(承前)
ところで、朝鮮の経済について考える際、私たちに、というか私にはなかなかわかりにくい問題がいくつも出てきます。まず、社会主義経済の基本的な仕組みについて、書物などからの、それも少しばかりの知識はありますが、そうした社会で暮らしたことがないので実体験としてわかるということがないため、話を聞いてもなかなかピンと来ないものです。
私は、一応、経済学を学んできたのですが、ゼミのテキストは、いまはもうほとんど見向きもされない「資本論」(最近はファッションのように新書や漫画本で話題になっているので奇妙な気がします)でした。それもまあなんとか最後まで読んだというか目を通した程度で自信はありません。ただ、価値法則から再生産表式ぐらいまではなんとかおおむねのところは理解しようと努力したので一応の知識はないわけではないと思っています。
しかし、社会主義経済とその下での生産方式と分配、とりわけ貨幣、賃金と物=商品の関係については具体的な仕組みやそこに存在する問題や矛盾について、実感としてはわかりません。
こんなことを書くのはなぜかというと、話しはまわりくどくなりますが、時代は少しさかのぼります。
朝鮮の経済問題について当事者の話に直に「触れた」のは2002年のいわゆる「七・一措置」と呼ばれた「経済管理改善措置」が実施されることになり、朝鮮から経済部門の高位の幹部が訪日して話をする場に「居合わせた」ことが最初でした。
その折のメモなどをどこにしまいこんだのか、いますぐ見つけることができないのでぼんやりとした記憶しかないのですが、高位の朝鮮当局者が訪日して日本の経済関係者に朝鮮の「経済管理改善措置」について説明する会合がもたれるということを、どこかから耳にして、主催者を探して聴講をお願いしたのでした。メディア関係者の聴講は断りたいというのを無理に頼み込んで、オフレコを条件になんとか聴講を許されたのでした。
会場には日本の企業(特に朝鮮に債権を持っている企業のようでした)関係者をはじめ在日朝鮮人の企業、商工関係者が集まっていたように記憶しています。その場でかなり詳しく「改善措置」について説明があったのですが、正直なところさっぱりわからないというのか、話の筋はちゃんと聴いているのですが、一体なぜこういう「改善」が必要になり、この「改善措置」によって何がどう変わっていくのかがピンとこないのでした。
私が経済の実務に疎いということが最大の原因だったのだろうとは思いますが、朝鮮で何が起きているのかということが体感として理解できるというところに至らなかったのです。
しかし、ひとつだけ、私なりに理解したのは、社会主義経済の下で価値法則にもとづいて、商品経済、市場経済の要素を取り入れ拡大していくということなのだろう、ということでした。多分、実態としては「起きていた」ことを制度上追認するとともに、より踏み込んで「改革」するということだったのかもしれません。
朝鮮の内部的要因もあるかもしれませんが、それと不可分の問題として、なによりソ連の崩壊にともなう社会主義圏とその国際的な市場の消滅という要因が大きな引き金になって、なんらかの「経済改革」を余儀なくされたというものではないかと考えたものでした。いずれにしても、社会主義計画経済ではうまく回らない実態があり、市場経済の要素を取り入れていく、もしくは拡大していくことに舵を切ったという意味で、その当時はあまり注目されませんでしたが、朝鮮にとっては大きな転換点だったのではないかと感じています。
その意味ではメディアや研究者は直近の「デノミの失敗」を言う前に、2002年の「経済管理改善措置」に遡って朝鮮経済と社会、そして庶民の暮らしの変化というものをつぶさに検証しなおすことが必要ではないかと思っています。
そのことを押さえた上で、今後の朝鮮の行方を正確につかんでいくためには、現在の朝鮮経済の実態について、さらに深く考察、分析が必要になると痛感します。そう考えると、詳細な情報と実際に即した理解、認識が不可欠だと思うのですが、そうした問題意識を満たすだけの情報は、今回の訪朝では得られませんでした。
もちろんせいぜい一週間あまり出かけたからといってそうしたことがすべて見えてくるということなどありえませんから、仕方のないことですが、一方では、一例を挙げれば、庶民の暮らしへの市場経済の浸透、拡大といったミクロな経済にふれる見聞はできるだけ避けたいという考えが、受け入れ側にあったのではないかと感じました。
しかし、メディアによくありがちな「覗き見趣味」という次元ではなく、今後の朝鮮の行方を過不足なく、誤りなく理解し認識を深めていくためには、ヒアリングに応じてくれた経済専門家の話しにあるようなマクロな問題にとどまらず、企業の生産現場や庶民の暮らしの実態に直に接する機会を持たないと全体の方向性がわからないということではないかと、これは受け入れ側にとっては「不遜のきわみだ」と思われることかもしれませんが、折角の機会をどう生かしていくのかという視点からは今後の課題として残ったと思いました。
それはそれとして、わからない、ピンとこないという問題に戻ると、その最大の疑問のひとつは、民生の向上という課題と配給制度の関係です。メディアなどでは、90年代に配給制度の崩壊がいわれ、商品経済の浸透とそれがもたらした貧富の格差の拡大がしばしば取り上げられています。すでに書きましたように今回の経済専門家からのヒアリングは、本当に残念なことに、次の予定の関係で時間が限られていて、どんな質問にも間髪を入れず的確、具体的に答えてくれる実に優秀な専門家だったにもかかわらず、聞きたいことの百分の一も聞けなかったという悔いが残りました。したがってこれからの感慨は車窓などからの遠望にもとづく推測の域を出ないことをお断りした上でのことになります。
まず、2002年の「改善措置」以降、多分商品経済―市場経済のセクターが拡大したであろうことは確かだと感じました。17年ぶりの平壌は、見違えるほどあちこちに「商店」が増えているだけではなくそれらに賑わいが見て取れました。加えてスタンドのような店が随所にあり人だかりもかなりのものでした。それらの位置づけが正式に認められたものなのかどうかは確かめていませんが、少なくともかつては「不法」なものとされていた市場経済の要素を認めざるをえないところにきていることは確かだと思います。平壌駅からほど近いところにできた水色の大きな屋根の市場の前を通りかかったのですが下車して見ることはできませんでした。しかしこうした市場が活況を見せるというのはすでに商品経済―市場経済が生活の一部に浸透してきている証左だと思います。
配給についていえば、今現在どうなっているのかは確認できませんが、従来の配給制度も、たとえば食品の品目毎に指定された券かなにかを持っていけば格安の値段で手に入れることができるといった性格のもののようでしたから、まったく貨幣を介さず配られるというものではなかったと考えられます。(ある品目について、ある時期までは無償で配給されたということもあるようです)
いわば二重価格のような仕組みのなかで、配給と同時に余力のある人は貨幣でより多くあるいはより多様なものを手に入れることができるということだったのではないかと想像します。
すると、現在はそうした配給の仕組みはほぼ機能していない、あるいは貨幣経済―市場の論理で日常生活が動いているという状況だと考えるほうが自然なのかと思います。であればこそ、朝鮮といえども市場経済の流れを押しとどめることは無理で、早晩、市場経済の論理が社会を覆うということを前提に今起きているさまざまな社会現象を解析するほうが実態に即した分析が可能になると考えます。
これを書きながら、数年前のことだったと思いますが、長く朝鮮との貿易に携わってきて、私にいくばくかの信頼を置いてくださっていた方が、出張で出かけた朝鮮から帰国した折「どうも生活が大変な状況のようだ。食糧の困窮が広がっている。地方に行ったが、これまでは私的な商売をしたり作物をつくったりして売るということは不法だとされてきたのが、いまはもうそんなことも言っておられず、どうも私的な経済にゆだねざるをえないというところにきているようだ。また食糧を手に入れるために移動が必要不可欠となり、従来、列車などで移動する際必要だった証明書は有名無実になっている・・・」と話してくれたことを思い出します。また「農民も自分で作物をつくり食料を確保するということが黙認されているようだ・・・」と言う話も聴きました。
ずいぶん前の話ですが、こうした「実態=現実」と「建前=外形」の乖離をどのように埋めて本当に力強い経済をつくっていくのかが、強盛大国への扉を開くとしている2012年に向かう際には大きな課題になるだろうと思いました。
さらに、民生の向上を掲げるとき重要なことは「格差」の拡大をどうしていくのかという問題があると思います。どういう仕組かはわかりませんが、市場経済の要素が拡大するなかで、うまく儲けることのできる人とそうではない人の溝が深く、広くなっているのではないかと思います。
昼食のため静かな公園の丘の上にある白亜の館とでもいう趣の瀟洒なホテルのレストランに入ったときのことです。レストランの内装や造り自体想像をこえる洒落たもので驚いたのですが、そこで食事をする客層にはさらに驚きました。喩えは陳腐ですが、銀座の高級ブティックから出てきたといわれても不思議ではない装いの夫人たちとその娘さんと思われるグループがテーブルを囲んでいたりして、一体どこにいるのだろうかと思ったものでした。食事をしながら気になって注意していたのですが、結局どういう人たちなのかはわかりませんでした。ただ、うっすらと流れてくる低い声の会話のなかに一瞬、若い娘さんが日本語の単語のようなことばを交えたような気がしたのですが、あるいはまったくの気のせいかもしれません。ただ、こういう優雅な昼食の時間を過ごす階層の人たちがいるということもまた朝鮮の現実だと知ることになりました。
これはある意味では極端な例かもしれませんが、もっと一般的には平壌市民と農村部の人たちの格差の問題が重要だと思います。
平壌市街から少し出ると農村地帯が広がりますが、車窓から目にするそうした農村部の人たちの暮らしぶりとの落差はかなり大きいのではないかと感じました。もちろん農作業に従事するわけですから普段着飾っていることはできませんから、単に外見的な服装などだけを比較するのは控えるべきでしょう。
しかし、私には明らかに暮らしの格差というものが感じられ、いささかやるせない気持ちになったことも確かです。
ただし、貧しいことが罪であるわけはなく、どの国も、どの国民にも貧しい時代があり、そこから国を豊かにし、暮らしを向上させてきた歴史があるわけですから、朝鮮もまた民生の向上をなによりも重要な課題として認識し、目標に掲げているのだろうと思います。
それだけの理解を前提に、私が気になったのは農村部を走る車窓から見た、そこを往来する人々の表情でした。どこか諦念というか、目の輝きが乏しく無表情に感じられたのは、私だけの感慨だったのだろうかと、いまも思い返すのです。
ここで突然、1980年代後半の上海に時と場所が跳びます。中国が、改革開放が本格化していくとば口にあったころのことです。
そのころ、日本企業の中国事務所長として北京に長く駐在して仕事をしてきた友人と杭州から上海に旅をしたことがありました。この友人は、旅の途中出会う中国人とは当然のことながら中国語で話をしますが、時折私にむけて話す際日本語をまぜて話すことがあり、中国人から「おまえは日本語が上手いな、どこで勉強したのだ・・・」と聞かれるぐらい中国語が堪能で、生粋の北京人と思われることはないようでしたが、まあ少し田舎のなまりがある中国人だと思われるぐらいには中国に溶け込んでいる人物でした。
足の踏み場もないほど混雑する硬座車に立ったまま冷房もない真夏の列車の旅を耐えて上海に着いた翌日、開店して間もなしの、フランスの高級レストランで食事をすることになりました。この店は東京の銀座に開店したときも話題になったぐらいですから、上海でも当然注目を集めていました。
タオルを首に巻いてだらだら流れる汗に耐えて大げさではなく泥々になって列車に乗ってきた前日の旅とは大きな落差のある食事でした。
席について注文を終えて、料理が運ばれてきたときなぜか異様な感覚に襲われ、ふと目を外にやると、天井まで大きく窓の開いたレストランのガラス一面にべったりと張り付いた大勢の老若男女の食い入るように見つめる目が、私の目に飛び込んできたのでした。私は臆してというよりなにか申し訳ない気がして「これは食べられないね・・・」とつぶやいたのでしたが、その友人からは意表を突くようなことばが返ってきました。
「なに、気にすることはない。連中はきっといつか俺たちもあの料理を食べてやるぞって思ってああやって張り付いてるんだ。見せつけてやればいいんだよ。するとやつらも絶対這い登ってやるぞって闘志を燃やしてがんばるもんだ。それも中国のためというもんだ・・・」
正直、私はことばもなく、このあと料理がのどを通りませんでした。味もなにもあったものではありませんでしたし、永年の友人でしたが、こいつはなんてことを言うんだと思ったものです。しかし、いまの中国を見るとき、私のヒューマニズムらしきものなど本当に甘っちょろいものだったと思うのです。友人の言うように、まさに中国人たちは、いつかはきっと!という一念でひたすらがんばってきたのだと思います。その意味では友人の言ったことは一面の真実を衝いていたと、いまになって思うこともあります。もちろん賛否は別ですが・・・。しかし、あの上海の高級レストランのガラスに張り付いた目のぎらつきを今はその当時とは全く違った感慨で思い起こすのでした。
さて、なぜこんな思い出話を書くのかというと、朝鮮で、特に農村部で見た人々の目にはそのときのようなぎらつきがなく、どこか静かな諦念といった趣がただよい、ある時には色濃く疲労を宿した表情に映るものがあったと言えなくもないからです。
もちろん民族性の違いというものもあるかもしれませんし、だれもがそんなぎらぎらした情念を表に表わすものではないかもしれません。
あまりにも私の独断、情緒に過ぎると批判されるかもしれません。
しかし、私には上海で見た人々の目に宿るものと今回の訪朝時のそれとの違いがどうも気になって仕方がないのでした。民生の向上を掲げるかぎり、こうした庶民にこそ、その成果、恩恵がもたらされるようにと念ずるばかりです。
話が情緒に流れすぎたかもしれません。しかし、これもまた朝鮮の地を踏んだ私のいつわらざる感慨の一断面でした。
ただし、では日本ではそうした目の輝きが見られるのかといえば、はなはだこころもとないということも忘れてはならないと思います。
それだけのわきまえを持ちながら、さらに「車窓からの考察」を考え続け、深めていく作業が必要だと感じています。
(つづく)