いま書き綴っている事柄の「つづき」を書くのが本来なのですが、とりいそぎのメモランダムとして手短に書いておくべきと思い、「付記」としておきます。
持って回った言い回しになりましたが、けさ、テレビや新聞など各メディアで、2016年夏のオリンピック開催都市を決めるIOC・国際オリンピック委員会の総会が十数時間後に迫ったという話題が取り上げられました。
テレビでは「総会まであと何時間!」として、総会開催地コペンハーゲンだけではなく、候補になっている各都市を中継で結んで伝えるという熱の入れ方の局もありました。
また、IOC総会でのプレゼンテーションを前に、1日、デンマークのコペンハーゲンを訪れている東京の招致委員会の関係者らが最後の決起集会を開いたということも伝えられました。
この決起集会では、「乾杯」ではなく「完勝!」の掛け声でグラスを交わし、あいさつに立ったマラソンの高橋尚子さんは「マラソンも招致レースも最後の最後まで勝敗はわかりません。みんなで頑張りましょう」と訴え、会場からは大きな拍手が巻き起こったということです。
出席の予定だった石原東京都知事は、IOC委員との面会の約束がとれたため「招致活動を優先して」欠席したということですが、それに先立つ記者会見で「投票する委員が開催計画など技術的な部分を冷静に評価してくれれば東京は勝てる」と述べて、招致に自信を示したということです。
余談ですが、テレビの映像では石原都知事の横に森喜朗元首相の姿が映し出されていました。
どこでもなかなかの存在感の、元「闇のキングメーカ」?ではあります。
さて、各メディアは、国民の支持、熱が、各候補地のなかで一番低いのが弱点だと伝えています。
しかし私は、これだけみんなが?頑張っているのに「熱が足りない」から負けるかもしれない・・・という論調に何とも言えない違和感をぬぐえないのでした。
東京五輪の開催への賛否はそれぞれ自由だと思いますし、盛り上がりたい気持ちにちょっかいを入れて水を差すほどの「悠長」な暮らしでもありませんので、そこに介入するつもりはありません。
がしかし!、メディアはもう少し、それこそ「冷静に」考える必要があるのではないかと、危惧を抱くのです。
我々はこれだけ頑張っているのに、国民の熱が足りない!
あたかも、東京五輪の開催に賛成しないものは「非国民」といった空気を醸成していく、そのことに問題意識があるのか?!という危惧です。
実は、これは、いま書き綴っている「東アジア共同体へのハードル」というテーマと密接にかかわる問題なのです。
私は石原慎太郎氏が都知事として五輪の開催に奔走することに特段の異を唱えようというほどの「酔狂」な気持はないのですが、氏のこれまでの排外主義的な発言や近隣の国、とりわけ韓国・朝鮮、中国への差別、蔑視の言説については、看過できないと思ってきました。
ここでその一つひとつを「蒸し返す」のは控えます。
ただし、いまは、その時間的余裕がないという意味であって、どうでもいいということではありません。
それらを具体的に、詳らかにして、きちんと検証、批判する作業は非常に重要だと考えています。
ただ、私の身近な事柄を一つだけ上げておくならば、高校時代の同級生、故新井将敬元衆議院議員にかかわる問題が蘇ります。
先に断っておきますが、私は新井将敬氏の政治的スタンスに共感を抱いているわけではありません。
彼が自死という道を選んだあと月刊誌から取材を受けた際も、「彼の苦悩を理解はするが、彼のしてきたことに共感はできない」と答えたものでした。
ちなみに、彼のことを高く評価する知人、友人たちの談話のなかで、際立って厳しいコメントになって掲載されたものでした。
その「苦悩を理解する」と言ったのは何かといえば、彼が在日朝鮮人子弟として、ことばにできない差別に苦しみ、帰化という道を選ばざるをえず、その苦悩の裏返しとでもいうべき「上昇志向」を胸の奥深くにしまい、必死にもがき、たたかった、そのことへの胸が痛むまでの思い、あるいは私自身が日本人として、そうした民族差別をなくすためにいかほどの事もなしえていないことへの、悔恨の念だというべきです。
さて、彼が旧大蔵官僚を辞して、地盤もカバンも看板もない旧東京二区から初めて衆議院選挙に立った際のキャッチフレーズは「日本を担う、将来の総理総裁!」というものでした。
渡辺美智雄元蔵相の秘書官として重用された経歴から、将来の総理総裁の器だという激励を背に政界に打って出たのでした。
そのとき、もっとも脅威を感じたのは同じ選挙区から国会に議席を持っていた石原慎太郎氏でした。
在日の人間に日本の将来の総理など務まるものか!(もっとはっきりいうと、おぞましいほどの表現ですが、朝鮮人に総理大臣なんかやらせていいのか!)といった新井将敬氏の出自を取り上げた「攻撃」を陰に陽に、執拗に繰りひろげたのは石原氏の陣営でした。
事実、新井氏の選挙ポスターに民族差別、蔑視そのものとしかいいようのない「シール」を貼って、選挙妨害の現行犯で、石原氏の秘書が検挙されるということまで起きました。
その後も、「シナ発言」をはじめ、石原氏の民族差別、蔑視発言は枚挙にいとまがありません。
私は石原氏をあげつらってどうこう言おうとしているのではありません。
それほど氏に関心があるわけではありません。
ちなみに、私が生き方として深く敬意を抱いてきた作家の高橋和巳が、氏の「太陽の季節」が芥川賞を受賞した折の事を書き遺しているのを興味深く読んだことで記憶にとどめてきたという程度です。
しかし、東京五輪実現にむけて「国民の熱が足りない」という言説が流布されていく、そうして醸し出されていく「空気」と、そのお先棒をかつぐメディアをまのあたりにして、ここは一度「深呼吸」をして熟慮、吟味すべきところではないのかと思うのです。
私は、世に言う「五輪の思想」を、無批判に受けとっているわけではありませんが、それでも、民族や国家をこえて世界が平和でひとつになる、そんな意味での「スポーツの祭典」としてある、ということを踏まえて「冷静に」考えてみると、その障害になるのは石原知事その人の民族蔑視、差別思想ではないのかと思うのです。
「国民の熱が足りないこと」を問題にする前に、石原知事の反省こそが、世界の共感を引き寄せる力になることを、メディアは語るべきではないでしょうか。
そして、日本にいる、私も尊敬する、著名な中国人研究者らが、わざわざ石原知事の東京五輪開催にかける「熱意」を支持する旨の論説を各メディアで掲げるのを目の当たりにして、釈然としない思いを抱いたことも言い添えておかなければなりません。
国際政治の、まさにマヌーバーとして五輪と石原知事を「もてあそぶ」べきではないと、これはきっぱりという必要があると思います。
(表向きのご都合主義ではなく、心底石原知事を支持しているのなら、もっと激烈な議論が必要になることはいうまでもありません)
今、日本で何を問題として取り組むべきなのか、五輪は本当に「夢と希望」をもたらすものなのか、いま日本に本当に必要なものは五輪なのか(もちろんゼネコンやある部類の建築家などにとっては必要であることは言うを待たないことですが)について、メディアは「冷静に」考えてみる必要があるのではないでしょうか。
あるいは世界の連帯、協力を高めていくために、たとえば南米大陸で最初であり、しかも移民の歴史という観点から、私たち日本人に深い関係のあるリオデジャネイロを応援するために、日本国内に住むブラジルの人たちと力を合わせるといった、「もう一つの選択」についても考えてみる価値はないのか・・・。
語るべきことは、それこそ、いっぱいあるのではないでしょうか。
折々書いていることですが、物事の結論が出てから「後証文」で、実はわたしはそう思っていたのですと、あたかもアリバイを証明するかのような論説は、ジャーナリストにあるまじきことですので、五輪招致への投票結果が出る前に、考えを鮮明にしておかなければならないと思いました。
いま書き綴っている「東アジア共同体へのハードル」に深くかかわる問題として、東京五輪招致問題があるというのが、私の問題意識です。
識者といわれる人々、メディアで東京五輪招致を力説する人びとに、「冷静な評価」を迫ることは、それほど無意味なことではないと、私は考えるのですが、どうでしょうか。
取り急ぎの「付記」です。
2009年10月02日
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