2009年12月31日

「釜が崎」の人びとへの手紙

 今年も暮れようとしています。
 これを書きはじめた今、2009年も、もう3時間を切りました。
 テレビからは「紅白歌合戦」の華やかな舞台の様子が届いています。

 一年前の今頃、東京では、日比谷公園の「年越し派遣村」が大きなニュースになっていました。
 湯浅誠氏が内閣府参与についたことで、昨年のような「問題」にならずにすんでいるのでしょうか。
 少なくとも今年は、表面的には、去年のような大きなニュースにはなっていませんし、話題にもなっていないようですから、「静か」に過ぎているのかもしれません。

 しかし、湯浅氏が政府の「貧困・困窮者支援チーム」の事務局長に座ったからといって、問題が解消したとはとても思えませんから、この「静けさ」は、私にとっては、不思議です。

 もちろん、伝えられるところでは、全国の136の自治体が「官製派遣村」を開設して、職業や住まいなどの「生活相談」に乗るということですし、東京都は、28日午後から年明け4日まで、宿泊場所、食事の提供をするということですから、事態は、少しは改善されているのかもしれません。

 しかし、重ねてですが、問題が根本的に解決したわけではないことはいうまでもありません。

 25日に発表された完全失業者は331万人、完全失業率は5.2%で「4か月ぶりに悪化」と報じられました。

 このところ電車に乗るたびに「人身事故」で一時運転が止まったり、遅れが出ていたりということに遭遇することが多くなっていました。

 1日に何度もそういう事態に遭遇したり、あるいは、路線を乗り継ぐとそこでもまた、ということもしばしばでした。

 そのたびにこの「人身事故」という無機質なことばに胸が痛んだものです。

 率直にいえば、人が列車にむかって身を投げる、その光景が想像の中に浮かび、ことばがでなくなり、ただ気持ちが沈んでいく、そんな日が頻繁になってきていることに、やりきれない思いで気持ちが暗くなるのでした。

 去年のようにメディアで「話題」にならないだけなのか、問題が本当に改善されているのか、それすら分からなくなっているということは、決して昨年より事態が良くなったとはいえないのではないかと、私は考え込むのです。

 オーストラリアの思想家、テッサ・モーリス・スズキさんがかつてメディアにかかわる講演の中で、「無知の技術」という問題提起をしていたことを思い出します。

 この講演は、戦争とメディアの責任をめぐってのものでした。

 そこでテッサさんは、
 「私たちは『情報技術』という言葉をよく使います。しかし、こうしたメディアと戦争の関係を考えますと、私は最近、非常に洗練された『無知の技術』が発達しつつあるのではないかと感じます。『無知の技術』とは、戦争の場合、人々を理解させるために情報が提供されるのではなくて、人々が理解できないように情報が提供されることです。あるいは国民の関心を喚起するために情報が与えられるのではなくて、国民を無関心にさせるために情報が与えられていることです。」
 と述べています。

 内閣府参与になった湯浅氏の事はしばしば話題にされ氏のインタビューなどが伝えられたとしても、結果的に、それが事態を目に見えなくしてしまうことになったとするなら、なんのための政府の役職なのだろうかと思わざるをえません。

 これがテッサ女史のいう「無知の技術」の類でなければいいのだがと念じるばかりです。

 昨年のいまごろのことを思い出して、そんなことを考えるのも、この時期、仕事を失い、寝る場所さえ確保できない野宿者を、夜通しの「越冬パトロール」で支える活動をしている大阪・釜が崎の人たちから「通信」が送られてきたことも強く働いているのかもしれません。

 「派遣切り」が問題になるずっと以前から、「釜の人びと」(大阪、現地では「釜」:カマといえばそれだけで釜が崎と通じます)には日常のこととして、そうした苦しみが重くのしかかっていました。

 ただ、報道されなかっただけです。

 あまりにも「日常的」だったがゆえに、多くの人びとから、そしてメディアからも、見向きもされないという「境遇」に置かれていただけの事です。

 もちろん、私もまた、偉そうなことの言えたものではありません。

 それだけに、今年の『静けさ』が気になるのです。

 湯浅氏が内閣府参与として政府の側に入ったことで、問題が改善したといえることを切に願うばかりですが、もしそうでないとするなら事態は一層深刻だと思います。

 取材して伝えることを、欧米では、cover:カバーというのはよく知られていますが、今年のこの「静けさ」を、事態に蓋をして(coverして)見えなくなったのではないことを念ずるばかりです。

 年の終わりに、いささかでもメディアにかかわりを持つ身であること、社会を見つめ、世界と時代について考え、ささやかであっても言説を重ねるおのれをふり返って、自戒をこめて書いているのですが、その意味で、「通信」を送ってくれたことへのお礼の気持ちをこめて釜が崎の人たちに書き送った書状を、最後に転記しておきます。


 今年も残り少なくなって、慌ただしく過ぎて行きます。
 先日は「通信41号」をありがとうございました。
(本当は「ございました」なんて言わずに、ありがとう、と大阪弁で言いたいんやけど手紙なんでそうもいきませんから、ちょっとよそよそしい言い方になります。)
 世の中が休みになる年末年始は、釜のおっちゃんやおばちゃんにとって一層厳しい時期になることを思い出して、胸が痛みます。
 いまは、多分、若い人たちも大変だと思います。
 私のほうは仕事を辞して、素浪人風「たった一人の研究所」生活の一年が過ぎました。
 「いばらの道だぞ!」という忠告をして下さった方もいました。 その通りであるだろうと思っていました。
「貧乏ヒマなし」を地で行くように、本当にお金儲けとは無縁のことばかりですが、毎日追われていて、会社にいたときも、普通より相当一生懸命働いていたつもりだったので忙しかったのですが、それ以上に忙しくて、なんでこんなんやろか、と呟いています。
 しかし、少しずつですが、属した企業や経歴においてではなく、「素浪人」として自身を語ることばを獲得して、なにもない一人の人間として語ることができるようになってきたように思います。
 それはいわば「原点への旅」という趣でもあります。
 今年、私よりふた世代も若い、すぐれた知識人(友人と呼ぶことを許されるなら嬉しいのですが米谷匡史さんという人です)が編んだ谷川雁の書を手にして、その序章に置かれた「原点が存在する」を読みながら自身の歩んだ道を反芻しました。
 『日米新安保条約』と冠された書物を握りしめてアジアと日本について真剣に考えはじめた中学生のころ。
その時亡くなった樺美智子さんのご母堂から、美智子さんが「出かけた日」そのままにしておかれてある部屋に案内された学生時代。
 ジャーナリズムのあり方を深く考えさせられ、生き方を厳しく問われた父という存在・・・。
 すべて、おのれの原点とはなんであるのかを問い返す営みだったと感じます。
 今年秋、1970年以来「亡命」状態で日本に住み、アジアをそして世界と時代を見据え、舌鋒鋭く語り続けてこられた鄭敬謨氏と長時間にわたりお話する機会を得ましたが、その際、シアレヒム、「一粒の力」ということばと出会いました。
 また、以前、仕事をしていた時期に折々励ましのことばをかけてくださった故岡部伊都子さんを偲ぶ会で、生前岡部さんが親交を結んだ韓国の詩人高銀氏のメッセージを紹介する役目を負ったのでしたが、その高銀氏の記したことばに「われら未完の歴史を完成の歴史に変えようとしながら、その未完の歴史の中を生きる苦難の光栄がいかに得難い貴重なものであるのか」というくだりがあります。
 東アジアが依然として冷戦と分断の時代をのりこえることができずにいる現在、アジアとメディアのありようを見据えることをわが原点とし「未完の歴史を完成の歴史に変える」ために、「一粒の力」ということばを胸に、ささやかな営みではあっても努力を重ねたいと念じています。
 「通信41号」を読みながら、世の中と人間にしっかり向き合っていかなければならないと、あらためて思い定めたのでした。
 私にできることはあまりないのですが、釜のみなさんにとって、新しい年が少しでも希望の見える年になるように祈るばかりです。
みなさんも身体に気をつけてがんばってください。
                   2009.12.28記
 

 ささやかなこのブログコラムも、新しい年を迎えると、3年目に入ります。

 こころして、書き継いでいきたいと思います。
 みなさんにとって、そして世界にとって、ぜひ良き年であるよう深く念じて、今年最後のコラムの筆を置きます。

 

 
 
 
posted by 木村知義 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年12月26日

知られざる北朝鮮代表・・・

 「代表チームはブラジルに行って合宿してますよ・・・」
 「エッ?!ブラジルで合宿ですか!」
 「こりゃ本気だ!北朝鮮はワールドっカップで旋風を起こすことを狙ってますね・・・」
 「イヤイヤ・・・、強豪ぞろいのあのグループでは良くて一勝できればってとこですよ」
 「う〜ん、そんなこと言いながら、こりゃわからないぞ・・・・」
 
 今月上旬、朝鮮問題をテーマにしているジャーナリスト数人で日朝関係にかかわる「幹部」を囲んで懇談した際、偶然、話が北朝鮮のワールドカップ出場に及びました。
 
 そこで飛び出したのが冒頭の、北朝鮮代表チームがブラジルで合宿、という言葉でした。
  
 北朝鮮代表が10月にフランスに遠征して、コンゴ共和国やフランス2部リーグのナントと試合をしたこと、11月に平壌でブラジルのクラブチーム、アトレチコ・ソロカバと親善試合をして引き分けたことは伝えられていましたが、ブラジルで合宿ということは初耳でしたので、その場の全員が、エッ!と声をあげたわけです。

 「こりゃ北朝鮮は本気だ・・・」ということばに「イヤイヤ、一勝がいいとこ・・・」という「謙遜」で話はそこまでということになったのでしたが、スポーツ交流とはいえ、北朝鮮とブラジルの関係がそういう「親密」なものだということに驚いたものでした。

 ただし、その後も、この「合宿」については報道もなく、確認のしようもなく過ぎているのですが、ともかく、サッカーを通じてフランス、ブラジルと交流が行われていることはたしかだといえます。
 
 後でふれますが、フランスはEU諸国の中で、エストニアと並んで、北朝鮮とまだ国交がない数少ない国だということに、少しばかりの注意が必要です。

 さて、そして、今週火曜日(12月22日)北朝鮮に、あるいは朝鮮半島情勢にかかわる実に興味深い記事が、二つ、新聞に載りました。

 一つは「ベールの裏側 ユース強化 フリーライターが見た北朝鮮代表」(「朝日」朝刊)です。
 「今月9月末、平壌市民にも知られていない場所に私はいた。」という書き出しに、つい引き込まれて読みすすんだのでした。
 44年ぶりにワールドカップ出場を果たしたサッカーの北朝鮮代表について、平壌に足を運んで取材しレポートしたのはフリーライターのキム・ミョンウ氏でした。

 1993年にW杯米国大会予選で敗退したあと国際舞台化から姿を消した「その背景には、94年の金日成主席死去、相次ぐ自然災害や食糧難による国家の危機的な状況があった。 『でもサッカーは捨てなかった』とリ・ドンギュ氏が述懐する。60年に日本から北朝鮮に帰国。体育科学研究所に入り、代表チームに同行しながら試合の分析データを集め、北朝鮮サッカーを隅から隅まで見てきた人物だ。」

 記事に盛られている情報に目を瞠りながら読みすすみました。

 「少ない強化費をA代表でなく、ユース世代に回した」ことで、若手を育成し「世界と戦える基盤が整った」というのです。

 すでに知られているように1次リーグで北朝鮮は、ブラジル、ポルトガル、コートジボワールという戦うことになりました。

 「死のグループG」とさえいわれるレベルの高いチームが集まったこのグループで、サッカーの「玄人」からは「1次リーグ突破どころか勝ち点1を挙げることすら厳しい」といわれる北朝鮮ですが、キム・ミョンウ氏の取材に対して監督、選手、協会関係者らは、「66年のW杯イングランド大会のベスト8を超えたい」と口をそろえたというのです。

 このレポートは「失うものは何もない。あとは、サプライズの続きを起こすだけだ。」と結ばれています。

 こうした内容を興味深く読んだのはもちろんですが、記事のなかで、北朝鮮サッカー協会のキム・ジョンス書記長が「海外のサッカーを取り入れ、自分たちのカラーに合わせる必要がある。」と語っているくだりに、強く興味をひかれました。

 なぜかといえば、この記事が載った前週17日(木)、「日刊スポーツ」の一面、全面ぶち抜きのスクープ記事が記憶に残っていたからです。

 


 「日刊スポーツ」の大特ダネでしたが、翌18日の「朝日」朝刊では
「日本滞在中のトルシェ氏は(北朝鮮サッカー協会関係者との)接触を認めた上で代表監督就任については、『北朝鮮協会のある人物と私の間だけの話で、公式のオファーでも交渉でもない。北朝鮮に行く予定はあったが中止になった』と語った。」と伝えました。

 読んでわかるように、非常に含みのある記事で、前日の「日刊スポーツ」の大スクープ記事の背景にどういう意図が働いていたのか、微妙な要素が残るといわざるをえません。

 この時点では、結果的に、こうして表に出ることで「つぶれた」という印象はぬぐえません。
 どういう「力学」が働いたのか、ぜひサッカー担当記者の深層に迫る取材を期待したいところです。

 さて、もう一つの記事はといえば、「毎日」朝刊の国際面に載った「南北、実務接触3回」という記事です。

 リード部分を引くと、
 「朝鮮日報など韓国各紙は21日、南北首脳会談開催をめぐり南北当局者が今年、少なくとも3回秘密接触したと一斉に報じた。韓国統一省は接触の事実を否定したが、韓国国内では、北朝鮮指導部が体制維持に必要な支援獲得のため、今後も首脳会談開催を打診するとの見方が強まっている。」
 というものです。

 「毎日」は11月末に韓国の聯合ニュースを引く形で「韓国政府高官は29日、韓国記者団との懇談で、8月の金大中元大統領の死去に伴う北朝鮮弔問団の訪韓以降『南北間で何回もの接触があった』と語った。」と伝えていますので、それをアトづける記事だというべきでしょう。
  ただし、22日の記事は韓国の新聞報道を引く形をとっていますが、韓国で18日に発行された月刊誌『民族21』の2010年1月号に掲載された巻頭記事「深層取材2009年南北高位級秘密接触の顛末」
ですでに、「8月から11月まで中国、シンガポール、開城などで南北首脳会談のための高位級および実務級接触が4回以上行われた。」と伝えていたということですから、接触の回数の相違は置くとして、韓国の新聞の独自スクープといえるものかどうかは微妙です。

 李明博政権の登場で南北関係はそれ以前とは大きく様変わりして、緊張が増していましたが、背後ですすんでいる「変化」の兆しに気づいておかなければ、今後の事態の展開を見誤ることになるのではないかと感じます。

 もちろん、こうした「秘密接触」で現下の南北関係が簡単に打開できる状況にあると考えるのは早計ですが、しかし、風向きが変わりつつあることは実感できます。

 そして、ふたたびトルシェ監督問題です。

 私は、この「日刊スポーツ」の一面ぶち抜きスクープを目にして、サッカーそのものへの興味もさることながら、トルシェ氏がフランス生まれであることに目が行きました。

 はじめにも書いたように、フランスは北朝鮮と国交を持っていませんが、フランスのジャック・ラング大統領特使が先月9日から13日まで訪朝し、10日、北朝鮮の朴宜春外相が特使一行と会談して「両国の関係をはじめ相互の関心事となる一連の問題について」意見交換が行われたと伝えられ、さらに12日には、朝鮮最高人民会議常任委員会の金永南委員長がジャック・ラング大統領特使と会見したと伝えられていました。

 そして「日刊スポーツ」の大スクープが掲載された今月17日には、朝鮮中央通信が「フランス側は、大統領特使の朝鮮訪問の結果に従い、両国の関係を正常化するための最初の段階の措置として平壌にフランス協力・文化事務所を開設することにしたことを通報してきた。われわれは、フランスとの関係を一層深め、発展させる立場から平壌にフランス協力・文化事務所を開設することに同意した。」と伝えたのでした。
 もちろん単なる偶然のなせるわざということかもしれません。
 しかし、フランスが北朝鮮との国交正常化に向けて一歩踏み出したことは注目すべき動きだといえます。
 サッカー代表はブラジルで「合宿」?!
 南北関係にも水面下ではあれ、動く「兆し」が感じられ、
 そして、フランスが動く・・・。

 さて、いわゆる先進諸国のなかで北朝鮮と国交のない国は、米国フランス、日本ということになるのですが・・・。

 
サッカー北朝鮮代表チームの知られざる「うごき」に読みとるべきことは実に多い!という感慨を深くします。




 

posted by 木村知義 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年12月23日

「東アジア共同体」へのハードル 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜 (一応のまとめとして)

(承前) 
核攻撃を含む「先制攻撃」の選択肢を手放さない米国の「脅威」に身を固くして核とミサイルで軍事と体制の維持に全力をあげながら経済的苦境をどうのりこえるのかという命題に立ち向かい「強盛大国への門をひらく」というスローガンを掲げる北朝鮮、端的に言いきればこういう構図になるのでしょう。

 米国の「脅威」についていえば核による先制攻撃にとどまらず、通常兵器の範疇に分類されながら、破壊力では核兵器に勝るとも劣らないといわれるバンカーバスターなどの強力な兵器もあります。

 また北朝鮮に対する大規模戦域計画「作戦計画5027」だけではなく、北朝鮮の核施設に「外科手術的」攻撃をおこなう「作戦計画5026」、北朝鮮を挑発し、消耗させる「作戦計画5030」などに加え、最近、「北朝鮮の体制崩壊に備えた緊急計画『作戦計画5029』の内容で米韓両国が基本合意した」と伝えられるなど、朝鮮半島にかかわる「作戦計画」は6つもあるといわれます。

 メディアは「北の核とミサイルの脅威」については語りますが、北朝鮮側がどのような「脅威」の下にあるのか、その緊張と恐怖感について語ることは、まずありません。

 これは北朝鮮の現体制をよしとするかどうかとは別の次元で、冷静に見据えることができなくてはならないことでしょう。

 そうした視点で94年の「枠組み合意」に至る道筋とそれが崩壊に至った「経緯」について、いまこそ、真摯に見つめ直す必要があると考えます。

 前回示した「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」のスクープ記事とともに、手許には、ロバート・ガルーチ元米国北朝鮮核問題担当大使(元米国務次官補)が2002年5月28日、東京アメリカンセンターでメディア関係者や研究者を前に話した内容の「メモ」が残っています。

 そこでガルーチ氏は「枠組み合意」について、
「なぜ米国はこの『合意』を受け入れたのかといえば、北朝鮮のプルトニウム抽出計画をやめさせるためであった。ここでわれわれが得た『教訓』は、北朝鮮は外交交渉と同時に核兵器の開発も行うということと、一方で、たとえ違反が見つかっても『合意』を得ることもできるということだ。『枠組み合意』では双方の首都に『連絡事務所』を開設することがうたわれていたが、実現せず、また「合意」にもとづいて発足したKEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)による(核開発凍結の見返りである)軽水炉の建設も遅々としてすすまなかった。重要なことは、北朝鮮は、『枠組み合意』によってもたらされるであろうと考えていた外交的、政治的な恩恵、利益を得なかったことだ。」
と語りました。

続けて「いわゆる『ペリープロセス』(当時のペリー米国防長官がまとめた、日、米、韓の協調による北朝鮮との対話と核・ミサイル開発の抑止を柱とする対北朝鮮政策)の時期、韓国の金大中大統領が平壌を訪問して(2000年6月)金正日総書記と歴史的な南北首脳会談をおこなった。2002年10月には、趙明禄・国防委員会第一副委員長がワシントンを訪問、その後、オルブライト国務長官も平壌を訪問した。2000年末には非常に前向きな、肯定的な軌道に乗っていた。北朝鮮が求めていた『最高』のものは、自己の生存の保証をえること、すなわち、『アメリカの敵ではなくなる』ことだった。その後はブッシュ政権の登場となる。金大中大統領がワシントンを訪問してブッシュ大統領と会談し、彼がすすめる『太陽政策』に支持を得ようとしたが、(ブッシュ大統領からは)支持を得られなかった。ブッシュ政権には『枠組み合意』に敵対的な立場をとる人物が多くいて『枠組み合意』の価値に非常に懐疑的だ。2002年の年頭教書で(北朝鮮などを)『悪の枢軸』として名指ししたが、この一般教書演説のあと、核政策の見直しがおこなわれ、北朝鮮はわれわれの戦略核の標的リストに挙げられるようになった。核兵器を追い求める『ならずもの国家』に対処する手段として、米国が先制攻撃や予防的戦闘に訴える必要性を鮮明にしたのだ。」

「『枠組み合意』」に対するさまざまな批判はあるが、われわれがめざしたのは、一にかかって、北朝鮮の核開発を放棄させ、核兵器の保有を阻止するという『戦略目標』」に立ったからである。このことは、金正日体制を支持するものでもなければ、彼らに恩恵を与えようというものでもない。問題は、『核の放棄』を達成するために、軽水炉という『見返り』が必要だったということであり、この(戦略的な見地に立った)意味を理解しておくべきだ・・・」
と熱をこめて語りました。

 すでに米国政府の仕事を退いてジョージタウン大学外交大学院長という立場でしたが、ガルーチ氏の話は問題の核心をきわめて端的に衝くものだったと強く記憶に残っています。

 くどいようですが、いま94年の「枠組み合意」に至る道筋と、それがなぜ崩壊したのかについて真剣に「復習」しておく必要があると思う所以です。

 今週はじめ、仙台で「コリア文庫」を夫妻で主宰する青柳純一氏が上京されて少しばかりの意見交換の時間を持ったのですが、そこで青柳氏から、「世界」の2010年1月号に掲載された坂本義和氏の論文について深く共感するという話がありました。

 その論文で坂本氏は、
「『東アジア共同体』という理念や政策提言は、これまでも数多く述べられてきた。しかし、その大部分は、通例、日韓中を軸とした『東北アジア』の協力組織と、ASEAN(東南アジア諸国連合)に代表される『東南アジア』の地域組織化とを連結して構想するものが多い。ところで、その中で特にとくに日韓中を柱とする『東北アジア』の協調に力点をおく考えは、それ自体としては、きわめて建設的な構想であるが、意識的に、あるいは事実上、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の参入を後回しにすることによって、現実には、しばしば北朝鮮を包囲する体制を築く機能や目的をもつことになりがちである。」として、北朝鮮問題を中心にすえて、これをどのように解決することを通じて21世紀の東アジアを創るのか、という課題を考えてみたいと、論考を展開しています。

 その全体像は坂本氏の論考をお読みいただいくべきなのですが、ここに書いてきた問題意識にふれる部分を少し紹介しておきます。

 坂本氏は、北朝鮮であれ、どの国であれ、核兵器の開発保有には反対の声を挙げなければならないとし、そのうえで、今われわれが全力をあげるべきことは、北朝鮮との戦争の可能性を極小化しゼロにすることであり、北朝鮮が、戦争の可能性はないと信じるような政治状況を国際的につくることである。それが「東北アジア共同体」建設の第一歩であり、まず「不戦共同体」の形成なくして「東北アジア共同体」などありえない、と説いています。

「しかし現実には、この半世紀、北朝鮮は軍事的優位に立つ米国が、その同盟国である韓国と日本に軍事基地を設けて敵対する体制によって『封じ込め』られてきており、この非対称的な劣勢から少しでも脱却して、対北朝鮮攻撃の公算を減らす道として、核武装するに至った。その目的は、米国や日韓の脅威に対して、北朝鮮の『国家の安全保障』と『体制の安全保障』とを、より確実にすることにあると考えられる。」

「したがって北朝鮮の側での戦争への恐怖を和らげ、朝鮮半島での戦争の危険を最小限にまで減らすためには、非対称的な優位に立つ米国と日韓とが、先ず緊張緩和のイニシアティヴをとることが不可欠である。およそ非対称的な対立関係では、弱者は屈従するか、狡猾で不法な手段に訴えるか以外の選択肢はないのであって、関係改善のイニシアティヴは先ず強者がとるのが当然である。」

「現在米国は、『先ず北朝鮮が非核化を実行せよ。そうすれば、休戦協定の平和協定への格上げや経済支援などを積み重ねて、究極的には米朝関係正常化に進む』と公式に主張しているようだが、それは優先順位が逆であって、先ず米国が米朝正常化や平和協定締結を確実に行うことによって、北朝鮮の非核化を容易にし、相互の軍縮を進めるという道をとるべきである。また戦争を想定して年中行事のように行っている、米韓軍事演習は、早急に縮小していくべきである。」

 論旨明晰、まったくその通りだというべきです。
 
 坂本氏はまた、日韓両国は、米国がこのような政策をとるようにはたらきかけるだけでなく、北朝鮮との武力衝突の可能性を少しでも減らすために、共同して緊張緩和と平和共存の努力をすべきだと説いています。
 このことを真剣に行うかどうか、それが「東北アジア共同体」を創る意思があるかどうかを示す、試金石だともしています。

 もはや付け加えるべきことのない、明快な論理というべきで、夏の中朝国境地帯への旅から書き起こしてきた「東アジア共同体へのハードル」とは、第一に、まさしくここにあるというべきだと考えます。

 そして「もうひとつの問題」、北朝鮮はなぜ「崩壊」しないのかということへの「解」の半分は、こうした「包囲された脅威」の厳しい緊張下にある国家であるがゆえの「一体感」がそうさせているのだというところにあることを、私たちは知るべきなのだと思います。

 そして、「解」のもう半分は、貧困や飢えの苦しみだけで国家は崩壊するものではないということへの想像力を持つことができるかどうかにかかっていると思います。

 脅威に対する「一体感」が、飢餓や貧困の苦しみを上回る、統治の力を機能させるという逆説に気づかないと、北朝鮮の「崩壊論」に幻惑されるか、あるいは願望を現実に置き変えるという、度し難い迷路に入り込んでしまうことになります。

 手許に実に興味深い一冊の書物が残っているので、そこから少し引用してみます。

「さらにもっと問題なのは、昨今『崩壊』という言葉だけが一人歩きし『崩壊』が具体的に何を意味するのかという検証がない点である。
『北朝鮮崩壊』とは、金正日政権と北朝鮮の体制がなくなることなのか、食糧難で難民が周辺諸国に逃げ出すことなのか。あるいはクーデターが起きるのか、暴動が起きるのか。これらについての具体的な指摘や検証はほとんど見られない。私は、日本でよく見られるこうした抽象的な議論が嫌いだ。『崩壊』という言葉には一般の人をわかったような気にさせる一種の「魔力」がある。そうした言葉の魔力に私たちが振り回されているような気がしてならないのである。」

 さて、これは一体誰による文章でしょうか?というといかにも不遜な「出題」に響くかもしれませんね。

 これは、当時毎日新聞記者だった重村智計氏と韓国の経済学者、方燦栄氏が共著で出した「北朝鮮崩壊せず」(光文社)の序章「北朝鮮崩壊」の幻想、に記された重村氏の文章です。

 1996年に出版された書物だといわれると、重村氏にもこういう時もあったのかと感慨を深くするのですが、昔の「証文」を大事に取っておくのも悪くはないと、皮肉なことに感じ入るのでした。

 さて、いまさらながら、私たちの北朝鮮へのバイアスのかかった視線をどう真っ当なものにするのか、難しい命題に向き合っていることを痛感します。
 とともに、なんのことはない、ごくごく普通に常識を働かせて、誠実に物事を真正面から見据えてみれば、本質が見えてくるのだということにも気づきます。

 だからこそ難しいのかもしれないと、これは自戒も込めて思うのでした。






posted by 木村知義 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録

2009年12月21日

「力がなければ、民族も、国家も滅びる、悲惨なものだ・・・」をどう受けとめるのか 〜中国・東北、中朝国境への旅で考えたこと〜

 またもやこのコラムが長く中断しました。
 何人もの方々から、なぜ更新されないのかというお問い合わせをいただいて恐縮しました。書き継ぐ必要のあること、書くべきことはどんどん積もっていくのですが、手がつかず申し訳ありません。この間のことは追々報告していきます。
 
 さて、すでに知られていることですが、アメリカのボズワース特別代表が平壌を訪れ、その後韓国、中国、日本、ロシアを回って15日ワシントンに戻りました。
 当初は一日半とされていた平壌滞在が8日から10日までの2泊3日に延ばされ、金正日総書記にあてたオバマ大統領の「親書」を渡したことが米朝双方によって確認されました。

 米国は昨年10月に6カ国協議米国首席代表だったヒル国務次官補を平壌に派遣しブッシュ大統領の親書を届けましたが、正式な特使資格ではありませんでしたから、米国の大統領特使の訪朝は、2002年10月に当時のケリー国務次官補が平壌を訪れ姜錫柱第1外務次官と会談して以来、7年ぶりのことでした。
 
 今回の協議の相手が姜錫柱第1外務次官、金桂寛外務次官だったことと「実務的で率直な論議を通じ、双方が相互理解を深め互いの見解差を狭め、少なくない共通点も見出した」「「平和協定締結と関係正常化、経済およびエネルギー支援、 朝鮮半島非核化など広範囲な問題を長時間にわたり真摯に、虚心坦懐に議論した」と朝鮮中央通信が伝えていることを合わせると、双方で突っ込んだ話し合いがおこなわれたことは間違いないといえます。
 
 その後、「米朝はボズワース米特別代表の訪朝を機に開かれた米朝対話と直前の協議で、6カ国協議再開時、非核化問題は2005年9月の6カ国協議共同声明の精神に立脚し解決し、平和体制問題は4カ国対話で扱うとの考えで一致したという。提案したのは北朝鮮で、米国がこれに同意した・・・・」という注目すべきニュースを韓国の聯合通信が伝えました。

 加えて18日には「北京の複数の北朝鮮情報筋」の情報として「米オバマ大統領が北朝鮮に対し、北朝鮮が6カ国協議に復帰し核廃棄プロセスに入れば、外交関係正常化などを話し合う連絡事務所を平壌に開設するとの意向を示した」と伝え、そのなかで「別の情報筋は、米国務省は在米僑胞出身の民間人を北朝鮮に派遣するなどすでに平壌代表部の設立準備に入っており、最近、設立協議が急進展していると話した」としています。

 これらのニュースの信ぴょう性を確認できる段階ではありませんから予断を許しませんが、どうやら水面下では米朝の話し合いが相当踏み込んだものになっていることは容易に推測できます。

 ボズワース特別代表の訪朝までかなり時間がかかりましたが、それだけ慎重に準備がすすめられたということでしょう。

 ボズワース氏が1994年の「枠組み合意」にもとづき北朝鮮での軽水炉建設事業を担ったKEDO「朝鮮半島エネルギー開発機構」の初代事務局長を務め北朝鮮側と交渉にあたった経験があることや駐韓国大使など、朝鮮半島問題に深くかかわってきた経験から、北朝鮮側と、いわば「静かに」話し合える人物だったことも今回の訪朝を肯定的なものにすることにつながったといえるでしょう。

 またこの間、米国のNPO「国家安保のための経営者集団」(BENS)のボイド会長ら米国の企業家代表団が、14日から4日間の日程で平壌を訪れ、北朝鮮の経済部門の幹部らと、「投資環境を築く上で提起される問題などを真剣に討議した」(朝鮮中央通信)と報じられたことや、これに先立つ10日から14日にかけては、ノーベル化学賞受賞者で米国科学振興協会(AAAS)のピーター・アグレ会長が団長をつとめる代表団が訪朝して、金策工業総合大学をはじめとする科学研究所や病院などを訪問し、医学、生物学、エネルギー開発、工学、産業技術などの分野で交流をおこなったことなどをあわせて考えると、米朝関係は実務レベルで交流が相当「活発」になってきていることがうかがえます。

  こうした段階、局面を前にすると、これまで振り返ってきたように、ジグザグな経緯をたどった米朝協議と94年の「枠組み合意」についての「復習」が、従来にも増して、なお一層欠かせないと考えるようになりました。

 そこで「結論を急ぐ」と書いた前回の続きです。

 1993年末から94年はじめにかけて「緊張」が高まっていく中で、北朝鮮は94年5月8日から原子炉の燃料棒の交換に踏み切り緊張は極点にまで達していました。これに対して、クリントン政権下の米国は北朝鮮に対する先制攻撃計画を立ててシミュレーションを行います。その後作戦計画「5027」というコードネームで知られるようになるものです。

 94年5月18日ワシントンでこの作戦について検討する会議が招集されます。参加者の「だれもが、この会議は単なる図上演習ではなく『戦争の進め方を決める本物の戦闘員による本物の会議』だと思っていた」(D・オーバ−ドーファー)というこのシミュレーションでは米国にとって「衝撃的」な結論となりました。

 作戦の最初の90日間で米軍兵士の死傷者5万2000人、韓国軍死傷者49万人、加えて南北市民も含め多数の死傷者が予想されることと610億ドルをこえる財政支出・・・。「このぞっとするような悲劇」の重大性を実感させられたクリントン大統領は外交担当の高官を招集して協議した結果、米朝協議の第3ラウンド開催のよびかけを発することになります。

 もうひとつ「復習」しておかなければならない点は、この間の金泳三大統領、韓国政府の態度です。

 「金大統領の反応ぶりを見て、私は、彼の第一の目的は、たとえ核問題の解決を妨げることになろうと、米国と北朝鮮の関係がこれ以上温かくなることを遅らせ、邪魔することにあると確信した。金大統領は、平壌が米国との対話にいらだち、不満をつのらせるように仕向けるため、可能な限りの術策を弄する意思を固めているようだった。」と振り返るのは、当時米国務省の担当官として米朝交渉に携わったケネス・キノネス氏です。

 彼は「率直に言って、1994年2月時点での北朝鮮側は米朝韓三当事者の全員が受け入れ可能な取り決めを策定するための意思を、韓国よりも強く固めているように見えた。もちろん平壌にとって、米国との関係正常化という、その潜在的な見返りは大きかった。同時に、米国にとっても、見返りは同じくらい大きかった。それは地球規模の核不拡散体制としての、核拡散防止条約の信頼性を維持し、北朝鮮に対する核保障措置を回復することだった。もちろんソウルも、必然的にこれらの恩恵を被り、平壌との対話の再開を得られるはずだった。不幸なことに、ソウルの政治指導部は自らの潜在的な利益を見失い、逆に、平壌に与える潜在的な恩恵のみに目を奪われていた。」とも書いています。(「北朝鮮 米国務省担当官の交渉秘録」中央公論新社刊)

 当時の「空気」を交渉の内側からこれほど克明に活写した記録は皆無です。

 この指摘は後に米国自身にふりかかるものになるわけで皮肉としかいいようがないのですが、米国は作戦「5027」の呪縛に落ちて行くことになります。

 そして逆に、金泳三大統領はこの作戦計画の犠牲の大きさを知るに及んで、「アメリカが一方的に朝鮮戦争を再開しても、一兵たりとも韓国軍を動かすつもりはない」と米国に伝えたといわれます。

 そして、6月2日、IAEAのブリクス事務局長は、北朝鮮が燃料棒の取り出しをすすめたことで、「原子炉燃料の秘密転用を確定しうる証拠は失われてしまった」として、国連の安保理に対して、北朝鮮に事実上の制裁を求める書簡を送ります。

 これに対して北朝鮮は6月5日「制裁は戦争を招く。戦争に情け容赦はない」と宣言します。

 米国の戦略は制裁を含む「威圧外交」に転換し、国防総省は「強襲攻撃に備えて部隊の増派計画を全速で推し進め」、国務省は「主要国の首都や国連の場において、国際制裁の内容や時期について新たな協議を開始した」とされます。

 こうして対立と緊張が極点に達し危機は深まるばかりでした。
 まさに核をめぐる米朝の「チキンレース」が戦争の危険性を現実のものにしつつあったといっても過言ではない、当時の状況でした。

 ここからはよく知られているように、6月15日、カーター元大統領が平壌を訪問し、翌16日の金日成主席との会談で戦争一歩手前で危機の回避がはかられることになるわけです。

 しかしここでもカーター元大統領は「北朝鮮は国際制裁に屈服するぐらいなら戦争を覚悟するだろうと思った」ということで、「絶望的な気分」になり午前三時に目が覚めた・・・といったD・オーバードーファーの記述が残っています。(「二つのコリア」共同通信社刊)

 同時にオーバードーファーは「カーターは、金日成との会談を『奇跡』と呼んだ。この会談によって、戦争寸前の対立が、あらたな米朝会談および南北交渉への期待へと転換されたからである。」とも書いています。当時の「空気」をよく言い表しているといえます。

 このあと、7月8日に金日成主席が死去という衝撃的ニュースが、34時間伏せられた後世界をかけめぐりましたが、同じ7月8日からジュネーブで米朝協議の第3ラウンドがはじまっていました。

 こうしてジュネーブでの協議、そしてベルリンでの「実務協議」などを経て、10月21日、「合意された枠組み」の調印にこぎつけることになりました。

 その前日、米国のクリントン大統領は「朝鮮民主主義人民共和国最高指導者 金正日閣下」と呼びかける書簡を送っています。

 「枠組み合意」の全容は様々な書物で読めますが、この書簡はなかなか目にすることができないので、少し長くなりますがケネス・キノネス氏の書からその全文を転記しておきます。

 私は、私の職権の全力を行使して、北朝鮮国内での軽水炉計画に関する融資と建設のための取り決めを促進すると共に、軽水炉計画の最初の原子炉が完成するまでの間、朝鮮民主主義人民共和国のために暫定的な代替エネルギー供給の資金を手当てし、履行することを、あなたに確認したいと思う。付け加えて北朝鮮には制御できない理由によって、この原子炉が成就しなかった場合には、米国議会の承認を条件に、必要な限りにおいて、そうした計画を米国から供与するため、私は職権の全力を行使する。同様に、北朝鮮には制御できない理由によって、暫定的な代替エネルギーが供給されない場合には、米国議会の承認を条件に、必要な限りにおいて、そうした暫定的な代替エネルギーを米国から供給するため、私は職権の全力を行使する。
 私は、アメリカ合衆国と朝鮮民主主義共和国の間で合意された枠組みに記された政策を、朝鮮民主主義人民共和国が履行し続ける限りにおいて、こうした行動の道に従う。
                                敬白
                         ビル・クリントン
平壌市
朝鮮民主主義人民共和国最高指導者
金正日閣下


また米朝「枠組み合意」は以下のような内容(概訳)でした。

1994年9月23日から10月21日、米国政府および朝鮮民主主義人民共和国政府代表はジュネーブにおいて会談し、朝鮮半島の核問題に関する全般的解決について交渉が行われた。
 双方は、1994年8月12日の米朝間合意声明で示された目標を達成し、核のない朝鮮半島のもとでの平和と安全の実現を目指した1993年6月11日米朝共同声明の諸原則を支持していくことが重要であることを再確認した。
双方は、北朝鮮の黒鉛減速炉および関連施設を軽水炉施設(LWR)に転換することに協力する。
1994年10月20日の米国大統領からの書簡に従い、米国は、目標年である2003年までに約2000メガワットの発電総量を持つ軽水炉計画を北朝鮮に提供する準備を行う。
米国は、北朝鮮に提供する軽水炉計画を資金的に支え、計画を供与する国際事業体(an international consortium)を米国主導で組織する。米国は、国際事業体を代表して、軽水炉計画における北朝鮮との接触の中心を担う
米国は、国際事業体を代表して、本文書日付から6ヶ月以内に、軽水炉計画供与契約の締結に最善の努力を行う。契約締結のための協議は、本文書日付後、可能な限り早急に開始する。
必要な場合、米朝両国は、核エネルギーの平和的利用に関する協力のための二国間協定を締結する。
1994年10月20日の米国大統領からの書簡に従い、米国は、国際事業体を代表し、軽水炉一号機が完成するまで、北朝鮮黒鉛減速炉およびその関連施設凍結によって生産不能になるエネルギーを補填する準備を行う。
代替エネルギーとしては、暖房と発電用の重油が供給される。
重油の供給は、引渡しスケジュールについての合意に基づき、本文書日付の3ヶ月以内に開始され、年間50万トンの割合で行われる。
北朝鮮は、軽水炉の提供と暫定的な代替エネルギーに対する米国側の約束を受け入れる際、黒鉛減速炉とその関連施設の建設を凍結し、最終的にはこれらを解体する。
北朝鮮黒鉛減速炉と関連施設建設の凍結は本文書日付の1ヶ月以内に完全に実行される。この1ヶ月間ならびに凍結期間中、国際原子力機関(IAEA)は、この凍結を監視でき、北朝鮮は、この目的に対してIAEAに全面的に協力する。
北朝鮮の黒鉛減速炉および関連施設の解体は、軽水炉計画が完了した時点で完了する。
軽水炉建設中、米国と北朝鮮は、5メガワット実験炉から生じる使用済み燃料を安全に貯蔵し、北朝鮮での再処理を行わない安全な形で処理する方法を協力して模索する。
本文書日付後できるだけ速やかに、米国・北朝鮮の専門家たちによる二種類の協議を行う。
一つめの協議では、代替エネルギーおよび黒鉛減速炉から軽水炉への転換を話し合う。
もう一つの協議では、使用済み燃料の貯蔵と最終的な処理についての具体的な取り決めを協議する。
両国は、政治的、経済的関係の完全な正常化に向けて行動する。
 本文書日付3ヶ月以内に、両国は、通信サービスや金融取引の制限を含め、貿易、投資に対する障壁を軽減する。
専門家レベルの協議で、領事その他の技術的問題が解決された後、それぞれの首都に連絡事務所を開設する。
双方の関心事項において進展が見られた場合、米国・北朝鮮は、両国間関係を大使級の関係に進展させる。 
双方は、核のない朝鮮半島に基づいた平和と安全のために協同する。
米国による核兵器の脅威とその使用がないよう米国は北朝鮮に公式の保証を与える。
北朝鮮は、朝鮮半島非核化に関する南北共同宣言の履行に向けた取り組みを一貫して行う。
本合意枠組みは南北対話を促進する環境の醸成に寄与するものであり、北朝鮮は、南北対話に取り組む。
双方は、国際的核不拡散体制の強化に向けて協同する。
北朝鮮は、核拡散防止条約(NPT)加盟国としてとどまり、同条約の保障措置協定の履行を認める。
軽水炉計画供給に関する供与契約締結後、北朝鮮・IAEA間の保障措置協定のもとで、凍結の対象とならない施設に関して、特定査察および通常査察が再開される。供与契約締結までは、保障措置の継続性のためにIAEAが必要とする査察は、凍結の対象でない施設にも行われる。
軽水炉計画の大部分が完了し、かつ重要な原子炉機器が提供される前の時点で、北朝鮮は、IAEAとの保障措置協定(INFCIRC/403)を完全に遵守する。これは、国内核物質に関する北朝鮮側第一回報告書が正確かつ完全であるかを確認するための協議後、IAEAが必要と考えるすべての措置を行うことを含むものである。


 今じっくり読み返すと、月並みですが、歴史に「たら」や「れば」はないが・・・ということばが思い出されます。
 長い間の「懸案」の包括的な解決にあと一歩のところまで迫っていました。
 戦後、米朝がここまで至ったことははじめてのことでしたが、いうまでもなく、ここに書かれたことが実現することはなく「空手形」として葬り去られることになります。

 米国ではクリントンからブッシュへと政権が代わり、2001年の9・11同時多発テロから、事態は大きく変わります。

 2001年12月議会に提出された「核戦力態勢報告書」の中で核攻撃目標候補として、他の非核保有国とともに北朝鮮を挙げたのでした。
 明けて2002年の年頭教書でブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」のひとつとして挙げたことはまだ記憶に新しいところです。

 そして2002年9月の小泉首相の訪朝の余韻もさめやらぬ10月、米国のケリー国務次官補が平壌を訪問、北朝鮮が「秘密裏にウラン濃縮を行っている証拠」を突き付けて、北朝鮮側もこれ「を認めた」とする報道が世界をかけめぐりました。
 
 米国は北朝鮮が「枠組み合意」に「重大な違反」を犯したと非難するとともに、各国に北朝鮮に圧力を加えるように強く要請することになりました。

 「ウラン濃縮疑惑」を本当に認めたのかどうか、いまだにナゾとなって残されていますが、これをターニングポイントとして、「枠組み合意」を反故にすることにむけて、まさに坂道を転げるように、事態はすすむことになりました。

 こうして「枠組み合意」は歴史の「ごみ箱」に捨てられることになったのでした。

 そして米朝の緊張と対立の「もうひとつのピーク」は、米国によるイラク攻撃と軌を一にしてすすみ、緊迫の度合いを深めることになりました。

 米国は「二正面作戦」が可能であるとして、北朝鮮への先制攻撃の可能性を示唆するとともに、金融面などをはじめあらゆる分野で陰に陽に北朝鮮政権の「不安定化工作」を仕掛けて行くことになります。

 いま、おおむねの認めるところでは、米国は「枠組み合意」には調印するものの、時をおかず北朝鮮は「崩壊」するはずなので、時間稼ぎをしていれば、いずれその履行は不要になると踏んでいたとされます。
 またブッシュ政権に代わってからは、金正日政権を「実力」で倒すという、レジームチェンジを現実のこととして考えるところに踏み込んで行ったのでした。

 またぞろ作戦計画「5027」の「亡霊」が立ち現われることになったのでした。

 ここまで端折りながらも、なんと長々と書いてきたことだろうかと思います。

 しかし、これだけの経過のなかで、北朝鮮に「力があってこそ、ここまで生き抜くことができたのだ」と「学習」させたのは、他ならぬ米国だったことをしっかり認識しておかなくては事の本質は見えてきません。

 よくいわれることですが、イラク攻撃とフセイン政権の崩壊を目の当たりにして、フセイン政権は大量破壊兵器を持っていたから米国の攻撃を受けて崩壊したのではなく、それを持っていなかったがゆえに米国の攻撃を受けて崩壊したのだという、歴史の「皮肉」をもっとも切実に学んだのは北朝鮮の金正日政権であったということでしょう。

 同時に、「枠組み合意」に至る道筋とそれが「反故にされていく」経緯に、いまでも、否、いまだからこそ「学ぶ」べきことがあると考えるのは私一人でしょうか。

 今に至る「足取り」をじっくり吟味しながら考えることは無意味ではないという思いを、いま、強くします。

 そして、いまもまだ、折にふれて作戦計画「5027」をはじめいくつかの北朝鮮攻撃計画がメディアで報じられます

 私が実際にメディアでこうした「作戦計画」について眼にしたのは、いまは廃刊となっている、「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」の1998年12月3日号のスクープ記事でしたから、もう10年以上まえのことでした。


FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW 1998.Dec.3から

 しかし、「米韓連合軍司令部のパソコンが11月にハッカー攻撃を受け、朝鮮半島有事に備えた『作戦計画5027』の資料が流出した。」というニュースがベタ記事で新聞に掲載されたのを目にして思わず苦笑いしたのは昨日(12月20日)のことでした。

 われわれは、まだまだ直近の「歴史」に学ぶことができていないのだということを痛感するのでした。

 「
力がなければ、民族も、国家も滅びる、悲惨なものだ・・・」という、この夏の中朝国境への旅で出会った在日朝鮮人の痛切な「つぶやき」をどう受けとめるのか。

 この言葉の重さをかみしめて考えることがいかに重要かというのは、ここまで書いてきた、こうした「経緯」を思うからなのでした。
(つづく)



posted by 木村知義 at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時々日録