2010年09月21日

すべては杞憂であればいいのだが・・・

 予想通りの結果、その後の推移も予測の範囲をこえるものではなかった、というのが民主党代表選が終わっての感慨です。

 しかし、一件落着どころか、「静かなる波乱」のはじまりというべきでしょう。

 「静かなる」というのは、いつでも大きな「地殻変動」に転化する芽ををはらんでいるという意味においてです。

 もちろん巷間言われる「政界再編」ということも含まれるでしょうが、それ以上に、政権交代とは一体なんだったのかという根源的な問いに、遠からず直面するという意味においての「波乱」です。

 それにしても、内閣が発足した直後、電車の中や巷で交わされる会話からは「自民党時代の方がまだましだったネ・・・」ということばが聞こえてくるのですから、いかに失望感、喪失感が深いかというべきです。

 そして、メディアの伝える論調との乖離に驚くばかりです。

 代表選の翌日15日の朝刊各紙は政治部長(もしくはその任にあたっている人物)の論説を掲げましたが、奇妙に一致していたのは「民意」「世論」を反映した菅首相の「圧勝」というものでした。

 臆面もなく「就任わずか3か月の首相を交代させることには、やはり大義はなかった」と書いた政治部長もいました。

また「女性議員の醜聞が週刊誌をにぎわせ、役者の器量はともかくドラマとしては大いに楽しめた」などと書く政治部長とは一体いかなるものなのか、知的レベルを疑うばかりでしたが、「民意」あるいは「世論」というものをジャーナリズムとの関係でどのようなものとしてとらえ、認識しているのか、考えてみると恐ろしいばかりの論理の退廃が垣間見えたといわざるをえません。

 自らが「民意」「世論」なるものを演出、作り上げながら、それに依ってものを語るという自己撞着のきわみに、知ってか知らずか無自覚のまま言説を重ねるという、なんとも度し難い政治報道の「水準」を露呈したというべきです。

 ところで、ここに至るまでの民主党政権の「迷走」ぶりから一つ二つを記憶にとどめておかなければならないと思います。
 
 以前、なんと愚かなことをするものだろうか、と書いたコラムの続編で触れると約束しながら書くいとまもなく過ぎていた問題の一つに金賢姫来日問題があります。

 当時の国家公安委員長、拉致問題担当の中井洽大臣が奔走して実現させた、ように見える、金賢姫来日の背景がどのようなものかは依然としてはっきりしません。

 しかし、軽井沢の鳩山前首相の別荘が滞在場所として提供されたことは、メディアでは意外性をもって伝えられましたが、天安艦沈没問題で突出して李明博政権を支持し北朝鮮非難の最先頭を走った鳩山氏の、普天間飛行場の移設問題で失墜した政治的立場と思惑を考えればむべなるかなというものでした。

 その意味では、3月末の黄ジャンヨップ氏の訪米の裏で重要な役割を演じたアーミテージ元国務副長官らと、引き続いて黄ジャンヨプ氏を日本に招いた中井大臣らとの連携、延長上に金賢姫来日があったと考えるのが妥当でしょう。

 しかし金賢姫来日問題でふたたびスポットライトの当たる場への復帰、浮揚を目論んだ鳩山氏の思惑は大きく外れ、なんら「成果」もなく金賢姫サイドにいいように「遊ばれて」終わってしまったというべきでしょう。

 いささかの脱線ですが、笑えない冗談とでもいうのは、中井大臣が軽井沢に金元工作員を滞在させる理由として「金元工作員が耕一郎さんに食事を作ってあげると約束した。静かにすごさせてあげたい」と説明していたことでした。

 メディアはこぞってこの話に飛びつきました。金賢姫元工作員が2009年8月、拉致被害者の田口八重子さんの長男飯塚耕一郎さんあてに「春巻き、コロッケなど、田口さんから学んだ食べ物を作ってあげたい」などと書いた手紙を送ったということを大々的に報じ、軽井沢からの中継で、金元工作員が、いま、耕一郎さんに食事を作ってごちそうしていると「美談仕立て」で報じたのでした。

 ところが、食事のあと会見にのぞんだ耕一郎さんは「金さんの方で、お料理を作っていただきまして、プルコギと、キムチのチヂミと、ナスを軽くチヂミみたいにした感じのものなんですけども、その3点ですね・・・」と語ったのでした。

 エッと思ったのは私だけではなかったと思います。八重子さんから習った春巻き、コロッケはどうなったんでしょうね・・・と。

 そんなブラックジョークのようなことだけではありませんでした。

 月刊情報誌「選択」8月号によると、テレビ局による単独インタビューはNHKと日本テレビということで、事前に、中井大臣から「許可」が出ていたというのですが、読売新聞が「テロ関与者の入国を認めた」として政府に批判的な記事を掲載したことから激怒した中井大臣が「氏家君がやっているんだから、読売と一緒だ」と日本テレビに矛先をむけて単独インタビューを反故にすると言い出したというのです。そのため日本テレビは社会部長、警視庁担当の解説委員、拉致問題担当デスクの3人が中井大臣のもとに駆けつけ、涙ながらに訴えて単独インタビューにこぎつけたというのです。

 これが「政権浮揚を狙った」という金賢姫来日騒動の裏側でおこなわれていたことだと思うと、鳩山氏や中井氏らは一体何者なのだろうかと考え込まざるをえません。さらに重要なことは、彼らの背後で動いていた構図、構造とは一体いかなるものであったのかということです。

 いうまでもなく、普天間問題で米国にひざまずいた鳩山前首相を象徴的な存在とする「日米同盟基軸論」の行きつく先はこうしたものだということでしょう。

 こうした文脈の中においてみると、中国脅威論、そして危険な北朝鮮の存在に対する抑止力の重要性・・・、その後起きたこともすべてくっきりと輪郭が浮かんでくるというべきです。

 なんとも度し難いところに日本は立ち至ったというべきでしょう。
 そして、私も会場の片隅で傍聴した「東京―北京フォーラム」での「我が国の外交は日米同盟を基軸とし、将来的には東アジア共同体の構想実現をめざす・・・」云々という、菅政権の枢要を担う政治家の発言でした。

 メディアも、政治家もとにかく口をひらけば日米同盟基軸というのみで、それがどのようなことを意味し、アジアのなかで生きる日本にとってどういう問題をもたらすのかということについて一切語ることもなく、あるいは考えてみる必要性についてさえ一顧だにしないという、日本の”いま”です。

 そのようにして、民意と世論の勝利で菅政権の存続が決まったというわけです。

 まさに、地獄への道は善意によって敷き詰められているという言葉を思い出すものでした。

 ところで、ちょうど民主党の代表選投票が行われた14日の昼前、ある大学の出身者のサロンに行く用件があって隅っこで座っていると、隣の席から聞こえてきた会話には驚きました。

「3か月前にやめた人間がここでまた出馬するとはね・・・・」
「それに引退すると言った鳩山がなぜノコノコ仲介だなんて言って出てくるんだろう・・・」
「まだ色気があるのさ・・・」
「この図太さを対中外交に生かせればね・・・」
「丹羽さんも大変だ、あの汚さが中国のやり口だ。関係のない小者の訪日まで取りやめてね・・・」
「あれは北朝鮮と同じだね・・・」
「内乱を起こすように画策すればいいんだよ。」
「昔、日露戦争のときなんかもやったんだよね・・・」
「盧溝橋とかね・・・」
「今年の暑さはたまらないけど、救いは北朝鮮に台風が何発か行ったことだよ・・・」
「稲も植わっていないんだろ、そんな田んぼに台風が行ったってなんの影響もないさ・・・」
「でも援助を受け取ってるじゃない・・・」
「援助なんてもんじゃなくて、ありゃタカリだよ・・・」
「さて、そろそろ部屋に行こうか・・・」

 日本の最高学府とされる大学出身者の会話です。おもわず、手元の紙の余白にメモしたのでしたが、現在(いま)の日本の危うい状況が如実に伝わってきます。

 もちろん、こうした人間ばかりではないとは思います。しかし、これもまた現在の日本の「現実」というべきでしょう。こうした「空気」や「風潮」を軽視してかかると、歴史の同じ過ちを繰り返すことになりかねないと痛感します。

 アーミテージ元国務副長官が言うところの「中国は日米関係が冷え込んでいると感じ、どこまで許されるのか試そうとしている。中国に対抗するためには日米軍事同盟を強化する必要がある。」という「警告」に沿うような論調一色になっている尖閣諸島付近での中国漁船と巡視船の「衝突」問題。

 同時にまた、各メディアで語られる「国内に矛盾をかかえる中国が国民の意識を外にそらそうとしている」あるいは「反日教育をしてきた結果中国社会に存在する反日感情の矛先が中国指導部に向かないように日本に対して強硬な態度を取らせている・・・」といった論調に引き回されていると大変なことになるのではないかと深い危惧を覚えます。

 尖閣諸島問題は、あるいは韓国との竹島問題もまた、領土問題などではなく、本質的には日清、日露にまでさかのぼって、さらに言えば、明治維新後の近代日本のアジア認識と日本がたどった歴史に深く分け入って考えなければならないという意味において、まさしく歴史問題であることを、私たちは深く認識しておかなくてはならないと思います。

 私たちの歴史認識が問われているのです。また、そこから、何をしてはならないのか、対立や紛争をどう解決していくべきなのか、深い歴史意識と哲学、経綸が問われてくるのだと思います。

 ケ小平が「尖閣諸島を中国では釣魚島と呼ぶ。名前からして違う。確かに尖閣諸島の領有問題については中日間双方に食い違いがある。国交正常化の際、両国はこれに触れないと約束した。今回、平和友好条約交渉でも同じように触れないことで一致した。中国人の知恵からしてこういう方法しか考えられない、というのは、この問題に触れるとはっきり言えなくなる。こういう問題は一時棚上げしても構わない、次の世代は我々より、もっと知恵があるだろう。皆が受け入れられるいい解決方法を見出せるだろう」として50年先、百年先の子孫にゆだねようと言った意味は、まさしくここにあるというべきです。

 アジア、とりわけ北東アジアの冷戦構造を解き、溶かし、新たな北東アジアのあり方を、つまり反目と対立のアジアに残る黒々とした実線としての国境をこえて、まず点線にし、そして将来的にはその点線をも消していく、そんなあり方をめざす中で、領土問題、領有権問題を解いていく、そんな哲学が、そしてそのような哲学にもとづく政策が、必要になるのだと考えます。

 東アジア共同体構想を掲げる内閣であればこそ、こうした認識のかけらでもあればと思うのですが、残念ながらそうした深い歴史観や経綸を感じることはできません。

 「民意の大勝」を謳う菅内閣の陣容にこうしたことを期待できると思えるでしょうか・・・。

 松下政経塾などというところで国際関係を考えてきた、安全保障問題通を自認する外務大臣にそれを期待できるのでしょうか。

 まるで子供に外交という玩具を与えるかのごとく映るといえば言いすぎでしょうか・・・。

 民意、世論、そして「クリーンでオープンな政治」という「善意」に敷き詰められた地獄への道を、いま、歩み出していることに気づかねば、取り返しのつかないことになるのではないか・・・。

 すべてが杞憂であればいいのですが。



posted by 木村知義 at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録