2009年11月12日
コラムから長く遠ざかってしまいました・・・
このコラムの筆を執るのがとても間遠になってしまいました。申し訳ありません。
何人もの方々から「一体どうなっているのか」「具合でも悪いのか」「続きを早く!」といったメールをいただき恐縮しています。
「時々日録」は「ジジニチロク」というつもりで、刻々と動く世界と日本について考えるところを書き継いでいこうという思いをこめていたのですが、まったくもって「ときどき日録」となってしまい深く反省しています。
ブログから遠ざかっていたあいだ何を考えていたのかということについてまず述べておかなければなりません。
率直に言うとここに書いてきたテーマ、問題について、言論あるいは言説の有効性についてあらためてじっくり考えてみたということです。
私は、北東アジアとメディアのあり方をテーマに据えて・・・と言ってきているのですが、そのいずれについても自身の「言説の力」というものをここでもう一度見つめ直してみるということが必要ではないかという思いに駆られました。
とりわけ朝鮮半島問題について語るという営為に求められるものは何かを突きつめて考えてみなければと思いました。
もちろんそれはメディアについて言挙げする際にも、中国・アジアについて、あるいは時代や社会について語る場合にもみな同じなのですが、とりわけ朝鮮半島問題について語る“営み”について、自己の足下をしっかり見据え、踏み固めておかなければならないと、あらためて思ったのでした。
大小、つまりマスからミニまで、これだけメディアが氾濫し、Web上の言説も無限、無数にあるなかで、発言をしていく意味はどこにあるのかという根源的な問題について、本当に、あらためて考えてみることになりました。
問題意識としては、長くマスメディアの内側に身を置いて仕事を重ねてきて、それはそれで重い責任と大事な意味のあることではあったのですが、そこに安んじていてはならないという思いから一歩外に踏み出してみた、その決断は間違いではないと確信しながら、では踏み出したフィールドでどれほど説得力のある言説を重ねられるのかという自己への問いかけ、省察が、常に必要ではないのかと思ったのでした。
あたりまえといえば、あまりにも、あたりまえです。
実は、この間、北東アジアにかかわる研究会をスタートさせたり、中国、アジアにかかわるさまざまな会合で意見を交わしたり、あるいはメディアのこれからについて「業」に携わる方々ときわめて実際的な議論をしたりしながら、一方では上に書いたような思いが日々深まるばかりでした。
かつて学生の頃、ラディカリズムが時の風潮あるいは「思潮」として語られたことがありました。
その折、形として「急進的」という薄っぺらな次元ではなく、物事を根源において見据えることが本来のラディカルということであり、それゆえに切っ先鋭く、まさに屹立する存在となるということを学びました。
そのように深く思想に根ざすものとしてとらえるならば、そこでの言説はまさに「魂にふれる」ものでなければならず、何んらかの発言、言説を重ねるという営為は、自己の足下の検証、省察を伴うことなく許されるものではないという思いに駆られるのでした。
これはマスメディアに身を置いて仕事をしているときにも繰り返し、繰り返し想起されたことですし、それゆえに仕事のあり方と自身のありようを問い直す営みを繰り返してきたものでした。
つまるところ、言論の可能性と限界、そして責任について、本質に迫りながら深く考えるという営みにほかなりません。
なぜ今またこんな思いに駆られるのか、いかにも青臭い書生論に響くかもしれませんが、Webでの発言をはじめて一年余り、目も眩むほど氾濫する言説を前に、私にとって、自己のありようを厳しく見つめ直すことなしに前にすすむことはできないことでした。
で、その結果は?!と問われると正直立ち往生してしまうのですが、こうした少しばかりの「時」をくぐることで、あらためて勇を振るって可能な限りの発言をしていってみよう、言説を積み重ねてみようという思いを再確認したというわけです。
状況への発言が、状況に遅れをとり、状況に迫る鋭さを持ち得ず、何らの衝迫力もないとしたら発言の意味はないというべきで、そこをしっかり見据えながら、このコラムを重ねて行かなければと、あらためて思いました。
力が届くのかどうか、そこははなはだ心もとないのですが、歩みをすすめるしかありません。
発言するということで、原初の思いへの責任を果たしていかなければと、いままたあらためて考えました。
あまりに情緒に過ぎるという批判を覚悟の上で、しかしここを避けて通ることはできなかったがゆえに、記しておくことにします。
さて、こうした「思索」を続けるあいだに、朝鮮半島問題に関していえば、何冊かの書物と私自身が集め仕事で使った過去の資料類(段ボール2箱余)をもう一度じっくり読み返してみました。
この作業は今も進行形なのですが、このようにして自身の問題のとらえ方に間違いはないかどうかを問い直してみているというわけです。
なお、このコラムの読者と問題意識を共有するための手掛かりとしてそれらの書物を提示しておきます。
「二つのコリア」ドン・オーバードーファー
(1998年版および2002年「特別最新版」)共同通信社
「北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録」
ケネス・キノネス(2000年)
「北朝鮮U 核の秘密都市寧辺を往く」
ケネス・キノネス(2003年)いずれも中央公論新社
「北朝鮮をどう考えるのか 冷戦のトラウマを越えて」
ガバン・マコーマック(2004年)平凡社
「米朝対立」春原剛(2004年)日本経済新聞社
「ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 朝鮮半島第二次核危機」
船橋洋一(2006年)朝日新聞社
「アメリカと北朝鮮 外交的解決か武力行使か」
(2003年)フォーリン・アフェアーズ・ジャパン・朝日新聞社
「北朝鮮 ゆるやかな変革」
グリン・フォード(2005年)第一法規
「北朝鮮 飢餓の政治経済学」
ステファン・ハカード/マーカス・ノーランド(2009年)
中央公論新社
「南北統一の夜明け」鄭 敬謨(2001年) 技術と人間社
「朝鮮半島を見る眼」朴 一 (2005年) 藤原書店
「北朝鮮は、いま」韓国・北朝鮮研究学会編
(2007年)岩波書店
「北朝鮮崩壊せず」方燦栄/重村智計(1996年)光文社
「中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”」
綾野/富坂聰編(2008年)文藝春秋社
「アジア危機の構図」
ケント・カルダー(1996年)日本経済新聞社
「日米同盟の静かなる危機」
ケント・カルダー(2008年)ウエッジ
「パリデギ」脱北少女の物語(2008年)黄 ル暎 岩波書店
そしていま、アメリカのジャーナリストD.W.コンデの「An Untold History of Modern Korea」日本語訳「解放朝鮮の歴史」「朝鮮戦争の歴史」「分裂朝鮮の歴史」全6冊(1967年〜68年)太平出版社を読み直しているところです。
このように、自己の問題意識について確かめる際、結局、いまは書物などの活字情報に頼るしかないという状況ですが、きょうは朝鮮問題についてのジャーナリストの会合で平壌の最新の「生情報」に接する機会を得ました。
オフレコという決まりなので、いまここに書くことはできませんが、何らかの形で今後のこのコラムに活かしていくことを考えたいと思います。
さて、朝鮮半島はきしみをあげながらですが「動き」はじめました。
先月、北朝鮮外務省の李根(リ・グン)米州局長が渡米し、アメリカのソン・キム六カ国協議担当大使と数次にわたる「米朝協議」に臨みました。
米朝両政府の当局者が直接「接触」するのはおよそ10カ月半ぶりのことでした。
当初、李根氏は26、27両日、カリフォルニア大学サンディエゴ校で開かれた「北東アジア協力対話」(NEACD)に出席した後、30日に、ニューヨークで民間団体の「全米外交政策委員会」が主催するセミナーに参加することになっていましたから、サンディエゴ、ニューヨークのどちらかで米朝の接触がおこなわれるとみられていたわけですが、早くも、アメリカ到着後間をおかず、ニューヨークで「米朝接触」がおこなわれ、その後も場所をサンディエゴに移しながら折衝、協議が重ねられました。
その結果について、メディアはかなり消極的、ネガティブなトーンで伝えましたが、私は、米朝は動く!という確信を一層強めました。
もちろん、六カ国協議が昨年12月から中断し、北朝鮮による「ミサイル発射」や核実験の強行などで「こう着状態」が続いてきた状況をふまえると、この「接触−協議」が実を結ぶのかどうか楽観は許されないものでしたが、米朝関係の過去の「経験」をレビューすると、一見こう着状態に見える時こそ、水面下では「動いている」というべきです。
年内という表現で、時期については明言を避けているとされていますが、米政府は、ボズワース北朝鮮政策特別代表の訪朝を決断しました。
予測されていたタイムスケジュールより幾分かのズレがあることはたしかですが、いずれにしても米朝協議は大きな「変化」を水面下に孕みながら、動きだしたというべきでしょう 。
そこで、これまでのコラムで考えてきた問題の続きが重要になります。
「力がなければ国家も民族も滅びるだけだ・・・」という問題と「北朝鮮はなぜ崩壊せず生き続けているのか」ということについてさらに深めておかなければならないと考えます。
その際どうしてもレビュー、「復習」しておかなければならないことがあります。
それは、北朝鮮の核開発問題をめぐる「危機」の二つの大きな「ピーク」とそれをどう「くぐって」今に至ったのかという問題です。
まずひとつは、1992年前後からの「核危機」と94年の「米朝枠組み合意」にいたるピーク、そしてその破たん、崩壊にいたる道についてです。
もうひとつは、その「枠組み合意」の崩壊と重なってくるのですが、2002年10月のケリー国務次官補の訪朝から2003年8月の六者協議のスタートをへて2006年10月の核実験、そして今年5月の二回目の核実験へと展開し現在に連なる「危機」についてです。
とりわけ、私たちもメディアも、94年の「枠組み合意」をめぐる問題−なぜ「合意」は成立したのか、そしてなぜそれは崩壊したのかについてしっかりと再認識する必要があると思います。
すでに破たんした「枠組み合意」など、ふり返る意味がどこにあるのかと思われるかもしれませんが、とにかく、少しばかり復習してみます。
そして、そのことを通して、「力がなければ・・・」という問題を見つめ直してみたいと考えます。
北朝鮮の核開発問題が「疑惑」として俎上に上るようになったのはいつごろからかについては、意見のわかれるところですが、少なくとも私自身が担当した放送番組でとり上げた経験をふり返ると、1991年前後からがひとつの大きなヤマになったことは間違いありません。
手許にある当時の資料をひっくり返してみると、北朝鮮が旧ソ連の支援を受けて寧辺に「実験炉」を建設したのは1962年ごろ、その後、1982年に北朝鮮は寧辺に出力5メガワットの黒鉛減速型原子炉の建設をはじめます。
1985年にはソ連が北朝鮮のNPT・核拡散防止条約への加盟を条件に軽水炉を提供することで合意したとされますが、これはその後のソ連崩壊で果たされませんでした。
そしてソ連などからは軍事用に転用できる核技術の提供を断られたといわれ、北朝鮮は自力で寧辺の原子炉の建設をすすめることになり、これが稼動をはじめたのは1986年初頭とされます。
さきほど北朝鮮の核開発「疑惑」が俎上に上るようになった時期については意見のわかれるところだと言ったのは、米国の情報機関などによって相当早い段階から北朝鮮の「核開発疑惑」を「問題化」しようとしていた「動き」があったからです。
つまり潜在的にはかなり前(80年代の半ば)から北朝鮮の核開発問題は俎上に上りつつあったと言っても過言ではないと思います。
そんななか、北朝鮮は1985年にNPT・核不拡散条約に加盟し、1992年にはIAEA・国際原子力機関の査察協定にも調印します。
ここで忘れてはならないのは、91年5月、韓国と朝鮮民主主義人民共和国が国連に同時加盟し、その年の12月には韓国と北朝鮮の首相会談で「南北間の和解と不可侵、交流協力に関する合意書」に調印したこと、さらに年末31日には「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に合意(仮調印)して92年元旦の新聞を飾ったことです。
その後、1月22日には米国のカンター国務次官と金容淳朝鮮労働党書記がニューヨークで初の米朝高官協議へという展開をたどりました。
ここまでがいってみれば「序章」です。
この当時わたしは北朝鮮の核開発問題をテーマとした番組を何度か担当したので記憶にあるのですが、北朝鮮は92年5月から翌年にかけて6回にわたって寧辺の核施設に対するIAEAの「特定査察」を受け入れたのでした。
しかし同時に「隠された北朝鮮の核開発疑惑」といった側面に重点を置いて報道されることが多く、IAEAの6回の査察を受け入れているということ、あるいはその詳細については、それほど広く認識されていなかったと記憶しています。
問題はこの後でした。
IAEAは6回の査察を終えた後の93年2月、これまでの査察では不十分だとしてさらに「特別査察」を迫る、異例ともいえる「緊急決議」を採択し、北朝鮮に突きつけるという事態になりました。
この特別査察を受け入れるかどうかの回答期限は2月25日に設定されていましたが、北朝鮮はこれをはねつけます。
一方、アメリカは北朝鮮が査察を受け入れる(履行する)まで「話し合い」はしないという「最後通牒」を送りました。
そして米国のクリントン政権は回答期限の翌日(26日)、前年にブッシュ(父)政権で一時中止に踏み切った米韓合同軍事演習「チームスピリット」の再開を発表し、3月9日から演習を始めたのでした。
3月24日までの実に大規模な軍事演習でした。
横須賀からは原子力空母インディペンデンスが加わり、米・韓両国軍あわせて12万人の兵力が動員され、平壌を占領してさらに侵攻するという想定の、まさに実戦さながらの演習となりました。
北朝鮮はこれに対して「準戦時体制」に入りました。
そしてチームスピリット最中の3月12日にはNPTからの脱退を宣言したのでした。
北朝鮮を非難する論調がメディアを埋めました。
さらにアメリカが軍事力の発動(北朝鮮への攻撃)に踏み切る可能性もとりざたされて、これによって北朝鮮は崩壊するという論調も登場しました。
まさに不測の事態もなきにしもあらずという、戦争一歩手前の緊張を予感させる状況になりつつありました。
そんな中、北朝鮮は5月29日に「ノドン」ミサイルの発射に踏み切ります。
当初射程距離は500キロメートル程度といわれましたが、アメリカの分析では、その2倍を超える1300キロ程とされました。
この発射に際して、北朝鮮はアメリカに対して事前に通告したともいわれています。
そして、このノドン発射の3日後の6月2日、それまでの「実務レベルの事前接触」の上にアメリカと北朝鮮の「高官協議」が実現することになりました。
翌年10月の「ジュネーブ枠組み合意」につながる米朝会談のはじまりでした。
こうして、朝鮮戦争休戦以来40年を経てようやく、はじめて米朝が同じテーブルに着くことになったのでした。
その後、6月11日に「共同声明」の合意にこぎつけて、北朝鮮のNTPからの脱退をおしとどめる(脱退を「留保」)ことになりました。
北朝鮮がNPTからの脱退を宣言した3月12日から、規定上で脱退が成立する「3ヶ月」目の、まさに前日の事でした。
当時米国務省の担当官として交渉にあたっていたケネス・キノネス氏は「信じられないことだったが、午後3時ごろには、不可能が可能になった・・・」と書き記しています。
北朝鮮の核開発問題をめぐって、米朝関係は「危機」と対立・緊張の「緩和」がまるであざなえる縄のようにからみあいながら「同時進行」することを目の当たりにしたという意味で、私たちに「学習」を迫るものであったといえるでしょう。
こうしてはじまった米朝会談はニューヨークでの「第一ラウンド」から7月のジュネーブでの「第二ラウンド」と続いた後動かなくなります。
米国側は、北朝鮮とIAEAのあいだで核問題に関する「真剣な協議」が行われることと南北対話の進展という二つの条件が満たされない限り「第三ラウンド」は開かないとし、一方の北朝鮮側は、NPT体制に残留しIAEAの「通常査察」は受け入れるが、対立点となっている「特別査察」については、話し合う前提として米韓合同軍事演習・ティームスピリットの中止と米国による経済制裁の解除、そして米朝高官協議の「第三ラウンド」の再開を求めるという状況になっていました。
水面下でのさまざまな接触や「動き」がありましたが、11月の国連総会で、北朝鮮に対してIAEAに「即座に協力」することを促す決議を140対1(反対は北朝鮮、中国は棄権)で採択した後一挙に緊張が高まりました。
韓国の権寧海国家安全企画部長が記者会見で北朝鮮の核開発を阻止するために軍事行動をとる可能性を示唆、訪韓してその権寧海部長と会談したレス・アスピン米国防長官が同行記者団への「背景説明」で「状況は危険区域に入りつつある。彼らは飢えており、このまま飢え死にするか戦争で死ぬかのどちらかだと考えるかもしれない」と語ったことから戦争への恐怖が一気に広まっていきました。
米朝が「一括協議」方式でなんとか事態を収めようと動く中それへの抵抗を示す当時の韓国の金泳三政権の動きなど、その後の経緯は非常に重要なのですが、そこに紙幅を費やしていることができませんので結論を急ぐことにします。
(つづく)
なお、この稿を書き継ぐ重要性をふまえつつですが、これを書き綴るきっかけになった中朝国境地域への旅を写真で振り返る作業も並行しておこなおうと思います。
このコラムが活字ばかりで読むのが大変だ、少しは息抜きがないものか・・・という声に応えることも大事だと思ったからです。
近く写真ギャラリーをこのコラムにアップしてみます。
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