2010年11月28日

よみがえる「朝鮮戦争」の悪夢・・・A

 すでに伝えられているように、きょうから、黄海で米韓軍事演習がはじまります。
 原子力空母ジョージワシントンをはじめイージス巡洋艦など米韓の12隻が参加していると伝えられる今回の米韓合同軍事演習は黄海で実施されるものとしては「最大規模」とされます。

 演習水域は米韓側が黄海の軍事境界線とする北方限界線(NLL)からかなり離れた韓国南西部沖に設定されていることで、「北朝鮮への過度の刺激を避ける配慮もうかがえる」と伝えるメディアもありますが、軍事演習の詳細は漏れてきませんから、実際のところはどうなるのかは予測ができません。

 この演習に強く反発している北朝鮮は、26日にも、祖国平和統一委員会が「さらに恐ろしい対応射撃を加えて敵の牙城を根こそぎ吹き飛ばす準備を整えている」と警告したのに続いて、きのうも朝鮮中央通信が、「(黄海に米韓の軍艦艇を侵入させるならば)結果は誰にも予測できない」と重ねて重大な警告を発しています。

 一方のオバマ政権は、さらに、地上部隊による追加の米韓合同演習も検討しているということが伝えられています。

 朝鮮半島はまさにいつなんどき「不測の事態」つまり戦争が起きても不思議ではない状況になっていると考えるべきです。

 問題は双方が緊張を高めるのではなくいかに自制できるのかという、ごくごく「あたりまえ」のことを愚直に実行できるかどうかが問われているというべきです。

 これもすでに伝えられていることですが、中国の楊外相は北朝鮮の北朝鮮の中国駐在大使と会ったのをはじめ、米国のクリントン国務長官、韓、日の外相と電話で「会談」、最大限の自制を求めたということです。

 加えて、中国の戴秉国国務委員が急遽きのう(27日)の午後韓国を訪問して金星煥外交通商相と「意見交換」しました。

 楊外相の韓国訪問を「延期」した中国が、外相よりレベルの高い戴国務委員を急遽韓国に赴かせたのはいかに事態を深刻にとらえているかの証左です。

 きのう、日本のメディアの中には、中国がこの海域での演習を「容認」しているかのようなニュアンスで伝えたものもありましたが、これはあきらかにミスリードです。

 中国が関係各国に「自制」を求めている意味を的確に認識できないメディアは失格です。

 ここは間違いの一切許されないところだと考えます。

 さらにいえば、いまこの問題の報道に携わっている人々が、60年前の「戦争」の歴史にさかのぼって事態を深くとらえることができているのかどうか、まさしくジャーナリストとしての、歴史への真摯な態度と具体的かつ深い認識が問われると、痛切に思います。

 「北朝鮮の暴挙」を懲らしめるためなら何をしてもいいのだという「空気」をかもし出す恐ろしさについてメディアに携わる者はきわめて厳格な省察が求められることを忘れてはならないと思います。
(「北の暴挙」についての検証、吟味はまだ尽くされたわけではないという留保を前提にですが)

 いまはどこに目を向けるべきかといえば、緊張をどう緩和していくのかにこそ向わなければならないというべきです。

 いま放送しているテレビ番組でも、きょうからの「演習」に対して「北が何を仕掛けてくるかわからない・・・」と語る姿が目に入ってきました。

 いま、何を、どう考えなければならないのか、本来は「簡単明瞭」なことなのですが、メディアの報道を目にすると、あるいはメディアで語る「識者」や「専門家」の話を聴きながら、実のところいかに難しいことであるのかを痛感します。

 なによりも、戦争を起こしてはならないという自制にむけて、言論も存在をかけて、いまこそ語らなければ、その存在意義を失うと思います。

 朝鮮戦争の「悪夢」をふたたび現実のことにしないために、言論は存在を賭けるべきだと、これは私自身への問いかけとしても、銘記しておきたいと考えます。

 28日朝の深い「感慨」として・・・。



posted by 木村知義 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2010年11月24日

よみがえる「朝鮮戦争」の悪夢・・・

 きのうは仙台に出かけて午後ずっと会合に出ていたので北朝鮮による韓国・延坪島への砲撃のニュースは速報時点では知らず、帰路、仙台駅のホームに上がったところでパソコンでニュースをチェックして知りました。
 
 後でわかったのですが、午後このニュースを知らせる電話が何度も着信していたのでしたが会合に出ていたので着信音を切っていたため気づかずに過ぎていたのでした。

 最初にニュースを目にした時点では、事の詳細はわからなかった(今もわからないことだらけですが)のですが、起こるべくして起きたというのが私の第一印象でした。とともに、いったん収まっても、きわめて深刻な状況が続くことへの懸念を深くしたのでした。

 すでに各メディアでは「北朝鮮の暴挙」への非難が湧き起こっていますが、ここは本当の意味で冷静に事の本質に踏み込んで考えてみることが必要だと思います。

 まず確認しておかなければならないことは、この海域は何が起きても不思議ではないところだという点です。

 北方限界線(NLL)をめぐる歴史的経緯についてはすでに、少しばかりというべきですが、メディアでも触れられています。

 共同通信はこのNLLについて以下のような「解説」を配信しています。

 「朝鮮戦争休戦協定調印後の1953年8月30日、国連軍司令部が陸上の軍事境界線を考慮して定めた黄海上の韓国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の境界線。99年6月にも北朝鮮警備艇が侵入を続け、同15日に韓国海軍艦艇との間で銃撃戦が発生、北朝鮮の魚雷艇1隻が沈没し、警備艇数隻が大破。北朝鮮は同年8月17日の板門店での在韓国連軍との将官級会談で、黄海の新たな境界線設定に向けた協議を要求、9月2日に北方限界線の無効を一方的に宣言した。」

 また毎日新聞は、
 
 「朝鮮戦争の休戦協定(1953年7月)で定められた軍事境界線は陸上に限定されていたため、在韓・国連軍は同年8月、黄海上に艦艇の行動北限として独自にNLLを設定した。92年発効の『南北基本合意書』は海上区域について『(境界線が)画定されるまで、双方が管轄してきた区域とする』とし、NLLを事実上認めた。だが北朝鮮は99年9月、NLLは無効だとして南側に境界線を設定し『軍事統制水域』を主張。過去にも銃撃戦があり『海の火薬庫』と呼ばれる。」

 としています。

 いずれにせよ、南北で「境界」の認識が異なる状況のなかで、これまでも衝突が起きて緊張関係が続いてきたということがわかります。

 そして、事態の本当のところの経緯はまだ明らかではありませんが、そんな「何が起きても不思議ではない」この海域で、韓国の陸海空軍が「軍事演習」を行っていたことは、見落としてはならない重要なポイントだというべきです。

 しかし、ある新聞が書くように「韓国は定期的に同海域で訓練しているうえ、北朝鮮が韓国の陸地を目標に砲撃したのも極めて異例だ。訓練への抗議を口実にして攻撃を仕掛け、内部引き締めを図るとともに、対話に応じない米国の姿勢に焦って朝鮮半島の緊張を高めることを狙った可能性もある。」といった分析で事が済むということでいいのだろうかという省察はメディアに皆無です。

 そのことに懸念を抱くのは私だけなのだろうかと考え込みました。

 そういう視角で振り返ってみると、韓国のこの「演習」に対しては、前日すでに北側から強い非難の表明がなされていたこと、そして23日午前8時20分、南北非武装地帯に近い都羅山に位置する韓国軍の通信施設に、韓国軍が予定している延坪島付近での「射撃訓練」に対して、北朝鮮の「領海に撃ったなら看過しない」という内容のファックスが送られてきて、北朝鮮側が強い警告を発していたことは、しっかりと押さえておく必要があると考えます。

 韓国側は、この「射撃訓練」では南西側にしか砲弾を撃っておらず、つまりは北朝鮮の陸地側に向けては砲・射撃していないとしています。

 しかし、目と鼻の先で繰り広げられる砲・射撃を、緊張関係のなかで対峙する軍人がどう感じるかは、想像すればそれほど難しい問題ではないと言えます。

 これを「挑発」と言わずしてなんと言うのか、と言うとまるで北側の「言い分」そのままになってしまうのですが、ここは冷静にとらえておくべき問題だと言うべきです。

 さらに、北からの砲弾が民間人の居住地域に着弾したことや韓国海兵隊の関連施設の建設工事に当たっていたとされる民間人に犠牲者が出たことで、一層北朝鮮への非難の声が高くなっているのですが、この島には韓国軍の「施設」(基地)があり、北からの砲撃はそこに向けてのものだったということが、死傷者の多数が兵士だったということでもわかります。

 こう考えてくると、まさに「戦争」が繰り広げられていたのだということが見えてきます。

 南北の「境界」をめぐって争いが続いている海域で、まさに一触即発の状況下で韓国軍による砲・射撃「演習」が行われ、それに対して北側から執拗な「警告」が発せられ、そのあげく北からの砲撃が行われたということです。

 さらに重要なことは、朝鮮半島周辺海域では、7月段階から米韓、あるいは韓国軍単独の演習(軍事訓練)がほとんど切れ目なく打ち続いていたということです。

 私は、7月26日のコラムで『なんと愚かなことをするものだろう』と書きました。
 ぜひ、以下の内容を、もう一度お読みいただきたいと思います。
 http://blog.shakaidotai.com/archives/201007-1.html

 残念ながらその時の懸念が、懸念では済まなかったことが昨日の「砲撃事件」で明らかになりました。

 さらに、このようにして戦争は「起こされる」のだという思いを強くします。

 そしてもう一件、5月23日のコラムで「天安艦事件」にかかわって、信頼する軍事問題研究家から、この海域とそこでの軍人の「行動」について鋭い示唆を得たことを書きました。

 今回の「砲撃問題」を考える際にもそこでの指摘は極めて重要だと思い返したものです。
 このコラムもあわせてお読みいただければと思います。
 http://blog.shakaidotai.com/archives/20100523-1.html

 「訪朝報告」が中断したままとなっている最中、今回の「砲撃事件」が起きました。
 「訪朝報告」と密接にかかわる問題だと痛感することから、こちらを先に書くことにしたものです。

 メディアが「挑発」と書くとき、何をもって挑発と考えるのか、そこがまず問われるのだと思います。

 そして、けさ、神奈川県のアメリカ海軍横須賀基地から、原子力空母「ジョージ・ワシントン」とイージス巡洋艦「カウペンス」が出港して、韓国周辺海域に向かいました。

 28日から、より規模の大きな米韓軍事演習が展開されます。

 一触即発という言葉が言葉だけではなくなる、まさに悪夢の再来を目の当たりにしないとも限りません。

 ここを冷戦の残る地域、ではなく「熱い戦争」の繰り広げられる地域にしてはならない!という思いがつのります。

 しかし、日に日にガバナンスの喪失の度を強める日本の現政権のこの問題への態度や、言うところの評論家や外務省OBとしてメディアで語る「外交専門家」の言説の危うさを目にするにつけ、悪夢が悪夢では済まない恐れを強くしてしまいます。

(つづく)

posted by 木村知義 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2010年11月17日

尖閣問題、小島正憲氏の論考、北後継問題、韓国知識人の発言、ホームページに

 「訪朝報告」が中断していて申し訳ありません。
 できるだけ早く書き継いでいくつもりですが、私自身が主宰する研究会で近く「訪朝報告」をすることになっているので、いま、その際に使う、現地で撮ってきたビデオの編集作業に追われています。
 「訪朝報告」については一時筆を置かざるをえない状況になっていますが、私の運営しているWebサイトの、韓国を代表する知識人白 楽晴氏の発言を紹介するページに、北朝鮮の「後継問題」にふれる発言が、また小島正憲氏の「凝視中国」のページに尖閣問題への論考が寄せられました。

 白 楽晴氏の発言(「京郷新聞」のインタビューについての「プレシアン」の記事)から、北朝鮮の「後継体制」についてどのような視点が必要なのか、注目すべき問題提起が読み取れます。

 また、小島氏の考察、論考は長く中国でのビジネスに携わってきた氏独特の「アイロニー」というか「反語的」エスプリがこめられていて読み応えのある内容だと感じます。
 
 尖閣問題と現政権の問題についてはこれまで何度か書いているので詳しく繰り返すことは避けますが、以下の2点だけはしっかりと認識しておくべきだと考えます。

 まず、近代国民国家の枠組みの下での領土あるいは国境問題というのは、日本にとってあるいは近隣のアジア諸国にとってはたかだか百年余りの時間軸の中での問題であること、したがって、近代の日本とアジアという視座からの深い吟味と検証なしに、どちらのものかを主張して争うということはいたずらに「劣情としてのナショナリズム」(求められる良きナショナリズムというものがあるのかどうか、あるとすればそれはどのようなものかについてはさらに深める必要があるということを前提にこういう表現をとるのですが)を刺激するだけに終始して何ものも生み出さないということ。つまり、今私たちが目の当たりにしている「領土問題」とはアジアにおける、とりわけ日本と中国や朝鮮半島をめぐる近代にかかわる歴史認識の問題であり歴史問題だということへの認識がなくてはこの問題の「解」を見いだせないということです。

 さらに、いったん領土問題を「問題化する」ということは、究極のところは、実力=戦争による解決しかないというところに行き着くこと、したがって戦争をも辞さないという「覚悟」なく「ちょっとやってみるか」といった程度の危うく愚かな「知見」でしてはならないことだということです。

 後者について言えば、現代においてはそのような道、つまり戦争への道は取るべきではないという意味において、選択肢としてはありえないということになるわけで、このことはなによりもしっかり認識しておくべきだと考えます。

 すでに書いたことですが、後世の人々の知恵に委ね今はふれないでおこうという、ケ小平の「狡知」ともいえる知恵の含意をあらためて思い起こすべきではないでしょうか。

 それにしても、菅−仙谷−前原を軸とする現政権は末期的症状を呈し始めていて、度し難いばかりです。この、経綸の一片のかけらさえも感じられない「虚ろな人々」による政治がまさに「地獄への道」へと続くことはすでに書いてきたとおりです。

 日本は「崩れ始めている」という感を深くします。
 遠からず政権交代とはなんであったのかということに直面すると書いてきたことが、悪夢のような形で、いま目の前で現実のものになっています。
もはやこの政権にも未来はないことが明らかとなり、しかし、ではそれに代わりうるものはとなるとお先真っ暗というわけですから、事態は容易ならざるところに来てしまいました。
「世が世なら5・15や2・26だ・・・」と言ったのは昨年までの政権政党自民党で閣僚を経験した政治家でした。

 本当にそうです。
 「尖閣ビデオ流出問題」一つを取ってみても、そこに、かつての悪夢の「亡霊」を髣髴とさせる時代状況が垣間見えます。

 だからこそ言論は、メディアは、いまこそ、命がけでふんばっていることが求められているのだと切に思います。

ホームページのサイトでの白楽晴氏と小島正憲氏のページは以下の通りです。

白楽晴「『京郷新聞』は保守派マスコミのように忠誠を強要するのか」
http://www.shakaidotai.com/CCP134.html

小島正憲「国家を捨てる中国人・国家に尽くす日本人」
http://www.shakaidotai.com/CCP137.html

ぜひお読みください。
posted by 木村知義 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2010年11月04日

我々が考えなければならないことは・・・

 「訪朝記」の筆を置いて「尖閣問題」について書くことに区切りをつけて本来書き継ぐべき「訪朝報告」に戻らなければと思いつつ、これまで書いたことの補足という意味で少しだけ付け加えておきます。

 先週に続いて、今週もこの問題についての研究会や会合に出たり、きょう(3日)は「辛亥革命100年」にかかわるシンポジウムに出かけたり、いずれにしても中国にかかわって考えさせられる機会を持っています。

 そこで、これまで書いてきたことに、どうしても補足しておかなければならないと感じることがあります。そのいくつかをメモ書き風に書きます。

1.まず、今回の問題を、中国指導部内部の権力闘争によって起きているのだと説明することをどう考えるのかです。これは、この間のいくつもの会合、研究会などで、いわば中国に通じている専門家、ジャーナリストであればあるほど聞かれる言説です。
もっと踏み込んで言うと胡錦涛主席と温家宝首相、あるいは習近平副主席とそれぞれのグループの角逐、あるいは軍部と共産党指導部の軋轢、ひいてはいわゆる江沢民前主席を後ろ盾とする「保守派」と胡錦涛主席を中心とする「改革派」の対立など、さまざまに解説がなされます。
いわば「玄人筋」の見立てであればあるほどこうした権力闘争が背後にあって「尖閣」での日本への「挑発」が起きたという説明です。
さて、どうなのだろうかと、私のような「素人」は考えこむのです。
ホントかいな・・・と思うと言えばそうした「玄人」の方々、中には私の尊敬するジャーナリストもいるのですが、に失礼になるのでそこまでは言いません。
ただ、では権力闘争というが一体何をどうすることをめぐって争っているのだ・・・というと、さて、それは、いまは、まだわからないが何年か後にはきっとわかるだろう・・・というものから、いや!人事、ポストをめぐる争いだ・・・とかとか、私にとってはどうも釈然としないことが多く残るのです。
あれこれ書いていると長くなるだけでなく、意図しなくても皮肉っぽく響いてしまうので、私の結論を述べます。
私は、どんな政権であれ、組織であれば権力闘争はあるでしょう、と考えるのです。日本の政治を見てもそんなことは言うまでもないことではないでしょうか。当たり前のことです。ましてや中国共産党といえば、日本の民主党や自民党など足下にもおよばない巨大な権力といわば「利権」の集中した組織です。そこに権力闘争があるに違いない・・・と言われてもそれほど感銘?を受けないのです。当たり前だからです。だから無視していいとか軽視していいということを言っているのではありません。しかし権力闘争が背景にあって・・・と説明する限り、ではそれが今回の尖閣問題をどう引き起こしていったのかという具体的なエビデンスにもとづいた分析が必要ではないでしょうか。「玄人筋」らしい解説に楯突くのは恐縮ですが、その根拠は?証拠は?ということになります。ジャーナリストであれ、研究者であれ、具体的に証拠と根拠を提示して、だから権力闘争が引き起こしたのだということを論理的に説明しなければならないのではないでしょうか。
なんでも権力闘争という言葉で説明したような気になる、あるいはその説明を聞く立場でいえば、わかったような気になる、のは危険ではないでしょうか。
もっと冷静に論理的に考えることが必要だと思うのです。それだけのことを前提にして、しかしもちろん中国指導部内の権力闘争といった要素、要因を無視したり軽視したりすることはできないわけで、そこはきちんと見ておく必要があるということでしょう。それをきちんと具体的事実にもとづいて解析、分析することはなされるべきであり、それだけに推測や「印象論」「感じ」ではなく説得性の高い分析を提示する責任があると思います。
重要なことは、そのことと、私がこれまで書いてきたことは矛盾、対立するものではないことは言うまでもないことです。つまり、中国側の「事情」は事情として、大事なことは、日本の私たちが考えなければならないことはどういうことなのか、日本の私たちに問われることは何なのかということなのです。
そこを明確にせず、いかにも「玄人筋」らしく中国内部の権力闘争が・・・と言われても琴線にふれる言説にはならないということです。あるいは、日本がどう対処すべきかが的確に導き出せないということです。
要はあれこれの解説をして事が済むということではない、というです。ましてや訳知り顔に「権力闘争が・・・」と言っておいて、では何がどうなっているのだとたずねると「そこはまだわからないのだが、何かが起きている・・・」といったことを聞かされても、何も生まれないということです。
日本と中国の関係、あるいはあり方を考えるということは、そんな気楽なことではなく、もっと真摯に自己の存在を賭けて向き合うべきことだと、「素人」の私などが言うと分をわきまえずに、とお叱りを受けるかもしれませんが、少なくとも、ささやかではあっても、国交回復前から中国と、そして日中関係と向き合ってきた私には思えてならないのです。

2.同様に、中国内部の社会の問題や矛盾への不満や批判が潜在することを避けるために国民の、特に若者の目を外に向けさせる、具体的には日本に向けさせているのだ、外交を内政の「緩衝材」に使っているのだという解析、言説もまた、だからといってそれで日本の私たちが考えるべきことが解消されるわけではないということです。
貧富の差の拡大、腐敗の蔓延・・・、中国にいま底知れぬ矛盾や問題が存在することはいうまでもないことです。だからそれを指摘して尖閣問題を説明したつもりになる、あるいはこれまたそれを聴く側の私たちは、それで何かがわかったような気になるとしたらこれまた大いに危ういことだと言わざるをえません。
きょうのシンポジウムでも米国から参加した日本でもよく知られる識者が、かつて中曽根元総理が外交というものについて3つの「箴言」ともいうべき話をしたと述べました。
一つ、力以上のことはしてはならない
二つ、世界の潮流をよく見なければならない
三つ、外交を内政の道具に使ってはならない
というのです。
その場の文脈でいえばこれを今の中国に「助言してあげる」というものでした。
この高名な識者が中国に助言することをあれこれ言うつもりはありませんし会場の聴衆も、まさにそうそう・・・と共感する「空気」でしたので、あえて楯突くつもりもありません。
ただ、この三つはそのままブーメランのように今の日本に返ってくることではないでしょうか。
もしこの識者がそこまでの含意を込めていたとしたら脱帽ですが、その場の雰囲気はというか文脈は、いま中国が知るべきことはこういうことだと諭している、あるいは教えてやるというものでした。
私はこれを聴きながら、まさにこの三点が問われるのは日本そのものであり、日本の我々であり、現在の菅政権、仙谷官房長官、前原外相ではないのかと考え込んだものです。
ことは他を諌めあるいはあげつらっている場合ではなく、それらはすべて己のところに返ってくるものだというべきです。こういうことを、いささか下品な表現ですが、天にツバする・・・というのではなかったでしょうか。

3.いわゆる「反日デモ」は中国当局つまり中国共産党指導部がそうさせている、あるいはその「管理」の下に行われているという言説に吟味、検証は必要ないだろうかという問題です。
書いているうちにどんどん長くなるので思い切って端折りますが、中国共産党の「管理」がどんどん弱まるから、もっといえば一党独裁の力が弱くなってゆるんでくるからこうした「勝手」なことが頻発するようになってきたのであって、一党独裁の統制が行き届いていればこんなことは起きないということに気づいておかなければならないのではないかと思うのです。
つまりいうところの「民主」がすすめばすすむほど「反日」であれ、なんであれ、なんでも起き始めるということです。
一党独裁だから起きるのではなくそれが弛緩し始めているから起きていることだということをしっかり見ておかなければならないということです。
ここでも「玄人筋」の見立てをそのまま鵜呑みにしているととんでもない見立て違いを引き起こすのではないかと危惧します。

4.その上で「反日」ということといわゆる「愛国教育」の相関関係についても検証が必要だと考えます。
なにかというと中国では愛国教育をしてきたので若者たちが反日になった・・・という説明がなされます。さて、本当にそうかいな?という疑問を抱くことはないでしょうか。
私は2005年のいわゆる「反日デモ」の際北京だけでしたが現地を取材し、北京の繁華街、王府井、西単、そして人民大学などの大学キャンパスさらに盧溝橋などで100人をこえる若者たちにインタビューしました。
率直に言って若い世代(20歳前後)の人たちは「愛国」がどうの「反日」がどうのという意識とほど遠いまさに今風の若者であることを痛感したものです。
たかが100人を少し超えるぐらいのインタビューでものを言うなというお叱りがあることは承知です。
しかし、では!「反日」とか「愛国教育」と書いたり語ったりしている専門家やジャーナリストはどれだけの具体的かつ実証的なエビデンス=証拠、あるは根拠を持っているのか、きちんと示して語るべきではないかと、これまた分不相応に思うのです。
そう安易に決まり文句のように「反日」と「愛国教育」を相関させて語るべきではないと思います。これまた端折って言えば、そういう教育以前に、ある年代の人たちの記憶の中には日本の侵略と暴虐に対して深い恨みと憎しみが潜在していることを私たちは真剣に認識すべきなのです。
それを抑えて、のりこえて国交正常化を受け入れたというのが、ある年代の人たちの真情です。
もはやというべきか若者たちはそうした歴史と歴史認識とも無縁になりつつあるというのが中国の実態だということを知っておかなければ事態の本質を見誤ることになると思います。
突きつめていえば、反日教育などあろうがなかろうが本質的には日本の侵略の歴史を許し難いと考えている世代、人々がいまなお広く潜在しているということです。そしてそういう人たちの多くは「反日デモ」などとは無縁の存在であり、深く怒りを胸に日々の生活を送っているということです。
ここでも中国専門家や中国に通じていることを誇るジャーナリストたちのカリカチャライズされた言説の虚ろさを思わざるをえません。

5.さて、書き始めるとどんどん問題が出てくるのでこのあたりで止めなければなりません。
あといくつかを本当に箇条書き風に述べておきます。
今回の「尖閣事件」で「だからやはり日米安保を強固にしなければ!」という言説は本当なのか?という問題があります。
きのうもテレビで米国の「知日派」として知られる人物が「(今回の尖閣問題で)日米が連携できなければ中国はますます力が大きくなる。それは米国にとっても脅威だ。(だから日米同盟を強化することが肝心だ)したがって日本の指導者はもっと(足しげく)ワシントンに来るべきだ・・・」と語るのに出くわして苦笑しました。
こういう論理が大人の世界でまかり通ることになんの不思議も感じないでうなずいて聴いているキャスターというものに、それこそ、なんとも不思議な気がしたものです。
さらに、別のテレビ番組でしたが、ロシアのメドベージェフ大統領が国後島を「訪問」したという問題についてあるコメンテーターが、北方領土は日米安保が適用されないが・・と振られたのに対して「日米安保が適用されるかどうかなど関係ない!・・・」というのを聴きながらこれまた吹き出しそうになりました。
それこそ「アレッ?」です。
昨日までは、尖閣諸島に日米安保の第5条が適用されるという米国の「言質」をまさに「鬼に金棒」の類でふりかざして、だから、まぎれもなく日本のものなのだ!中国は許せない・・・といった理屈でものを言っていたはずではなかったのか・・・と。
物事は一貫性が大事じゃないですか・・・とはこういうコメンテーターに言っても詮無いことなのでしょうが、ため息が出ます。
また今夜のテレビでは外務省出身のというより現在も外務省に大きな影響力を持っているとされる外交評論家が「(今は)外交戦略がどうのこうのと(批判して)空疎なことばを並べるのではなく、中国やロシアとの領土問題をどう解決していくのかが問題なのであって、アメリカの協力を得てそれをどう実現していくかが最大の問題なのだ・・・」という趣旨のことを語るのを見ながら、いやはやとここでもため息をつきました。
もう見境ないというべきか、見苦しいというべきか、なんともイヤハヤというところです。
他を恃むのではなく、あるいはもっと言えば力の大きな者、強い者を引きずり込むことで自分を大きく見せて相手を抑え込もうという貧寒たる発想ではなく、日本自身が自らの見識と政策をもって解決していくという覚悟がなくて何が外交か、というのも言っても詮無いことでしょうか。本当に情けなくなります。

6.さてもう本当に最後にします。
このコラムでは、まず他をあげつらうのではなく、日本の我々が何を考えなければならないのかという立脚点に立って話をすすめてきました。
なによりもそこが重要だという認識に立っているからです。
その上で、しかし中国について考えるなら、今回の問題で、自制すべきことも多々あったということであり、そこは今後の重要な課題として、いやもっというなら「傷」として残ったということも考えなければならないと思います。
一例をあげると、少なくとも1000人の青年たちの上海万博訪問を拒むというようなことはすべきではなかったというべきです。
どんな困難な時もこうした民間交流を大事にしてこそ問題をのりこえる途も見いだせるというものではないでしょうか。
そうしたまさに戦略的判断のできる中国指導部であるべきではないのかというのは、出過ぎたもの言いでしょうか。
その意味では中国指導部もまた大きな「傷」を負った今回の問題ではなかったかと思います。
それゆえ、今回の「事件」が一体なぜ起きたのか、ここを深く掘り、問題の実相、実体を明らかにしていくことが専門家、ジャーナリストの責務ではないかと、私は考えます。
事態の推移のあれこれを語るのも必要ではあるのでしょうが、そろそろ、もっとも本質的な問題の究明にむけて覚悟と志をもった取り組みが必要とされているのではないか、痛切にそう思います。メディアは何を語るべきなのか?!
メディアの責任は本当に重いと思います。


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2010年11月02日

ホームページ掲載記事のお知らせ

 折々、私の運営しているWebサイトの掲載記事についてご案内していますが、お知らせが遅くなってしまいましたが、8月から新たに「韓国の知性、新しい時代を語る」というページを設けて、韓国を代表する知識人、白 楽晴氏の論稿の掲載を始めています。
 朝鮮半島情勢、南北関係をはいめ北東アジアのありかたについて白 楽晴氏の鋭く、すぐれた考察、分析と主張をぜひお読みいただきたいと考えます。
 また、「訪朝報告」にもかかわる示唆的な論考となっています。
ブログとあわせて、ぜひお読みただければと思います。
 なお、最新の稿は白 楽晴氏の論稿ではなく、6・15共同宣言実践南側委員会名誉代表の白 楽晴氏や林 東源元統一相などをはじめとする「朝鮮半島平和フォーラム」の最新動向について「プレシアン」の記事から紹介しています。
 翻訳は白 楽晴氏の論稿の掲載について仲介の労を取ってくださったコリア文庫代表の青柳純一氏です。
最新記事は以下のサイトです。

http://www.shakaidotai.com/CCP133.html

また白 楽晴氏のプロフィールとページ新設についての青柳純一氏の「解題」は以下のサイトです。

http://www.shakaidotai.com/CCP.html


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