1995年1月17日早朝の阪神淡路大震災から14年。犠牲者は6434人にのぼります。
神戸市中央区の東遊園地での「1・17のつどい」をはじめ被災地は終日鎮魂の祈りにつつまれました。
当時大阪に勤務していてドーンというように突き上げる激しい揺れに飛び起きたものの立ち上がれず、揺れがおさまるまで待って身繕いをして職場をめざして飛び出したことを思い出します。
大阪でさえこんな揺れでしたから神戸や淡路ではどれほどの恐ろしい揺れだったろうかと思ったものでした。
放送メディアで仕事をしていた私は、職場に出て丸三日ほとんど一睡もせず災害報道立ち上げの仕事に携わりました。
三日目にようやく24時間交代のローテーションが動き始めてひとまず家に戻ったのですが、テレビが転がっている室内にあらためて驚きました。マンションの貯水槽が壊れてしばらく水が出ないというありさまでした。
被災地からずいぶん離れた大阪でさえこんな状況でした。
そして発災から一週間たって、神戸の被災地に入り小学校の校庭に作られた仮設スタジオに泊まり込んで仕事をしました。
長田区の商店街や家々をめぐり、どうすればこれほど粉々に壊すことができるのだろうかと思うぐらい建物が壊れているのを目の当たりにして言葉を失いました。
自身が体験したことだけでも記憶は次から次と蘇ります。
今日の各メディアは被災地でもすでに震災を知らない世代が増えていることや、教訓を次の世代に伝えていくことの重要性を強調しています。
かつて関東大震災直後、この恐ろしさは少なくとも三世代、つまり被災した人達の孫の世代までは深く記憶されるだろうと言われたと言います。しかし、実際にはそうはならず、いわば「のど元過ぎれば・・・」ということになり、こうした都市型の大地震に対する備えをはじめ、汲むべき教訓は忘れ去られていたと指摘されたものです。
あらゆる安全神話が崩壊したこと、市街地で大勢の高齢者が被災することによる新たな都市型災害となったこと、さらには中小、零細企業などが集まる長田地区のものづくりの被災、復興問題、家を失った人々が長く仮設住宅での生活を強いられ、住まいを再建したとしても重い二重ローンに苦しむことになったこと、そして仮設住宅での孤独死、・・・など、震災によって多くの人命が失われたということにとどまらず、深い傷を残すとともに数多くの重い課題を浮き彫りにしたのでした。
こうして思い返すと14年という年月が過ぎたことが信じられないくらい鮮明に当時のことが蘇りますが、ある「ことば」、つぶやきというべきでしょうか、に出会ったことがいまだにトゲのようにひっかかったまま忘れることができずにいます。
阪神大震災の記憶ということでは、阪神高速の高架道路が倒壊した光景を思い起こす人も多いのではないかと思います。
繁華街の大きなビルが倒れたり、ペしゃんこにつぶれたりした光景もショックでしたが、倒れるはずがないとされていた高速道の高架が倒壊したことで衝撃が走ったものでした。
震災の関連取材をして歩いているときのことです、大阪の釜が崎で「震度7で胸なでおろしとる連中が大勢おるで・・・」という言葉(つぶやき)に出会いました。
複雑な言い回しなので、どういうことかとただすと、
「わからんのかい?仮にやな、あんなもんが倒れて震度6やったちゅうことやったら立場のうなってしまう人間がいっぱい出るやないか、震度7ちゅうことやから、しゃーないなちゅうことになるわけや。ワシらが工事してきとるのやから一番知っとるがな・・・」
新幹線の高架の橋脚のコンクリートのなかから鉄筋ならぬ木片が露出したとか、さまざまな「不具合」が露見したこともありましたので、なるほど釜が崎のおっちゃん達の「つぶやき」は鋭く、かつ含むところが深いなと感じたのでした。
私たちはこのような大規模なインフラ工事の多くは、こうした釜が崎の労働者によって担われてきたことを知らずに過ごしているのですが、工事の内情について一番知っているのはこの人たちなのでした。
「震度7で胸をなでおろした人がいたはずだ・・・」というおっちゃんの逆説的な話しに、なるほどと合点がいったものでした。
当時関係者の口の端に上った「手抜き工事」云々については、震災の被害の大きさの背後に隠れて、その後追究されることもなく立ち消えになりました。つまり、すべては震度7という「想定をこえた激震」ということで説明されて忘却の彼方という次第でした。
もちろんいまとなっては真偽のほどはわかりません。
しかし、わたしはいまだに釜が崎のおっちゃん達の「つぶやき」がこころの片隅にひっかかったままです。
こう考えると、きょうの各メディアが「風化させてはならない・・・」と伝えるとき、一方では、本来検証されなくてはならなかった問題がまだまだ残っているのではないかと思えてなりません。
震災から14年。もうすでに「のど元すぎれば」という状況が起きていることを考えると、立派に復興した中心街のビルの「背後」には、「心の傷」に苦しみ、生活を取り戻せずにいる多くの見えざる人々がいることを忘れてはならないと思います。
同時に、災害の大きさ故に、追究、検証すべき数多くの問題が忘れ去られたままになってしまったことも思い起こす必要があると思います。
今日の記事のまえに、12日月曜日、一件記事を書いたのでしたが、アップするときに手違いがあったのか、サーバーに残されておらず、掲載できていませんでした。記事の間隔があいてしまいました。
2009年01月17日
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