2011年04月30日

震災をのりこえるために、いま考えるべきこと

 震災から50日を越えました。
 この間、今回の震災と原発問題について「研究会」で議論をしたり、さらに、短い期間でしたが仙台に出向いたりしていました。日々目にし、耳にすることからは、ただただ言葉を失うという状況で、とてもではありませんがこのコラムに何かを書くと言う気持ちになれませんでした。

 復興問題をふくめて、さまざまな言説、論議が跳梁跋扈するという状況を前にして、つまるところ安全地帯に身を置いたあれこれの「評論」「論評」に過ぎない、それどころかそうした言説の背後にすでに新たな利権やビジネスに血眼になっている光景が透けて見えるものも数多くあるという、本当にいたたまれないまでの言論状況に、何かを語ることの無力感に苛まれる日々が続いています。

 これは災害報道の現場に身を置くことになった阪神淡路大震災の際に痛いほど経験したことの再来というか、まるで「古いフィルム」をプロジェクターにかけて見ているような既視感の世界というべきものでした。

 しかしあまりといえばあまりというべき状況を前に、4月が終わるところで、少しだけでも記しておかなければと己に鞭打って書くことにしました。

 4月半ばに一週間足らず赴いた仙台市の中心部は、建物に亀裂が走ったり崩れていたりするものもあるということを除けば、電気、水道、ガスもほぼ復旧していてなんとか「日常」が戻ってきたと言える状態でした。
 しかし中心市街から少し郊外に行くと、若林区などの沿岸部には瓦礫の散乱する荒涼とした風景が広がり、豊かな米の産地であった広大な水田地帯は海水をかぶり、津波が押し寄せたあとに残された瓦礫に覆われて、無残な姿に変わっていました。

 また、避難所になっている学校現場で被災者の支援をしながら学校の再開に奔走する教師たちの疲労困憊の様子を垣間見て、ここでもかけるべき言葉を失いました。

 「両親を失った子供たちもいて、震災によってもたらされた悲しみと苦痛をくぐったことで子供たちがすっかり以前の子供ではなくなった・・・」と語る教師が、近隣の学校の教師が過労死したと苦しげに語るのを前にして最早かけるべき言葉もありませんでした。
 みんなが発災以来の恐怖と苦悩、そして底深い疲労に苛まれていました。

 被災地とはいえ、県内の沿岸部の市町村とくらべると「別世界」ともいうべき仙台市でさえこんな状況です。ましてやそうした三陸沿岸の地域はいかばかりかと気持ちが塞いでしまったものです。

 阪神淡路大震災の現場に立った経験を持つ私は、「がんばってください」とか「がんばりましょう」とか言うことができなくなっています。とてもではないがそんな軽いことではないという思いが募ったものです。ただただ深い無言のうちに少しでも悲しみや辛さを分かち合うことでしか、それでは他人に伝わらないとしても、被災した人々と思いを共有する術はないというのが「阪神淡路」以来の思いであり覚悟というものでした。

 さて、書くべきこと、書かなければならないことは本当に山積です。こうして書き始めるともどかしいかぎりです。

 菅首相の諮問機関「復興構想会議」なるものがきょう(30日)3回目の会合を開きました。
 「復興への構想」どころか相変わらず「財源論」と「増税論」をあれこれ言いたてているという体たらくです。報道では「財源なき復興ビジョンは寝言だ」などという発言があったというのですが「復興ビジョンなき財源論など寝言だ」と返してやる必要がありそうです。

 すでにこのコラムで、この政権がガバナンスを喪失していて、発災から、なすべきことを一切せずあれこれの人事と会議づくりに没頭して、権力欲と「大臣病」(補佐官や副長官などもふくめて)にとりつかれた政治家や識者といわれる人々を次から次と官邸や内閣府などに呼び込む(こうした人々への高額な報酬について触れたメディアは一切ありませんでした)ことしかしかしてこなかったと指摘しましたが、いまだに何も変わらない政権の姿に絶望感だけが広がっていきます。

 発災の3月11日に立ち上げた「緊急対策本部」にはじまって、いまや、震災対策にかかわるなんとか本部やあれこれの会議、委員会が26もできているというのですから唖然としてしまいます。その下にあるなんとか検討チームであるとかあれこれのプロジェクトチームなども含めるともっと多くなるのかもしれませんがそこまで把握できないのでわかりません。

 きのうは内閣官房参与で東大大学院教授の小佐古敏荘氏が菅政権の福島第一原発事故対応について「法律や指針を軽視し、その場限りだ」と批判して辞任するという笑えないブラックジョークのようなことまで起きました。
 しかし、文部科学省が小学校などの校庭で子供たちが活動する際の放射線の年間被曝量の基準を20ミリシーベルトとしたことを強く批判して「とんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だ。通常の放射線防護基準に近い年間1ミリシーベルトで運用すべきだ」と語ったことについては深く受けとめるべきだと思います。
 
 原子力をめぐってうごめいてきた「学者群」のなかにもようやくと言うべきか、亀裂が走り始めたということなのでしょう。もっとも「世の風向き」を見て自己保身に走る人々が出始めたというとらえかたもできるわけで、なにをいまさらという受けとめも否定できませんが・・・。

 問題の所在について書き始めたら本当にきりがないのですが、まず注意しなければならないのは福島原発にかかわる「統合本部」会見問題でしょう。

 25日から、細野豪志首相補佐官の下、政府と東電による「福島原子力発電所事故対策統合本部」が統一的に会見するということになったことは既に知られていますが、これは見過ごせない重要な問題をはらんでいるというべきです。

 細野氏は「みなさんにご理解を賜りたい。ぜひ、透明性に関する統合本部の方針、私を信じていただきたい・・・」と語っていますが、私は、これは大変なことになったと思いました。

 これまでバラバラに会見していたのが統一的に行われるということでメディアでは評価されていますが、バラバラに会見するからこそ明らかになる情報の食い違いや矛盾点から、その時起きている事の実体が見えてくるということがあったと言うべきです。

 しかし、これで「完璧」な口裏合わせと一層の事実の隠ぺいが始まることになったと言うべきです。多くのメディアがこのことを語らないのはなぜだろうかと不思議でなりません。

 これまでも東電は一階と三階の二つの会見場を発表内容によって使い分け、時間差をつけて同時進行させたりして、結果的には、人員に余裕のある大メディアは対応できても、うるさいフリーランスの記者などは「手が回らない」という状況を作り出すという、実に姑息な手立てを講じてきたのですが、それでも東電、保安院や経産省、そして官邸の会見内容の「齟齬」が重要な問題をあぶりだすことにつながってきたと言うべきでした。

 ここにきて「統合会見」にしたことをどうとらえるのかは各メディアの問われるところだと思います。さらに言うならば、各原子炉の状態がどうなのかという問題をこえて、放射性物質の拡散、放射能汚染の拡大という事態が一層深刻化する段階をとらえて「情報の一元化」をはかるのは一体なぜなのかと考えればおのずと答えは明らかと言うべきです。

 ところで、4月初めから、新聞各紙が原発問題の検証記事を載せ始めています。
 けさ(30日朝)ある新聞の検証企画記事を読んでいて目を疑う記述にぶつかりました。 
 これまでも真偽のほどがあきらかではないまま経過している14日の東電による「第1原発からの撤退発言」問題についての以下のようなくだりです。

 「現場は切迫していた。午前に3号機が水素爆発し、午後には2号機で水位低下。午後9時には炉心の燃料溶融に関し枝野官房長官が1〜3号機とも『可能性は高い』と言明し衝撃が走る。自衛隊員4人が午前の水素爆発で負傷し、防衛省は東電の『大丈夫』との判断に疑問を抱く。夜には中央特殊武器防護隊員らが郡山市の駐屯地に一時退く。同様に第1原発の近くで待機していた原子力・安全保安院の職員らも郡山に退く。住民は半径20キロ内からの避難指示だが、安全を担うはずの保安院は50キロ以上先の郡山へ。炉心溶融か、という極限の状況を考えれば、だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。・・・」

 これを読んで唖然としない人がいたら教えてほしいと思います。
 ここで言う人命とは一体誰の「命」の事なのでしょうか。
 言うまでもなく東電社員もしくは下請けの協力会社の作業員をはじめとする東電関係者と言うことになります。 
 地域に住む住民はここでの人命には含まれていないことはあきらかです。

 「だれよりも危険を認識していた東電」であるなら、まず知らせるべきは地域住民であり、住民の「全面撤退」こそが、最優先になされるべきことであったはずです。
 「極限の状況を考えれば」なおさらです。
 それが「だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。」とは、これを書いた記者は一体どういう立場に立ってものを考えているのか聞いてみたいとさえ思うのですが、どうでしょうか。また、よくこんな記事が「検証記事」としてデスクの目を通ったものだとこの新聞社の取材、出稿体制に妙な感心さえしてしまいます。

 しかし悪いことだけではありません。この記者が無意識、無自覚に書いたことで非常によくわかったことがあります。

 このとき、地域の住民を放り出して、保安院のみならず自衛隊員までが50キロ以上離れたところに、まさに我先にと逃げていたということです。それぐらい「極限の状況」だったというわけです。

 原子炉は健全に保たれている・・・とは一体誰の言葉だったのか・・・。

 あらためて、原発震災にかかわる政府や東電の対処、対応にとどまらず、メディアの報道について厳しい検証が必要だと痛感します。

 「出口なき迷路」と私は、原発問題が起きてから言い続けてきました。
 原子炉内および使用済み燃料プール(の核燃料)を冷やして安定させることが喫緊の問題である。
 そのためには冷却系の装置を機能させる電源が必要だ。電気系統が機能しなければならない。
 しかし電源を喪失していたので水を注入するしかない。
 水を注げば注ぐほど高濃度の汚染水が漏れ出し滞留して電気系統の回復作業すらできない。
 だから、さらに注水して原子炉を冷やさなければならない。
 と、まあこうして悪魔のような悪循環に陥ってしまい、出口が見えないという状況に突き当たってしまい、抜け出す術をもたない。

 これを「出口なき迷路」と言わずしてなんというのか、というわけです。
 状況は深刻です。

 チェルノブイリから25年ということで、4月26日に参議院議員会館で「院内集会」がひらかれたので聴講したのですが、1997年に「科学」に「原発震災〜破滅を避けるために」を寄稿して以来、地震と原発の相関で警鐘を鳴らし続けてきた神戸大学名誉教授の石橋克彦氏の話を聴きながら、あらためて「原発震災」というものの深刻さを考えさせられました。

 1997年の「科学」への寄稿論文には「(東海地震などの巨大地震に)原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時に比べて極度に困難だろう。つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する“原発震災”が発生し、しかも地震動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである。膨大な人々が二度と自宅に戻れず、国土の片隅でガンと遺伝的障害におびえながら細々と暮らすという未来図もけっして大袈裟ではない。」とあります。

 まるでいま私たちが目にしている「事象」(官邸も、東電も、そして原子力を専門とするひと群れの学者たちも、発災からかなりの期間、今回の事故をこのように表現していたものです)を見事に言い当てていることに驚いたものです。

 それにしても放射能汚染問題は深刻です。

 2週間ほど前、現政権の枢要をなす政治家が、本当のところは福島市(に住む市民)までをも避難させたいのだが今の政府には30万人とか40万人の人間を避難させる力はないと洩らしたということを耳にしました。

 私的な会話でつい本音を洩らしてしまったということでしょうからこれでどうこう言えることではないかもしれませんが、事がいかに深刻かを物語っていることは確かです。

 しかし、その深刻さを政府も東電もそしてそれを知りうる立場にあるメディアも率直に語っていないということこそ、より深刻な問題だと、私は考えます。

 さて、またもや長くなりすぎるので、一応の区切りをつけますが、検証すべき問題、考えなければならない数多くの問題のなかから、最低限のいくつかだけをメモしておきます。

1.原発震災について言うなら、東電、政府、専門家そしてメディアはなによりも本当のことを語るべきだということです。これまでひたすらごまかしと隠ぺいに狂奔してきた自己のあり方を反省して、一切のごまかし、隠ぺいをせずに本当のことを語るという、実に単純で素朴なことを誠実に実行することです。もっとも今の政権、東電、メディアなどに登場している原子力専門家たちの存立、存在を、そしてメディアのあり方を根底から脅かすことになるわけですから、この「簡単」なことが実行されることは、残念ながら、期待できないというべきですが・・・。

2.復興問題について言うなら、インフラの回復については国がすべての責任をもって即時かつ強力に、本当に一気呵成になすべきだと思います。これは阪神淡路大震災を現場で経験した教訓です。電気、通信、水道、ガスなどのライフラインは個別企業の努力で回復させるものだと考えがちですが、そうではなく、こうしたライフラインに加え道路、鉄道、港湾設備、さらに瓦礫の撤去、処理などはむしろ国の責任で一気に行い、回復させるべきだと、これは震災体験から学んだことです。ライフラインの回復状況などを考えると、すでに後知恵、後証文になっていることも多くありますが、これは発災直後から研究会などの議論で主張してきたことです。

3.では、復興計画についてはどうかといえば、これこそそれぞれの被災地の人々の知恵と考えに、つまり現場にゆだねるということにすべきことだというのが、これまた阪神淡路を経験した教訓です。つまり、現在の政権のやろうとしていることは全く逆で、逆立ちしていると言うべきだと、私は確信しています。被災現場にはどんな苦境の中でも立ち上がろうとして格闘する多くの人がいます。その人たちの知恵と力こそが復興ビジョンの構想力の源なのです。東京の官邸の会議室などで高額の報酬や謝礼を懐にしてあれやこれやの「議論」を交わす識者などにゆだねるべきものではない!というのが過去の震災の教訓です。被災現場の声に耳を傾け、現場の知恵を生かし、現場が望むことを実現するのが中央の権力の座に座っている人々のなすべきことなのです。つまり被災現場の人々の下僕として働くのが政治家であり官僚であるべきなのです。発想の逆転をこそすべきなのだと、私は確信します。識者と言われる人々も、もし復興計画に関わりたいのなら、現場に赴いてそこで被災した人々と共に汗を流すべきなのです。それ以外のただ評論する識者など、どんなに立派なことを言ったとしても無用のものだと言うべきです。

4.政治の責任という意味では、パフォーマンスはもうやめにすべきです。この連休中も予算委員会の論議をはじめ国会を休まずやっている光景がテレビで中継されていますが、考えてみれば、ではこれまで国会は何をしてきたのだというべきです。これ見よがしに連休中も国会議員は「働いている」というのは一見もっともらしく見えますが冷静に考えてみれば実にでたらめな、目くらましのパフォーマンスだというべきです。発災から50日、一体国会は何をしていたのだと問わなければならないと思います。なすべきことを何もしてこなかったからこうなったというだけのことではないでしょうか。ましてや、今様「黄門様」だかなにかは知りませんが、予算委員会の冒頭、「涙声」で菅首相を諌めるなどという猿芝居まがいのことに「電話で『入閣してくれ』なんて、政治経験がまだ浅い!自民党との連立政権の構築で失態を演じた首相に“黄門さま”が活を入れた・・・」とか「目に涙をためながら『今200万福島県民の怒りは頂点に達している』と指摘するなど、終始厳しい口調で菅首相の震災対応を追及・・・」などとはやし立てるメディアとは一体なんだろうかと思います。ちなみに以前「ウソ泣き」の空虚さを言われた女性タレントがいましたが、「目に涙をためながら」絞り出すような声で首相を「叱咤」したはずにもかかわらず一滴の涙も流さず、一転して出席議員たちの笑いを取るなどという達者な演技にただただ白けたのは私だけではなかったと思います。政治家とはこれほど底の浅いものでいいのでしょうか。パフォーマンスはもうやめにすべきです。それ以上に、福島県出身の「黄門様」に問うべきことは、では、あなたは福島への原発誘致に対してどのような政治行動をとってきたのか?!ということではないでしょうか。

5.阪神淡路大震災の復興論が議論された際「復興ファシズム」という言葉が登場したことを思い起こします。お上の、あるいは県の(首長の)やる復興施策にあれこれ異議を申し立てるのはまるで「非国民」といった空気が醸成され、メディアなどの論調もそれを許すようなものになりがちだったことを、いま、深く考えてみなければならないと思います。それは今回の震災が、まぎれもなく日本のこれからの社会をどのようなものにしていくのかという歴史的な転換点としてあるということを痛感するからです。阪神淡路大震災当時、震災報道の現場に身を置きながらかつての関東大震災についていくばくかの勉強をしたことがありました。そこで学んだことのひとつは、当時これだけの悲惨な激甚災害なのだから三代百年は記憶に刻まれるだろうと言われたものがそうはならず、まさに喉元過ぎれば・・・の喩えのように記憶の彼方に忘れ去られ「阪神淡路」を迎えてしまったという悔恨でした。つまり震災の教訓を歴史に刻み、記憶に刻むことの大切さを痛切な思いと共に、あらためて学んだということでした。今回の震災は「阪神淡路」からわずか16年のことでした。そしてその教訓とは単に「地震に強いまちづくり」といったことにとどまらず、震災当時に起きた「朝鮮人虐殺」という忌まわしい事件をはじめとして、震災を機に歴史がどういう道をたどったのかということにありました。1923年の関東大震災から2年後、普通選挙法と治安維持法が時を同じくして定められ、その後1929年の「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌をへて、1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと時代は大きく転回しました。震災からわずか14年のことでした。政治、社会、時代風潮など根の深いところで「30年代的状況」とのアナロジーが語られる現在、今回の震災以後の社会をどのようなものにしていくのか、どんな日本を再構築していくのかという問題と真剣に向き合う必要があると考えます。そして、決して歴史を誤ることがあってはならないと痛切に思います。そんな時、「復興ファシズム」ということが語られた状況について今一度思い返してみることは決して無駄なことではないと考えます。

 さて、歩まねばならぬ・・・ということばが胸の奥深くでこだまのように響きます。

 語るべきことは数多くありますが、言葉がいかほどのものかという畏れを抱きながらも、問題のありかを深く掘り、問題を共有し、問題意識を深めながら、多くの人と手を携えて、この震災に立ち向かう力を!と切に思います。

posted by 木村知義 at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録
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