8月下旬中国・東北、中朝国境地帯を旅してきたことはすでに書きました。
瀋陽から長春、朝鮮族自治州に入って延吉、龍井、白頭山および山麓一帯、通化を通って集安、鴨緑江沿いに丹東へ、そして大連へ、陸路2600キロにおよぶ旅でした。
瀋陽から長春そして延吉までと丹東から大連の間はよく整備された高速道路を快適に駆け抜けました。
長春までの高速道路は以前も通ったことがありましたが、その時は、延吉へは鉄道を使ったので、高速道路ははじめてでした。
貨物満載の大型トラックの間をBMWやアウディ、ホンダ(広州ホンダ)のアコードなどが猛烈なスピードで駆け抜けていく光景を目にして、いまの中国の”勢い”を象徴しているように感じました。
高速道路網の整備は中国経済の成長のスピードの象徴でもあるのだと実感しました。
このように、現場に立って、自分の目と耳で中国の現在(いま)にふれ、そこで考えることが旅の目的でもあるのですが、今回の旅では中国の人たち、とりわけ朝鮮族の人びとの話を聞くことができただけではなく、、日本に住む在日朝鮮人の方たちとも意見を交わす機会を得ました。
昨年、法政大学教授の田島淳子さん、東京芸術大学準教授、毛利嘉孝さんらが中心になって取り組んでこられた、「在日外国人地域ボランティアネットワーク円卓会議」の活動の末席に加えていただいた際、大学生の皆さんと一緒にブラジル人学校や朝鮮学校を訪問して、多文化共生について、本当にささやかにですが私なりに活動に加わる機会を得たことはありましたが、旅先とはいえ、今回ほど深く在日朝鮮人の方々と意見を交わす経験ははじめてでしたので、私にとってはとても貴重な機会となりました。
中国・東北地方、特に朝鮮族の人たちが住む地域や中朝国境地域に、韓国からだけではなく、在日朝鮮人の人たちも出かける背景には、ここが朝鮮民族にとって歴史的にも深いかかわりのある地域だということに加えて、長白山(朝鮮名白頭山)の存在があると思われます。
余談ですが、朝鮮民族にとって白頭山がどれほど思い入れの強い存在であるのかを痛感した経験があります。
90年代初頭、北朝鮮の核開発問題が持ち上がったとき、ある人物のインタビューを録るために韓国ソウルに出かけたことがあるのですが、収録のために訪れたある「施設」の玄間の壁面いっぱいに巨大な絵が掲げられていました。
わたしは何も思わずその前を通って奥に行こうとしたのですが、撮影助手の韓国人の若者がしばしその絵の前に佇んだまま動かないのです。
「どうしたの?」と声をかけると「ペクトゥサン!」と声を弾ませて言うのでした。
「で、それがどうしたの」とことばを返すと、「すばらしい!」と言って「この山は韓国人なら(つまり朝鮮民族ならと言う意味ですが)死ぬまでに一度は登りたい、登らずには死ねないそんなあこがれの山なんですよ!」とことばを続けたのでした。
不勉強を恥じなければならないのですが、そのときまで白頭山というものがいかなるものかまったく知らずにいたので、認識を新たにしたという次第でした。
韓国の人びとにとって、「分断」という状況にある現在の南北関係では、白頭山に登るには中国側からしか道がないということですし、「制裁」が実施されていて母国との往来にさまざまな「困難」がある状況の下、在日朝鮮人にとっても白頭山に至る道は中国に出かけるのが早道という事情もあるのでしょう。
とにかく、旅をしていても、まわりでは朝鮮語(地域に住む人たちの朝鮮語と韓国からの旅行者の韓国語)の会話が飛び交いました。
もちろん朝鮮族自治州の延吉などでは街のなかもハングル表記に溢れていますし、朝鮮族の人たち(とりわけ年配者)は、日常会話は朝鮮語、必要に応じて中国語を併用するという生活です。
余談ついでにといえば語弊がありますが、白頭山の素晴らしさをことばではなかなか説明できませんので、頂上にある「天池」の写真を掲載しておきます。
長白山(白頭山):中国側山頂から天池を望む、向こう側は北朝鮮
さて、旅先で在日朝鮮人の方々と交わした、会話、議論です。
なお、はなしの前提として「朝鮮籍」という問題を歴史的にきちんと認識しておくことが不可欠なのですが、ここで、そこに踏み込むとそれだけで何回かのコラムを費やさなければなりませんので、いまは控えます。
ただし、非常に乱暴な「要約」であることを承知の上で、重要な点だけを押さえておくと、
日本の敗戦により植民地支配から解放された後、サンフランシスコ講和に至るなかで、それまで強制的に「皇国の民」、日本人とされてきた朝鮮人が、突然「何国人」でもない存在に投げ出され、母国に戻ることのできた人は別として、大勢の朝鮮人が、便宜的に地域を示す「朝鮮籍」において、「特別永住許可」の下日本で暮らしを営むことになったこと、植民地支配からの解放が祖国の再建を意味することなく南北に分断国家が生まれ、戦後世界の「冷戦」の悲惨を一身に負うかのように同族血で血を洗う朝鮮戦争へと至ったこと、そして1965年の日韓基本条約により南半分の韓国籍のみが国籍として認められるという、きわめて「複雑」な歴史を生きざるをえなかった在日朝鮮人の苦難というものへの歴史的認識と想像力がなければ、現在の朝鮮半島問題を考える際、事の本質が見えてこないのではないかと思います。
今回の旅の中で交わした会話の中にも「北であれ南であれわが祖国」ということばが在日の方の口から聞かれました。
長白山(白頭山)への「あこがれ」はそうした文脈で受けとめるべき思いなのだと痛感しました。
ただし、旅から戻って手にした文芸誌のページをめくるうち、このことばの「元祖」的な存在である在日作家の連載で、しばらく目にしなかった「北であれ南であれわが祖国」という活字に出会いましたが、この作家については、とりわけ「国籍」問題でさまざまに議論、論争のあるところですから、旅先で耳にした在日の方のことばは、さしあたりはこの作家のスタンスとは関係なく語られていることを、念のため書いておきます。
なぜこれほどのさまざまな「注釈」が必要なのか、本当に苛立たしくなるぐらいですが、それが在日朝鮮人にかかわって何かを語ろうとする際、現在の”日本”のなさしめるところだと思います。
なんの「注釈」もなしに語ることのできる時代と社会を一刻も早くひらかなければならないと思います。
さて、本論に戻らなければなりません。
「やはり力がなければ、国も滅びるのだ!力がなければ国も民族も生きていけないことを本当に痛感した・・・」
在日の、学識豊かな、とりわけ歴史分野に深い知識を持つ人物から漏れた呻きのようなことばです。
吉林省東南部、鴨緑江沿いにある小都市、集安でのことです。
世界文化遺産にも登録されている好太王碑(広開土王碑)で知られる、この集安という地は、高句麗の歴史的位置づけをめぐって、韓国と中国との間でもデリケートな歴史問題として議論の絶えないところでもあるのです。
その地で、このことばを聞いて、私は、ハッとさせられ、そして、しかし「力」ということばにどこか抵抗感が残って、立ち尽くす思いを抱いたのでした。
その「抵抗感」が顔に出たのかもしれません、会話は、民族、国家というものをめぐる議論へと発展したのでした。
初対面で踏み込む議論ではなかったかもしれません。
しかし、ここは在日朝鮮人という存在に正対するためには、あるいは信頼関係の中で問題を考えるためには、あいまいに言葉を濁してやりすごすべきではないと、思ったのでした。
しかしその会話の先に、 「あなたは、民族、国家というものはこえていけると思うか、そう思うなら、どうこえていくのか。あるいは、私たちが日本の社会で、いま、本当に息もできないほどの生活を余儀なくされている、そのことをわかってもらえるだろうか・・・」と問われることになりました。
「力がなければ悲惨なものだ!」と、重ねられることばが一層強く私の胸に刺さりました。
現在の日朝関係の下で、在日朝鮮人というだけでどれほどの苦しみに、いま、耐えながら暮らしを営んでいるのか、そのことがひしひしと伝わってくるだけに、ことばを返すことができなくなるのでしたが、それでも勇を振るって、青臭い議論だと思われるかもしれませんが少し私の話を聞いてもらいたいと、私は話を切り出したのでした。
(つづく)
2009年09月27日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/32453948
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/32453948
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック