今回の震災の被災地、宮城県仙台市に住む柳 あいさんからの論考が届きました。
韓国、朝鮮半島問題の専門家である柳さんから、日本と東北アジアの視野から今回の震災を見つめ、日本社会のあり方を問う論考の第一回となるものです。
天災と人災、鎮魂の意味を問う 柳 あい
この震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
「3・11大震災」当日、被災地仙台ではなくソウルにいたことで、かえって日本社会の病弊と韓国社会から発せられた熱い連帯の思いを強く意識された者として、この運命的に与えられた立場から今後の新生仙台をどうつくるかを、考えていきたいと思う。ただ大震災2カ月の現時点で整理できる点は少なく、その不十分さを自覚した上で、最初にとりあげたいのは、いわゆる「想定外の天災」という弁明についてである。
先ず指摘したいのは、今回ほどこの言葉が、「原子力関係の専門家」から発せられたことはなかったし、それはすべて「責任逃れの立場」から発せられていたという事実である。「専門家」が「想定外」を弁明の理由に挙げること自体が専門家としての資格にかけており、そうした専門家を大量に排出していることこそ「人災」であった。つまり、ある分野の専門家であれば、あらゆる事態を想定した上で、万一自らが予想した枠を超える事態が生じたとしても、それに対応する策を準備する姿勢と資質が求められる。
例えば、不十分ながら私個人は現代の日韓関係を専攻しているので、そこで起きたことが自分の予想と違っていた場合(往々にして現実は予想通りには進まない)でも、それへの対応策が求められる。
基本的に、専門家にとって「想定外」は禁句であり、「想定外」を言えば、自ら非専門家であることを告白しているに過ぎない(その意味で、原子力安全・保安[不安?]院の担当者が、震災以前は貿易担当だったので「想定外」を連呼するのはうなずけるが、この組織の無責任ぶりは極といえる)。
さて、以上を前置きにして「想定外の天災」という常套句に戻れば、基本的に「天災」は想定外だから起きる。だから、ある程度の人が犠牲になるのはやむをえないとしよう。だが、今回多くの犠牲者を出した「津波」は天災だとしても、それを少しでも防ぐために「高台に逃げる」などの周知徹底が不十分だったことは「人災」といえる。それ以上に、「福島原発」問題に限れば、連続した水素爆発は「人災」に属する。なぜなら、「天災」である地震が起きた直後から、この地震を「想定外の天災」と認識し、その対応策として「原発の廃炉」をただちに決定していたならば、建屋の水素爆発は防げたはずだという。だが、経済上の理由などでためらったため3度にわたる水素爆発が起こり、現在のような危機的状況(多数の震災犠牲者を放置したまま、多数の避難民と現場作業者を被爆の危険にさらしている)を生んだといえる。
ここで注目すべきは、経済的理由以上に、日本社会全般に貫徹している「国家官僚が統率する管理社会システム」の問題である。これこそ、今回の「人災」の元凶であり、今後の新生仙台、さらには新生日本を構想する上で、克服しなければならない最大の病弊になるに違いない。そして、こうした社会システムとの「闘い」こそ、「3・11大震災」で犠牲になった人々への鎮魂にはぜひとも必要であり、そこに彼らへの「鎮魂の意味」が凝縮されるのではないか。
さらに、この「闘い」は長期戦が必至であり、私たち自身の生活、暮らしぶり、そして生き方を問うことになるので、自らを「削る」ことなしには持続できないだろう。この「闘い」は既に始まっているが、この夏のいわゆる「計画停電」、つまりより少ない電気消費量で「豊かな生活」を送れるか、あるいはそれでも「豊かな生活」と感じられるかどうかが一つのヤマになる。
その辺を考えながら、次回以降も「鎮魂の意味を問う」ために、「あの戦災とこの震災」を比較しながら、検討を重ねたいと思う。 (2011年5月8日)
2011年05月10日
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