この間、朝鮮半島をめぐる問題、イランの大統領選挙その後、中国の「ウイグル問題」とユーラシアの民族問題などの研究会に参加して、世界、とりわけアジアの現在(いま)の動きについて考える日々が続きました。
また、メディアとのかかわりでいえば、いくつかの放送番組の企画をめぐる検討、議論に参画して、これまた今年から来年にかけての世界と日本についていろいろな角度から考えをめぐらせる必要に迫られました。
しかし、そうした「動く現在(いま)」について考えながら、一方では慌ただしく過ぎる日常への、いささかの「内省」の思いが頭をもたげてきて、うまく制御できずに困るというのか、思いがどんどん巡って、さて、いまなすべきことは何なのかと考える日々になっています。
こうした「内省」の契機は、この間、ごくごく短期だったとはいえ病院というところに身を横たえ、生まれて初めて身体にメスを入れるという体験をしたことと無関係ではないように感じます。
重篤な病気で入院している人がほとんどの大学病院の外科病棟で、私などは、病といえるほどのものではないのですが、それゆえにというべきか、あらためて「生老病死」というものについて考えさせられる時間になりました。
ごく短時日でたいしたことではないにしても、一応入院生活ということで、その間で読み切れる薄い書物を一冊持って行きました。
結果的には、手術後翌日までは点滴につながれ絶対安静、絶食を強いられたので、書物を読むことができたのは、その後の、実質1日半ほどでしたが、持参したものは読み切ることができました。
その書は柄谷行人氏の「政治を語る」でした。
読んでみて、このタイトルはかならずしも適切ではないと感じるのですが、要は柄谷氏の60年代以降の思考の経路をふり返りながら、氏の問題意識の歩みをたどるという趣の書でした。
その意味ではタイトルを、「思想を語る」とでもすべき書だと感じました。
これまでも氏のいくつかの著作を読み、というより1960年代末に文芸誌「群像」の評論部門で新人賞を受けて「文壇」に颯爽と登場した氏に鮮烈な印象を抱いて以来、折々に書物を読む機会を持ってきて、しかし、私にとってははっきりとは読み解けなかった「思考の経路」、つまり思想的遍歴が、より明確に見えてきて、柄谷氏が何と「たたかってきた」のかが、つまり、柄谷行人という存在の意味がわかったという気がしたのでした。
私は柄谷氏と言葉を交わしたことはなかったのですが、一度だけ身近に「身を置いた」ことがありました。
畏友、藤原良雄氏が主宰する藤原書店から「日本語と日本思想」を上梓した浅利誠氏がフランスから帰国してひらかれた「合評会」に参席する機会を得た際、私から一人か二人おいて左の席についていたのが柄谷氏でした。
しかし、この会が急遽持たれたため、別の予定があった私は浅利氏の報告が終ったところで中座せざるを得ず、柄谷氏がどういう発言をするのかを楽しみにしていたにもかかわらず、聞くことも、ましてや、ことばを交わすこともできずに終わったのでした。
それはともかくとして、病院のベッドでこの書を読みながら、頭脳明晰というのか、俗にいえば「やはり世の中には頭のいい人は、いるものなのだな・・・」ということがひとつ、もうひとつは、これまた通俗的な言い方ですが、やはり深く勉強しなければダメだ、思索を深く、深く掘りすすむ営みを重ねなければということを、またあらためて思ったのでした。
書物を読み、ものを考えるということにおいては、一応人並みというのか、それほど恥じなければならないものではないという思いがこころの片隅にありながら、しかし、自己の浅さ、狭さを思い、私の「小ささ」に思いをめぐらせたのでした。
私にとって、静かに生老病死について考えることを迫られるというのは、こういうことなのかと思ったものでした。
時間というものと、自己の存在というものを直視せざるをえない病院のベッドでの感慨でした。
そして、このところ研究会やあれこれで慌ただしく過ごしながら、短時日とはいえ病院のベッドで過ごさなければならなくなった、いわばその「引き金」となった原因ともいえる「重い書物」の山から、ふと一冊を手にして、一層その思いが募りました。
本当に偶然手にしたその書には、高橋和巳の闘病の記である「三度目の敗北」という一文がありました。
「疾病にもそれを通してなされる認識の深化はあるはずであり、私にも一、二悟るところがなくはなかったとはいえ、人間存在が好むと好まざるとにかかわらず持っている対社会的関係性がその期間極小化されて、ただ存在の苦痛という一点に集約されてしまうことがすばらしい状態であるはずはない。」
と書く高橋は、重篤な病魔との闘いについて、
「脳の動きも、生命を支える中枢である脳幹の作用を残して、大脳皮質、その理性的機能はもちろん、感情や想像力も目に見えておとろえてゆくのが、自分にも解ったものだ。」
としながら、
「もっともそれは病者にとって、一種の救いでもあって、客観的に重篤とみなされる状態の時には、本能的な生命への執着はありながらも、し残した仕事やそれまでの人間関係の対立抗争についての意識はぼやけていて、なにか徹底的に受け身で寛大な気分になっているものだ。その寛大な気分のあいまを縫って、脳裏を駆けすぎるさまざまのイメージも、それがたとえ浄土の表象ではなくても、現実の人間の諸相が持っている地獄性もまた薄らいでいる。」
と記しています。
京都大学での学園闘争の真っただ中、病に倒れ、「造反教官」なるレッテルの下で、「苦悩する知性」として情況と対峙し続けた高橋和巳のベッドでの姿が哀切なまでに浮かび上がってくる文章です。
「・・・またもし幸いにして死生の境から還行することができれば、なにか物すさまじい転機がその人に起るはずである。だが悲しいかな、私たち凡俗の者にとっては肉体の衰えは同時に思考や情念の衰弱であり、優しくもの悲しい気分も、生の帰結というよりは、幼時への退行にすぎない。もっとも日常的には意識にのぼらなかった遥かなる記憶が病床で不意に蘇るということはあって、ああ、私にとって本当はこういうことが気懸りだったのかと悟ることもなくはない。」
病というほどの病でもなく、ましてや高橋などとは比較にならないほどの「凡俗」である私などは、深さにおいても「物すさまじい転機」など望むべくもないのですが、それでも、ああ、私にとって本当はこういうことが「気懸り」だったのかと悟ることはあるものです。
もちろん「世界と時代の現在(いま)」に目をふさぎ、状況にかかわることなくあれこれと時を重ねることの愚は犯してならないと思いつつ、しかしここにきて、本当に歴史に深く根ざす思念の重要性を痛感するなかで、いたずらに目の前の「うごき」に目と時間を奪われるのではなく、じっくりとした研鑽と思索が、いまこそ必要だと、またあらためて感じるのでした。
「状況への発言」あるいは「情況」について語る言説は数々あるのですが、いま問われなければならないのは、何を語るのかの前に、何のために語るのかではないかと思います。
そのためには、いたずらに状況に流されず、深く読み、深く考えるという研鑽と思索の時を持たなければと痛切に思うのです。
言説の、あるいは言論の厳しさを、いままた時代の大きな転換期を迎えて、痛切に思います。
何のために語ろうとするのか。
その、「何のために」ということが厳しく問われているのだと、いまさらながらですが、思います。
当たり前のことでありながらそれだけに難しい、まさにこれこそが「現在の困難」(アポリア)として存在していると考えるのです。
高橋がこの一文を書くことになった入院先と、場所は異なるのですが、奇しくも同じ大学病院だったことに加えて、高校生時代に当時の「朝日ジャーナル」に連載された高橋の「邪宗門」を読んだことでその後の私の生き方や人生観に大きな影響があったことなどをふりかえりながら、いままた、「何のために」ということを反芻して考えることになりました。
ここ一、二年の「『蟹工船』ブーム」、あるいはマルクスの再評価などを考えると現在の社会が何に行きあたっているのか明白なのですが、こうした「マルクス再評価」もまた社会現象としてのブームやファッションに終わらせてはならないと思います。
「いくら現実を批判してみても、その批判には、あいかわらず、現実がしみこんでいる。だから、自分のなかの現実と対決しないでは現実をみることができない。現実をみるとは、現実をあたらしくすることである。」
これまた、学生時代に出会った、状況と緊張関係の中で対峙しながら生きた哲学者の言説の一部です。
いま、私が自身のありかたにかかわって、あれこれに慌ただしく流されるのではなく、じっくりとした深い学びと突きつめた思索の必要性を痛感する所以です。
大学病院の外科病棟での「短期滞在」を終えて外界に出て、まず手にした書物が竹内好の「予見と錯誤」そして「方法としてのアジア」であり、「尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア」でした。
いま胸の奥深くで、深い思索をという声とともに、何のために?!という問いかけが重く響きます。
先ほど、テレビによって衆議院の解散が伝えられました。
この間のあれこれに一層輪をかけて喧しくなるでしょう。
しかし、です!
時流に流されず、目先の「利得」に右往左往せず、時代と対峙する精神のありようについて、あらためて反芻する、いま、です。
何のために考え、何のために語り、何のために生きるのか。
まさにこここそがすべてをわける分水嶺です。
それが厳しく問われる時代に、私たちは生きているのだという、当たり前ではあっても実に困難な命題を、いま一度思い起こす必要に迫られているのだと思います。
2009年07月21日
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