東日本大震災から2か月が過ぎました。
そろそろ「明るいニュース」をというのでしょうか、メディアからは「少しずつ前に進む被災地」であったり「希望」と「負けない!」といった「アカルイ物語」を探すことに懸命という様子が伝わってきます。
しかし、被災地では、仮設住宅の建設が一向にすすまないなど依然として問題が何も動かず、生活再建への道筋を見いだせずに失望と無力感を一層深くしている人が多くいることを忘れるわけにはいきません。
この連休中、仙台、宮城に出かける機会を得ました。
発災から2度目、2週間ぶりのの仙台でした。
仙台市の街中、繁華街の賑わいも2週間前と比べて格段に活発になっていて、商店や飲食店もほぼ従来通りの営業となっていました。しかし日用品や食品、生活必需品の店以外は、まだまだ客が戻っていないということで、人々が、精神的に以前の余裕を取り戻すところまでには至っていないという印象を受けました。
今回の仙台行では、仙台市内の被災地域の小学校教員の方が若林区荒浜一帯に案内してくださって現場の様子をつぶさに見るとともに、避難所から「半壊」の家に戻って暮らす家族のお宅も訪ね話を聞くこともできました。また、南三陸町では避難所の今の様子や問題について話を聞き、石巻の「消えてしまった市街」にも立って、現場に立って考えるということの大事さ、そこで生の話に耳を傾けることの大切さを、あらためて痛感して戻りました。
それにしてもと思うのですが、話を聞いた人々のほとんどが、自身の辛い体験や九死に一生を得たという恐怖の体験を話しているうちに、表現しがたい「笑み」を浮かべながら語っていることに気づき、あらためて今回の被災体験の深刻さに思い至りました。
当たり前のことですが笑みがこぼれるというのではありません。
表情は笑ってはいないのです。
まるで自身の境遇を「あざ笑う」しかないといった、暗い「笑み」を浮かべながらこもごもに体験を語るのでした。
あまりの不条理に語るべきことばを失う、そして涙も出ない、最早「あざ笑う」しかないといった心境であることがひしひしと伝わってくるだけに、話を聞いていていたたまれなくなるのでした。
私の乏しい表現力ではとても伝えきれない現場の重さがそこにはありました。
こうした被災地の現場に立ち、人々の話に耳を傾けてみて、あらためて、一人ひとりの生活の回復、再建への支えがなによりも急がれることを痛感しました。
まさに、現場の具体的な苦悩や問題に寄り添い、それぞれの切実な状況をすくい上げて、一つひとつの「いのち」を、一人ひとりの生活を支えていくということに目が向けられなければ、机の上であれこれの復興論議がなされたとしても、いかほどの力にもなりえない、そして「希望」など語る余地はどこにも生まれないということを私たちは知らなければならないと思います。
さらに言えば、メディアに頻繁に登場して力強く語る首長が必ずしも住民たちの信頼を得ているとは限らないということも、現場に立って人々の話に耳を傾けてみて、見えてきました。
さて、南三陸町で約束の方に会うため避難所になっている中学校を訪ねた時のことです。
坂道を登りつめて中学校の敷地内に足を踏み入れた時、建てられつつある仮設住宅が目に入ってきましたが、エッと目を瞠りました。これまで目にしてきたプレハブ造りの仮設住宅とはまったく様子が違っていたからです。
「仮設っつうとプレハブだって思ってたわけだけんど、コレ、木造でしょ。だったら私たちだって大工なんだから、自分たちだって建てられるつうことになるわけ、ねっ!なのにどうしてみんな外の業者ばっかりに仕事を発注するのってことですよ・・・。町内でみんなが仕事をしていくらかでも収入になれば自分で生活していけるってことになるんじゃないですか?!それが復興っていうことじゃないのかっつうことでしょ・・・」
大工の棟梁のこの方は今は避難所を出て倉庫で暮らしているというのですが、この木造の仮設住宅の建設作業を目にして「なぜ、どうして!」という思いを抑えきれずにいるのでした。
また町役場の職員も大勢亡くなって行政事務が被災住民の求めに追いつかないという状況が生活の回復を遠いものにしていることを目の当たりにして、生き残った人の中には町役場の職員OBだっているわけだからそういう人たちを雇って仕事をしてもらえば、町民の助けにもなるし、雇われた人たちも幾ばくかの収入を得て生活再建につなげていけるのに・・・と言うのでした。
「要は、いろいろ考えればすることはいっぱいあるんだ、だけど・・・。役場の人は大変だ、大変だっていうばかりで・・・」と、積る思いが先に立って言葉が続かなくなるといった状態でした。
「本当にそうですね」と相槌をうちたい気持ちはやまやまでしたが、そうした言葉ではとても受けとめきれず、ことばをのみこまざるをえませんでした。
現場には、あるいは一人ひとりの住民には至極まっとうなそして豊かな「発想」と「アイディア」があるのです。
それを受けとめて、汲み上げてすぐ行動に移すのかどうか、まさにここが問われているのだと思いました。
いいと思ったことはすぐ取り掛かる、そうした行動力が行政をはじめ復興を語るすべての人に求められているのだと痛感します。
また、仙台の若林区でのことです。
地震と津波によって住まいが大きく壊れながら身を寄せていた避難所から家に戻って三世代で暮らしている家族に出会ったのでしたが、ここでも「お役所の決まりごと」という「カベ」に苦しむ人々の姿がありました。
家の中を見せてもらって驚いたのですが、天井が落ちて柱は大きくずれて家が傾いているのですが、外形は残ったので「半壊」という認定だというのです。
ではその「外形」はと思ってあらためて外に出て見てみると「危険」という張り紙がされているのです。
「ここに危険って張り紙が・・・?」と言いかけると「それと全壊か半壊かの認定は別だっていうんですよ・・・」という答えが返ってきました。「でもねぇ、考えてみれば割り切れないですよね、じゃ避難所でずっと過ごした方がいいってことなんでしょうか、なんだかね・・・」という言葉とともにです。
家の中に置かれたバケツやポリ容器を見やりながら「雨の時は30分もすると雨水でいっぱいになって寝てられないんですよ。外の雨と同じくらい降り込んできてね。なんだかもう家族みんなで押して倒した方がいいのかなって冗談もしゃべってるんですよ・・・」と笑いながら話す主婦に、ここでも返す言葉がありませんでした。
外の倉庫にトラクターやコンバインなど3〜4台の立派な農機具が置かれていたので、どれくらいの田んぼですかと尋ねたところ「大したことないんだけど、4町歩ほど・・・。でも今年は作付はできないね。田んぼは塩水をかぶってしまったし、農機具も津波でみんなやられちゃったから・・・」というご主人の話に、これまた言葉をのみ込みました。
現在の日本の農家の規模からいえば「篤農家」というべきこの家族の生活再建はまず、たまさか「外形」だけが残ったために全壊家屋のような「支援金」も出ないという状況で、住む家をどうするのかということから解決しなければならないということになります。
法律や規則というもの、さらには「お役所仕事」ということについて、またもや考えさせられたものです。
またもやというのは、これこそ阪神淡路大震災の被災現場で目にし、耳にしてきたことだったからです。
阪神淡路の経験から長い議論の末に「生活再建支援金制度」などが制定されることにつながったということはあっても、この国の震災対策、災害対策は、あれほどの災害を体験しながら本質においては何も変わっていないことを目の当たりにすることになったというべきでした。
復興について考える際、当然のことですが、さしあたりなすべきことと長期的な時間軸で考えるべきことの二つの問題があることを忘れてはならないと思います。
被災地域の将来の産業、経済をどう再建、構想していくのかという長期的な問題と、さしあたり毎日の暮らしをどう支えていくのかという短期的な問題を、二つながら解決しながら、しかもそれをしっかりと結び付けて被災地の復興にむけて問題に立ち向かっていかなければならないと思います。
そして、その両方の課題について、実は、被災した人たちの実際に寄り添い、人々の話に耳を傾ければなすべきことは「簡単」に見えてくるのだと思います。
しかし、メディアなどで雄弁をふるう首長の姿とは裏腹に、被災地に一歩分け入るとなすべきことになんら手がつけられていない現実に突き当たります。
誤解を恐れずに言うならば、「明日の構想」はさておいて、「今日なすべきこと」をこそなすべきだと、これは被災した多くの人々との出会いから、どれほど強調しても強調しすぎではないと確信します。
政府のあれこれの人々の視察などではいかほどのことも掬い上げることなく過ぎて行く、その状況に被災地の失望と喪失感はますます深くなっているということを忘れてはならないと思います。
2011年05月11日
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