタビューのお願いをしてお引き受けいただいた企画があります。
 来週にはそのインタビューができると思いますので、できるだけ早くウエッブに掲載するよう努力するつもりでいます。
 しばしお待ちください。
 









 
posted by 木村知義 at 14:02| Comment(1) | TrackBack(0) | 時々日録