前回のコラムを書き、柳 あいさんからの投稿をアップして少しの間旅に出ました。
一週間あまり朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都平壌を訪れ2日(土)に戻りました。
朝鮮問題と取り組んでいるジャーナリストのグループの一員としての訪朝でしたが、ちょうど朝鮮労働党の代表者会が開かれる時をはさんで現地、平壌の地に立っていたことになります。
そこでの見聞や考えたことは追い追い書いくことにしますが、その前に書いておかなければならない事があります。
前回のコラムで「すべては杞憂であればいいのだが・・・」と書いたことが、杞憂ではなく悪夢のような現実となって展開していることに、旅の間も暗澹たる思いで過ごしていました。
帰国して、新聞各紙から週刊誌などまで、ほぼ20に近いメディアに目を通してみたのですが、それこそ深い憂慮を禁じえません。
「まるで子供に外交という玩具を与えるかのごとく映るといえば言いすぎでしょうか・・・。」と書いたことが、残念ながら言い過ぎでもなんでもなく、それ以上に、つゆほどの論理、思想、経綸もなく、戦略、政策のひとかけらもなく、事態が推移していることに言うべき言葉を失います。
尖閣諸島の問題を歴史的にどう位置づけて考えるべきかというベーシックな問題をおいて(本当はおいておくことはできないのですが現状があまりにもひどいので、まず目の前の状況についてのみ言わざるをえません)「起きたこと」だけについて言うならば、そもそも中国漁船を捕捉し、船長、船員を逮捕するという判断で根本的な間違いを犯しておきながら、では、そうしてみたいと思ったとおり「捕まえてみた」のならそれに沿って貫徹できるのかといえばそれもできないという、度し難いばかりの誤りを重ねたことは、どのような言い訳、言い逃れもできないでしょう。
これを「子供の火遊び」と言わずしてなんというべきでしょうか。
首相にしろ、官房長官、外務大臣にしろ、こうした人々が一国の政権を標榜しているのかと思うと、暗澹たるという次元をこえて、恥ずかしいとしか言えないものです。
平たく言って、そもそも外交とは価値観や意見の異なる間柄、あるいは「争い」を抱える関係であるからこそ必要なのであって、そこになんの齟齬もなければ外交など必要ではありません。
日中双方で見解が異なり、対立が絶えない問題であればこそ、それをどう緩和して平和的に解決するのかというのが外交のなすべき仕事と言うべきです。
そんな原則もわきまえず、まさに児戯にも類する(というと、おれたちはもっとましだと子供が怒るかもしれません)ことを、ただしてみせたというわけです。
論を尽くしているとどれだけの紙幅が必要かわかりませんので、いささか乱暴に過ぎるかもしれませんが、急いで、結論だけを書きます。
逆説的ですが、公務執行妨害などという「取るに足らない罪状」で捕まえるなどというバカげたことをしてみせたことがまず間違いの始まりです。
それをさておいたとして、この海域で、突然、中国の船の捕捉、船員の身柄の拘束を決断するということはまさに「戦争」(古典的な鉄砲を撃ちあうというレベルのことだけではなく言っているのですが)を覚悟したということですから、これまた逆説的なもの言いですが、捕まえた限りはとことん戦争に突き進む覚悟でなければならないということです。
もちろん私はそんな道には反対であることは言うまでもありませんが、菅政権が、あるいは各メディアで言われるように仙谷官房長官の主導の下、あるいは前原外務大臣の主導の下、ここに足を踏み入れたのなら、そうした皆さんには「戦争」の前線に立ってもらわなければなりません。
銃でもなんでも持って、真っ先に「突撃」でもなんでも、してもらわなければ間尺にあいません。
それができないなら、はじめからしてはならない!というべきです。
そんなことをしておきながら、苦し紛れの釈放という決断だけは下に押し付けて己の保身を図るというのですから、何をかいわんやです。
そして、さらに言うなら、初動の判断の誤りをなんとか取り返すチャンスがあったのに、それをも逃してしまったという二重、三重の誤りを犯しているのです。
初動の判断の誤りをなんとか取り返すチャンス??
それは、中国にいる船長の祖母が「逮捕」直後急死した時です。
まさに、このときにこそ、大所高所から人道的判断で身柄を解いて帰国させるというのが政府の決断であると公表し、そのように運んでいれば、もちろん初動の判断の誤りを糊塗するレベルのものですが、それでもなんとか「体面」を保つことができたというべきです。
つまり少なく見積もっても三重の誤りを重ね、そしていま、世界の各国に「事情を説明して中国の横暴、脅威に理解を得る・・・」などというバカげたことにうつつを抜かしているというわけです。
したがって、少なくとも四重の過ちというべきでしょうか。
なぜこれが誤りであり下策なのかと言えば、これまた平たく言って、たとえば子供の喧嘩を思い起こすと簡単にわかります。
二人で喧嘩して、それをどう収拾すればいいのかというとき、相手の悪口を誰かれなく言って回るようなことをすれば、おさまるものもおさまらず、それどころか相手の悪口を言いふらしてまわる側の方が誰からも信用されなくなるという、実に簡単な論理です。
そんなことが現実の外交という場でおこなわれているのです。
なんとも寒貧たる光景ではないでしょうか。
本来的にはもっとベーシックなところできちんと論を重ねるべき問題なのですが、現実があまりにもひどいので、逆説的なもの言いも含めて、こんなことを言わざるを得なくなっているのです。
なんとも、杞憂が杞憂でなくなるという、言葉にし難いというか度し難い展開になっています。
さて、今回の問題については書くべきことが山ほどあるのですが、まずはここまでにとどめて、冒頭に書いたジャーナリストグループの朝鮮訪問の旅についてです。
現地報告やそこで考えたことについてはもう少し時間をかけて整理して、書いていくことにしたいと思います。
そこで、平壌の現地に立ってみて、内容についての賛否はともかく朝鮮の側はいま何をどう考えているのかを的確かつ過不足なく認識、把握しておかなければならないということを、またあらためて痛感したことを、まず押さえておかなければならないと感じました。
こうした問題意識に立って、朝鮮中央通信の報道をもとに、今回の訪朝で注意を払うべきだと感じた、この間の、朝鮮側のいくつかの声明などをクリップしておくことにします。
ただし、このまま続けるとコラムがめっぽう長くなってしまいますので、上述の文書を別のページ建てにすることにします。
ぜひ、一度目を通してみてください。
つづく・・・
2010年10月05日
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