2011年05月30日

戦災と震災、鎮魂の意味を考える(1)〜 柳 あいさんからの便り〜

 仙台在住で韓国、朝鮮半島そして北東アジアを見つめながら地域社会のあり方を考え続けている柳 あいさんからのレポートの続報が届きました。
 今回の震災被災を見据える視角への問題提起をふくむレポートなっています。
 どうぞお読み下さい。

戦災と震災、鎮魂の意味を考える(1)   柳 あい
 今回の「3・11大震災」による犠牲者(行方不明者を含め)は、5月20日の時点で宮城県14,500人弱、岩手県7,500人弱、福島県2,000人強で、合わせて二万四千人を超えると推定されている。
 
 この犠牲者数は20世紀以降の近代日本100年余において戦災と関東大震災(10数万人)に次いで3番目であり、戦後日本では最大規模である。それ以上に、この数字には表れない無念の思いは、10万人を超える避難民の方々を中心にして被災各地に渦巻いている。その時、これだけ高度に発達した社会なのに、なぜ津波が襲うことをいち早く伝達できずにこれほど多くの犠牲者を出したのか、また福島原発事故の原因を考えれば、これは単なる天災ではない、とみる視点が欠かせない。そうしてこそ、犠牲になった方々への「鎮魂の思い」を今後の新生仙台、あるいは新生日本の糧にしていけるのではないか。この問題意識から、すでに66年になる戦災犠牲者への鎮魂とともに、今回の震災犠牲者への鎮魂の意味を考えてみたいと思う。

 ところで、「あの戦災」で何人の人が亡くなったのか。ふつう50万人以上といわれ、沖縄など「外地」の犠牲者を加えて80万人以上という(これに「戦死」した兵士230万人を加えた310万人余が、第二次世界大戦での日本人戦死者といわれる:総務省資料)。ここで戦災犠牲者とは、兵士以外の一般市民の戦争による犠牲者であるが、この数字には1945年末時点での広島での被爆犠牲者15万人強(当時の市人口35万人、後に死者25万人強)、長崎での被爆犠牲者12万人強(同24万人、後に死者18万人弱)、さらに東京大空襲での犠牲者9万人弱などが含まれている(いずれも概算で、諸説あり)。戦後の食糧不足など過酷な条件下で、ヒロシマ・ナガサキの被爆者や各地の傷病者の中からも犠牲者は増えつづけ、合わせれば100万人以上の一般市民が死んだといえる。
 
 その犠牲によって生まれた戦後日本の社会は、彼らに対してあまりにも酷薄だった。
 端的な例が、戦後賠償である。「戦死」した軍人遺族には、その後60年以上にわたって50兆円を超える額(現時点での貨幣換算)が恩給・年金などで支払われつづけているのに対し、市民の犠牲者への個人賠償は一切なされていない(同様に、「慰安婦」被害者を含むアジア民衆への個人賠償も無に等しい)。
 
 賠償問題で、このように極端な「格差」が見られるように、万事にわたって「市民の犠牲」は「戦時下ではやむをえなかったこと」で済まされてきた。そして、これほど「市民の命」が軽視されてきた以上、「平和憲法下での民主主義」も真の意味での民主主義には程遠かった。

 それでも、国内的には平和と安定が保たれ、曲がりなりにも「安全な社会」が維持されてきたのは、上述したような多くの犠牲者への「鎮魂の思い」が「戦争回避」の姿勢を貫かせたから、といえる。ただそれは、米ソ冷戦下での「世渡りの術」ともいえるもので、「朝鮮戦争特需」による戦後復興や韓国・台湾・フィリピンなど周辺国の軍事独裁政権と癒着した経済発展の賜物でもあった。
 
 こうした日本の「経済的成功」を懐かしむ人がいるが、戦災犠牲者の立場から見て、それが本当に望ましい日本社会のあり方だったのだろうか。私の生まれ育った環境には直接の犠牲者はおらず、ただ東京大空襲の中を生きのびた人がいるだけだが、「鎮魂の思い」は半ば実現し、半ば実現しなかったのではないか。つまり、戦後の日本社会は「戦前の日本」を半ば程度は変革したが、半ば「旧体制(アンシャン・レジーム)」を存続させたといえる。

 当時の日本社会が「旧体制」の何を受けつぎ、何を変えたのか、この点に関する国民的な議論が必要だった、と今さらながらに痛感する。そこを曖昧にして惰性的にひたすら「経済発展の道」を歩んできた結果が、今日の社会的な「閉塞状態」ではなかろうか。
 
 「3・11大震災」によって映し出された日本社会の主流の現状は、まさにこの「閉塞状態」を体現している。一例が「原子力ムラ」と呼ばれる利害共同体に集ってきた人々で、「想定外」を連発して自らの責任回避をはかる姿は見苦しく、国民的な怒りを引き起こしている。とはいえ、国民がどこまで怒っているのか、「震災被害者」の怒りがどこまで表出しているのか、外見からはわからない。あるいは、それ自体が「社会閉塞の現状」なのかもしれない。
 
 この現状を突破し、震災犠牲者を鎮魂する道はどこにあるのか。最も即自的な心情だけでいえば、ある被災者がもらしたように、「今度はお前の家も津波にあえばいい」ということになるのだろう。つまり、「天罰」発言をした某都知事と彼を四選した都民にこそ、「天罰」が下ることを望む人がいてもおかしくない。なぜなら、彼こそが「我欲」の塊であり、震災被害者よりも彼らの方が「我欲」が強いというべきだからだ。
 
 とはいえ、それでは「同じ穴のムジナ」なので、もう少し別の道を模索せざるをえない。その際、まず日本国内を見れば、やはり「フクシマ」(原発事故)が起きた社会的背景を長期にわたって考えながら、この「社会閉塞の現状」を変えていくしかないだろう。良くも悪くも、現状が維持される限り、問題は長期にわたって存続し、「震災からの復興」も含めて日本社会を根本的に変えていかざるをえない。その過程で私たち自身の生活のあり方、生き方を変えていく道しかないだろう。

 そして今、大なり小なり震災被害者となった私たちは、むしろ震災を機に「新しい政治・社会づくり」に向けて踏み出す必要がある。

 幸いにも、韓国でも「東アジアの平和共存」に向けた新しい動きが始まっている。世界的に見ても「中東市民革命」という新しい風が吹いている。それらの行方を見守りながら、自分の生きる場で「旧態依然の政治・社会」と闘っていきたいと思う。      (2011年5月23日)
posted by 木村知義 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録