8月末から先週半ばにかけて東京を離れ、戻った後も慌ただしく過ごしていたため、このコラムの筆を執る時間をつくることができず歯がゆい思いで過ごしました。
この間金正日総書記の訪中があり、尖閣諸島海域で中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船の「接触」事件が起きました。乗組員はきのう中国に帰国しましたが、船長は日本の法において取り調べが行われ「処遇」が決まることになるため身柄の「拘束」が続いています。
この「事件」についてはその背景や現場での事実関係など、メディアで伝えられることだけでは確たる判断ができない要素が多く残っていると感じます。
とりわけ、なぜこのタイミングで事件が起きたのか、このことをどう読み解くのかを考えてみると、底流に複雑な問題が潜んでいるように感じられます。
そして、小沢VS菅の対決で白熱した民主党代表選挙はいよいよきょう午後結果が出ることになります。
こうした「大きな出来事」が相次いだことをふまえなが、この代表選挙の結果が出る前に、手短にですが、幾ばくかのことを書いておかなければと感じます。
新聞、放送などいずれのメディアでも、総理大臣にふさわしいのは菅直人氏だと考える人が圧倒的に多いという世論調査の結果が伝えられるとともに、小沢一郎氏には「政治とカネ」の問題があるのでクリーンな菅首相を!という市民の声などが繰り返し報じられてきました。
あるいはコロコロと首相が交代するのでは国際的な信頼を得られない、従って、就任3か月の首相を変えるべきではない続投すべし、といった奇妙な「論理」で語られる場面も多く目にしてきました。
こうした、メディアで支配的な「空気」にいささかの疑問と違和感を抱いてきた私としては、今回の代表選で争われているのは「クリーン」な政治かはたまたそうではない(「ダーティー」な)政治かといった皮相なとらえ方でいいのだろうかと思うのでした。
結論から言えば今回の代表選挙の背後にあるテーマ、争点は米国との関係をどうしていくのかという問題だと考えるのです。その意味では沖縄の普天間基地の移設問題で鳩山前首相が北朝鮮、中国の「脅威」に対する抑止力の必要性という論理で米国に膝を屈して以来、すでに物事の帰趨は見えていたというべきではないでしょうか。
たとえば、先月末東京を離れる前に、言論NPO主催による「東京―北京フォーラム」や中国から来日した青年層を中心としたメディア関係者との討論会に参加したのですが、フォーラムで基調となる発言に立った政府の枢要を担う政治家は「我が国の外交は日米同盟を基軸とし・・・」と切り出し、あれこれ述べた上に「東アジア共同体の構築をめざす」と語りました。
要は、従来の日米同盟基軸論から一歩も出るつもりもなく、その必要性もないという論に終始するとともに、なおかつそのことと「東アジア共同体」の構築をめざすこととの関係についての「矛盾」と「乖離」にまったくの無自覚とでもいうべき姿を目の当たりにすることになったのでした。
なるほど「米国なるもの」の重さはこれほどのものかと、皮肉な形でですが、あらためて感じ入ったものです。
大幅に端折って言うならばですが、日米同盟基軸を謳うとき、それは政治、軍事にわたる同盟を通じて東アジアの秩序を維持しようとするものに他ならないわけで、つまるところ米国からするところの「東アジアの秩序」を守ろうということに他なりません。
ということは、日米同盟を基軸としながら東アジア共同体の構築を目指すということは、米国からするところの望ましい東アジアの秩序を軍事同盟の力によって打ち立てようとすることに他なりません。
中国、朝鮮半島の人々が、あるいはアジアの人々がこれを是とするでしょうか。受け入れらないとすることは火を見るよりも明らかではないでしょうか。
こんなことは言うまでもないことでしょう。
では米国の核と強大な軍事力の傘の下で日本と米国が共同して、力による秩序をこの地域に暴力的に認めさせていけるのかといえば、いまやそんなことはできようはずがありません。
この「矛盾」を私たちは真剣に知る必要があります。メディアのみならず政治家、そして識者といわれる人たちはこの問題を一体どう考えるのか、ウソ偽りのないところを語ること、問題と真摯に向き合うことが必要になるというべきです。
つまり、米国との関係を命がけで動かそうとするのか、あるいはまったくもって従来の日米基軸論から一歩も出ることなく、所与の前提を前提として身の丈を合わせていこうとするのか、争点はここにあるというべきです。
それゆえに、メディアも識者もひっくるめた大合唱が起きて、米国に少しでも「刃向う」うごきは徹底して排除していくという流れができつつあるのだと感じます。
今回の代表選挙の裏側には「米国」という重大なテーマが、そしてそれと表裏一体をなす中国、朝鮮半島との関係をどう構想しどう動かしていくのかという問題が存在していることを忘れてはならないと思います。
それゆえ、琴線に触れる恐れのある者に対しては激しいまでのバッシングの類が起きているのだと言うべきでしょう。
さてもうひとつ、では「クリーンな政治」についてはどうなのだろうかということになります。
これまた「クリーン」というのは「政治とカネ」の問題だということで没論理的ともいうべき論調が花盛りです。
「政治とカネ」の問題を抱えるダーティーな政治家というレッテルを貼って攻撃と排除の矛先を向けることになるというわけです。
ここでも論理の没論理化が生じるのでした。
もちろんカネをごまかしたり、裏の世界でしか語れないカネを以て何かをしようというのはあってはならないことです。しかしでは、言うことと実際にすることが違っている、もっと端的に言えば、人を謀(たばかる)ばかりの政治を行って恥じることのない政治家はクリーンというのでしょうか。
たとえば、流行語、あるいはブームとなった感のある「仕分け」、さてその内実はいかなるものであったのか、メディアでもてはやされたのとは裏腹に、従来の官僚支配の枠組みから一歩も踏み出すことなく、本来切り込むべきところは残し従来の構造を温存するとともに、白日の下に曝すべき情報公開にも踏み切れないという、虚構性に彩られた政治をクリーンな政治というのでしょうか。
政治家も識者もメディアも、真摯に、本当のことを語らなければならないと言うべきです。
さて、メディアによれば、「クリーン」な政治家を大いに支持する市民、有権者に背を押された政治家が選ぶことになるという次の首相は誰になるのでしょうか。
その政治家が官僚機構に切り込むことができない程度ならまだしも?戦後65年を経てなおかつ従来の日米同盟を基軸とする枠組みからこれまた一歩も出ることなく唯々諾々と米国の足下で政治にいそしむことを是とするのならば、その不幸がもたらす未来に誰が責任を持つのでしょうか。
率直に言って暗澹たる思いに駆られます。
今回の民主党代表選挙の本質は米国との関係そしてアジア、とりわけ中国、朝鮮半島を中心とする北東アジアの未来の姿を我々自身の手で描くことができるのかどうかをめぐって争われているのだという、もう一つの認識が求められているのだと痛切に感じます。
あと十二時間後にはそのことへの「答え」が出るのだと思うと、まさに浮ついた選挙の「お祭り気分」ではなく、重く、厳粛な目で見据える必要があると痛切に思います。
福沢諭吉の「脱亜論」から125年、「脱亜入欧」の「欧」を米国に置き換えて65年。
アジアのなかの日本として、アジアで生きる日本として、とりわけ中国、朝鮮半島の人々と真の信頼関係を築き、この地域の平和と発展のために、いまどのような選択をしていくのか、それこそが問われる民主党代表選挙だということも忘れてはならないと考えます。