2010年06月27日

砲声を聞くことなく

 1950年6月25日早朝、朝鮮半島で戦火が勃発してから60年を迎えました。
 日曜日の明け方のことでした。
 幸いなことに60年目の25日は、朝鮮半島に、少なくとも、砲声を聞くことなく朝を迎えることができました。
 しかし、では平和な朝を迎えたのかといえば、ほど遠いと言わざるをえません。

 そして、1953年7月27日、板門店で「休戦協定」が結ばれて以来、一時的な「休戦」状況がもう57年にもなります。
 「休戦」とカギかっこが必要なのは、議論の余地のないことでしょう。
砲弾が飛び交うことだけが戦争で、砲声が聞こえなければ平和だということにはならないことは誰もが知ることです。

 欧州における「冷戦崩壊」がいわれながら、この北東アジアの地では、まだ冷戦が続いています。
 
 まずこのことを私たちは思い起こさなければならないと思います。

 なにかというと「冷戦後の世界」と語り始めるわけですが、私たちは依然として冷戦の歴史を生きていて、この状況を根本的に転換するという歴史的な課題をあるいは使命を果たしていないということをしっかりと胸に刻まなければならないと思います。

 また、われわれの記憶を歴史に繋ぐというジャーナリズムの使命を考えるならば、朝鮮戦争をどう語り、この地に残る冷戦状況をどう変えていくのかをどのような言説でもって示すのか、深く問われるところだと考えます。

 戦後生まれの私にとって朝鮮戦争とは「歴史」であり、自らの肌をとおした痛みとして語ることはできません。
 
 しかし、年齢からいうと朝鮮戦争の休戦からは少し後なのかと思うのですが、子供のころ住んでいた家の近くに当時は進駐軍と言っていた米軍の病院施設があって、両脇に担架をセットしたヘリコプターが昼夜を分かたず発着を繰り返していたことがはっきりと記憶に残っています。
 大人たちの会話からは「イタツケ」とか、どことかから運ばれてくるけが人や病人だとかいうことが漏れ聞こえてきた記憶があります。

 幼少の子供にとって飛行機やヘリコプターというのはなんともいえないあこがれの「乗り物」のはずなのですが、夢を感じられない異様な「暗黒の風景」とでもいうのでしょうか、不思議なことに、明るい陽光の下での発着という印象が一切ないのです。
 ひんぱんに発着を繰り返すヘリコプターが少し傾きながら旋回して病院施設の白い塀の向こうに姿を消す間際に両脇の担架に縛り付けられている濃いカーキ色の毛布のようなもののふくらみが見えたことも、くっきりと、像として記憶に残っています。
 これまた不思議なのですが、そのことを思い出そうとすると、なにか鬱々とした記憶の塊に気持ちが暗くなるのでした。

 そんな記憶を胸に、各紙朝刊に目を通しました。

 25日の社説で朝鮮戦争を取り上げているのは「毎日」と「産経」、「読売」は前日24日の社説で取り上げました。ほかの3紙は、国際面に北朝鮮関連の記事が掲載されたりはしていますが「社説」には見当たりません。

 このテーマを取り上げないからといって責められる謂れはないのかもしれませんが、論調はともかくとして、少なくとも朝鮮戦争から60年ということは重いテーマとしてジャーナリストに意識されているものだと思い込んでいたものですから、私にとっては意外でした。

朝鮮戦争60年 「北」の根本的転換が必要(毎日)
朝鮮戦争60年 北は今も「好戦国家」だ 脅威に対し日韓提携が重要(産経)
朝鮮戦争60年 変わらない北朝鮮の脅威(読売)

 これが各紙社説の見出しです。これだけでおおむねの論調が見えてきますので、付け加えるべきことはそれほどありません。
 もっとも、この内容で「良し」としているということではなく、言い立てはじめるととことん語り尽くさなければならないので、控えるという意味です。
 ただ、三紙に共通する以下のような書き出しに、私はふと立ち止まってしまうのでした。

 「60年前の6月25日、ひそかにソ連の支援を受けた北朝鮮軍が韓国になだれ込み、朝鮮戦争が始まった。米国が国連軍を率いて韓国を助け、中国は北朝鮮に加勢した激戦である。」
 
 「北朝鮮がソ連(当時)や中国の支持、支援を得て韓国を奇襲攻撃した朝鮮戦争(1950〜53年)が始まって、25日で60年になる。」

 「北朝鮮軍が北緯38度線を越えて突如、韓国に全面侵攻した1950年6月25日の朝鮮戦争勃発から、明日でちょうど60年を迎える。」

 朝鮮戦争が南北どちらから仕掛けてはじまったのかということについて言えば、いまは北側から、ということが「定説」になっていますからこういう書き出しになるとしても不思議はないのかもしれません。

 また、「朝鮮戦争『北朝鮮侵攻』と中国紙が異例の記述」という見出しで26日の「日経」が以下のような記事を掲載しました。

 中国国営の新華社系列の中国紙「国際先駆導報」は25日付で、朝鮮戦争開戦60周年に関する特集記事を掲載し「北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻、3日後にソウルが陥落した」と紹介した。
 義勇軍を派遣した中国は公式には開戦の発端が「北朝鮮の南進」だったとは認めておらず、異例の記述になった。
 記事は「北朝鮮の侵攻による開戦説が中国でも定説になっていることを示した」(中国メディア関係者)との見方が出ている。
 中国外務省の秦剛副報道局長は24日の記者会見で、開戦の経緯に関する質問に直接の言及を避けていた。

 依然として日本のメディアにとって「どちらが先に仕掛けたのか」ということが最大の「関心事」であることがうかがえます。

 しかし私は、昨年、身近にお話をうかがう機会を得た鄭 敬謨さんから何気なく投げかけられた「戦争はどちらかが鉄砲を撃つということではじまるのでしょうか、それが戦争の起源ということなのでしょうか・・・・。」という「問い」にハッとさせられたことを思い出します。

 それ以来、この言葉が胸の奥深くでこだまのように響き続けているのでした。

 鄭 敬謨さんについてはあらためて言うまでもありませんが、1924年ソウル生まれで、日本の慶応大学医学部予科をへて米国へ留学、エモリ大学文理科大を卒業後朝鮮戦争勃発と同時に当時の駐米大使張勉氏の勧めで米国防総省職員となり、板門店における休戦会談にも参加、「朝鮮戦争におけるアメリカの侵略性を内側からつぶさに体験」されたという経歴をお持ちで、1970年、当時の朴正煕政権から逃れるように日本へ、以来、文筆活動を以て韓国民主化運動の一翼を担ってこられました。

 昨年亡くなった金大中元大統領が東京から拉致された際、命がけの救出活動に奔走され、米国のキッシンジャーを動かして間一髪のところで金大中氏の救命を果たしたことは、知る人ぞ知る事実です。

 また1989年には韓国の文益煥牧師と平壌を訪問し当時の金日成主席と会談したことでも知られています。

 韓国の民主化のために精魂を傾けながら、「世界」をはじめ各紙・誌で舌鋒鋭く論陣を張るとともに「シアレヒム」(一粒の力)という学塾を主宰し多くの若い世代の育成にも力を尽くしてこられました。

 その鄭 敬謨さんからの一見何気ない問いかけに、私は、物事を根源的に考えるとはどういうことかということをあらためて考えさせられました。

 「ブルース・カミングスが『朝鮮戦争の起源』を、なぜ、1950年6月25日からではなく、それにさかのぼる1945年から書き起こしているのを考えなければなりません。なぜ戦争が起きたのかは、(戦闘の開始の)銃声がどちらからだったのかということだけで考えていると本質が見えてこないのではないでしょうか。」とおっしゃる鄭 敬謨さんの問いかけに、あらためて歴史を見つめる目、そこでの問題意識の深さを問われている気がしたものです。

 その鄭 敬謨さんには、4月に開いた「北東アジア動態研究会」でお話していただくとともに、先日もまた身近にお話をうかがう機会を得ました。

 そのなかで、私たちが知らないか、あるいは、もし知りうる人がいたとしてその重要性についてあえて無視しようとしたか、見落としている、ある「問題」について、あらためて、認識を迫られることになりました。

 それは、米国のトルーマン政権の外交顧問、J・F・ダレスのメモランダム(覚書)と国務省政策企画部長のジョージ・ケナンの「対朝鮮構想」です。

 ジョージ・ケナンといえば「対ソ封じ込め」政策の立案者として広く知られていますので、それがどうしたのかというところかもしれませんが、鄭 敬謨さんの話から、実は、彼は、朝鮮半島は日本の再支配に任せるべきだという、驚くべき「構想」の立案者であったことを知ることになったのでした。

 「このことはほとんど知られていないでしょうね。第一、この構想自体が隠蔽されたままで、もしもこのことを知っていると言い切れる人がいるとすれば、それは寧ろ例外中の例外だといえるでしょう。しかし、過去に、メディアの方たちにもあるいは研究者のみなさんにも、再三このことをお話ししてきたが、きちんと取り上げて考えてみようという動きは皆無に近い。どうしてなのでしょう・・・。」

 鄭 敬謨さんはこう語りながら、ブルース・カミングスの『朝鮮戦争の起源』第二巻(日本未邦訳)から以下を引用して、どうですかと問いかけるのでした。

 「日本人の影響力並びに彼らの活動が再び朝鮮と満州に及んで行くような事態をアメリカが現実的な立場から反対しえなくなる日は、われわれが考えるよりは早くやってくるだろう。それはこの地域に対するソビエトの浸透を食い止める手段としては、これ以上のものはないからである。力の均衡をうまく利用するというこのような構想は何もアメリカの外交政策にとってこと新しいものではない。現今の国際情勢に鑑み、アメリカが上記のような政策の妥当性を認め、もう一度そのような政策に戻ることは、それが早ければ早いほど望ましいというのは、われわれ企画部スタッフの一致した見解である。」

 その原文を鄭 敬謨さんが主宰される「シアレヒムの会」の刊行物『粒』(RYU)から引用させていただくと以下のとおりです。(『粒』41号38P:2003年1月発行から)




 そして前後しますが、ダレスのメモランダムです。

 「アメリカは日本人が中国人や朝鮮人に抱いている民族的優越感を充分利用する必要がある。共産陣営を圧倒している西側の一員として自分たちが同等の地位を獲得しうるという自信感を日本人に与えなくてはならない」

 ダレスによってこのメモランダムが書かれたのは1950年6月6日。

 「朝鮮戦争が勃発するわずか二十日ばかり前の時点であったことに注意を払うべきです・・・」
鄭 敬謨さんが語りかけることの重みを、いま私たちはどう受けとめるのか、深く問われるところだと痛感します。

 また、上に引いた『粒』の発行が2003年であることからもわかるように、このことを再三語ってきたが、日本のメディアでも識者の間でも、真剣に受けとめて考えてみようという動きが皆無に等しい・・・という鄭さんの指摘は極めて重いというべきです。

 なお、最近の刊行物でいえば藤原書店発行の季刊誌『環』の41号〜特集「日米安保」を問う〜に、このことにかかわる鄭 敬謨さんの論稿も掲載されていますのでぜひお読みください。

 朝鮮戦争の特需によって日本は戦後復興を遂げることができたという程度の認識は広く語られるのですが、米国の世界・アジア戦略のなかで、ほかでもなく日本が朝鮮戦争の第一の「当事者」としてあったということへの認識は皆無といっていいでしょう。

 それどころか、新聞の社説がすべてだとは思いませんが、紙面に表れる言説、論考を読むと鄭 敬謨さんの危惧は、日本の言論の現状に対してまだ好意的に過ぎると言うべきだと、残念ながらですが、言わざるをえない、憂慮すべき状況だと感じます。

 たとえば、
 「朝鮮戦争は北朝鮮の創業者とされる金日成(1994年死亡)が、韓国併合を狙って引き起こした武力統一戦争だった。背後には当時のソ連や中国など国際共産主義勢力が控え、朝鮮半島全体の共産化はもちろん『その次は日本』を目標にしていた。
 そのため朝鮮戦争は日本にとっても重大な脅威だった。米国が国連軍として直ちに韓国防衛に馳せ参じたのも日本の安全保障を重視したからだ。
 朝鮮戦争を機に自衛隊の母体となった警察予備隊が創設された。日米安保条約が調印され、破壊活動防止法も公布された。いずれも日米の危機感からだった。在日米軍は今も国連軍を兼ねている。
 同時に、日本は韓国防衛の後方基地として決定的な役割を果たした。戦時物資の供給をはじめ、後方に日本があったからこそ、米国や韓国など自由陣営は共産勢力の韓国侵略を押し戻すことができたのだ。『朝鮮戦争のおかげで戦後日本の経済は復興した』とよくいわれるが、韓国も『日本のおかげで助かった』のである。この歴史的事実はしっかり記憶されなければならない。」
 
 あるいは、
 「この60年の間、朝鮮戦争に色濃く反映された東西イデオロギーの対立は冷戦終了とともに消滅し、世界は大きく変わった。」
 ゆえに、
 「好戦性、侵略性」をもった独裁国家北朝鮮を変えなければならない、あるいは、北朝鮮の「根本的な転換だけが平和と安定への道だという真実を、北朝鮮指導部は受け入れるべきである。」
といった論調、主張になるわけです。

 こうした新聞紙面の「社説」で語られる言説の背後にある認識を、私たちはいまどう受けとめ、どう考えるのか、厳しく、深く問われているのだと思います。

 もちろんこうした社説の「論調」とは別に、北朝鮮は変わらなければならないでしょうし、国民の生活を豊かにし、幸せをもたらすためにしなければならないことは多くかつ重い課題としてあることは確かだと考えます。

 しかし、そのことを語る前に、では、朝鮮戦争とその後の歴史のなかで、私たち日本の存在はいかなるものであったのかということへの検証と考察がなければ、国際的に説得力を持つ言説にはならないであろうということは明白です。

 否、それどころか、朝鮮半島への植民地支配がどのようなものであり、それが「第二次世界大戦」の戦後世界を、とりわけ北東アジアをどう規定したのかという、「朝鮮戦争の起源」に至る歴史への自省と深い検証がなくては、何かを語る資格はないと言うべきです。

 その際、鄭 敬謨さんが示しておられる、知られざる「ケナン構想」の重みをしっかりと認識してかからなければならないと言うべきで、その意味で、私たちは事実と歴史に対して謙虚にかつ真摯に向き合わなければならないと考えます。

 社説の筆を執る世代も大きく変わり、歴史に対する認識の浅薄さや問題意識の希薄さ、あるいは無知ゆえのことなのか、はたまたそうした「世代交代」とは無関係に、これが日本の言論状況の水準を示すものなのか、私にはにわかに判断がつきません。

 しかし、こうした社説を読みながら鄭 敬謨さんの危惧を反芻するとき、言論、言説の危うさは容易ならざるところに来ていると考えざるをえません。
 
 このコラムは、実は、25日の朝書き始めたのですが、所用で取り紛れて書き上げることが出来ずに27日(日)の朝を迎えてしまいました。

 けさの朝刊各紙にはG8、主要国首脳会議が北朝鮮を非難する首脳宣言を発したことを伝える記事が掲載されました。

 さて、これで「現状」の解決に向けて何かが動くのでしょうか。

 あるいは「北朝鮮非難のメッセージを=菅首相が提起―哨戒艦沈没事件」という見出しを前に、日本の立ち位置は本当にこんなことでいいのか、深い憂慮を抱かざるをえません。

 いまだ終わらない朝鮮戦争から60年。
 少なくとも、朝鮮半島に砲声が響かない朝を迎えて、しかし見えざる「砲声」が重低音のように響いています。

 アメリカの世界・アジア戦略のなかで、朝鮮戦争第一の「当事者」としての日本。
 さて、知られざる「ケナン構想」をどう受けとめるのか。
 いままた、私たちが問われています。



posted by 木村知義 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録