2009年12月31日

「釜が崎」の人びとへの手紙

 今年も暮れようとしています。
 これを書きはじめた今、2009年も、もう3時間を切りました。
 テレビからは「紅白歌合戦」の華やかな舞台の様子が届いています。

 一年前の今頃、東京では、日比谷公園の「年越し派遣村」が大きなニュースになっていました。
 湯浅誠氏が内閣府参与についたことで、昨年のような「問題」にならずにすんでいるのでしょうか。
 少なくとも今年は、表面的には、去年のような大きなニュースにはなっていませんし、話題にもなっていないようですから、「静か」に過ぎているのかもしれません。

 しかし、湯浅氏が政府の「貧困・困窮者支援チーム」の事務局長に座ったからといって、問題が解消したとはとても思えませんから、この「静けさ」は、私にとっては、不思議です。

 もちろん、伝えられるところでは、全国の136の自治体が「官製派遣村」を開設して、職業や住まいなどの「生活相談」に乗るということですし、東京都は、28日午後から年明け4日まで、宿泊場所、食事の提供をするということですから、事態は、少しは改善されているのかもしれません。

 しかし、重ねてですが、問題が根本的に解決したわけではないことはいうまでもありません。

 25日に発表された完全失業者は331万人、完全失業率は5.2%で「4か月ぶりに悪化」と報じられました。

 このところ電車に乗るたびに「人身事故」で一時運転が止まったり、遅れが出ていたりということに遭遇することが多くなっていました。

 1日に何度もそういう事態に遭遇したり、あるいは、路線を乗り継ぐとそこでもまた、ということもしばしばでした。

 そのたびにこの「人身事故」という無機質なことばに胸が痛んだものです。

 率直にいえば、人が列車にむかって身を投げる、その光景が想像の中に浮かび、ことばがでなくなり、ただ気持ちが沈んでいく、そんな日が頻繁になってきていることに、やりきれない思いで気持ちが暗くなるのでした。

 去年のようにメディアで「話題」にならないだけなのか、問題が本当に改善されているのか、それすら分からなくなっているということは、決して昨年より事態が良くなったとはいえないのではないかと、私は考え込むのです。

 オーストラリアの思想家、テッサ・モーリス・スズキさんがかつてメディアにかかわる講演の中で、「無知の技術」という問題提起をしていたことを思い出します。

 この講演は、戦争とメディアの責任をめぐってのものでした。

 そこでテッサさんは、
 「私たちは『情報技術』という言葉をよく使います。しかし、こうしたメディアと戦争の関係を考えますと、私は最近、非常に洗練された『無知の技術』が発達しつつあるのではないかと感じます。『無知の技術』とは、戦争の場合、人々を理解させるために情報が提供されるのではなくて、人々が理解できないように情報が提供されることです。あるいは国民の関心を喚起するために情報が与えられるのではなくて、国民を無関心にさせるために情報が与えられていることです。」
 と述べています。

 内閣府参与になった湯浅氏の事はしばしば話題にされ氏のインタビューなどが伝えられたとしても、結果的に、それが事態を目に見えなくしてしまうことになったとするなら、なんのための政府の役職なのだろうかと思わざるをえません。

 これがテッサ女史のいう「無知の技術」の類でなければいいのだがと念じるばかりです。

 昨年のいまごろのことを思い出して、そんなことを考えるのも、この時期、仕事を失い、寝る場所さえ確保できない野宿者を、夜通しの「越冬パトロール」で支える活動をしている大阪・釜が崎の人たちから「通信」が送られてきたことも強く働いているのかもしれません。

 「派遣切り」が問題になるずっと以前から、「釜の人びと」(大阪、現地では「釜」:カマといえばそれだけで釜が崎と通じます)には日常のこととして、そうした苦しみが重くのしかかっていました。

 ただ、報道されなかっただけです。

 あまりにも「日常的」だったがゆえに、多くの人びとから、そしてメディアからも、見向きもされないという「境遇」に置かれていただけの事です。

 もちろん、私もまた、偉そうなことの言えたものではありません。

 それだけに、今年の『静けさ』が気になるのです。

 湯浅氏が内閣府参与として政府の側に入ったことで、問題が改善したといえることを切に願うばかりですが、もしそうでないとするなら事態は一層深刻だと思います。

 取材して伝えることを、欧米では、cover:カバーというのはよく知られていますが、今年のこの「静けさ」を、事態に蓋をして(coverして)見えなくなったのではないことを念ずるばかりです。

 年の終わりに、いささかでもメディアにかかわりを持つ身であること、社会を見つめ、世界と時代について考え、ささやかであっても言説を重ねるおのれをふり返って、自戒をこめて書いているのですが、その意味で、「通信」を送ってくれたことへのお礼の気持ちをこめて釜が崎の人たちに書き送った書状を、最後に転記しておきます。


 今年も残り少なくなって、慌ただしく過ぎて行きます。
 先日は「通信41号」をありがとうございました。
(本当は「ございました」なんて言わずに、ありがとう、と大阪弁で言いたいんやけど手紙なんでそうもいきませんから、ちょっとよそよそしい言い方になります。)
 世の中が休みになる年末年始は、釜のおっちゃんやおばちゃんにとって一層厳しい時期になることを思い出して、胸が痛みます。
 いまは、多分、若い人たちも大変だと思います。
 私のほうは仕事を辞して、素浪人風「たった一人の研究所」生活の一年が過ぎました。
 「いばらの道だぞ!」という忠告をして下さった方もいました。 その通りであるだろうと思っていました。
「貧乏ヒマなし」を地で行くように、本当にお金儲けとは無縁のことばかりですが、毎日追われていて、会社にいたときも、普通より相当一生懸命働いていたつもりだったので忙しかったのですが、それ以上に忙しくて、なんでこんなんやろか、と呟いています。
 しかし、少しずつですが、属した企業や経歴においてではなく、「素浪人」として自身を語ることばを獲得して、なにもない一人の人間として語ることができるようになってきたように思います。
 それはいわば「原点への旅」という趣でもあります。
 今年、私よりふた世代も若い、すぐれた知識人(友人と呼ぶことを許されるなら嬉しいのですが米谷匡史さんという人です)が編んだ谷川雁の書を手にして、その序章に置かれた「原点が存在する」を読みながら自身の歩んだ道を反芻しました。
 『日米新安保条約』と冠された書物を握りしめてアジアと日本について真剣に考えはじめた中学生のころ。
その時亡くなった樺美智子さんのご母堂から、美智子さんが「出かけた日」そのままにしておかれてある部屋に案内された学生時代。
 ジャーナリズムのあり方を深く考えさせられ、生き方を厳しく問われた父という存在・・・。
 すべて、おのれの原点とはなんであるのかを問い返す営みだったと感じます。
 今年秋、1970年以来「亡命」状態で日本に住み、アジアをそして世界と時代を見据え、舌鋒鋭く語り続けてこられた鄭敬謨氏と長時間にわたりお話する機会を得ましたが、その際、シアレヒム、「一粒の力」ということばと出会いました。
 また、以前、仕事をしていた時期に折々励ましのことばをかけてくださった故岡部伊都子さんを偲ぶ会で、生前岡部さんが親交を結んだ韓国の詩人高銀氏のメッセージを紹介する役目を負ったのでしたが、その高銀氏の記したことばに「われら未完の歴史を完成の歴史に変えようとしながら、その未完の歴史の中を生きる苦難の光栄がいかに得難い貴重なものであるのか」というくだりがあります。
 東アジアが依然として冷戦と分断の時代をのりこえることができずにいる現在、アジアとメディアのありようを見据えることをわが原点とし「未完の歴史を完成の歴史に変える」ために、「一粒の力」ということばを胸に、ささやかな営みではあっても努力を重ねたいと念じています。
 「通信41号」を読みながら、世の中と人間にしっかり向き合っていかなければならないと、あらためて思い定めたのでした。
 私にできることはあまりないのですが、釜のみなさんにとって、新しい年が少しでも希望の見える年になるように祈るばかりです。
みなさんも身体に気をつけてがんばってください。
                   2009.12.28記
 

 ささやかなこのブログコラムも、新しい年を迎えると、3年目に入ります。

 こころして、書き継いでいきたいと思います。
 みなさんにとって、そして世界にとって、ぜひ良き年であるよう深く念じて、今年最後のコラムの筆を置きます。

 

 
 
 
posted by 木村知義 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録
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