2010年の夜明け、東京ではおだやかな空に陽が昇り、雪をかぶった富士山がくっきりと望めました。
日中も気持ちのいい日差しがふりそそぎ、ゆったりした気持ちで過ごせました。
しかし、朝から新聞五紙を並べて読み比べながら、どうも釈然としない問題につき当ってしまいました。
いま日本が、あるいは私たちが大きな転換期にあることはいうまでもないことですが、とりわけ今年は日米関係にかかわって、単に外交、国際問題にとどまらず、国内の社会あり方との連関で論を展開していく論調が目につきます。
企画記事もそうですが、社説にそれが顕著に表れているように感じます。
普段はそれほど熟読しないことが多いのですが、年の初めということもあり、各紙の社説をじっくり読んでみました。
まず、社説のタイトルを挙げてみることにしますが、産経だけは、普段の「主張」ではなく、一面に、「年のはじめに」として、論説委員長が筆をとって、「国思う心」が難局を動かす、と題した論説を掲げています。
それ以外の各紙はいつもどおり「社説」を掲載しています。
そこで社説のタイトルを見てみますと以下のような具合です。
激動の世界で より大きな日米の物語を(朝日)
ニッポン漂流を回避しよう 今ある危機を乗り越えて(読売)
2010再建の年 発信力で未来に希望を(毎日)
未来への責任 繁栄と平和と地球環境を子や孫に(日経)
それにWebで読んだ東京新聞の社説は、
年のはじめに考える 支え合い社会の責任
となっていました。
それぞれの問題意識の根底には、安全保障と日米同盟の問題が大きな位置を占めていることが見えてきます。
そこで、釈然としない問題とはどういうことなのかです。
たとえば、「続く地殻変動の中で、日本はどうやって平和と繁栄を維持し、世界の安定に役立っていくのだろうか」というくだりについては大いに問題意識を共有するのですが、その先に「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた。そして今、北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない。米国にとって、アジア太平洋での戦略は在日米軍と基地がなければ成り立たない。」と展開していく論理についてです。
あるいは「鳩山首相が言うように、米国依存を改め、対等な関係を目指すのなら、北朝鮮などの脅威に備えた自主防衛力の抜本的な強化が必須となる」と論を展開しているものありました。
いずれにしても、日本の周辺での脅威として中国や北朝鮮があるがゆえに、日米安保の重要性があるのだというわけです。
至極ごもっともとする論調が大勢を占める中で、わたしはやはり釈然としなくなってしまうのです。
北朝鮮や中国の存在が脅威だとするなら、軍事的にそれらを凌駕することを考えるのが「安全保障」ということになるのか、という問題なのです。
年のはじめから、そんなに愚直で素朴なことでいいのか!と叱られるかもしれませんね。
しかし、ここは普通の人間の、ふつうの感覚で、考えてみようと思うのです。
たとえ、普通の人間の普通の感覚をバカにされてもです。
あらためて、外交とは何か、であり、戦略とは何であるのか、です。
ここはあえて「素朴な話」にします。
脅威があるのなら、どうすれば脅威でなくなるか、脅威が減っていくのかを考えることこそが大事になるのではないでしょうか。
こんなことは赤子にでもわかる論理です。
しかし、あまりにも素朴すぎて、バカにされるのがオチということでしょうか・・・・・。
あるいは、「有事の際に米国が日本を守り、その代わりに日本が米軍に基地を提供する、という相互補完関係・・・」という文脈では、有事にならないようにどう努力するのか、という問題の立て方にどうしてならないのかということです。
あまりにもまともすぎてバカバカしい、ということであれば、そもそも外交とは何かという問題に答えてほしい、といわざるをえません。
「脅威があるから・・」・という論の立て方は一見もっともらしいのですが、そこから、その脅威をのりこえて脅威でなくなるように努力するにはどうすればいいのかという方向に思考を向けるのではなく、いまある前提を前提としてしかものを考えられないことが、その先を「狭く」してしまうのではないかと、わたしは釈然としないのです。
いってみれば、「いまある危機」を目の前にして考える、その後のベクトルが異なるのではないか、という疑問なのです。
転換期というなら、もう一度思考の根底にまで再検証の目を光らせて、考えるベクトルこそを見直してみることが必要なのではないか・・・?
新年最初の「釈然としない」疑問です。
そして、もっと根源的には、たとえば北朝鮮の脅威とはどのようなことであり、台頭著しい中国の脅威とは何を指すのか、について詳らかにかつ論理的に語ることができなければ、脅威に対処するためのあれこれについて述べる資格などないというべきではないのか・・・。
所与の前提を前提としてしか認識できず、それに身の丈をあわせることしか発想できない人間に、歴史的転換期に言説を重ねる資格があるのだろうか・・・。
考えてみると、この「思考のベクトル」の問題は、実は本質的な問題だということが見えてきます。
さて、歩まねばならぬ・・・。
であるならば、何をどう考える必要があるのか。
それが深く、厳しく問われてきます。
そういえば、けさの社説に、
「メディアもまた試されていることを胸に刻みたい」
と結ばれているものがありました。
まさにそうなのだろうと思います。
今年最初の、私の「疑問」であり、同時に問題提起です。
2010年01月01日
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