2009年08月16日

ふたたび、語るべき「悲惨」さとは何かをめぐって

きのう書いたことには「続き」がどうしても必要です。

まず、全国戦没者追悼式での麻生首相の「式辞」について、きのうは引用しなかった部分から始めます。

「戦争の教訓を継承」 戦没者追悼式 首相、加害に言及

これは、ある新聞のきのうの夕刊の見出しです。

見出しに続いて、参列者の人数など基礎情報を書いた後、
「麻生首相は式辞でアジア諸国への加害責任について言及し、悲惨な戦争の教訓を、次の世代に継承していくと述べた。」
と記事が続きます。

そこで、「加害責任」ということについて、式辞の原文で確認しておきます。

深く読み込み、注意深く読み分ける必要があると思います。

 「先の大戦では、300万余の方々が、祖国を思い、愛する家族を案じつつ、亡くなられました。戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、遠い異境の地において亡くなられました。また、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。
終戦から64年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の日本の平和と繁栄は、戦争によって、命を落とされた方々の尊い犠牲と、戦後の国民の、たゆまぬ努力の上に築かれております。
 世界中の国々や各地域との友好関係が、戦後の日本の安定を支えていることも、忘れてはなりません。
 私達は、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、次の世代に継承していかなければなりません。
 本日、ここに、我が国は、不戦の誓いを新たにし、世界の恒久平和の確立に向けて、積極的に貢献していくことを誓います。国際平和を誠実に希求する国家として、世界から一層高い信頼を得られるよう、全力を尽くしてまいります。」

 ここでも、きのうのコラムで問題にした、「悲惨な戦争の教訓」という文言が登場します。
一見過不足なく語られているように見えますが、何をもって悲惨なのかについては明確には伝わってきません。

さらに「アジア諸国への加害責任に言及し・・・」と新聞で報じられたくだりは、誰でもわかることですが、戦後50年に際して出された「村山談話」を下敷きにしたものです。

 今度の総選挙には出馬せず引退することになった河野洋平前衆議院議長は朝日新聞のインタビュー「河野洋平の感慨」第4回のなかで、社会党の村山富市委員長を担いだ政権の歴史的な意味は何だったか、との問いに答えて、

「一つは村山・河野・武村(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作ったこと。戦争への反省、アジアへの謝罪を明確にしたのは日本にも国際社会にとっても極めて重要で、村山政権でなければできなかった。」
 
 と語っています。

 村山談話については、過去の侵略戦争と植民地支配について、認識と表現に本質的な限界も指摘されていますが、それでもとにかくここまでこぎつけたということでは河野氏の言う通りなのでしょう。

 しかし、問題は、とにかくこの村山談話を適宜引用しておけば、あるいは下敷きにして語っておけば、まあまあなんとかなるだろうといった、いわば「免罪符」として活用されるということが起きていることです。

 その意味で、村山談話はいいように「食い物」にされているといっても言い過ぎではないでしょう。

 心底そのように考えてもいない人物が、その場しのぎで使うために村山談話があるのではないということを、今私たちは深く考える必要があると思います。

 問われているのは認識の問題であり、思想なのです。
 口先だけで適当に語るのなら誰にでも出来ます。

 そうしたことを考えず、「加害に言及」などという見出しを掲げる新聞の、記者の認識の浅薄さが問われてしかるべきだと考えます。
 さてそこで、認識の問題であり思想的課題として横たわっているということについて、考えるための材料を提示しておきたいと考えます。

 少し長くなりますが読んでください。


 歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりそれを見た。感動に打ち顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる、名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。

 十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼ざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。

 何びとが、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争はみじめであるとしか考えなかった。実は、その考えのほうがみじめだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。戦争は突如開始され、その刹那、われらは一切を了得した。一切が明らかとなった。天高く光清らに輝き、われら積年の鬱屈は吹き飛ばされた。ここに道があったかとはじめて大覚一番、顧みれば昨日の鬱情は既に跡形もない。
 
 (中略)

 わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。われらの疑惑は霧消した。美言は人を誑すも、行為は欺くを得ぬ。東亜に新しい秩序を布くといい、民族を解放するということの真意義は、骨身に徹して今やわれらの決意である。何者も枉げることの出来ぬ決意である。われらは、わが日本国と同体である。見よ、一たび戦端の開かれるや、堂々の布陣、雄宏の規模、懦夫をして立たしめるの概があるではないか。この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。支那事変に道義的な苛責を感じて女々しい感傷に耽り、前途の大計を見失ったわれらの如きは、まことに哀れむべき思想の貧困者だったのである。
 
 東亜から侵略者を追い払うことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に斬って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。
 
 大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。

 (後略)

 さて、これは一体何なのでしょうか。

 狂信的な国家主義者が書いたものでもなく、ファナティックな戦争賛美論者が書いたのでもありません。

 魯迅の研究者であり、アジアと近代、そして日本のありようを深く問い続けた思想家、竹内好が1942年1月発行の『中国文学』80号の巻頭に無署名で掲げた文章の一部です。

 勉強が足りないとはいえ、私自身、深く尊敬する思想家、竹内好をあげつらうためにこの「一文」を引っ張り出したものではないことは当然です。

 前年12月8日の米英との開戦にいたる、当時の知識人の精神のありようを知ることで、時代の「空気」というものを重く受け止め、戦争を総括し、歴史認識を深める上での困難(アポリア)について考え、それがいかに思想課題として重いものであるのかを知るために掲げたものです。
 
 近代というものと、あるいはアジアのなかの日本と(アジアと日本ではなく!)どう向き合うのかという重い思想課題を基底に据えることなく語られる「加害責任への言及」などアジアの人々の心に響くわけがありません。

 この問題はアジアと、あるいは歴史と向き合う際の私たちのありようにむけて、鋭い矢となって突き刺さってくることは当然です。

 ここ数日、テレビでは「終戦特集」の番組がいくつも放送されました。

 しかし、残念ながら、魂に深く届くものに出会えませんでした。

 放送については、稿を改めて述べることにしますが、昨日から問題にしている「戦争の悲惨」について語るということをめぐって、再度問いを記しておかなければならないと思います。

 さて、戦争の、一体何が悲惨だったのだろうか、何をもって悲惨と言うのだろうか、と。



 
 
posted by 木村知義 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録
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