東日本大震災から5か月が過ぎました。
お盆にさしかかっていることもあるのでしょう、被災地では鎮魂と復興への願いをこめたさまざまな催しがおこなわれています。
また、政府や東京電力からの「発表」とは程遠く、依然として事故収束への見通しの立たない東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射能に汚染された地域では懸命の除染作業が重ねられていることが伝えられています。
7月末、宮城県の被災地域に足を運びましたが、まだまだ瓦礫の撤去作業がはかどらず、各所にうずたかく積み上げられた瓦礫の山ができていました。
そして、赤さびた鉄骨や粉々になった家々の残骸、コンクリート片、木片が散らばる瓦礫の間から生い茂った夏草が伸びていて、荒涼たる中に緑が織りなす奇妙な風景が広がっていました。
震災をどう思想とするのか、たとえていうなら、この5か月、何度か宮城の地に足を運び、そこで話を聞き、意見を交わしながら考えてきた命題は、このことにつきます。
復興どころか復旧も遅々として進まない現状に、被災地には失望と時にはあきらめにも似たやりきれないほどの絶望が広がっていました。
しかし一方では、政治や行政に任せておくわけにはいかないのだ、結局一人ひとりが立たなければならないと立ち上がる人たちの姿に、絶望のなかにこそ希望が見えるのかもしれないと感じることもありました。
もちろん、だからといってこの国の為政者たちの退廃と無能ぶりが許されていいはずはありません。
しかし、今度こそ本当に震災を思想化し、深いところから現実を変える力にしていかなければならないと考えたものです。
今度こそ、というのは、ささやかではあっても阪神淡路大震災の現場に立って震災報道とそして復興に向けて日本の社会を見つめ、考えるという営みに携った体験を持つからです。
あの時も、歴史的な大災害に遭遇して、日本は変わる、否、変わらなければならないということが語られました。
しかし、残念ながらそうはなりませんでした。
1980年代のバブル終焉の時期に遭遇しながら、しかしマネー資本主義の狂奔と新自由主義全盛の時代を経験するのは阪神淡路大震災以後の事でした。メディアにもてはやされるIT長者や投資ファンドの幻影に踊り、金もうけ至上主義の風潮が社会を覆う一方で、競争と効率万能のグローバル市場主義の背後で社会の格差が拡大の一途をたどるという「希望喪失」の時代をやりきれない思いで過ごすことになったのは、まさに時代と世界の転換が語られた阪神淡路大震災後の日本でした。さらに言うならば、震災を千載一遇のビジネスチャンスとして「復興」を語る風潮が存在したことも忘れるわけにはいきません。
震災によって廃墟と化したあの神戸・長田の被災地に立ちながら、私たちは日本の社会のあり方に根底的な反省をすることを怠ったというべきです。
地震や津波が起きることは、人の力で防ぐことはできないという意味で、人知の及ぶところではないとしても、震災を思想化することを怠った、あるいはそれに失敗した歴史がまさに今回の未曾有の災害被害を招き寄せたと言うべきではないでしょうか。
その意味では「失われた20年」が言われ、いわば日本経済の低迷から「没落過程」に足を踏み入れた時代に今回の震災に見舞われたことは、歴史の暗喩のごとく感じられてなりません。
なにもかもがことごとく破壊され尽くし廃墟と化した被災地に立つと、ある年代以上の人たちによって、先の大戦の戦災と二重写しにして語られることにしばしば遭遇します。
戦後生まれの私においてさえ、どこかで記憶に刷り込まれた大空襲後の首都東京の光景あるいは敗戦直後の広島や長崎を髣髴とさせるものがあることに気づきます。
震災と戦災が、通底するものとして語られることはしばしばですが、それに倣えば今回の震災で私たちが向き合っているのは「いま再びの敗戦」ともいうべき状況だという思いを強くします。
その意味でも、政治、経済・産業、社会の仕組み、そして世界観、価値観や生き方にまで及ぶ深い意味でこの「敗戦」をどうこえていくのかが問われるところに立っているのだろうと、この5か月の時間の中で痛感することです。
この間、親交のある何人かの研究者、ジャーナリストから、結局自身は何をしてきたのかそしてこれから何のために研究を重ねていくべきかを自問する、あるいはジャーナリストとしてこの時代と世界にどう向き合ってきたのか、これまで重ねてきた仕事は一体何であったのだろうかという深い内省のメールを受けとってきました。
そして、この思いは全くもって私自身の「私への問いかけ」でもあるのでした。
批判という営為ひとつをとってみてもそうです。批判の必要性と妥当性についてそれほど間違ってきてはいないという確信はあるものの、「批判されたものは、批判されることによって生きのびる」ということを知ることの重さにあらためて立ちすくむ思いがしたものです。
その意味では、原発問題ひとつをとってみても、敗戦後の状況に似て、それまでの自己を省みることなく、あたかも太古の昔から原発に疑問を持っていたかのような言説への「乗り替わり」をして恥じることのないエセ言論人やエセ文化人の跳梁跋扈というべきメディア状況に言葉を失います。
東京電力福島第一原発の「問題」が起きた直後、朝のテレビ番組で、射性物質の拡散、汚染を恐れる「素人」を鼻でせせら笑った環境設計の「専門家」風の人物が、ホトボリのさめた頃あいを見計らって画面に戻ってきてコメンテーター然として自然エネルギーについて語ったり、自分は経済、金融などをテーマにしている作家としてこの原発の炉心の真下まで入って取材したのでよく知っているのだなどと臆面もなく電力会社との癒着を誇らしげに語りながら能書きを垂れたりした「作家」がこれまたしばらくホトボリをさまして画面に復活して電力会社のガバナンスをあげつらうありさまを目にすると、まさしく私たちが経験してきた「敗戦」後の社会と二重写しになるのでした。
なるほど、批判されるものは、批判されることによって生きのびるのだという思いを強くしたものです。
「敗戦」の廃墟からどう立ち上がるのか。
深く、重い思想的課題として、今回の震災を思想化するたたかいに足を踏み入れなければならないと痛切に思います。
その場合、根底的動揺と転換の時を迎えている現代世界、とりわけ戦後世界のグローバル化とそれが引き起こした政治、経済、社会の変容にどう立ち向かうのかという命題と真摯に向き合わなければならないと考えます。
「現実をみるとは、現実をあたらしくすることである」とは、もう半世紀近く前に記憶に刻んだ哲学者の言葉です。
被災地にあって、あるいは避難の地にあって苦しむ人々と、追悼と鎮魂そして再起への覚悟を共有するために、震災の思想化をいかほどの深さでなしうるのか、いま、それが問われていると、痛切に思います。
2011年08月13日
2011年07月10日
柳あいさんからの「被災地からのレポート」 第3弾〜「脱原発解散」を市民主導で〜
またもやこのコラムの筆を執るのが間遠になっていますが、被災地からレポートを送ってくださる柳あいさんから第3弾「脱原発解散」を市民主導で、が届きました。
果てしなく液状化する政治にどう向き合うのか、まさに政党政治の崩壊というべき現実を前にして日本の社会が危うい状況にあることを痛感する日々です。
被災地でアジアと日本を考え続ける柳あいさんからの問題提起です。
ご一読ください。
「脱原発解散」を市民主導で
柳 あい
菅直人首相による「脱原発解散」が「真夏の夜の夢」とヤユされながらも、しだいに現実味を帯びはじめている。菅首相の心境を推測すれば、その契機は6月12日にイタリアで行われた国民投票の結果であり、前後して行われた日本での世論調査の結果、60%前後が「脱原発」を支持していると判明したことである。この国民投票の結果を、自民党の石原幹事長は「集団ヒステリー現象」と批判したが、それはむしろ危機感を反映したものといえよう。
その後の展開を見れば明らかなように、菅首相は政権延命のために「脱原発解散」をもくろんでいる。では、これに対して「脱原発」をめざす市民運動はどのような立場をとるべきだろうか、それが今、私たちに問われている。
私はこの際、菅首相を突き上げる意味でも、彼に同調して「脱原発解散」を少しでも市民主導で実現するように、強く要求したい。その理由として、以下の5点を挙げたいと思う。
その第1は、日本では制度的に国民投票がないため、総選挙という形で国家政策の是非、または選択を問わざるを得ない。自らの政権強化のために、この方式をうまく活用したのが2005年小泉首相による「郵政解散」であり、菅首相がこれを念頭においているのは、すでに周知の事実である。
第2に、そしてこれが最大の要点だが、長期間にわたった自民党政権の原発推進政策の過ちをこそ、問うべきである。一体「3・11大震災」後、すなわち福島原発事故の勃発以後、自民党が一度でも謝罪しただろうか。彼らはまるで「万年野党」でもあったかのように菅首相を批判しているが、彼らこそが原発推進政策の張本人だったことを明確にする必要がある。それには、総選挙という場でその責任を問う必要があるのではないか。そして、この点にこそ、市民参加の政治を実現させる第1歩として、「脱原発解散」を市民主導で実現させる意味がある。さらに、この点を基軸にすえれば、震災後の国会における「政治的駆け引き」の半ば程度は終息に向かわざるをえない。
つまり、第3点として、民主党内部の分裂現象が、菅首相の主導の下で整理されざるを得ない。その過程で、菅首相の「脱原発」政策がどの程度本気なのかが問われるだろう。
これに関連する第4点として、公明党や「みんなの党」はもちろん、共産党や社民党まで、各党の「脱原発」政策がどの程度本気なのかが問われ、それは選挙結果にかなりの影響を与えるだろう。現時点において、菅首相の「脱原発解散」の可能性を早くから指摘する「みんなの党」が「脱原発」を主張しはじめているのは、その兆候といえるだろう。
そして最後に、若い女性の政治参加、選挙参加が飛躍的に増大すると予測できる点に「脱原発解散」を行う最大の意義がある。おそらくそれは投票という結果的行為にとどまらず、選挙運動そのものを変えていく可能性がある。なぜなら、20〜30代の女性こそ、出産・子育てを通じて原発の被害に最も敏感にならざるを得ないし、事実として最近の「脱原発」運動の一角を担いつつある。そして、若い女性の意識が変わってこそ、その社会は根本的な変革を迎える。
とはいえ、この点も含め、果たして日本の国民がそこまで「脱原発」政策を重視するかと疑問に思う人もいるだろう。つまり、「脱原発解散」の思惑は外れ、万一自民党が勝利するとか、参議院とのねじれ状態は続くとか、という事態を懸念する声は根強いと思う。しかし、「脱原発解散」は1回では終わらないし、終わらせてはならない。今回の解散総選挙は単なる始まりに過ぎない。なぜなら、不幸にも原発による被害は、そして放射能に対する不安は、事実を知れば知るほど、強まらざるをえない。それに加えて、従来のエネルギー政策や社会のあり方、そして私たちの暮らし方を根底から問い直す方向へと問題は発展せざるをえない。
このように考えれば、今後数年間に最低3回程度の「脱原発解散」が必要になるだろう。また、そうしてこそ、日本の政治・社会、とりわけ国会のどうしようもない現状を変革していく芽が育っていく。だから、「脱原発」をめざす市民運動は、今回の「脱原発解散」の結果がどうなろうとも挫けてはならない。
「フクシマ」は、今日も日本社会と政治に問い続けている。
「放射性廃棄物のタレ流しをどうするのか、誰が責任を取るべきなのか」と。
果てしなく液状化する政治にどう向き合うのか、まさに政党政治の崩壊というべき現実を前にして日本の社会が危うい状況にあることを痛感する日々です。
被災地でアジアと日本を考え続ける柳あいさんからの問題提起です。
ご一読ください。
「脱原発解散」を市民主導で
柳 あい
菅直人首相による「脱原発解散」が「真夏の夜の夢」とヤユされながらも、しだいに現実味を帯びはじめている。菅首相の心境を推測すれば、その契機は6月12日にイタリアで行われた国民投票の結果であり、前後して行われた日本での世論調査の結果、60%前後が「脱原発」を支持していると判明したことである。この国民投票の結果を、自民党の石原幹事長は「集団ヒステリー現象」と批判したが、それはむしろ危機感を反映したものといえよう。
その後の展開を見れば明らかなように、菅首相は政権延命のために「脱原発解散」をもくろんでいる。では、これに対して「脱原発」をめざす市民運動はどのような立場をとるべきだろうか、それが今、私たちに問われている。
私はこの際、菅首相を突き上げる意味でも、彼に同調して「脱原発解散」を少しでも市民主導で実現するように、強く要求したい。その理由として、以下の5点を挙げたいと思う。
その第1は、日本では制度的に国民投票がないため、総選挙という形で国家政策の是非、または選択を問わざるを得ない。自らの政権強化のために、この方式をうまく活用したのが2005年小泉首相による「郵政解散」であり、菅首相がこれを念頭においているのは、すでに周知の事実である。
第2に、そしてこれが最大の要点だが、長期間にわたった自民党政権の原発推進政策の過ちをこそ、問うべきである。一体「3・11大震災」後、すなわち福島原発事故の勃発以後、自民党が一度でも謝罪しただろうか。彼らはまるで「万年野党」でもあったかのように菅首相を批判しているが、彼らこそが原発推進政策の張本人だったことを明確にする必要がある。それには、総選挙という場でその責任を問う必要があるのではないか。そして、この点にこそ、市民参加の政治を実現させる第1歩として、「脱原発解散」を市民主導で実現させる意味がある。さらに、この点を基軸にすえれば、震災後の国会における「政治的駆け引き」の半ば程度は終息に向かわざるをえない。
つまり、第3点として、民主党内部の分裂現象が、菅首相の主導の下で整理されざるを得ない。その過程で、菅首相の「脱原発」政策がどの程度本気なのかが問われるだろう。
これに関連する第4点として、公明党や「みんなの党」はもちろん、共産党や社民党まで、各党の「脱原発」政策がどの程度本気なのかが問われ、それは選挙結果にかなりの影響を与えるだろう。現時点において、菅首相の「脱原発解散」の可能性を早くから指摘する「みんなの党」が「脱原発」を主張しはじめているのは、その兆候といえるだろう。
そして最後に、若い女性の政治参加、選挙参加が飛躍的に増大すると予測できる点に「脱原発解散」を行う最大の意義がある。おそらくそれは投票という結果的行為にとどまらず、選挙運動そのものを変えていく可能性がある。なぜなら、20〜30代の女性こそ、出産・子育てを通じて原発の被害に最も敏感にならざるを得ないし、事実として最近の「脱原発」運動の一角を担いつつある。そして、若い女性の意識が変わってこそ、その社会は根本的な変革を迎える。
とはいえ、この点も含め、果たして日本の国民がそこまで「脱原発」政策を重視するかと疑問に思う人もいるだろう。つまり、「脱原発解散」の思惑は外れ、万一自民党が勝利するとか、参議院とのねじれ状態は続くとか、という事態を懸念する声は根強いと思う。しかし、「脱原発解散」は1回では終わらないし、終わらせてはならない。今回の解散総選挙は単なる始まりに過ぎない。なぜなら、不幸にも原発による被害は、そして放射能に対する不安は、事実を知れば知るほど、強まらざるをえない。それに加えて、従来のエネルギー政策や社会のあり方、そして私たちの暮らし方を根底から問い直す方向へと問題は発展せざるをえない。
このように考えれば、今後数年間に最低3回程度の「脱原発解散」が必要になるだろう。また、そうしてこそ、日本の政治・社会、とりわけ国会のどうしようもない現状を変革していく芽が育っていく。だから、「脱原発」をめざす市民運動は、今回の「脱原発解散」の結果がどうなろうとも挫けてはならない。
「フクシマ」は、今日も日本社会と政治に問い続けている。
「放射性廃棄物のタレ流しをどうするのか、誰が責任を取るべきなのか」と。
2011年05月30日
戦災と震災、鎮魂の意味を考える(1)〜 柳 あいさんからの便り〜
仙台在住で韓国、朝鮮半島そして北東アジアを見つめながら地域社会のあり方を考え続けている柳 あいさんからのレポートの続報が届きました。
今回の震災被災を見据える視角への問題提起をふくむレポートなっています。
どうぞお読み下さい。
戦災と震災、鎮魂の意味を考える(1) 柳 あい
今回の「3・11大震災」による犠牲者(行方不明者を含め)は、5月20日の時点で宮城県14,500人弱、岩手県7,500人弱、福島県2,000人強で、合わせて二万四千人を超えると推定されている。
この犠牲者数は20世紀以降の近代日本100年余において戦災と関東大震災(10数万人)に次いで3番目であり、戦後日本では最大規模である。それ以上に、この数字には表れない無念の思いは、10万人を超える避難民の方々を中心にして被災各地に渦巻いている。その時、これだけ高度に発達した社会なのに、なぜ津波が襲うことをいち早く伝達できずにこれほど多くの犠牲者を出したのか、また福島原発事故の原因を考えれば、これは単なる天災ではない、とみる視点が欠かせない。そうしてこそ、犠牲になった方々への「鎮魂の思い」を今後の新生仙台、あるいは新生日本の糧にしていけるのではないか。この問題意識から、すでに66年になる戦災犠牲者への鎮魂とともに、今回の震災犠牲者への鎮魂の意味を考えてみたいと思う。
ところで、「あの戦災」で何人の人が亡くなったのか。ふつう50万人以上といわれ、沖縄など「外地」の犠牲者を加えて80万人以上という(これに「戦死」した兵士230万人を加えた310万人余が、第二次世界大戦での日本人戦死者といわれる:総務省資料)。ここで戦災犠牲者とは、兵士以外の一般市民の戦争による犠牲者であるが、この数字には1945年末時点での広島での被爆犠牲者15万人強(当時の市人口35万人、後に死者25万人強)、長崎での被爆犠牲者12万人強(同24万人、後に死者18万人弱)、さらに東京大空襲での犠牲者9万人弱などが含まれている(いずれも概算で、諸説あり)。戦後の食糧不足など過酷な条件下で、ヒロシマ・ナガサキの被爆者や各地の傷病者の中からも犠牲者は増えつづけ、合わせれば100万人以上の一般市民が死んだといえる。
その犠牲によって生まれた戦後日本の社会は、彼らに対してあまりにも酷薄だった。
端的な例が、戦後賠償である。「戦死」した軍人遺族には、その後60年以上にわたって50兆円を超える額(現時点での貨幣換算)が恩給・年金などで支払われつづけているのに対し、市民の犠牲者への個人賠償は一切なされていない(同様に、「慰安婦」被害者を含むアジア民衆への個人賠償も無に等しい)。
賠償問題で、このように極端な「格差」が見られるように、万事にわたって「市民の犠牲」は「戦時下ではやむをえなかったこと」で済まされてきた。そして、これほど「市民の命」が軽視されてきた以上、「平和憲法下での民主主義」も真の意味での民主主義には程遠かった。
それでも、国内的には平和と安定が保たれ、曲がりなりにも「安全な社会」が維持されてきたのは、上述したような多くの犠牲者への「鎮魂の思い」が「戦争回避」の姿勢を貫かせたから、といえる。ただそれは、米ソ冷戦下での「世渡りの術」ともいえるもので、「朝鮮戦争特需」による戦後復興や韓国・台湾・フィリピンなど周辺国の軍事独裁政権と癒着した経済発展の賜物でもあった。
こうした日本の「経済的成功」を懐かしむ人がいるが、戦災犠牲者の立場から見て、それが本当に望ましい日本社会のあり方だったのだろうか。私の生まれ育った環境には直接の犠牲者はおらず、ただ東京大空襲の中を生きのびた人がいるだけだが、「鎮魂の思い」は半ば実現し、半ば実現しなかったのではないか。つまり、戦後の日本社会は「戦前の日本」を半ば程度は変革したが、半ば「旧体制(アンシャン・レジーム)」を存続させたといえる。
当時の日本社会が「旧体制」の何を受けつぎ、何を変えたのか、この点に関する国民的な議論が必要だった、と今さらながらに痛感する。そこを曖昧にして惰性的にひたすら「経済発展の道」を歩んできた結果が、今日の社会的な「閉塞状態」ではなかろうか。
「3・11大震災」によって映し出された日本社会の主流の現状は、まさにこの「閉塞状態」を体現している。一例が「原子力ムラ」と呼ばれる利害共同体に集ってきた人々で、「想定外」を連発して自らの責任回避をはかる姿は見苦しく、国民的な怒りを引き起こしている。とはいえ、国民がどこまで怒っているのか、「震災被害者」の怒りがどこまで表出しているのか、外見からはわからない。あるいは、それ自体が「社会閉塞の現状」なのかもしれない。
この現状を突破し、震災犠牲者を鎮魂する道はどこにあるのか。最も即自的な心情だけでいえば、ある被災者がもらしたように、「今度はお前の家も津波にあえばいい」ということになるのだろう。つまり、「天罰」発言をした某都知事と彼を四選した都民にこそ、「天罰」が下ることを望む人がいてもおかしくない。なぜなら、彼こそが「我欲」の塊であり、震災被害者よりも彼らの方が「我欲」が強いというべきだからだ。
とはいえ、それでは「同じ穴のムジナ」なので、もう少し別の道を模索せざるをえない。その際、まず日本国内を見れば、やはり「フクシマ」(原発事故)が起きた社会的背景を長期にわたって考えながら、この「社会閉塞の現状」を変えていくしかないだろう。良くも悪くも、現状が維持される限り、問題は長期にわたって存続し、「震災からの復興」も含めて日本社会を根本的に変えていかざるをえない。その過程で私たち自身の生活のあり方、生き方を変えていく道しかないだろう。
そして今、大なり小なり震災被害者となった私たちは、むしろ震災を機に「新しい政治・社会づくり」に向けて踏み出す必要がある。
幸いにも、韓国でも「東アジアの平和共存」に向けた新しい動きが始まっている。世界的に見ても「中東市民革命」という新しい風が吹いている。それらの行方を見守りながら、自分の生きる場で「旧態依然の政治・社会」と闘っていきたいと思う。 (2011年5月23日)
今回の震災被災を見据える視角への問題提起をふくむレポートなっています。
どうぞお読み下さい。
戦災と震災、鎮魂の意味を考える(1) 柳 あい
今回の「3・11大震災」による犠牲者(行方不明者を含め)は、5月20日の時点で宮城県14,500人弱、岩手県7,500人弱、福島県2,000人強で、合わせて二万四千人を超えると推定されている。
この犠牲者数は20世紀以降の近代日本100年余において戦災と関東大震災(10数万人)に次いで3番目であり、戦後日本では最大規模である。それ以上に、この数字には表れない無念の思いは、10万人を超える避難民の方々を中心にして被災各地に渦巻いている。その時、これだけ高度に発達した社会なのに、なぜ津波が襲うことをいち早く伝達できずにこれほど多くの犠牲者を出したのか、また福島原発事故の原因を考えれば、これは単なる天災ではない、とみる視点が欠かせない。そうしてこそ、犠牲になった方々への「鎮魂の思い」を今後の新生仙台、あるいは新生日本の糧にしていけるのではないか。この問題意識から、すでに66年になる戦災犠牲者への鎮魂とともに、今回の震災犠牲者への鎮魂の意味を考えてみたいと思う。
ところで、「あの戦災」で何人の人が亡くなったのか。ふつう50万人以上といわれ、沖縄など「外地」の犠牲者を加えて80万人以上という(これに「戦死」した兵士230万人を加えた310万人余が、第二次世界大戦での日本人戦死者といわれる:総務省資料)。ここで戦災犠牲者とは、兵士以外の一般市民の戦争による犠牲者であるが、この数字には1945年末時点での広島での被爆犠牲者15万人強(当時の市人口35万人、後に死者25万人強)、長崎での被爆犠牲者12万人強(同24万人、後に死者18万人弱)、さらに東京大空襲での犠牲者9万人弱などが含まれている(いずれも概算で、諸説あり)。戦後の食糧不足など過酷な条件下で、ヒロシマ・ナガサキの被爆者や各地の傷病者の中からも犠牲者は増えつづけ、合わせれば100万人以上の一般市民が死んだといえる。
その犠牲によって生まれた戦後日本の社会は、彼らに対してあまりにも酷薄だった。
端的な例が、戦後賠償である。「戦死」した軍人遺族には、その後60年以上にわたって50兆円を超える額(現時点での貨幣換算)が恩給・年金などで支払われつづけているのに対し、市民の犠牲者への個人賠償は一切なされていない(同様に、「慰安婦」被害者を含むアジア民衆への個人賠償も無に等しい)。
賠償問題で、このように極端な「格差」が見られるように、万事にわたって「市民の犠牲」は「戦時下ではやむをえなかったこと」で済まされてきた。そして、これほど「市民の命」が軽視されてきた以上、「平和憲法下での民主主義」も真の意味での民主主義には程遠かった。
それでも、国内的には平和と安定が保たれ、曲がりなりにも「安全な社会」が維持されてきたのは、上述したような多くの犠牲者への「鎮魂の思い」が「戦争回避」の姿勢を貫かせたから、といえる。ただそれは、米ソ冷戦下での「世渡りの術」ともいえるもので、「朝鮮戦争特需」による戦後復興や韓国・台湾・フィリピンなど周辺国の軍事独裁政権と癒着した経済発展の賜物でもあった。
こうした日本の「経済的成功」を懐かしむ人がいるが、戦災犠牲者の立場から見て、それが本当に望ましい日本社会のあり方だったのだろうか。私の生まれ育った環境には直接の犠牲者はおらず、ただ東京大空襲の中を生きのびた人がいるだけだが、「鎮魂の思い」は半ば実現し、半ば実現しなかったのではないか。つまり、戦後の日本社会は「戦前の日本」を半ば程度は変革したが、半ば「旧体制(アンシャン・レジーム)」を存続させたといえる。
当時の日本社会が「旧体制」の何を受けつぎ、何を変えたのか、この点に関する国民的な議論が必要だった、と今さらながらに痛感する。そこを曖昧にして惰性的にひたすら「経済発展の道」を歩んできた結果が、今日の社会的な「閉塞状態」ではなかろうか。
「3・11大震災」によって映し出された日本社会の主流の現状は、まさにこの「閉塞状態」を体現している。一例が「原子力ムラ」と呼ばれる利害共同体に集ってきた人々で、「想定外」を連発して自らの責任回避をはかる姿は見苦しく、国民的な怒りを引き起こしている。とはいえ、国民がどこまで怒っているのか、「震災被害者」の怒りがどこまで表出しているのか、外見からはわからない。あるいは、それ自体が「社会閉塞の現状」なのかもしれない。
この現状を突破し、震災犠牲者を鎮魂する道はどこにあるのか。最も即自的な心情だけでいえば、ある被災者がもらしたように、「今度はお前の家も津波にあえばいい」ということになるのだろう。つまり、「天罰」発言をした某都知事と彼を四選した都民にこそ、「天罰」が下ることを望む人がいてもおかしくない。なぜなら、彼こそが「我欲」の塊であり、震災被害者よりも彼らの方が「我欲」が強いというべきだからだ。
とはいえ、それでは「同じ穴のムジナ」なので、もう少し別の道を模索せざるをえない。その際、まず日本国内を見れば、やはり「フクシマ」(原発事故)が起きた社会的背景を長期にわたって考えながら、この「社会閉塞の現状」を変えていくしかないだろう。良くも悪くも、現状が維持される限り、問題は長期にわたって存続し、「震災からの復興」も含めて日本社会を根本的に変えていかざるをえない。その過程で私たち自身の生活のあり方、生き方を変えていく道しかないだろう。
そして今、大なり小なり震災被害者となった私たちは、むしろ震災を機に「新しい政治・社会づくり」に向けて踏み出す必要がある。
幸いにも、韓国でも「東アジアの平和共存」に向けた新しい動きが始まっている。世界的に見ても「中東市民革命」という新しい風が吹いている。それらの行方を見守りながら、自分の生きる場で「旧態依然の政治・社会」と闘っていきたいと思う。 (2011年5月23日)
2011年05月11日
被災地に立って考える「生活復興」
東日本大震災から2か月が過ぎました。
そろそろ「明るいニュース」をというのでしょうか、メディアからは「少しずつ前に進む被災地」であったり「希望」と「負けない!」といった「アカルイ物語」を探すことに懸命という様子が伝わってきます。
しかし、被災地では、仮設住宅の建設が一向にすすまないなど依然として問題が何も動かず、生活再建への道筋を見いだせずに失望と無力感を一層深くしている人が多くいることを忘れるわけにはいきません。
この連休中、仙台、宮城に出かける機会を得ました。
発災から2度目、2週間ぶりのの仙台でした。
仙台市の街中、繁華街の賑わいも2週間前と比べて格段に活発になっていて、商店や飲食店もほぼ従来通りの営業となっていました。しかし日用品や食品、生活必需品の店以外は、まだまだ客が戻っていないということで、人々が、精神的に以前の余裕を取り戻すところまでには至っていないという印象を受けました。
今回の仙台行では、仙台市内の被災地域の小学校教員の方が若林区荒浜一帯に案内してくださって現場の様子をつぶさに見るとともに、避難所から「半壊」の家に戻って暮らす家族のお宅も訪ね話を聞くこともできました。また、南三陸町では避難所の今の様子や問題について話を聞き、石巻の「消えてしまった市街」にも立って、現場に立って考えるということの大事さ、そこで生の話に耳を傾けることの大切さを、あらためて痛感して戻りました。


それにしてもと思うのですが、話を聞いた人々のほとんどが、自身の辛い体験や九死に一生を得たという恐怖の体験を話しているうちに、表現しがたい「笑み」を浮かべながら語っていることに気づき、あらためて今回の被災体験の深刻さに思い至りました。
当たり前のことですが笑みがこぼれるというのではありません。
表情は笑ってはいないのです。
まるで自身の境遇を「あざ笑う」しかないといった、暗い「笑み」を浮かべながらこもごもに体験を語るのでした。
あまりの不条理に語るべきことばを失う、そして涙も出ない、最早「あざ笑う」しかないといった心境であることがひしひしと伝わってくるだけに、話を聞いていていたたまれなくなるのでした。
私の乏しい表現力ではとても伝えきれない現場の重さがそこにはありました。
こうした被災地の現場に立ち、人々の話に耳を傾けてみて、あらためて、一人ひとりの生活の回復、再建への支えがなによりも急がれることを痛感しました。
まさに、現場の具体的な苦悩や問題に寄り添い、それぞれの切実な状況をすくい上げて、一つひとつの「いのち」を、一人ひとりの生活を支えていくということに目が向けられなければ、机の上であれこれの復興論議がなされたとしても、いかほどの力にもなりえない、そして「希望」など語る余地はどこにも生まれないということを私たちは知らなければならないと思います。
さらに言えば、メディアに頻繁に登場して力強く語る首長が必ずしも住民たちの信頼を得ているとは限らないということも、現場に立って人々の話に耳を傾けてみて、見えてきました。
さて、南三陸町で約束の方に会うため避難所になっている中学校を訪ねた時のことです。
坂道を登りつめて中学校の敷地内に足を踏み入れた時、建てられつつある仮設住宅が目に入ってきましたが、エッと目を瞠りました。これまで目にしてきたプレハブ造りの仮設住宅とはまったく様子が違っていたからです。


「仮設っつうとプレハブだって思ってたわけだけんど、コレ、木造でしょ。だったら私たちだって大工なんだから、自分たちだって建てられるつうことになるわけ、ねっ!なのにどうしてみんな外の業者ばっかりに仕事を発注するのってことですよ・・・。町内でみんなが仕事をしていくらかでも収入になれば自分で生活していけるってことになるんじゃないですか?!それが復興っていうことじゃないのかっつうことでしょ・・・」
大工の棟梁のこの方は今は避難所を出て倉庫で暮らしているというのですが、この木造の仮設住宅の建設作業を目にして「なぜ、どうして!」という思いを抑えきれずにいるのでした。
また町役場の職員も大勢亡くなって行政事務が被災住民の求めに追いつかないという状況が生活の回復を遠いものにしていることを目の当たりにして、生き残った人の中には町役場の職員OBだっているわけだからそういう人たちを雇って仕事をしてもらえば、町民の助けにもなるし、雇われた人たちも幾ばくかの収入を得て生活再建につなげていけるのに・・・と言うのでした。
「要は、いろいろ考えればすることはいっぱいあるんだ、だけど・・・。役場の人は大変だ、大変だっていうばかりで・・・」と、積る思いが先に立って言葉が続かなくなるといった状態でした。
「本当にそうですね」と相槌をうちたい気持ちはやまやまでしたが、そうした言葉ではとても受けとめきれず、ことばをのみこまざるをえませんでした。
現場には、あるいは一人ひとりの住民には至極まっとうなそして豊かな「発想」と「アイディア」があるのです。
それを受けとめて、汲み上げてすぐ行動に移すのかどうか、まさにここが問われているのだと思いました。
いいと思ったことはすぐ取り掛かる、そうした行動力が行政をはじめ復興を語るすべての人に求められているのだと痛感します。
また、仙台の若林区でのことです。
地震と津波によって住まいが大きく壊れながら身を寄せていた避難所から家に戻って三世代で暮らしている家族に出会ったのでしたが、ここでも「お役所の決まりごと」という「カベ」に苦しむ人々の姿がありました。
家の中を見せてもらって驚いたのですが、天井が落ちて柱は大きくずれて家が傾いているのですが、外形は残ったので「半壊」という認定だというのです。
ではその「外形」はと思ってあらためて外に出て見てみると「危険」という張り紙がされているのです。
「ここに危険って張り紙が・・・?」と言いかけると「それと全壊か半壊かの認定は別だっていうんですよ・・・」という答えが返ってきました。「でもねぇ、考えてみれば割り切れないですよね、じゃ避難所でずっと過ごした方がいいってことなんでしょうか、なんだかね・・・」という言葉とともにです。
家の中に置かれたバケツやポリ容器を見やりながら「雨の時は30分もすると雨水でいっぱいになって寝てられないんですよ。外の雨と同じくらい降り込んできてね。なんだかもう家族みんなで押して倒した方がいいのかなって冗談もしゃべってるんですよ・・・」と笑いながら話す主婦に、ここでも返す言葉がありませんでした。



外の倉庫にトラクターやコンバインなど3〜4台の立派な農機具が置かれていたので、どれくらいの田んぼですかと尋ねたところ「大したことないんだけど、4町歩ほど・・・。でも今年は作付はできないね。田んぼは塩水をかぶってしまったし、農機具も津波でみんなやられちゃったから・・・」というご主人の話に、これまた言葉をのみ込みました。
現在の日本の農家の規模からいえば「篤農家」というべきこの家族の生活再建はまず、たまさか「外形」だけが残ったために全壊家屋のような「支援金」も出ないという状況で、住む家をどうするのかということから解決しなければならないということになります。
法律や規則というもの、さらには「お役所仕事」ということについて、またもや考えさせられたものです。
またもやというのは、これこそ阪神淡路大震災の被災現場で目にし、耳にしてきたことだったからです。
阪神淡路の経験から長い議論の末に「生活再建支援金制度」などが制定されることにつながったということはあっても、この国の震災対策、災害対策は、あれほどの災害を体験しながら本質においては何も変わっていないことを目の当たりにすることになったというべきでした。
復興について考える際、当然のことですが、さしあたりなすべきことと長期的な時間軸で考えるべきことの二つの問題があることを忘れてはならないと思います。
被災地域の将来の産業、経済をどう再建、構想していくのかという長期的な問題と、さしあたり毎日の暮らしをどう支えていくのかという短期的な問題を、二つながら解決しながら、しかもそれをしっかりと結び付けて被災地の復興にむけて問題に立ち向かっていかなければならないと思います。
そして、その両方の課題について、実は、被災した人たちの実際に寄り添い、人々の話に耳を傾ければなすべきことは「簡単」に見えてくるのだと思います。
しかし、メディアなどで雄弁をふるう首長の姿とは裏腹に、被災地に一歩分け入るとなすべきことになんら手がつけられていない現実に突き当たります。
誤解を恐れずに言うならば、「明日の構想」はさておいて、「今日なすべきこと」をこそなすべきだと、これは被災した多くの人々との出会いから、どれほど強調しても強調しすぎではないと確信します。
政府のあれこれの人々の視察などではいかほどのことも掬い上げることなく過ぎて行く、その状況に被災地の失望と喪失感はますます深くなっているということを忘れてはならないと思います。
そろそろ「明るいニュース」をというのでしょうか、メディアからは「少しずつ前に進む被災地」であったり「希望」と「負けない!」といった「アカルイ物語」を探すことに懸命という様子が伝わってきます。
しかし、被災地では、仮設住宅の建設が一向にすすまないなど依然として問題が何も動かず、生活再建への道筋を見いだせずに失望と無力感を一層深くしている人が多くいることを忘れるわけにはいきません。
この連休中、仙台、宮城に出かける機会を得ました。
発災から2度目、2週間ぶりのの仙台でした。
仙台市の街中、繁華街の賑わいも2週間前と比べて格段に活発になっていて、商店や飲食店もほぼ従来通りの営業となっていました。しかし日用品や食品、生活必需品の店以外は、まだまだ客が戻っていないということで、人々が、精神的に以前の余裕を取り戻すところまでには至っていないという印象を受けました。
今回の仙台行では、仙台市内の被災地域の小学校教員の方が若林区荒浜一帯に案内してくださって現場の様子をつぶさに見るとともに、避難所から「半壊」の家に戻って暮らす家族のお宅も訪ね話を聞くこともできました。また、南三陸町では避難所の今の様子や問題について話を聞き、石巻の「消えてしまった市街」にも立って、現場に立って考えるということの大事さ、そこで生の話に耳を傾けることの大切さを、あらためて痛感して戻りました。




それにしてもと思うのですが、話を聞いた人々のほとんどが、自身の辛い体験や九死に一生を得たという恐怖の体験を話しているうちに、表現しがたい「笑み」を浮かべながら語っていることに気づき、あらためて今回の被災体験の深刻さに思い至りました。
当たり前のことですが笑みがこぼれるというのではありません。
表情は笑ってはいないのです。
まるで自身の境遇を「あざ笑う」しかないといった、暗い「笑み」を浮かべながらこもごもに体験を語るのでした。
あまりの不条理に語るべきことばを失う、そして涙も出ない、最早「あざ笑う」しかないといった心境であることがひしひしと伝わってくるだけに、話を聞いていていたたまれなくなるのでした。
私の乏しい表現力ではとても伝えきれない現場の重さがそこにはありました。
こうした被災地の現場に立ち、人々の話に耳を傾けてみて、あらためて、一人ひとりの生活の回復、再建への支えがなによりも急がれることを痛感しました。
まさに、現場の具体的な苦悩や問題に寄り添い、それぞれの切実な状況をすくい上げて、一つひとつの「いのち」を、一人ひとりの生活を支えていくということに目が向けられなければ、机の上であれこれの復興論議がなされたとしても、いかほどの力にもなりえない、そして「希望」など語る余地はどこにも生まれないということを私たちは知らなければならないと思います。
さらに言えば、メディアに頻繁に登場して力強く語る首長が必ずしも住民たちの信頼を得ているとは限らないということも、現場に立って人々の話に耳を傾けてみて、見えてきました。
さて、南三陸町で約束の方に会うため避難所になっている中学校を訪ねた時のことです。
坂道を登りつめて中学校の敷地内に足を踏み入れた時、建てられつつある仮設住宅が目に入ってきましたが、エッと目を瞠りました。これまで目にしてきたプレハブ造りの仮設住宅とはまったく様子が違っていたからです。


「仮設っつうとプレハブだって思ってたわけだけんど、コレ、木造でしょ。だったら私たちだって大工なんだから、自分たちだって建てられるつうことになるわけ、ねっ!なのにどうしてみんな外の業者ばっかりに仕事を発注するのってことですよ・・・。町内でみんなが仕事をしていくらかでも収入になれば自分で生活していけるってことになるんじゃないですか?!それが復興っていうことじゃないのかっつうことでしょ・・・」
大工の棟梁のこの方は今は避難所を出て倉庫で暮らしているというのですが、この木造の仮設住宅の建設作業を目にして「なぜ、どうして!」という思いを抑えきれずにいるのでした。
また町役場の職員も大勢亡くなって行政事務が被災住民の求めに追いつかないという状況が生活の回復を遠いものにしていることを目の当たりにして、生き残った人の中には町役場の職員OBだっているわけだからそういう人たちを雇って仕事をしてもらえば、町民の助けにもなるし、雇われた人たちも幾ばくかの収入を得て生活再建につなげていけるのに・・・と言うのでした。
「要は、いろいろ考えればすることはいっぱいあるんだ、だけど・・・。役場の人は大変だ、大変だっていうばかりで・・・」と、積る思いが先に立って言葉が続かなくなるといった状態でした。
「本当にそうですね」と相槌をうちたい気持ちはやまやまでしたが、そうした言葉ではとても受けとめきれず、ことばをのみこまざるをえませんでした。
現場には、あるいは一人ひとりの住民には至極まっとうなそして豊かな「発想」と「アイディア」があるのです。
それを受けとめて、汲み上げてすぐ行動に移すのかどうか、まさにここが問われているのだと思いました。
いいと思ったことはすぐ取り掛かる、そうした行動力が行政をはじめ復興を語るすべての人に求められているのだと痛感します。
また、仙台の若林区でのことです。
地震と津波によって住まいが大きく壊れながら身を寄せていた避難所から家に戻って三世代で暮らしている家族に出会ったのでしたが、ここでも「お役所の決まりごと」という「カベ」に苦しむ人々の姿がありました。
家の中を見せてもらって驚いたのですが、天井が落ちて柱は大きくずれて家が傾いているのですが、外形は残ったので「半壊」という認定だというのです。
ではその「外形」はと思ってあらためて外に出て見てみると「危険」という張り紙がされているのです。

「ここに危険って張り紙が・・・?」と言いかけると「それと全壊か半壊かの認定は別だっていうんですよ・・・」という答えが返ってきました。「でもねぇ、考えてみれば割り切れないですよね、じゃ避難所でずっと過ごした方がいいってことなんでしょうか、なんだかね・・・」という言葉とともにです。
家の中に置かれたバケツやポリ容器を見やりながら「雨の時は30分もすると雨水でいっぱいになって寝てられないんですよ。外の雨と同じくらい降り込んできてね。なんだかもう家族みんなで押して倒した方がいいのかなって冗談もしゃべってるんですよ・・・」と笑いながら話す主婦に、ここでも返す言葉がありませんでした。




外の倉庫にトラクターやコンバインなど3〜4台の立派な農機具が置かれていたので、どれくらいの田んぼですかと尋ねたところ「大したことないんだけど、4町歩ほど・・・。でも今年は作付はできないね。田んぼは塩水をかぶってしまったし、農機具も津波でみんなやられちゃったから・・・」というご主人の話に、これまた言葉をのみ込みました。
現在の日本の農家の規模からいえば「篤農家」というべきこの家族の生活再建はまず、たまさか「外形」だけが残ったために全壊家屋のような「支援金」も出ないという状況で、住む家をどうするのかということから解決しなければならないということになります。
法律や規則というもの、さらには「お役所仕事」ということについて、またもや考えさせられたものです。
またもやというのは、これこそ阪神淡路大震災の被災現場で目にし、耳にしてきたことだったからです。
阪神淡路の経験から長い議論の末に「生活再建支援金制度」などが制定されることにつながったということはあっても、この国の震災対策、災害対策は、あれほどの災害を体験しながら本質においては何も変わっていないことを目の当たりにすることになったというべきでした。
復興について考える際、当然のことですが、さしあたりなすべきことと長期的な時間軸で考えるべきことの二つの問題があることを忘れてはならないと思います。
被災地域の将来の産業、経済をどう再建、構想していくのかという長期的な問題と、さしあたり毎日の暮らしをどう支えていくのかという短期的な問題を、二つながら解決しながら、しかもそれをしっかりと結び付けて被災地の復興にむけて問題に立ち向かっていかなければならないと思います。
そして、その両方の課題について、実は、被災した人たちの実際に寄り添い、人々の話に耳を傾ければなすべきことは「簡単」に見えてくるのだと思います。
しかし、メディアなどで雄弁をふるう首長の姿とは裏腹に、被災地に一歩分け入るとなすべきことになんら手がつけられていない現実に突き当たります。
誤解を恐れずに言うならば、「明日の構想」はさておいて、「今日なすべきこと」をこそなすべきだと、これは被災した多くの人々との出会いから、どれほど強調しても強調しすぎではないと確信します。
政府のあれこれの人々の視察などではいかほどのことも掬い上げることなく過ぎて行く、その状況に被災地の失望と喪失感はますます深くなっているということを忘れてはならないと思います。
2011年05月10日
天災と人災、鎮魂の意味を問う〜柳 あいさんからの便り〜
今回の震災の被災地、宮城県仙台市に住む柳 あいさんからの論考が届きました。
韓国、朝鮮半島問題の専門家である柳さんから、日本と東北アジアの視野から今回の震災を見つめ、日本社会のあり方を問う論考の第一回となるものです。
天災と人災、鎮魂の意味を問う 柳 あい
この震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
「3・11大震災」当日、被災地仙台ではなくソウルにいたことで、かえって日本社会の病弊と韓国社会から発せられた熱い連帯の思いを強く意識された者として、この運命的に与えられた立場から今後の新生仙台をどうつくるかを、考えていきたいと思う。ただ大震災2カ月の現時点で整理できる点は少なく、その不十分さを自覚した上で、最初にとりあげたいのは、いわゆる「想定外の天災」という弁明についてである。
先ず指摘したいのは、今回ほどこの言葉が、「原子力関係の専門家」から発せられたことはなかったし、それはすべて「責任逃れの立場」から発せられていたという事実である。「専門家」が「想定外」を弁明の理由に挙げること自体が専門家としての資格にかけており、そうした専門家を大量に排出していることこそ「人災」であった。つまり、ある分野の専門家であれば、あらゆる事態を想定した上で、万一自らが予想した枠を超える事態が生じたとしても、それに対応する策を準備する姿勢と資質が求められる。
例えば、不十分ながら私個人は現代の日韓関係を専攻しているので、そこで起きたことが自分の予想と違っていた場合(往々にして現実は予想通りには進まない)でも、それへの対応策が求められる。
基本的に、専門家にとって「想定外」は禁句であり、「想定外」を言えば、自ら非専門家であることを告白しているに過ぎない(その意味で、原子力安全・保安[不安?]院の担当者が、震災以前は貿易担当だったので「想定外」を連呼するのはうなずけるが、この組織の無責任ぶりは極といえる)。
さて、以上を前置きにして「想定外の天災」という常套句に戻れば、基本的に「天災」は想定外だから起きる。だから、ある程度の人が犠牲になるのはやむをえないとしよう。だが、今回多くの犠牲者を出した「津波」は天災だとしても、それを少しでも防ぐために「高台に逃げる」などの周知徹底が不十分だったことは「人災」といえる。それ以上に、「福島原発」問題に限れば、連続した水素爆発は「人災」に属する。なぜなら、「天災」である地震が起きた直後から、この地震を「想定外の天災」と認識し、その対応策として「原発の廃炉」をただちに決定していたならば、建屋の水素爆発は防げたはずだという。だが、経済上の理由などでためらったため3度にわたる水素爆発が起こり、現在のような危機的状況(多数の震災犠牲者を放置したまま、多数の避難民と現場作業者を被爆の危険にさらしている)を生んだといえる。
ここで注目すべきは、経済的理由以上に、日本社会全般に貫徹している「国家官僚が統率する管理社会システム」の問題である。これこそ、今回の「人災」の元凶であり、今後の新生仙台、さらには新生日本を構想する上で、克服しなければならない最大の病弊になるに違いない。そして、こうした社会システムとの「闘い」こそ、「3・11大震災」で犠牲になった人々への鎮魂にはぜひとも必要であり、そこに彼らへの「鎮魂の意味」が凝縮されるのではないか。
さらに、この「闘い」は長期戦が必至であり、私たち自身の生活、暮らしぶり、そして生き方を問うことになるので、自らを「削る」ことなしには持続できないだろう。この「闘い」は既に始まっているが、この夏のいわゆる「計画停電」、つまりより少ない電気消費量で「豊かな生活」を送れるか、あるいはそれでも「豊かな生活」と感じられるかどうかが一つのヤマになる。
その辺を考えながら、次回以降も「鎮魂の意味を問う」ために、「あの戦災とこの震災」を比較しながら、検討を重ねたいと思う。 (2011年5月8日)
韓国、朝鮮半島問題の専門家である柳さんから、日本と東北アジアの視野から今回の震災を見つめ、日本社会のあり方を問う論考の第一回となるものです。
天災と人災、鎮魂の意味を問う 柳 あい
この震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
「3・11大震災」当日、被災地仙台ではなくソウルにいたことで、かえって日本社会の病弊と韓国社会から発せられた熱い連帯の思いを強く意識された者として、この運命的に与えられた立場から今後の新生仙台をどうつくるかを、考えていきたいと思う。ただ大震災2カ月の現時点で整理できる点は少なく、その不十分さを自覚した上で、最初にとりあげたいのは、いわゆる「想定外の天災」という弁明についてである。
先ず指摘したいのは、今回ほどこの言葉が、「原子力関係の専門家」から発せられたことはなかったし、それはすべて「責任逃れの立場」から発せられていたという事実である。「専門家」が「想定外」を弁明の理由に挙げること自体が専門家としての資格にかけており、そうした専門家を大量に排出していることこそ「人災」であった。つまり、ある分野の専門家であれば、あらゆる事態を想定した上で、万一自らが予想した枠を超える事態が生じたとしても、それに対応する策を準備する姿勢と資質が求められる。
例えば、不十分ながら私個人は現代の日韓関係を専攻しているので、そこで起きたことが自分の予想と違っていた場合(往々にして現実は予想通りには進まない)でも、それへの対応策が求められる。
基本的に、専門家にとって「想定外」は禁句であり、「想定外」を言えば、自ら非専門家であることを告白しているに過ぎない(その意味で、原子力安全・保安[不安?]院の担当者が、震災以前は貿易担当だったので「想定外」を連呼するのはうなずけるが、この組織の無責任ぶりは極といえる)。
さて、以上を前置きにして「想定外の天災」という常套句に戻れば、基本的に「天災」は想定外だから起きる。だから、ある程度の人が犠牲になるのはやむをえないとしよう。だが、今回多くの犠牲者を出した「津波」は天災だとしても、それを少しでも防ぐために「高台に逃げる」などの周知徹底が不十分だったことは「人災」といえる。それ以上に、「福島原発」問題に限れば、連続した水素爆発は「人災」に属する。なぜなら、「天災」である地震が起きた直後から、この地震を「想定外の天災」と認識し、その対応策として「原発の廃炉」をただちに決定していたならば、建屋の水素爆発は防げたはずだという。だが、経済上の理由などでためらったため3度にわたる水素爆発が起こり、現在のような危機的状況(多数の震災犠牲者を放置したまま、多数の避難民と現場作業者を被爆の危険にさらしている)を生んだといえる。
ここで注目すべきは、経済的理由以上に、日本社会全般に貫徹している「国家官僚が統率する管理社会システム」の問題である。これこそ、今回の「人災」の元凶であり、今後の新生仙台、さらには新生日本を構想する上で、克服しなければならない最大の病弊になるに違いない。そして、こうした社会システムとの「闘い」こそ、「3・11大震災」で犠牲になった人々への鎮魂にはぜひとも必要であり、そこに彼らへの「鎮魂の意味」が凝縮されるのではないか。
さらに、この「闘い」は長期戦が必至であり、私たち自身の生活、暮らしぶり、そして生き方を問うことになるので、自らを「削る」ことなしには持続できないだろう。この「闘い」は既に始まっているが、この夏のいわゆる「計画停電」、つまりより少ない電気消費量で「豊かな生活」を送れるか、あるいはそれでも「豊かな生活」と感じられるかどうかが一つのヤマになる。
その辺を考えながら、次回以降も「鎮魂の意味を問う」ために、「あの戦災とこの震災」を比較しながら、検討を重ねたいと思う。 (2011年5月8日)
2011年04月30日
震災をのりこえるために、いま考えるべきこと
震災から50日を越えました。
この間、今回の震災と原発問題について「研究会」で議論をしたり、さらに、短い期間でしたが仙台に出向いたりしていました。日々目にし、耳にすることからは、ただただ言葉を失うという状況で、とてもではありませんがこのコラムに何かを書くと言う気持ちになれませんでした。
復興問題をふくめて、さまざまな言説、論議が跳梁跋扈するという状況を前にして、つまるところ安全地帯に身を置いたあれこれの「評論」「論評」に過ぎない、それどころかそうした言説の背後にすでに新たな利権やビジネスに血眼になっている光景が透けて見えるものも数多くあるという、本当にいたたまれないまでの言論状況に、何かを語ることの無力感に苛まれる日々が続いています。
これは災害報道の現場に身を置くことになった阪神淡路大震災の際に痛いほど経験したことの再来というか、まるで「古いフィルム」をプロジェクターにかけて見ているような既視感の世界というべきものでした。
しかしあまりといえばあまりというべき状況を前に、4月が終わるところで、少しだけでも記しておかなければと己に鞭打って書くことにしました。
4月半ばに一週間足らず赴いた仙台市の中心部は、建物に亀裂が走ったり崩れていたりするものもあるということを除けば、電気、水道、ガスもほぼ復旧していてなんとか「日常」が戻ってきたと言える状態でした。
しかし中心市街から少し郊外に行くと、若林区などの沿岸部には瓦礫の散乱する荒涼とした風景が広がり、豊かな米の産地であった広大な水田地帯は海水をかぶり、津波が押し寄せたあとに残された瓦礫に覆われて、無残な姿に変わっていました。
また、避難所になっている学校現場で被災者の支援をしながら学校の再開に奔走する教師たちの疲労困憊の様子を垣間見て、ここでもかけるべき言葉を失いました。
「両親を失った子供たちもいて、震災によってもたらされた悲しみと苦痛をくぐったことで子供たちがすっかり以前の子供ではなくなった・・・」と語る教師が、近隣の学校の教師が過労死したと苦しげに語るのを前にして最早かけるべき言葉もありませんでした。
みんなが発災以来の恐怖と苦悩、そして底深い疲労に苛まれていました。
被災地とはいえ、県内の沿岸部の市町村とくらべると「別世界」ともいうべき仙台市でさえこんな状況です。ましてやそうした三陸沿岸の地域はいかばかりかと気持ちが塞いでしまったものです。
阪神淡路大震災の現場に立った経験を持つ私は、「がんばってください」とか「がんばりましょう」とか言うことができなくなっています。とてもではないがそんな軽いことではないという思いが募ったものです。ただただ深い無言のうちに少しでも悲しみや辛さを分かち合うことでしか、それでは他人に伝わらないとしても、被災した人々と思いを共有する術はないというのが「阪神淡路」以来の思いであり覚悟というものでした。
さて、書くべきこと、書かなければならないことは本当に山積です。こうして書き始めるともどかしいかぎりです。
菅首相の諮問機関「復興構想会議」なるものがきょう(30日)3回目の会合を開きました。
「復興への構想」どころか相変わらず「財源論」と「増税論」をあれこれ言いたてているという体たらくです。報道では「財源なき復興ビジョンは寝言だ」などという発言があったというのですが「復興ビジョンなき財源論など寝言だ」と返してやる必要がありそうです。
すでにこのコラムで、この政権がガバナンスを喪失していて、発災から、なすべきことを一切せずあれこれの人事と会議づくりに没頭して、権力欲と「大臣病」(補佐官や副長官などもふくめて)にとりつかれた政治家や識者といわれる人々を次から次と官邸や内閣府などに呼び込む(こうした人々への高額な報酬について触れたメディアは一切ありませんでした)ことしかしかしてこなかったと指摘しましたが、いまだに何も変わらない政権の姿に絶望感だけが広がっていきます。
発災の3月11日に立ち上げた「緊急対策本部」にはじまって、いまや、震災対策にかかわるなんとか本部やあれこれの会議、委員会が26もできているというのですから唖然としてしまいます。その下にあるなんとか検討チームであるとかあれこれのプロジェクトチームなども含めるともっと多くなるのかもしれませんがそこまで把握できないのでわかりません。
きのうは内閣官房参与で東大大学院教授の小佐古敏荘氏が菅政権の福島第一原発事故対応について「法律や指針を軽視し、その場限りだ」と批判して辞任するという笑えないブラックジョークのようなことまで起きました。
しかし、文部科学省が小学校などの校庭で子供たちが活動する際の放射線の年間被曝量の基準を20ミリシーベルトとしたことを強く批判して「とんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だ。通常の放射線防護基準に近い年間1ミリシーベルトで運用すべきだ」と語ったことについては深く受けとめるべきだと思います。
原子力をめぐってうごめいてきた「学者群」のなかにもようやくと言うべきか、亀裂が走り始めたということなのでしょう。もっとも「世の風向き」を見て自己保身に走る人々が出始めたというとらえかたもできるわけで、なにをいまさらという受けとめも否定できませんが・・・。
問題の所在について書き始めたら本当にきりがないのですが、まず注意しなければならないのは福島原発にかかわる「統合本部」会見問題でしょう。
25日から、細野豪志首相補佐官の下、政府と東電による「福島原子力発電所事故対策統合本部」が統一的に会見するということになったことは既に知られていますが、これは見過ごせない重要な問題をはらんでいるというべきです。
細野氏は「みなさんにご理解を賜りたい。ぜひ、透明性に関する統合本部の方針、私を信じていただきたい・・・」と語っていますが、私は、これは大変なことになったと思いました。
これまでバラバラに会見していたのが統一的に行われるということでメディアでは評価されていますが、バラバラに会見するからこそ明らかになる情報の食い違いや矛盾点から、その時起きている事の実体が見えてくるということがあったと言うべきです。
しかし、これで「完璧」な口裏合わせと一層の事実の隠ぺいが始まることになったと言うべきです。多くのメディアがこのことを語らないのはなぜだろうかと不思議でなりません。
これまでも東電は一階と三階の二つの会見場を発表内容によって使い分け、時間差をつけて同時進行させたりして、結果的には、人員に余裕のある大メディアは対応できても、うるさいフリーランスの記者などは「手が回らない」という状況を作り出すという、実に姑息な手立てを講じてきたのですが、それでも東電、保安院や経産省、そして官邸の会見内容の「齟齬」が重要な問題をあぶりだすことにつながってきたと言うべきでした。
ここにきて「統合会見」にしたことをどうとらえるのかは各メディアの問われるところだと思います。さらに言うならば、各原子炉の状態がどうなのかという問題をこえて、放射性物質の拡散、放射能汚染の拡大という事態が一層深刻化する段階をとらえて「情報の一元化」をはかるのは一体なぜなのかと考えればおのずと答えは明らかと言うべきです。
ところで、4月初めから、新聞各紙が原発問題の検証記事を載せ始めています。
けさ(30日朝)ある新聞の検証企画記事を読んでいて目を疑う記述にぶつかりました。
これまでも真偽のほどがあきらかではないまま経過している14日の東電による「第1原発からの撤退発言」問題についての以下のようなくだりです。
「現場は切迫していた。午前に3号機が水素爆発し、午後には2号機で水位低下。午後9時には炉心の燃料溶融に関し枝野官房長官が1〜3号機とも『可能性は高い』と言明し衝撃が走る。自衛隊員4人が午前の水素爆発で負傷し、防衛省は東電の『大丈夫』との判断に疑問を抱く。夜には中央特殊武器防護隊員らが郡山市の駐屯地に一時退く。同様に第1原発の近くで待機していた原子力・安全保安院の職員らも郡山に退く。住民は半径20キロ内からの避難指示だが、安全を担うはずの保安院は50キロ以上先の郡山へ。炉心溶融か、という極限の状況を考えれば、だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。・・・」
これを読んで唖然としない人がいたら教えてほしいと思います。
ここで言う人命とは一体誰の「命」の事なのでしょうか。
言うまでもなく東電社員もしくは下請けの協力会社の作業員をはじめとする東電関係者と言うことになります。
地域に住む住民はここでの人命には含まれていないことはあきらかです。
「だれよりも危険を認識していた東電」であるなら、まず知らせるべきは地域住民であり、住民の「全面撤退」こそが、最優先になされるべきことであったはずです。
「極限の状況を考えれば」なおさらです。
それが「だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。」とは、これを書いた記者は一体どういう立場に立ってものを考えているのか聞いてみたいとさえ思うのですが、どうでしょうか。また、よくこんな記事が「検証記事」としてデスクの目を通ったものだとこの新聞社の取材、出稿体制に妙な感心さえしてしまいます。
しかし悪いことだけではありません。この記者が無意識、無自覚に書いたことで非常によくわかったことがあります。
このとき、地域の住民を放り出して、保安院のみならず自衛隊員までが50キロ以上離れたところに、まさに我先にと逃げていたということです。それぐらい「極限の状況」だったというわけです。
原子炉は健全に保たれている・・・とは一体誰の言葉だったのか・・・。
あらためて、原発震災にかかわる政府や東電の対処、対応にとどまらず、メディアの報道について厳しい検証が必要だと痛感します。
「出口なき迷路」と私は、原発問題が起きてから言い続けてきました。
原子炉内および使用済み燃料プール(の核燃料)を冷やして安定させることが喫緊の問題である。
そのためには冷却系の装置を機能させる電源が必要だ。電気系統が機能しなければならない。
しかし電源を喪失していたので水を注入するしかない。
水を注げば注ぐほど高濃度の汚染水が漏れ出し滞留して電気系統の回復作業すらできない。
だから、さらに注水して原子炉を冷やさなければならない。
と、まあこうして悪魔のような悪循環に陥ってしまい、出口が見えないという状況に突き当たってしまい、抜け出す術をもたない。
これを「出口なき迷路」と言わずしてなんというのか、というわけです。
状況は深刻です。
チェルノブイリから25年ということで、4月26日に参議院議員会館で「院内集会」がひらかれたので聴講したのですが、1997年に「科学」に「原発震災〜破滅を避けるために」を寄稿して以来、地震と原発の相関で警鐘を鳴らし続けてきた神戸大学名誉教授の石橋克彦氏の話を聴きながら、あらためて「原発震災」というものの深刻さを考えさせられました。
1997年の「科学」への寄稿論文には「(東海地震などの巨大地震に)原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時に比べて極度に困難だろう。つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する“原発震災”が発生し、しかも地震動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである。膨大な人々が二度と自宅に戻れず、国土の片隅でガンと遺伝的障害におびえながら細々と暮らすという未来図もけっして大袈裟ではない。」とあります。
まるでいま私たちが目にしている「事象」(官邸も、東電も、そして原子力を専門とするひと群れの学者たちも、発災からかなりの期間、今回の事故をこのように表現していたものです)を見事に言い当てていることに驚いたものです。
それにしても放射能汚染問題は深刻です。
2週間ほど前、現政権の枢要をなす政治家が、本当のところは福島市(に住む市民)までをも避難させたいのだが今の政府には30万人とか40万人の人間を避難させる力はないと洩らしたということを耳にしました。
私的な会話でつい本音を洩らしてしまったということでしょうからこれでどうこう言えることではないかもしれませんが、事がいかに深刻かを物語っていることは確かです。
しかし、その深刻さを政府も東電もそしてそれを知りうる立場にあるメディアも率直に語っていないということこそ、より深刻な問題だと、私は考えます。
さて、またもや長くなりすぎるので、一応の区切りをつけますが、検証すべき問題、考えなければならない数多くの問題のなかから、最低限のいくつかだけをメモしておきます。
1.原発震災について言うなら、東電、政府、専門家そしてメディアはなによりも本当のことを語るべきだということです。これまでひたすらごまかしと隠ぺいに狂奔してきた自己のあり方を反省して、一切のごまかし、隠ぺいをせずに本当のことを語るという、実に単純で素朴なことを誠実に実行することです。もっとも今の政権、東電、メディアなどに登場している原子力専門家たちの存立、存在を、そしてメディアのあり方を根底から脅かすことになるわけですから、この「簡単」なことが実行されることは、残念ながら、期待できないというべきですが・・・。
2.復興問題について言うなら、インフラの回復については国がすべての責任をもって即時かつ強力に、本当に一気呵成になすべきだと思います。これは阪神淡路大震災を現場で経験した教訓です。電気、通信、水道、ガスなどのライフラインは個別企業の努力で回復させるものだと考えがちですが、そうではなく、こうしたライフラインに加え道路、鉄道、港湾設備、さらに瓦礫の撤去、処理などはむしろ国の責任で一気に行い、回復させるべきだと、これは震災体験から学んだことです。ライフラインの回復状況などを考えると、すでに後知恵、後証文になっていることも多くありますが、これは発災直後から研究会などの議論で主張してきたことです。
3.では、復興計画についてはどうかといえば、これこそそれぞれの被災地の人々の知恵と考えに、つまり現場にゆだねるということにすべきことだというのが、これまた阪神淡路を経験した教訓です。つまり、現在の政権のやろうとしていることは全く逆で、逆立ちしていると言うべきだと、私は確信しています。被災現場にはどんな苦境の中でも立ち上がろうとして格闘する多くの人がいます。その人たちの知恵と力こそが復興ビジョンの構想力の源なのです。東京の官邸の会議室などで高額の報酬や謝礼を懐にしてあれやこれやの「議論」を交わす識者などにゆだねるべきものではない!というのが過去の震災の教訓です。被災現場の声に耳を傾け、現場の知恵を生かし、現場が望むことを実現するのが中央の権力の座に座っている人々のなすべきことなのです。つまり被災現場の人々の下僕として働くのが政治家であり官僚であるべきなのです。発想の逆転をこそすべきなのだと、私は確信します。識者と言われる人々も、もし復興計画に関わりたいのなら、現場に赴いてそこで被災した人々と共に汗を流すべきなのです。それ以外のただ評論する識者など、どんなに立派なことを言ったとしても無用のものだと言うべきです。
4.政治の責任という意味では、パフォーマンスはもうやめにすべきです。この連休中も予算委員会の論議をはじめ国会を休まずやっている光景がテレビで中継されていますが、考えてみれば、ではこれまで国会は何をしてきたのだというべきです。これ見よがしに連休中も国会議員は「働いている」というのは一見もっともらしく見えますが冷静に考えてみれば実にでたらめな、目くらましのパフォーマンスだというべきです。発災から50日、一体国会は何をしていたのだと問わなければならないと思います。なすべきことを何もしてこなかったからこうなったというだけのことではないでしょうか。ましてや、今様「黄門様」だかなにかは知りませんが、予算委員会の冒頭、「涙声」で菅首相を諌めるなどという猿芝居まがいのことに「電話で『入閣してくれ』なんて、政治経験がまだ浅い!自民党との連立政権の構築で失態を演じた首相に“黄門さま”が活を入れた・・・」とか「目に涙をためながら『今200万福島県民の怒りは頂点に達している』と指摘するなど、終始厳しい口調で菅首相の震災対応を追及・・・」などとはやし立てるメディアとは一体なんだろうかと思います。ちなみに以前「ウソ泣き」の空虚さを言われた女性タレントがいましたが、「目に涙をためながら」絞り出すような声で首相を「叱咤」したはずにもかかわらず一滴の涙も流さず、一転して出席議員たちの笑いを取るなどという達者な演技にただただ白けたのは私だけではなかったと思います。政治家とはこれほど底の浅いものでいいのでしょうか。パフォーマンスはもうやめにすべきです。それ以上に、福島県出身の「黄門様」に問うべきことは、では、あなたは福島への原発誘致に対してどのような政治行動をとってきたのか?!ということではないでしょうか。
5.阪神淡路大震災の復興論が議論された際「復興ファシズム」という言葉が登場したことを思い起こします。お上の、あるいは県の(首長の)やる復興施策にあれこれ異議を申し立てるのはまるで「非国民」といった空気が醸成され、メディアなどの論調もそれを許すようなものになりがちだったことを、いま、深く考えてみなければならないと思います。それは今回の震災が、まぎれもなく日本のこれからの社会をどのようなものにしていくのかという歴史的な転換点としてあるということを痛感するからです。阪神淡路大震災当時、震災報道の現場に身を置きながらかつての関東大震災についていくばくかの勉強をしたことがありました。そこで学んだことのひとつは、当時これだけの悲惨な激甚災害なのだから三代百年は記憶に刻まれるだろうと言われたものがそうはならず、まさに喉元過ぎれば・・・の喩えのように記憶の彼方に忘れ去られ「阪神淡路」を迎えてしまったという悔恨でした。つまり震災の教訓を歴史に刻み、記憶に刻むことの大切さを痛切な思いと共に、あらためて学んだということでした。今回の震災は「阪神淡路」からわずか16年のことでした。そしてその教訓とは単に「地震に強いまちづくり」といったことにとどまらず、震災当時に起きた「朝鮮人虐殺」という忌まわしい事件をはじめとして、震災を機に歴史がどういう道をたどったのかということにありました。1923年の関東大震災から2年後、普通選挙法と治安維持法が時を同じくして定められ、その後1929年の「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌をへて、1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと時代は大きく転回しました。震災からわずか14年のことでした。政治、社会、時代風潮など根の深いところで「30年代的状況」とのアナロジーが語られる現在、今回の震災以後の社会をどのようなものにしていくのか、どんな日本を再構築していくのかという問題と真剣に向き合う必要があると考えます。そして、決して歴史を誤ることがあってはならないと痛切に思います。そんな時、「復興ファシズム」ということが語られた状況について今一度思い返してみることは決して無駄なことではないと考えます。
さて、歩まねばならぬ・・・ということばが胸の奥深くでこだまのように響きます。
語るべきことは数多くありますが、言葉がいかほどのものかという畏れを抱きながらも、問題のありかを深く掘り、問題を共有し、問題意識を深めながら、多くの人と手を携えて、この震災に立ち向かう力を!と切に思います。
この間、今回の震災と原発問題について「研究会」で議論をしたり、さらに、短い期間でしたが仙台に出向いたりしていました。日々目にし、耳にすることからは、ただただ言葉を失うという状況で、とてもではありませんがこのコラムに何かを書くと言う気持ちになれませんでした。
復興問題をふくめて、さまざまな言説、論議が跳梁跋扈するという状況を前にして、つまるところ安全地帯に身を置いたあれこれの「評論」「論評」に過ぎない、それどころかそうした言説の背後にすでに新たな利権やビジネスに血眼になっている光景が透けて見えるものも数多くあるという、本当にいたたまれないまでの言論状況に、何かを語ることの無力感に苛まれる日々が続いています。
これは災害報道の現場に身を置くことになった阪神淡路大震災の際に痛いほど経験したことの再来というか、まるで「古いフィルム」をプロジェクターにかけて見ているような既視感の世界というべきものでした。
しかしあまりといえばあまりというべき状況を前に、4月が終わるところで、少しだけでも記しておかなければと己に鞭打って書くことにしました。
4月半ばに一週間足らず赴いた仙台市の中心部は、建物に亀裂が走ったり崩れていたりするものもあるということを除けば、電気、水道、ガスもほぼ復旧していてなんとか「日常」が戻ってきたと言える状態でした。
しかし中心市街から少し郊外に行くと、若林区などの沿岸部には瓦礫の散乱する荒涼とした風景が広がり、豊かな米の産地であった広大な水田地帯は海水をかぶり、津波が押し寄せたあとに残された瓦礫に覆われて、無残な姿に変わっていました。
また、避難所になっている学校現場で被災者の支援をしながら学校の再開に奔走する教師たちの疲労困憊の様子を垣間見て、ここでもかけるべき言葉を失いました。
「両親を失った子供たちもいて、震災によってもたらされた悲しみと苦痛をくぐったことで子供たちがすっかり以前の子供ではなくなった・・・」と語る教師が、近隣の学校の教師が過労死したと苦しげに語るのを前にして最早かけるべき言葉もありませんでした。
みんなが発災以来の恐怖と苦悩、そして底深い疲労に苛まれていました。
被災地とはいえ、県内の沿岸部の市町村とくらべると「別世界」ともいうべき仙台市でさえこんな状況です。ましてやそうした三陸沿岸の地域はいかばかりかと気持ちが塞いでしまったものです。
阪神淡路大震災の現場に立った経験を持つ私は、「がんばってください」とか「がんばりましょう」とか言うことができなくなっています。とてもではないがそんな軽いことではないという思いが募ったものです。ただただ深い無言のうちに少しでも悲しみや辛さを分かち合うことでしか、それでは他人に伝わらないとしても、被災した人々と思いを共有する術はないというのが「阪神淡路」以来の思いであり覚悟というものでした。
さて、書くべきこと、書かなければならないことは本当に山積です。こうして書き始めるともどかしいかぎりです。
菅首相の諮問機関「復興構想会議」なるものがきょう(30日)3回目の会合を開きました。
「復興への構想」どころか相変わらず「財源論」と「増税論」をあれこれ言いたてているという体たらくです。報道では「財源なき復興ビジョンは寝言だ」などという発言があったというのですが「復興ビジョンなき財源論など寝言だ」と返してやる必要がありそうです。
すでにこのコラムで、この政権がガバナンスを喪失していて、発災から、なすべきことを一切せずあれこれの人事と会議づくりに没頭して、権力欲と「大臣病」(補佐官や副長官などもふくめて)にとりつかれた政治家や識者といわれる人々を次から次と官邸や内閣府などに呼び込む(こうした人々への高額な報酬について触れたメディアは一切ありませんでした)ことしかしかしてこなかったと指摘しましたが、いまだに何も変わらない政権の姿に絶望感だけが広がっていきます。
発災の3月11日に立ち上げた「緊急対策本部」にはじまって、いまや、震災対策にかかわるなんとか本部やあれこれの会議、委員会が26もできているというのですから唖然としてしまいます。その下にあるなんとか検討チームであるとかあれこれのプロジェクトチームなども含めるともっと多くなるのかもしれませんがそこまで把握できないのでわかりません。
きのうは内閣官房参与で東大大学院教授の小佐古敏荘氏が菅政権の福島第一原発事故対応について「法律や指針を軽視し、その場限りだ」と批判して辞任するという笑えないブラックジョークのようなことまで起きました。
しかし、文部科学省が小学校などの校庭で子供たちが活動する際の放射線の年間被曝量の基準を20ミリシーベルトとしたことを強く批判して「とんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だ。通常の放射線防護基準に近い年間1ミリシーベルトで運用すべきだ」と語ったことについては深く受けとめるべきだと思います。
原子力をめぐってうごめいてきた「学者群」のなかにもようやくと言うべきか、亀裂が走り始めたということなのでしょう。もっとも「世の風向き」を見て自己保身に走る人々が出始めたというとらえかたもできるわけで、なにをいまさらという受けとめも否定できませんが・・・。
問題の所在について書き始めたら本当にきりがないのですが、まず注意しなければならないのは福島原発にかかわる「統合本部」会見問題でしょう。
25日から、細野豪志首相補佐官の下、政府と東電による「福島原子力発電所事故対策統合本部」が統一的に会見するということになったことは既に知られていますが、これは見過ごせない重要な問題をはらんでいるというべきです。
細野氏は「みなさんにご理解を賜りたい。ぜひ、透明性に関する統合本部の方針、私を信じていただきたい・・・」と語っていますが、私は、これは大変なことになったと思いました。
これまでバラバラに会見していたのが統一的に行われるということでメディアでは評価されていますが、バラバラに会見するからこそ明らかになる情報の食い違いや矛盾点から、その時起きている事の実体が見えてくるということがあったと言うべきです。
しかし、これで「完璧」な口裏合わせと一層の事実の隠ぺいが始まることになったと言うべきです。多くのメディアがこのことを語らないのはなぜだろうかと不思議でなりません。
これまでも東電は一階と三階の二つの会見場を発表内容によって使い分け、時間差をつけて同時進行させたりして、結果的には、人員に余裕のある大メディアは対応できても、うるさいフリーランスの記者などは「手が回らない」という状況を作り出すという、実に姑息な手立てを講じてきたのですが、それでも東電、保安院や経産省、そして官邸の会見内容の「齟齬」が重要な問題をあぶりだすことにつながってきたと言うべきでした。
ここにきて「統合会見」にしたことをどうとらえるのかは各メディアの問われるところだと思います。さらに言うならば、各原子炉の状態がどうなのかという問題をこえて、放射性物質の拡散、放射能汚染の拡大という事態が一層深刻化する段階をとらえて「情報の一元化」をはかるのは一体なぜなのかと考えればおのずと答えは明らかと言うべきです。
ところで、4月初めから、新聞各紙が原発問題の検証記事を載せ始めています。
けさ(30日朝)ある新聞の検証企画記事を読んでいて目を疑う記述にぶつかりました。
これまでも真偽のほどがあきらかではないまま経過している14日の東電による「第1原発からの撤退発言」問題についての以下のようなくだりです。
「現場は切迫していた。午前に3号機が水素爆発し、午後には2号機で水位低下。午後9時には炉心の燃料溶融に関し枝野官房長官が1〜3号機とも『可能性は高い』と言明し衝撃が走る。自衛隊員4人が午前の水素爆発で負傷し、防衛省は東電の『大丈夫』との判断に疑問を抱く。夜には中央特殊武器防護隊員らが郡山市の駐屯地に一時退く。同様に第1原発の近くで待機していた原子力・安全保安院の職員らも郡山に退く。住民は半径20キロ内からの避難指示だが、安全を担うはずの保安院は50キロ以上先の郡山へ。炉心溶融か、という極限の状況を考えれば、だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。・・・」
これを読んで唖然としない人がいたら教えてほしいと思います。
ここで言う人命とは一体誰の「命」の事なのでしょうか。
言うまでもなく東電社員もしくは下請けの協力会社の作業員をはじめとする東電関係者と言うことになります。
地域に住む住民はここでの人命には含まれていないことはあきらかです。
「だれよりも危険を認識していた東電」であるなら、まず知らせるべきは地域住民であり、住民の「全面撤退」こそが、最優先になされるべきことであったはずです。
「極限の状況を考えれば」なおさらです。
それが「だれよりも危険を認識していた東電が人命を優先して事実上、第1原発からの全面撤退を決断したとしても一概に批判できない。」とは、これを書いた記者は一体どういう立場に立ってものを考えているのか聞いてみたいとさえ思うのですが、どうでしょうか。また、よくこんな記事が「検証記事」としてデスクの目を通ったものだとこの新聞社の取材、出稿体制に妙な感心さえしてしまいます。
しかし悪いことだけではありません。この記者が無意識、無自覚に書いたことで非常によくわかったことがあります。
このとき、地域の住民を放り出して、保安院のみならず自衛隊員までが50キロ以上離れたところに、まさに我先にと逃げていたということです。それぐらい「極限の状況」だったというわけです。
原子炉は健全に保たれている・・・とは一体誰の言葉だったのか・・・。
あらためて、原発震災にかかわる政府や東電の対処、対応にとどまらず、メディアの報道について厳しい検証が必要だと痛感します。
「出口なき迷路」と私は、原発問題が起きてから言い続けてきました。
原子炉内および使用済み燃料プール(の核燃料)を冷やして安定させることが喫緊の問題である。
そのためには冷却系の装置を機能させる電源が必要だ。電気系統が機能しなければならない。
しかし電源を喪失していたので水を注入するしかない。
水を注げば注ぐほど高濃度の汚染水が漏れ出し滞留して電気系統の回復作業すらできない。
だから、さらに注水して原子炉を冷やさなければならない。
と、まあこうして悪魔のような悪循環に陥ってしまい、出口が見えないという状況に突き当たってしまい、抜け出す術をもたない。
これを「出口なき迷路」と言わずしてなんというのか、というわけです。
状況は深刻です。
チェルノブイリから25年ということで、4月26日に参議院議員会館で「院内集会」がひらかれたので聴講したのですが、1997年に「科学」に「原発震災〜破滅を避けるために」を寄稿して以来、地震と原発の相関で警鐘を鳴らし続けてきた神戸大学名誉教授の石橋克彦氏の話を聴きながら、あらためて「原発震災」というものの深刻さを考えさせられました。
1997年の「科学」への寄稿論文には「(東海地震などの巨大地震に)原発災害が併発すれば被災地の救援・復旧は不可能になる。いっぽう震災時には、原発の事故処理や住民の放射能からの避難も、平時に比べて極度に困難だろう。つまり、大地震によって通常震災と原発災害が複合する“原発震災”が発生し、しかも地震動を感じなかった遠方にまで何世代にもわたって深刻な被害を及ぼすのである。膨大な人々が二度と自宅に戻れず、国土の片隅でガンと遺伝的障害におびえながら細々と暮らすという未来図もけっして大袈裟ではない。」とあります。
まるでいま私たちが目にしている「事象」(官邸も、東電も、そして原子力を専門とするひと群れの学者たちも、発災からかなりの期間、今回の事故をこのように表現していたものです)を見事に言い当てていることに驚いたものです。
それにしても放射能汚染問題は深刻です。
2週間ほど前、現政権の枢要をなす政治家が、本当のところは福島市(に住む市民)までをも避難させたいのだが今の政府には30万人とか40万人の人間を避難させる力はないと洩らしたということを耳にしました。
私的な会話でつい本音を洩らしてしまったということでしょうからこれでどうこう言えることではないかもしれませんが、事がいかに深刻かを物語っていることは確かです。
しかし、その深刻さを政府も東電もそしてそれを知りうる立場にあるメディアも率直に語っていないということこそ、より深刻な問題だと、私は考えます。
さて、またもや長くなりすぎるので、一応の区切りをつけますが、検証すべき問題、考えなければならない数多くの問題のなかから、最低限のいくつかだけをメモしておきます。
1.原発震災について言うなら、東電、政府、専門家そしてメディアはなによりも本当のことを語るべきだということです。これまでひたすらごまかしと隠ぺいに狂奔してきた自己のあり方を反省して、一切のごまかし、隠ぺいをせずに本当のことを語るという、実に単純で素朴なことを誠実に実行することです。もっとも今の政権、東電、メディアなどに登場している原子力専門家たちの存立、存在を、そしてメディアのあり方を根底から脅かすことになるわけですから、この「簡単」なことが実行されることは、残念ながら、期待できないというべきですが・・・。
2.復興問題について言うなら、インフラの回復については国がすべての責任をもって即時かつ強力に、本当に一気呵成になすべきだと思います。これは阪神淡路大震災を現場で経験した教訓です。電気、通信、水道、ガスなどのライフラインは個別企業の努力で回復させるものだと考えがちですが、そうではなく、こうしたライフラインに加え道路、鉄道、港湾設備、さらに瓦礫の撤去、処理などはむしろ国の責任で一気に行い、回復させるべきだと、これは震災体験から学んだことです。ライフラインの回復状況などを考えると、すでに後知恵、後証文になっていることも多くありますが、これは発災直後から研究会などの議論で主張してきたことです。
3.では、復興計画についてはどうかといえば、これこそそれぞれの被災地の人々の知恵と考えに、つまり現場にゆだねるということにすべきことだというのが、これまた阪神淡路を経験した教訓です。つまり、現在の政権のやろうとしていることは全く逆で、逆立ちしていると言うべきだと、私は確信しています。被災現場にはどんな苦境の中でも立ち上がろうとして格闘する多くの人がいます。その人たちの知恵と力こそが復興ビジョンの構想力の源なのです。東京の官邸の会議室などで高額の報酬や謝礼を懐にしてあれやこれやの「議論」を交わす識者などにゆだねるべきものではない!というのが過去の震災の教訓です。被災現場の声に耳を傾け、現場の知恵を生かし、現場が望むことを実現するのが中央の権力の座に座っている人々のなすべきことなのです。つまり被災現場の人々の下僕として働くのが政治家であり官僚であるべきなのです。発想の逆転をこそすべきなのだと、私は確信します。識者と言われる人々も、もし復興計画に関わりたいのなら、現場に赴いてそこで被災した人々と共に汗を流すべきなのです。それ以外のただ評論する識者など、どんなに立派なことを言ったとしても無用のものだと言うべきです。
4.政治の責任という意味では、パフォーマンスはもうやめにすべきです。この連休中も予算委員会の論議をはじめ国会を休まずやっている光景がテレビで中継されていますが、考えてみれば、ではこれまで国会は何をしてきたのだというべきです。これ見よがしに連休中も国会議員は「働いている」というのは一見もっともらしく見えますが冷静に考えてみれば実にでたらめな、目くらましのパフォーマンスだというべきです。発災から50日、一体国会は何をしていたのだと問わなければならないと思います。なすべきことを何もしてこなかったからこうなったというだけのことではないでしょうか。ましてや、今様「黄門様」だかなにかは知りませんが、予算委員会の冒頭、「涙声」で菅首相を諌めるなどという猿芝居まがいのことに「電話で『入閣してくれ』なんて、政治経験がまだ浅い!自民党との連立政権の構築で失態を演じた首相に“黄門さま”が活を入れた・・・」とか「目に涙をためながら『今200万福島県民の怒りは頂点に達している』と指摘するなど、終始厳しい口調で菅首相の震災対応を追及・・・」などとはやし立てるメディアとは一体なんだろうかと思います。ちなみに以前「ウソ泣き」の空虚さを言われた女性タレントがいましたが、「目に涙をためながら」絞り出すような声で首相を「叱咤」したはずにもかかわらず一滴の涙も流さず、一転して出席議員たちの笑いを取るなどという達者な演技にただただ白けたのは私だけではなかったと思います。政治家とはこれほど底の浅いものでいいのでしょうか。パフォーマンスはもうやめにすべきです。それ以上に、福島県出身の「黄門様」に問うべきことは、では、あなたは福島への原発誘致に対してどのような政治行動をとってきたのか?!ということではないでしょうか。
5.阪神淡路大震災の復興論が議論された際「復興ファシズム」という言葉が登場したことを思い起こします。お上の、あるいは県の(首長の)やる復興施策にあれこれ異議を申し立てるのはまるで「非国民」といった空気が醸成され、メディアなどの論調もそれを許すようなものになりがちだったことを、いま、深く考えてみなければならないと思います。それは今回の震災が、まぎれもなく日本のこれからの社会をどのようなものにしていくのかという歴史的な転換点としてあるということを痛感するからです。阪神淡路大震災当時、震災報道の現場に身を置きながらかつての関東大震災についていくばくかの勉強をしたことがありました。そこで学んだことのひとつは、当時これだけの悲惨な激甚災害なのだから三代百年は記憶に刻まれるだろうと言われたものがそうはならず、まさに喉元過ぎれば・・・の喩えのように記憶の彼方に忘れ去られ「阪神淡路」を迎えてしまったという悔恨でした。つまり震災の教訓を歴史に刻み、記憶に刻むことの大切さを痛切な思いと共に、あらためて学んだということでした。今回の震災は「阪神淡路」からわずか16年のことでした。そしてその教訓とは単に「地震に強いまちづくり」といったことにとどまらず、震災当時に起きた「朝鮮人虐殺」という忌まわしい事件をはじめとして、震災を機に歴史がどういう道をたどったのかということにありました。1923年の関東大震災から2年後、普通選挙法と治安維持法が時を同じくして定められ、その後1929年の「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌をへて、1937年7月7日の「盧溝橋事件」へと時代は大きく転回しました。震災からわずか14年のことでした。政治、社会、時代風潮など根の深いところで「30年代的状況」とのアナロジーが語られる現在、今回の震災以後の社会をどのようなものにしていくのか、どんな日本を再構築していくのかという問題と真剣に向き合う必要があると考えます。そして、決して歴史を誤ることがあってはならないと痛切に思います。そんな時、「復興ファシズム」ということが語られた状況について今一度思い返してみることは決して無駄なことではないと考えます。
さて、歩まねばならぬ・・・ということばが胸の奥深くでこだまのように響きます。
語るべきことは数多くありますが、言葉がいかほどのものかという畏れを抱きながらも、問題のありかを深く掘り、問題を共有し、問題意識を深めながら、多くの人と手を携えて、この震災に立ち向かう力を!と切に思います。
2011年03月31日
The situation remains very serious・・・
The situation remains very serious・・・
これはIAEAの天野事務局長が記者会見(28日ウイーン)で「福島原発」の現局面について述べたことばです。けさTVで放映されました。しかもvery seriousな状態が続いていると繰り返して強調し、いかに深刻なレベルなのかが伝わってくる会見でした。
日本政府はこれをなんとか薄めることにやっきになっているという様子ですが、最早、世界はそれを許してくれないという局面を迎えました。
まさに「世界が震撼するFUKUSHIMA」となった今、東電―経済産業省―日本政府の枠組みをこえて、「世界総がかり」の取り組みを余儀なくされる段階に入りました。
メディアではここに至ってもなお「幾分落ち着いている・・・」などと言って恥じない原子力専門家もいるので驚くばかりです。
こうした「もの言い」は昨日東電の清水社長の「入院」によって、代わって会見に臨んだ勝俣会長の「原発の復旧の見通しは、正直、冷温に保つという最終冷却がまだできていない状況だ。最近は少し安定してきたが、冷温冷却できるようにならないと、安定しない。最大限そこに注力することが第一。それ以降、いろいろ課題あるが、こうした点については、今後、どういうステップでいくかを詰めたい。」という言及と、実に平仄の合ったものだと言わざるをえません。
さてしかし、IAEAの天野氏は「非常に深刻だ」だと言っているのです。
どちらが本当なのか・・・。
昨日の会見で「事態の収束が長引いていることについて、政府、東電含めて、オペレーションのまずさによる人災の側面があるが、どう受け止めているのか」と問われて「はい。わたし自身はまずさというのは感じられませんでした。ただ、現場は電気が消えている。通信もできない状況で、いろいろ作業しなければならなかった。いろんな作業が予定より長くかかった。これまでボタン1つで動いたものが、手動でやらないといけない状況があって、意図せざる遅れがあったということかと思います。」などと臆面もなく語る人物の発言と天野氏の言及を比べれば言うまでもないことでしょう。
まだこんなことを言いながら平然と会見の席に座る人物が東電の最高責任者だというのですから、世界が「焦燥感をつのらせる」というのもわかります。
もちろん、この「世界総がかり」というのは、本当は、慎重に吟味、検証してみなければならない「キナ臭さ」がつきまとうのですが、いまはそんなことも言っておれず、とにかく最悪の事態をどうすれば避けることができるのかという一点で、できることをすべて「やってもらう」しかありません。
その「総がかり」についてランダムにいくつかメモしてみると、
1.IAEAがモナコにある傘下の海洋環境研究所の専門家を新たに派遣。来月2日から日本の専門家とともに福島第一原発周辺の海水に含まれる放射性物質の測定や評価に当たる。なお、IAEAは、これまで合わせて15人の専門家を日本に派遣し、福島県や首都圏の大気中の放射線量や食品や土壌に含まれる放射性物質を独自に分析。
2.フランスの原子力企業「アレバ」のロベルジョンCEO・最高経営責任者と専門家が来日。「アレバ」は、これまでにも原発を廃止する作業の一環で汚染された水の処理を行ってきた実績があるとして、5人の専門家を中心に、福島原発の放射性物質で汚染された水の除去作業の技術的な支援に当たる。なお、アレバは福島第一原発で使用しているMOX燃料(混合酸化物燃料)を加工した企業でもある。
3.米エネルギー省原子力研究所(アイダホ州)が原発内で遠隔操作できるロボットと原発内を撮影できるカメラを提供。米エネルギー省のライヨンズ次官補代行(原子力担当)は「現時点の情報では、原発は事故からの復旧作業が遅れているように見える」としてエネルギー省から40人の専門家を派遣するとともに、作業に必要な機材約7トンも日本に送るとしている。
4.アメリカ軍の船舶(バージ船)で原発の冷却に使う真水を福島原発に運搬、提供。
5.アメリカの原子力関連メーカー「B&W」など3社の幹部や技術者合わせて数十人が、スリーマイル島の原発事故の処理に当たった経験を基に、福島第一原発の原子炉の製造に携わった「東芝」が設けている対策本部に詰めて東京電力にアドバイスをしているという。
6.日米両政府は、政府高官、原子力専門家、軍関係者らによる「福島第一原子力発電所事故の対応に関する日米協議」を3月22日に発足させていたという。日本側は内閣官房安全保障・危機管理室が事務局となり、福山哲郎官房副長官と細野豪志首相補佐官が統括役として参加、東京電力関係者も加わる。米国側からは国防総省、エネルギー省、原子力規制委員会(NRC)、米軍関係者らが入っているとされる。この「日米協議」には三つのプロジェクトチームが設置され@原子炉の冷却、流出する放射性物質の拡散防止A核燃料棒や使用済み核燃料の最終処理方法B廃炉に向けた作業、などについて検討しているという。また今1号機から3号機で漏れているとされる高濃度放射線に汚染された水の排出方法についても議論しているとのこと。
7.ただし、昨夜(30日)のNHKニュースによると「事態を深刻視しているアメリカ側の協力を得て、各省庁の担当者に在日アメリカ軍なども加わった4つの作業チームを総理大臣官邸に設置して、事態収拾に向けた具体策の検討を本格化」させているということで、これが上記の22日に発足した「日米協議」と同じものかは判然としないが、この作業チームには原子力安全・保安院や経済産業省などの関係省庁の担当者、在日米軍、アメリカの原子力規制委員会などの担当者が加わり、@漏えいが続いている放射性物質を空中や海中に拡散させないための方策、A作業員の被ばくを避けるため、原発敷地内で遠隔操作の無人機器を使った作業、B核燃料棒の処理方法、C原発周辺の住民の生活支援などについて検討を進めているという。
8.中国の建設機器大手、三一重工(湖南省長沙市)が、高さ62メートルから放水できる生コン圧送機を東京電力に寄付し、28日に福島県に到着。もとは高層ビルの建設現場で生コンを流し込む機械だが、冷却のための放水に転用。ドイツで製造され、ベトナムの建設会社「ソンダー・ベトドク」に納入するために船便で運ぶ途中、たまたま横浜港にあったために、日本側が協力を要請。ソンダー社が使用を快諾したもの。
報道されているものをざっと拾い上げるとこうしたものになるのですが、最後の中国からの「生コン圧送機」をおくと、要は、日−米−仏という原発大国の連携の構図が「FUKUSHIMA」を軸に形成されたというわけです。しかも民間のメーカー、企業の参加とはいえ、日本企業との密接な関連も含めて、いずれも「軍需産業」に連なる気配をもつものであることは留意しておくべきことだろうと思います。
今回のような「危急存亡のとき」に背後にこうした国際的な「総がかりの構図」が見え隠れするのも、いかにも原子力産業というべきでしょう。
ところで、このなかで冒頭に挙げたIAEAにかかわるところでは、福島第一原発からおよそ40キロ離れた福島県飯舘村で、土壌から、IAEAの避難基準の2倍に当たる放射性物質が検出され、日本政府に対し、「住民に避難を勧告するよう促した」と伝えられたのですが、その後、内閣府の原子力安全委員会の代谷誠治委員が「日本の避難の基準は、大気や空中の浮遊物、飲食物の放射線量など、人体への直接的な影響を判断できる数値で決めている。IAEAは、草の表面のちりの放射能を測定しており、日本の基準の方がより正確だ」として退け、各メディアの報道は「(IAEAは)日本政府に状況を注視するよう求めた」といった表現、トーンに変わりました。
メディアの報道を時系列で注意深く見ていると、どこか釈然としない事にぶつかるというのは、それこそ「今回の事象」が発生してから、ごくごく日常的なことですから驚くに値しませんが、きょうの原子力安全委員会のきっぱりとした言明は際立っているというべきでしょう。
ところで、今回の「原発事故」(人災というべきものですから、事故と記しますが)については、今後考えうる「シナリオ」(問題の所在)は明確になってきています。
テレビをはじめメディアに登場する「専門家」たちの話をいやというほど聞いて考えてみると、論理的にはこうでしかありえません。
つまり、初動で東電−経済産業省−政権の「内輪」だけでなんとかすり抜けようとする「弥縫策」に走ったことが致命的かつ泥沼のような「世界が震撼する福島」を引き起こしたということです。
「止める」「冷やす」「閉じ込める」という三要素のうち、なにはともあれ「止める」ことだけはできたものの、問題は「冷やす」というところで致命的な問題にぶつかったことを知りながら、ただひたすら水をかけまくる(放水)そして「水を注ぐ」(注水)ということに終始して、本来的に冷却機能を回復させるための時間を浪費してしまい、「メルトダウン」によって原子炉本体(東電や安全・保安院、官邸の発表では圧力容器か格納容器なのか、あるいは、そのどちらもなのか、まったくもって判然としませんが)が損傷して、その過程で、いうところの「水素爆発」を引き起こし、気づいた時には「かけまくった水」と「注いだ水」が「ザザ洩れ」となっていて高濃度の放射性物質の漏れ出た「水」によってにっちもさっちもいかなくなった、しかし電源を回復させて冷却系を稼働させるだけの時間的余裕もなくなって、ひたすら「水」をぶっかけ、注ぐしか手立てがないという泥沼にはまり込んでしまった、つまりはこういうことなのです。
つまり戦略なき「弥縫策」が招いた当然の帰結というべきです。
米国をはじめいくつかの「筋」から、当初から、「深刻な状況だ」という警告が発せられていたわけですから、まさに「事象」がどう進むのかということ(つまり「最悪の事態」がどういうものか)を明確にし、すべての情報を余すところなく正しく開示して、国民と世界に虚心坦懐に語り、よびかけて、初動から時を置かず「世界の知恵と力」を結集して立ち向かっていれば、もちろん事態は深刻であることには変わりがないとしても、このような底なしの「泥沼」にはまることはなかったと言えます。
今となれば、効果のほどはいざしらず、とにかく水を注いで冷やすということをやめることは「恐ろしいまでの破綻」を招きよせることに他ならず、しかし水をかけまくる、注ぎ続けるということを続ける限り本来的な冷却系の回復に取り組むことが極めて困難という「二律背反」の地獄に苦しむということが避けられなくなってしまったというわけです。
まさに、なんとかいう副大臣だかが言ったように「神のみぞ知る」というところに来てしまっているのですから、地元の福島の人たちのみならず、国民は救われません。
発災の2日目にして、私のような素人でも身近な人たちとの話で、「これはチェルノブイリのような『石棺』で閉じ込めるしかないだろう。しかしそれを可能にするために、どう冷やすのかだろう。『石棺』による閉じ込めを可能とするためにどうするのかを考えないと大変なことになる・・・」と話し合ったものです。
発災2日目のことです。
何も知らない「素人」でもそれぐらいのことはわかったのです。
いまさら「布で覆う」などという絵空事を云々するのなら、初動でなすべき決断と対処、対策があったはずです。
ここに至れば、どれほど「キナ臭い」ものであれ、とにかく「世界総がかり」の取り組みに望みをかけるしかありません。
だからこそ、ここまでの「泥沼状態」を招き寄せた人々ははっきりと責任を全うすべきなのです。
それにしても、きのうも書きましたが、原子力産業という、産−官−学−政を結ぶ度し難いまでの「闇の構図」をどうするのか、それこそ「FUKUSHIMA」をのりこえたとしても、立ち向かうべき問題の根は深いと言うべきです。
そして、昨日の東電勝俣会長の会見の質疑について、けさの新聞をはじめ、なぜかほとんどのメディアは触れていないのですが、注目すべき「やりとり」がされています。
―事故当時、マスコミを引き連れて、中国へ訪問旅行に行っていたのか。旅費は東電持ちか・・・
勝俣会長「全額東電負担ではない。詳細はよく分からないが、たぶん、多めには出していると思う。マスコミ幹部というのとは若干違う。OBの研究会、勉強会の方々。誰といったかはプライベートの問題なので・・・」
―どの社なのか
勝俣会長「責任者の方によく確認して対応を考えさせていただきたい。2〜3日中にどういうことになっているか照会したい」
産−官−学−政と書きましたが、ここに「メディア」を加えなければならないという根深い構図が見えてくることに、めまいがする思いです。
これはIAEAの天野事務局長が記者会見(28日ウイーン)で「福島原発」の現局面について述べたことばです。けさTVで放映されました。しかもvery seriousな状態が続いていると繰り返して強調し、いかに深刻なレベルなのかが伝わってくる会見でした。
日本政府はこれをなんとか薄めることにやっきになっているという様子ですが、最早、世界はそれを許してくれないという局面を迎えました。
まさに「世界が震撼するFUKUSHIMA」となった今、東電―経済産業省―日本政府の枠組みをこえて、「世界総がかり」の取り組みを余儀なくされる段階に入りました。
メディアではここに至ってもなお「幾分落ち着いている・・・」などと言って恥じない原子力専門家もいるので驚くばかりです。
こうした「もの言い」は昨日東電の清水社長の「入院」によって、代わって会見に臨んだ勝俣会長の「原発の復旧の見通しは、正直、冷温に保つという最終冷却がまだできていない状況だ。最近は少し安定してきたが、冷温冷却できるようにならないと、安定しない。最大限そこに注力することが第一。それ以降、いろいろ課題あるが、こうした点については、今後、どういうステップでいくかを詰めたい。」という言及と、実に平仄の合ったものだと言わざるをえません。
さてしかし、IAEAの天野氏は「非常に深刻だ」だと言っているのです。
どちらが本当なのか・・・。
昨日の会見で「事態の収束が長引いていることについて、政府、東電含めて、オペレーションのまずさによる人災の側面があるが、どう受け止めているのか」と問われて「はい。わたし自身はまずさというのは感じられませんでした。ただ、現場は電気が消えている。通信もできない状況で、いろいろ作業しなければならなかった。いろんな作業が予定より長くかかった。これまでボタン1つで動いたものが、手動でやらないといけない状況があって、意図せざる遅れがあったということかと思います。」などと臆面もなく語る人物の発言と天野氏の言及を比べれば言うまでもないことでしょう。
まだこんなことを言いながら平然と会見の席に座る人物が東電の最高責任者だというのですから、世界が「焦燥感をつのらせる」というのもわかります。
もちろん、この「世界総がかり」というのは、本当は、慎重に吟味、検証してみなければならない「キナ臭さ」がつきまとうのですが、いまはそんなことも言っておれず、とにかく最悪の事態をどうすれば避けることができるのかという一点で、できることをすべて「やってもらう」しかありません。
その「総がかり」についてランダムにいくつかメモしてみると、
1.IAEAがモナコにある傘下の海洋環境研究所の専門家を新たに派遣。来月2日から日本の専門家とともに福島第一原発周辺の海水に含まれる放射性物質の測定や評価に当たる。なお、IAEAは、これまで合わせて15人の専門家を日本に派遣し、福島県や首都圏の大気中の放射線量や食品や土壌に含まれる放射性物質を独自に分析。
2.フランスの原子力企業「アレバ」のロベルジョンCEO・最高経営責任者と専門家が来日。「アレバ」は、これまでにも原発を廃止する作業の一環で汚染された水の処理を行ってきた実績があるとして、5人の専門家を中心に、福島原発の放射性物質で汚染された水の除去作業の技術的な支援に当たる。なお、アレバは福島第一原発で使用しているMOX燃料(混合酸化物燃料)を加工した企業でもある。
3.米エネルギー省原子力研究所(アイダホ州)が原発内で遠隔操作できるロボットと原発内を撮影できるカメラを提供。米エネルギー省のライヨンズ次官補代行(原子力担当)は「現時点の情報では、原発は事故からの復旧作業が遅れているように見える」としてエネルギー省から40人の専門家を派遣するとともに、作業に必要な機材約7トンも日本に送るとしている。
4.アメリカ軍の船舶(バージ船)で原発の冷却に使う真水を福島原発に運搬、提供。
5.アメリカの原子力関連メーカー「B&W」など3社の幹部や技術者合わせて数十人が、スリーマイル島の原発事故の処理に当たった経験を基に、福島第一原発の原子炉の製造に携わった「東芝」が設けている対策本部に詰めて東京電力にアドバイスをしているという。
6.日米両政府は、政府高官、原子力専門家、軍関係者らによる「福島第一原子力発電所事故の対応に関する日米協議」を3月22日に発足させていたという。日本側は内閣官房安全保障・危機管理室が事務局となり、福山哲郎官房副長官と細野豪志首相補佐官が統括役として参加、東京電力関係者も加わる。米国側からは国防総省、エネルギー省、原子力規制委員会(NRC)、米軍関係者らが入っているとされる。この「日米協議」には三つのプロジェクトチームが設置され@原子炉の冷却、流出する放射性物質の拡散防止A核燃料棒や使用済み核燃料の最終処理方法B廃炉に向けた作業、などについて検討しているという。また今1号機から3号機で漏れているとされる高濃度放射線に汚染された水の排出方法についても議論しているとのこと。
7.ただし、昨夜(30日)のNHKニュースによると「事態を深刻視しているアメリカ側の協力を得て、各省庁の担当者に在日アメリカ軍なども加わった4つの作業チームを総理大臣官邸に設置して、事態収拾に向けた具体策の検討を本格化」させているということで、これが上記の22日に発足した「日米協議」と同じものかは判然としないが、この作業チームには原子力安全・保安院や経済産業省などの関係省庁の担当者、在日米軍、アメリカの原子力規制委員会などの担当者が加わり、@漏えいが続いている放射性物質を空中や海中に拡散させないための方策、A作業員の被ばくを避けるため、原発敷地内で遠隔操作の無人機器を使った作業、B核燃料棒の処理方法、C原発周辺の住民の生活支援などについて検討を進めているという。
8.中国の建設機器大手、三一重工(湖南省長沙市)が、高さ62メートルから放水できる生コン圧送機を東京電力に寄付し、28日に福島県に到着。もとは高層ビルの建設現場で生コンを流し込む機械だが、冷却のための放水に転用。ドイツで製造され、ベトナムの建設会社「ソンダー・ベトドク」に納入するために船便で運ぶ途中、たまたま横浜港にあったために、日本側が協力を要請。ソンダー社が使用を快諾したもの。
報道されているものをざっと拾い上げるとこうしたものになるのですが、最後の中国からの「生コン圧送機」をおくと、要は、日−米−仏という原発大国の連携の構図が「FUKUSHIMA」を軸に形成されたというわけです。しかも民間のメーカー、企業の参加とはいえ、日本企業との密接な関連も含めて、いずれも「軍需産業」に連なる気配をもつものであることは留意しておくべきことだろうと思います。
今回のような「危急存亡のとき」に背後にこうした国際的な「総がかりの構図」が見え隠れするのも、いかにも原子力産業というべきでしょう。
ところで、このなかで冒頭に挙げたIAEAにかかわるところでは、福島第一原発からおよそ40キロ離れた福島県飯舘村で、土壌から、IAEAの避難基準の2倍に当たる放射性物質が検出され、日本政府に対し、「住民に避難を勧告するよう促した」と伝えられたのですが、その後、内閣府の原子力安全委員会の代谷誠治委員が「日本の避難の基準は、大気や空中の浮遊物、飲食物の放射線量など、人体への直接的な影響を判断できる数値で決めている。IAEAは、草の表面のちりの放射能を測定しており、日本の基準の方がより正確だ」として退け、各メディアの報道は「(IAEAは)日本政府に状況を注視するよう求めた」といった表現、トーンに変わりました。
メディアの報道を時系列で注意深く見ていると、どこか釈然としない事にぶつかるというのは、それこそ「今回の事象」が発生してから、ごくごく日常的なことですから驚くに値しませんが、きょうの原子力安全委員会のきっぱりとした言明は際立っているというべきでしょう。
ところで、今回の「原発事故」(人災というべきものですから、事故と記しますが)については、今後考えうる「シナリオ」(問題の所在)は明確になってきています。
テレビをはじめメディアに登場する「専門家」たちの話をいやというほど聞いて考えてみると、論理的にはこうでしかありえません。
つまり、初動で東電−経済産業省−政権の「内輪」だけでなんとかすり抜けようとする「弥縫策」に走ったことが致命的かつ泥沼のような「世界が震撼する福島」を引き起こしたということです。
「止める」「冷やす」「閉じ込める」という三要素のうち、なにはともあれ「止める」ことだけはできたものの、問題は「冷やす」というところで致命的な問題にぶつかったことを知りながら、ただひたすら水をかけまくる(放水)そして「水を注ぐ」(注水)ということに終始して、本来的に冷却機能を回復させるための時間を浪費してしまい、「メルトダウン」によって原子炉本体(東電や安全・保安院、官邸の発表では圧力容器か格納容器なのか、あるいは、そのどちらもなのか、まったくもって判然としませんが)が損傷して、その過程で、いうところの「水素爆発」を引き起こし、気づいた時には「かけまくった水」と「注いだ水」が「ザザ洩れ」となっていて高濃度の放射性物質の漏れ出た「水」によってにっちもさっちもいかなくなった、しかし電源を回復させて冷却系を稼働させるだけの時間的余裕もなくなって、ひたすら「水」をぶっかけ、注ぐしか手立てがないという泥沼にはまり込んでしまった、つまりはこういうことなのです。
つまり戦略なき「弥縫策」が招いた当然の帰結というべきです。
米国をはじめいくつかの「筋」から、当初から、「深刻な状況だ」という警告が発せられていたわけですから、まさに「事象」がどう進むのかということ(つまり「最悪の事態」がどういうものか)を明確にし、すべての情報を余すところなく正しく開示して、国民と世界に虚心坦懐に語り、よびかけて、初動から時を置かず「世界の知恵と力」を結集して立ち向かっていれば、もちろん事態は深刻であることには変わりがないとしても、このような底なしの「泥沼」にはまることはなかったと言えます。
今となれば、効果のほどはいざしらず、とにかく水を注いで冷やすということをやめることは「恐ろしいまでの破綻」を招きよせることに他ならず、しかし水をかけまくる、注ぎ続けるということを続ける限り本来的な冷却系の回復に取り組むことが極めて困難という「二律背反」の地獄に苦しむということが避けられなくなってしまったというわけです。
まさに、なんとかいう副大臣だかが言ったように「神のみぞ知る」というところに来てしまっているのですから、地元の福島の人たちのみならず、国民は救われません。
発災の2日目にして、私のような素人でも身近な人たちとの話で、「これはチェルノブイリのような『石棺』で閉じ込めるしかないだろう。しかしそれを可能にするために、どう冷やすのかだろう。『石棺』による閉じ込めを可能とするためにどうするのかを考えないと大変なことになる・・・」と話し合ったものです。
発災2日目のことです。
何も知らない「素人」でもそれぐらいのことはわかったのです。
いまさら「布で覆う」などという絵空事を云々するのなら、初動でなすべき決断と対処、対策があったはずです。
ここに至れば、どれほど「キナ臭い」ものであれ、とにかく「世界総がかり」の取り組みに望みをかけるしかありません。
だからこそ、ここまでの「泥沼状態」を招き寄せた人々ははっきりと責任を全うすべきなのです。
それにしても、きのうも書きましたが、原子力産業という、産−官−学−政を結ぶ度し難いまでの「闇の構図」をどうするのか、それこそ「FUKUSHIMA」をのりこえたとしても、立ち向かうべき問題の根は深いと言うべきです。
そして、昨日の東電勝俣会長の会見の質疑について、けさの新聞をはじめ、なぜかほとんどのメディアは触れていないのですが、注目すべき「やりとり」がされています。
―事故当時、マスコミを引き連れて、中国へ訪問旅行に行っていたのか。旅費は東電持ちか・・・
勝俣会長「全額東電負担ではない。詳細はよく分からないが、たぶん、多めには出していると思う。マスコミ幹部というのとは若干違う。OBの研究会、勉強会の方々。誰といったかはプライベートの問題なので・・・」
―どの社なのか
勝俣会長「責任者の方によく確認して対応を考えさせていただきたい。2〜3日中にどういうことになっているか照会したい」
産−官−学−政と書きましたが、ここに「メディア」を加えなければならないという根深い構図が見えてくることに、めまいがする思いです。
2011年03月29日
ソウル発「コリア通信」特別号―1を読む
長く「休んでいた」ブログを再開しなければと思って書き始めたところに、仙台の地で、ご夫妻で「コリア文庫」を主宰されている、翻訳家であり韓国文学研究者でもある青柳優子さんから、ソウル発の「コリア文庫通信」特別号が届きました。
今回の震災の被災地である宮城県仙台市に住み、地域の人たちと手を携えて韓国文学を読み、朝鮮半島問題、東北アジアの平和について考える営みを重ねていらっしゃる青柳さんが、たまたま震災前日に仙台を発ってソウルでのシンポジウムに討論者として参加している間に地震が起きて、その後韓国に留まりながら仙台の地とそこでの仲間や市民、県民の安否を気遣い、現在の状況を案じていること、さらには韓国の民衆やメディアが今回の日本の震災にどのような「まなざし」でいるのかをビビッドに伝える「通信」でした。
韓国の反響を含め、今回の震災に対する諸外国の受けとめについては日本のメディアでも伝えられていますが、青柳さんから届いた「通信」を読みすすむうち、従来のメディアによる報道ではまったく伝えられていない大事なことがらがいくつも記されていることに気づきました。
そこで、青柳さんのご理解を得て、「コリア通信」特別号―1をここに転載させていただくことにしました。
既存のメディアではすくい上げられていない内容に、私は、胸が熱くなる思いで読みました。
ぜひお読みいただきたいと思います。
なお文中に触れられている金 起林は韓国の文学者でありジャーナリストで、当時の東北帝大に留学していたことがある仙台ゆかりの人物でもあります。
詳しくは青柳優子さんの編訳・著書「朝鮮文学の知性 金 起林」(新幹社2009年)をご参照ください。
コリア文庫通信 (特別号―1) 2011年3月29日
---------------------------------------------------------------------
東北大震災から18日になりますが、皆様、お元気でしょうか。
この間一時帰国していた連れ合いからの連絡によりますと、コリア文庫会員皆様の無事が確認され、ホッとしています。
私は、11日にソウルで開催された、日韓の翻訳事情に関するシンポジウムに討論者として参加するため、10日の飛行機で仙台空港を発ちました。そして、シンポジウムの最中に地震のことが日本大使館を通じて知らされましたが、夜ホテルに戻ってテレビを見てその被害の大きさに愕然としてしまいました。電話も通じないし、連絡の取りようがなく、本当に心配しました。
仙台空港が使えなくなり、また食糧事情などもよくないと聞いていますが、現在、私は状況を見ながら帰国の時期を探っているところです。
ところで、仙台ではどの位報道されているのかわかりませんが、こちら韓国では日本に対する全国民的な大きな支援と友情の輪が広がっています。連日、テレビを通じて募金が呼びかけられており、サッカーの試合などでは(日本は出場していませんでしたが)選手も応援席のファンたちも「日本がんばれ!」の日本語で書かれた横断幕を掲げて「日本、ファイト」と声をあげ、カメラもそれを大写しで伝えたり、日本と姉妹校になっている高校の生徒たちも募金とともに励ましの手紙を書いたり、伝えきれないほど様々な支援と友情の輪が広がっています。
特に印象的だったのは、日本軍「慰安婦」被害者のハルモ二たちが3月16日の定例の水曜抗議デモを地震被害者の冥福を祈る集会にしたという報道でした。日本という国家に対しては抗議しているが、この度のとてつもない被害にあった日本人に対しては冥福とともに早く復興できるよう祈っているというハルモ二の声が伝えられました。恐ろしい状況の中で生き抜いてきたハルモ二たちの崇高なる精神と優しさに触れた瞬間でした。
また、15日付けのハンギョレ新聞の1面に高銀(コ・ウン)さんの詩「日本への礼義」が大きく掲載されました。白楽晴(ペク・ナクチョン)先生の勧めで日本語に訳したのを朝日新聞に送りました。今週中に掲載される予定です。いい詩だということで、雑誌『世界』にも掲載されることになりました。
昨日は、ハンギョレ新聞社や市民団体が主催する「追慕と連帯の夜」の集まりがソウル鐘路の普信閣で開催され、多くの市民が参加したそうです。私は残念ながら、参加できませんでした。
そして、今朝(3月29日)の「ハンギョレ新聞」の第1面には、甲子園に出場した東北高校の記事が連合ニュースの写真とともに載っています。タイトルも「勇気を奮い起こす‵希望の直球′」で、地震にあいながらも出場した東北高校の選手たちとそれを支える仙台市民の姿が感動的に伝えられています。韓国では高校野球はまったく関心外のものなので、日本の「甲子園」についてはほとんど知られていません。そういう点からも日本人の庶民生活を伝えるいい報道だと感心しました。この間感じていることですが、掲載された写真なども、久しぶりに学校の教室で学友に再会して喜ぶ子供たちの姿など、「日本」という国家に重点が置かれることなく、同じ「人間」としての姿に焦点をあてた報道になっています。これは大きな変化であり、素晴らしいことだと思います。60年以上前に金起林が喝破した“民族主義“と“民族文化”の違い, そして将来向かうべき“民族文化”の方向が、今、この目の前で示されているのです。感慨無量です。「ハンギョレ新聞」の報道が特別というのではなく、そうした報道姿勢を自然に受けとめている多くの読者が存在するからこそ、そうした報道が可能なのであり、可能な市民社会が構築されている証でありましょう。
転じて日本の社会はどうなのでしょうか? 一部で関東大震災のときのような流言蜚語が飛び交ったと、インターネットで伝えられていました。こうした大災害に便乗して出てくる排他的民族主義・国粋主義の醜悪さと情けなさを痛感しました。そうした心無いデマを言いふらす人々は、きっと自分の醜い行為が瞬時にして全世界に知れわたっていることも平気で関係ないとでも思っているのでしょうか?非常に多くの人が非常に長い時間をかけて一つ一つ積み上げてきた国家を超える信頼関係を破壊する破廉恥で恐ろしい行為であることを自覚できるだけの人間性をもってほしいと痛切に思います。
さて、現在の生活で直接体験していることとしては、まず、以前仙台に取材にいらっしゃったアリランTVのプロデューサー・朴さんご夫妻のご親切です。ホテルを出た3月18日から朴さんのご自宅にずっとお世話になっています。そして、近所に住んでいる高一の姪御さんがやってきていろいろ取材されたりもしました。彼女は高校の新聞部に所属していて、その学校も日本の学校と姉妹校の提携をしているのだそうです。「普段、どのような地震対策をしているのか、避難訓練は定期的にやっているのか、学校でもやっているのか」など、いろいろ聞かれました。話をしていて、新聞部だからということではなく、すぐ隣の国で起きた大災害に隣人として心配し、なんとか励ましたいという気持ちで会いに来てくれたことがわかり、とてもうれしく、しみじみとした思いになりました。
一昨日の日曜日にもお母さんから頼まれたといってお手製の特別なサンドイッチを持ってきてくれました。本当に皆さんのご親切に感謝しながら過ごしています。
今、私は国立中央図書館に通って今後の仕事の段取りをしています。帰国するまで、こちらから皆さんにできる限り発信していきたいと思います。
皆さん、どうかお体を大切に!또 봅시다!!
(ソウルにて、青柳優子)
今回の震災の被災地である宮城県仙台市に住み、地域の人たちと手を携えて韓国文学を読み、朝鮮半島問題、東北アジアの平和について考える営みを重ねていらっしゃる青柳さんが、たまたま震災前日に仙台を発ってソウルでのシンポジウムに討論者として参加している間に地震が起きて、その後韓国に留まりながら仙台の地とそこでの仲間や市民、県民の安否を気遣い、現在の状況を案じていること、さらには韓国の民衆やメディアが今回の日本の震災にどのような「まなざし」でいるのかをビビッドに伝える「通信」でした。
韓国の反響を含め、今回の震災に対する諸外国の受けとめについては日本のメディアでも伝えられていますが、青柳さんから届いた「通信」を読みすすむうち、従来のメディアによる報道ではまったく伝えられていない大事なことがらがいくつも記されていることに気づきました。
そこで、青柳さんのご理解を得て、「コリア通信」特別号―1をここに転載させていただくことにしました。
既存のメディアではすくい上げられていない内容に、私は、胸が熱くなる思いで読みました。
ぜひお読みいただきたいと思います。
なお文中に触れられている金 起林は韓国の文学者でありジャーナリストで、当時の東北帝大に留学していたことがある仙台ゆかりの人物でもあります。
詳しくは青柳優子さんの編訳・著書「朝鮮文学の知性 金 起林」(新幹社2009年)をご参照ください。
コリア文庫通信 (特別号―1) 2011年3月29日
---------------------------------------------------------------------
東北大震災から18日になりますが、皆様、お元気でしょうか。
この間一時帰国していた連れ合いからの連絡によりますと、コリア文庫会員皆様の無事が確認され、ホッとしています。
私は、11日にソウルで開催された、日韓の翻訳事情に関するシンポジウムに討論者として参加するため、10日の飛行機で仙台空港を発ちました。そして、シンポジウムの最中に地震のことが日本大使館を通じて知らされましたが、夜ホテルに戻ってテレビを見てその被害の大きさに愕然としてしまいました。電話も通じないし、連絡の取りようがなく、本当に心配しました。
仙台空港が使えなくなり、また食糧事情などもよくないと聞いていますが、現在、私は状況を見ながら帰国の時期を探っているところです。
ところで、仙台ではどの位報道されているのかわかりませんが、こちら韓国では日本に対する全国民的な大きな支援と友情の輪が広がっています。連日、テレビを通じて募金が呼びかけられており、サッカーの試合などでは(日本は出場していませんでしたが)選手も応援席のファンたちも「日本がんばれ!」の日本語で書かれた横断幕を掲げて「日本、ファイト」と声をあげ、カメラもそれを大写しで伝えたり、日本と姉妹校になっている高校の生徒たちも募金とともに励ましの手紙を書いたり、伝えきれないほど様々な支援と友情の輪が広がっています。
特に印象的だったのは、日本軍「慰安婦」被害者のハルモ二たちが3月16日の定例の水曜抗議デモを地震被害者の冥福を祈る集会にしたという報道でした。日本という国家に対しては抗議しているが、この度のとてつもない被害にあった日本人に対しては冥福とともに早く復興できるよう祈っているというハルモ二の声が伝えられました。恐ろしい状況の中で生き抜いてきたハルモ二たちの崇高なる精神と優しさに触れた瞬間でした。
また、15日付けのハンギョレ新聞の1面に高銀(コ・ウン)さんの詩「日本への礼義」が大きく掲載されました。白楽晴(ペク・ナクチョン)先生の勧めで日本語に訳したのを朝日新聞に送りました。今週中に掲載される予定です。いい詩だということで、雑誌『世界』にも掲載されることになりました。
昨日は、ハンギョレ新聞社や市民団体が主催する「追慕と連帯の夜」の集まりがソウル鐘路の普信閣で開催され、多くの市民が参加したそうです。私は残念ながら、参加できませんでした。
そして、今朝(3月29日)の「ハンギョレ新聞」の第1面には、甲子園に出場した東北高校の記事が連合ニュースの写真とともに載っています。タイトルも「勇気を奮い起こす‵希望の直球′」で、地震にあいながらも出場した東北高校の選手たちとそれを支える仙台市民の姿が感動的に伝えられています。韓国では高校野球はまったく関心外のものなので、日本の「甲子園」についてはほとんど知られていません。そういう点からも日本人の庶民生活を伝えるいい報道だと感心しました。この間感じていることですが、掲載された写真なども、久しぶりに学校の教室で学友に再会して喜ぶ子供たちの姿など、「日本」という国家に重点が置かれることなく、同じ「人間」としての姿に焦点をあてた報道になっています。これは大きな変化であり、素晴らしいことだと思います。60年以上前に金起林が喝破した“民族主義“と“民族文化”の違い, そして将来向かうべき“民族文化”の方向が、今、この目の前で示されているのです。感慨無量です。「ハンギョレ新聞」の報道が特別というのではなく、そうした報道姿勢を自然に受けとめている多くの読者が存在するからこそ、そうした報道が可能なのであり、可能な市民社会が構築されている証でありましょう。
転じて日本の社会はどうなのでしょうか? 一部で関東大震災のときのような流言蜚語が飛び交ったと、インターネットで伝えられていました。こうした大災害に便乗して出てくる排他的民族主義・国粋主義の醜悪さと情けなさを痛感しました。そうした心無いデマを言いふらす人々は、きっと自分の醜い行為が瞬時にして全世界に知れわたっていることも平気で関係ないとでも思っているのでしょうか?非常に多くの人が非常に長い時間をかけて一つ一つ積み上げてきた国家を超える信頼関係を破壊する破廉恥で恐ろしい行為であることを自覚できるだけの人間性をもってほしいと痛切に思います。
さて、現在の生活で直接体験していることとしては、まず、以前仙台に取材にいらっしゃったアリランTVのプロデューサー・朴さんご夫妻のご親切です。ホテルを出た3月18日から朴さんのご自宅にずっとお世話になっています。そして、近所に住んでいる高一の姪御さんがやってきていろいろ取材されたりもしました。彼女は高校の新聞部に所属していて、その学校も日本の学校と姉妹校の提携をしているのだそうです。「普段、どのような地震対策をしているのか、避難訓練は定期的にやっているのか、学校でもやっているのか」など、いろいろ聞かれました。話をしていて、新聞部だからということではなく、すぐ隣の国で起きた大災害に隣人として心配し、なんとか励ましたいという気持ちで会いに来てくれたことがわかり、とてもうれしく、しみじみとした思いになりました。
一昨日の日曜日にもお母さんから頼まれたといってお手製の特別なサンドイッチを持ってきてくれました。本当に皆さんのご親切に感謝しながら過ごしています。
今、私は国立中央図書館に通って今後の仕事の段取りをしています。帰国するまで、こちらから皆さんにできる限り発信していきたいと思います。
皆さん、どうかお体を大切に!또 봅시다!!
(ソウルにて、青柳優子)
想定を超える、未曽有の震災なのか 〜長い「休載」を破っていま語るべきこと
「未曾有の大震災」からまもなく20日になろうとしています。
北東アジアの動態そしてメディアのあり方を見つめるということを柱にしてこのコラムを綴ってきたのですが、この間ほぼ2か月にわたって筆を止めていました。その理由、意味について今ここで書いている「ゆとり」がないので置きます。
なによりもまず、今回の震災の犠牲者を悼むとともに、被災された方々にこころからのお見舞いを申し上げます。
ただし、阪神大震災の現場で災害報道に携わった経験(当時の住まいは大阪だったので揺れや直接の被害は神戸などの現場には比べるべくもありませんでしたが、発災から震災報道の立ち上げ、現場からの中継放送体制の構築、さらには震災関連番組の企画、取材、制作などにかかわった現場体験という意味です)と、津波についていえば、被害の規模は今回とは比較にならないものだとしても、日本海中部地震が起きた当日から秋田県男鹿半島の海岸の現場で中継に当たった経験などから、こういうお見舞いの「ことば」あるいは震災被害や被災者のみなさんについて語る言説の無力さを痛切に知るだけに、一月半ばから震災までの期間を別として、少なくとも震災の発災からのこの間、何かを述べる、書くということをためらわせるものがありました。
災害報道という限られた体験とはいえ、今回もまた、震災による被害、そこから派生する問題すべてが、本当に他人事とは思えず、痛恨、痛切な思いそして怒りが渦巻き、それらが私自身をも苛む日々となっています。
しかし、震災への対処、対策にとどまらず、東京電力福島原子力発電所「問題」にかかわる政府、政権のガバナンスの無残なまでの喪失、それらに対するメディアのあり方について、ことばにならないほどの惨憺たる状況とあまりの深刻さに、まさに「蟷螂の斧」の類であっても記しておかなければならないと思って、己を奮い立たせながら、筆を執ることにしました。
まず、冒頭にあえてカギッカッコつきで「未曾有の災害」と書きました。
各メディアでも伝えられているように、まさしく「千年に一度」の大地震、大津波だったことは否定するべくもないのでしょうが、私は、発災当初からの政府、とりわけ官邸の対処、対応や各メディアの報道でこの「未曾有の」あるいは「想定をこえる」という「ことば」がいとも安易に使われるのを目の当たりにして、強い「違和感」を、もっと率直にいえば怒りを抱き続けてきました。
阪神大震災の経験などを持ち出すのは、災害の規模も形態も異なることだから的外れなことだと思われるかもしれませんが、私は、災害とはいつも「未曾有」のことであり「想定外」だから災害になるのであって、そうでなければ災害にはならないという、きわめて逆説的な教訓を、災害現場での体験から痛いほど学んできました。
とりわけ「想定外」という「ことば」は決して見逃せない、重要な問題を孕んでいると思います。
このことに対する無知、無自覚は断じて許されないことであり、さらに言えば、わかっていながら知らん顔をして「想定外」と繰り返すのは決して許されないことであり、大きなごまかしに通じる、最早「犯罪」に等しいとすら考えるのです。
なぜかと言うと政治や行政の責任者、企業の責任者が「想定外」と繰り返す時は、まずもって「だから責任はないのだ」という論理がその背後に準備されていることを、何度かの災害報道の体験から知ることになったからです。
さらに、これはメディアで仕事をしてきた私たち自身のあり方をも厳しく問いかける問題としてとらえなければならないと考えたものです。災害について伝える立場の「私たち」もまた、深い吟味と検証なしに「想定外」といった表現で語ってはならないという自戒として、いまも胸の内に深く残っています。
「想定外」の大地震、大津波だった、だから未曾有の大災害になったのであり「責任はない」という論理が、とりわけ為政者を、行政担当者を、そして今回は東電や原子力産業関係者、さらにはメディアに登場する専門家や識者までも含む数限りない人々を「自己正当化の論理」として蝕んでいることが見えています。
「災害は忘れたころにやってくる」という警句はいうまでもなく寺田寅彦のことばです。災害報道に携わる際、いつもこの警句を思い出しながら、反芻しながら仕事にあたったものです。
災害を目の当たりにしながら現場に立って反芻するとこの短いことばがいかに深いものであるのか、私たちに問いかけてくるものがどれほど重いものかがわかるのでした。
そして、「災害はいつも異なる貌でやってくる」ということばも災害報道の現場で先達から教えられたことでした。
つまり、そうした体験から、私は、災害というものに向き合う際も、想像力というものがいかに大事なことであるのかを痛感することになりました。
こうしてことばにして書いてしまうといかにも通俗的な手垢にまみれた「想像力」という文字に閉じ込められてしまうのでいたたまれないのですが、本当に重い意味を持って私自身に迫ってくるものでした。
災害という問題に向き合うには想像力が問われるのです。
その欠如や、無視こそが災害を引き起こすのだということを体験から痛恨の思いと共に学んできました。
すでに伝えられていることですが、千年に一度の災害とはいえ、決して人知をこえたものではなく、すでに「貞観地震」(869年宮城県沖)の解析をもとに大津波への備えを呼びかけていた専門家がいたこと、それをこれまた専門家や為政者、企業経営者たちがことごとく無視してきたということ、この事実を私たちは決して忘れてはならないと思います。
地震などの自然災害が起きることを避けることは不可能にしても、最悪の事態を「想像する」営みを無視したり排除したりせず謙虚であり続けるなら、もっと、もっと犠牲や被害を小さくすることができたのだということに、何度もぶつかりながら、それを繰り返してしまう現在の日本の政治、社会の「構造」に、私たちはもっと怒りと自戒を持たなければならないのではないかと、痛切に思います。
そして寺田寅彦はまた「人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。・・・むしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。」とも、あるいは災害への備えができていない事を指して、「天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。」とも述べています。
これを私は災害への想像力の問題だととらえるのです。
原子力発電の問題もそうです。
かつて四国、松山に勤務していた時、地域で原発の建設に反対の声を上げた人物に出会ったのでしたが、彼が「原発の問題は常識的には技術の問題だと考えられているかもしれないが、想像力の問題なのだ。専門家や技術者は安全だと強調するが、私には、その原発が、専門家からは『ありえない』とされる事故を起こす『情景』が目に浮かぶのだ。そういう想像力が必要なのであって技術の問題に解消してはならないのだ。」と語ったことがありました。
その時、私は、ハッとさせられたものです。
言うまでもなく彼が原発について技術的な面で勉強していないわけはなく、実に詳細にわたる勉強、研究を重ねていることは承知していたのですが、最後に行きつくところは、問題は起きない、あるいはその可能性はほとんどない、といった技術論や数学的な確率論ではなく、想像力の問題だと言い切るその姿に、こうした現代のテクノロジーと向き合う際のあり方というものを学んだ思いがしたものです。
専門家から言わせれば、素人の「たわごと」として切り捨てられる類の文学的表現かもしれませんが、問題は必ず起こる、事故や災害は必ず起きるものだという想像力を持つことで、はじめて、事故や災害は防げるのだという、厳粛にして逆説的な真理に謙虚になれるかどうか、まさにここがすべての出発点だということです。
そして、もっとも悪質なのは、こうしたことをそれなりに知りながら、切り捨て、排除して、時には政治やカネの力で暴力的に押さえつけて、知らん顔してもっともらしくあれこれを語って何ら恥じることのない人々の存在です。
11日の発災の深夜からテレビを見続けた私は、枝野官房長官による官邸の定例会見を最大限ライブで見続けました。また、東京電力の会見、原子力安全・保安院の会見も同様でした。
残念ながら、私にとって、こうした会見に登場する人々が誠実にものを語っているとはとても思えませんでした。
そしてその場にいることを許されているメディアの人々の「質問」も、唖然とさせられるものがほとんどで、もしそう言うことが許されるなら、馴れ合いとしか感じられない弛緩したものばかりでした。
官邸が「会見記録」として公開しているものには「質疑」が完全には収録されていないようなので、いまそれらすべてを再現するのは不可能ですが、私のところにさえ、官房長官の会見などのいい加減さに怒りで電話をしてきた人もいましたので、多分同じ思いで見たり聞いたりした人は多かったのだろうと思います。
ちなみに発災から一週間ごろだったと思いますが、枝野官房長官が十分な睡眠、休息もとれず一生懸命働いていると慰労する記事が大手を振って新聞に掲載された時は政治記者の退廃もここまできたかと言葉を失ったものです。
もっとも、これだけの「ヨイショ記事」を書いたのですから、官房長官の懐に飛び込んで、それこそ「未曾有の」スクープをしてくれるのだろうと期待したくもなります。
率直に言って、何を考えているのだ!と、見てはならない記事を目にした思いがしたものです。
ことほど左様に、持ちつ持たれつのメディア状況が見えてきてしまうのですが、それにしても政治、政権の空虚さ、驚くまでのガバナンスの欠如はどう言えばいいのか、ことばを失います。
「未曾有」の災害と「想定外」の原発事故に脳震盪でも起こしたというべきか、すべては自己保身と政権の延命、既得権益を守ることに汲々とするばかりで、あとはメディア向けのパフォーマンスばかりという政権の寒貧たる現状に、本当に、もはや世も末という思いを強くします。
発災当初から官房長官会見のたびに、何をどうするのか、災害に対する政策や人々の魂に届くビジョンが具体的かつ力強く語られるのを今か今かと待ったのですが、それは一切なく、語られるのは、なんとか参与や補佐官がどうしたこうしたという人事の話となんとか本部とかあれこれの会議を作るという内輪の話ばかりで、いまここで復旧、そして復興に向けて何とどう取り組むのかという、被災者が一番求めている問題については、何も示し得ないという醜態をさらし続けたのでした。
政権が脳震盪でも起こしたというべきかというのは、このことです。
これが政権交代という、歴史的な「できごと」の結末かと思うと、私たちは一体何をしてきたのだろうかと、本当に深刻に考え込みます。
すべては私たちの間違いだったのかと・・・。
政権であれ何であれ、私たちの水準をこえたものを持つことはできないのだという冷厳な現実に立ち尽くす思いですが、しかしなお、この局面では責められるべきは為政者たちであり、政権担当者たちであるというべきです。
実に情けないことです。
さて、まるで繰り言のようにこんなことを書いていても仕方のないことですし、呪詛のごとくことばを連ねるのは本意ではありませんので、ひとまずここで止めるとして、原発問題です。
災害について、想像力が不可欠だということを前提にして、しかし論理的に考えて、おかしいことにはおかしいと声を上げるべきメディアの記者たちが、会見の席でもなんら本質に切り込む問いを発しない姿に苛立ちを深くせざるをえません。
その意味でも今回の問題は深刻ですが、今回の震災は、地震、津波による言語に絶する広域、甚大な被害に加え、人災としての原発問題が重苦しくのしかかるものとなっています。
このままでは福島原発のある地域の人々の暮らし、農業、漁業をはじめとする「たつき」、つまり産業、経済の壊滅的打撃による地域社会の崩壊にとどまらず、さらに広い地域での被曝の恐れと影響の拡大による、長期にわたる災禍として、日本社会を根底的に揺さぶるところに立ち至ったということを、どんなに、重苦しくとも直視しなければならないと思います。
これは結果論として言うのではなく、本来「原発問題」が起きた段階でわかっていたはずのことであり、そうしたとらえ方をしていたなら、問題をごまかしたり、小出しにしたりしながら「事態」を繕うばかりの「対策」に追われるのではなく、もっと違う展開があり得たはずだという思いを強くします。
原子力の専門家でもなく、仕事の中で、原発事故やデータのねつ造などにかかわるいくつかの問題を取り上げる機会にぶつかり、わずかばかりの「にわか勉強」をしたり、あるいは青森県の六ヶ所村にある日本原燃の「再処理工場」などの現場を「参観」したりしたという程度の知識でも、地震、津波発生当初から原発問題は深刻だと直感したぐらいですから、専門家がわからなかったはずはないと、確信をもって言えます。
ここでも、想像力の問題も含め、むしろ素人の感覚の方が正しく、為政者、専門家、メディアはきわめて厳しく問われているというべきです。
それは一にかかって、真実を余すところなく明らかにして、あらゆる知恵と力を結集して考えうる最悪の事態に備えるという、災害に際しての単純かつもっとも基本にあるべき原則を、自己の保身や利益、権益の維持ばかりに目を向けて捨ててきた、そのツケがいまの事態を招いていると言うべきです。
問題が明るみに出た初期の会見で、枝野官房長官がやたら「ベント」「ベント」を連発しながら圧力容器なのか格納容器なのか判然としないのですが、ひたすら内部の圧力を下げるということを説明しました。私は、「ベント」が意味するものは放射性物質を含む蒸気を「外」に出すことだということをなぜ記者たちはもっと厳しく問わないのかと不思議に思いました。それしか手段がないのなら、それがどれほどの危険性を伴うものなのかをはっきりさせておかなければならず、加えて、それしか手段がないということは、原子炉で一体どういうことが起きていて、それは将来的にどういう問題に「発展」していくのか、つまりどれほどの深刻な問題を引き起こすことが考えられるのかを明確にして、その上で、もう一度「ベント」問題に立ち戻って、本当にそれが最善の選択なのかを徹底的に問うということが必要なのだと、枝野長官の会見をライブで見ながら思ったものです。
どう考えてもこの会見で枝野長官は「ごまかしている」と思いました。
これは専門知識がなくてもちょっと論理的に考えれば素人にもわかることでした。
多分、そう感じたのは、私だけではなかったと思います。
また自衛隊のヘリコプターによる空中からの「注水」についても、正確にいえば「散水」というぐらいのものに「注水」などというでたらめな表現を使い、まるでテレビ向けのショーのようにして見せることにいかほどの効果と意味があるのか、会見場の記者たちは疑うこともなかったのでしょうか。それ以上に、空中300フィート(90メートル)からの「放水」による効果とリスクについて考えることもなかったのでしょうか。
あるいは70年代の過激派制圧用の警視庁の放水銃を備えた警備車両で放水するなどという、これまた政権のパフォーマンス以外のなにものでもないことをしていたずらに時間を浪費するとともに「放水」に当たる警察官を被曝の危険にさらすという愚を疑うこともなかったのでしょうか。
なぜこうしたもっとも初期の段階の会見に立ち戻って取り上げるのかといえば、この段階ですでに直感的にですが、これは深刻な問題が起きていると考えたからです。つまり、これはただ事ではなく、会見で説明しているような生易しい問題ではないはずだ、これは大変なことになるぞ!と思ったからです。
今回の原発問題を考える際は、初期の立ち上がりに問題のすべてが集約されていることを見据えておかなければならず、東電の経営陣と経済産業省、原子力安全・保安院などの行政当局、そしてなによりも政権、為政者たちが、具体的な状況や事態の深刻さを恣意的に歪め、覆い隠そうとし、なんとか綻びをつくろってうまくすり抜けようとする「思惑」が働いていることを感じたこととそれが問題をさらに深刻にしていったというべきだからです。
そして、メディアに登場した多くの専門家、研究者も等しくその責を負うべきだと思います。ことばはきついかもしれませんが、数少ない例外を除いて、メディアに登場するほとんどの専門家は「御用学者」という称号こそふさわしいというべき人々でした。
こうした人たちが、当初、今回の「事象」はと表現し、あるいは安全、問題ない・・・などと繰り返すのを聴きながら、本当にそう思うのならば率先して原発建屋の現場に立って見せてみるべきだと思ったものでした。
原発事故に際して、あるいは原発の「安全」を担保するものとして、「止める」「冷やす」「閉じ込める」という三要素があることはすでに広く知られるようになりました。
当初、緊急炉心停止系装置が働いて、この「止める」という機能が働いたことを高く、まさに高く評価して、しかしこれほどの津波は考えられなかったのだ・・・と語る原子力の専門家を、メディアでどれほど目にしたことでしょうか。本来語るべきは、起きている「問題」の深刻さであるべきにもかかわらずです。
さすがに今はそんな表現は姿を消しましたが、発災から一週間ほどの間、今回の「事象」は・・・などという空疎なことばで「解説」する専門家に唖然としたものです。誰もが釈然としないこんなごまかしのことばを平然と使う専門家、研究者に、人間としての本質的な疑いを抱いたものです。あまつさえ、「まだ誰一人死んだわけでもないのだから、むやみに恐れることはない・・・」などということを堂々とテレビで言い放った原子力専門家もいました。
「言い放った」というのは私のもの言いです。そのときスタジオのキャスターは、ふんふんとうなずいていたものです。驚いたことにこの専門家はその翌日もちゃんとそのテレビ番組に出演したのでしたが、私は言うべきことばを失いました。
いま振り返って、「後証文」でエラそうなことを言っているのではありません。
私の手元のメモ帳には放送や記事を見たり読んだりしながら書き取った、こうした「問題」が、ここに書ききれないほど記されてあります。
それこそ、こんな「事象」は、実に深刻です!
また、諸外国のメディアが伝える原発問題と、官邸が発表し、東電が語り、そして安全・保安院なるものが説明する問題のとらえ方との間には本当に天と地ほどの隔たりがあることも忘れてはならないでしょう。
活字についてはすでにいくつか伝えられていますのでおくとして、外国のテレビニュースの、笑えない「笑い話」を一つ挙げます。
今回の震災では諸外国から緊急援助、支援でさまざまな物資が届いているのですが、オーストラリア軍と米軍が連携してオーストラリアから物資を運んでいる様子がABC(オーストラリアのABC)のニュースで伝えられました。
輸送機が着いた先は横田の米軍基地でしたが、地上で荷物を下ろす米軍兵士たちが全員防護服姿である映像を見ながら、本当に「笑わざる」をえませんでした。米国との同盟をなによりも大事にする日本国の民の一人?としては、少なくとも日本政府の官房長官の発表より米軍の対策の方に真実味を感じたことは確かでした。
これもまた事の賛否はさておくとして、あれだけ日米安保同盟基軸を言ってきた菅政権が、米軍が当初から無人偵察機グローバルホークを原発施設上空に飛ばして映像を撮って日本政府に提供し、問題の深刻さを告げて的確な対処を促がしていたにもかかわらず、米国一辺倒の政権の人々がなぜそれに従わなかったのか、その情報を明らかにしなかったのか、さらには地震発生直後から米国の専門家の調査ティームが日本に駆けつけ詳細な調査を行って「問題はすぐには片づかない」として事態の深刻さと長期化について予測、指摘していたことを政権はなぜ「隠した」のか、不可思議なことばかりです。
しかし、産-官-学そして政治が形づくる原子力をめぐる既得権益の「深い闇の構図」を考えれば、むべなるかなと言うべきものでした。
すべてはこうした構図のなかで動いていることを、いま私たちは真剣に見つめ直さなければならないと考えます。
今回の問題が起きて、私は、偶然、本棚で陽に焼けて黄ばんでしまっていた雑誌(1981年4月号)に載っている菅直人氏と藤本敏夫氏の対談「日常性の変革からの出発」という記事を見つけました。
いうまでもなく藤本氏はすでに故人です。菅首相にも著作はいろいろあるのでしょうが、寡聞にして私は一冊も知らず、手にしたこともないのですが、この雑誌を手にして、実に複雑な感慨を抱きながら対談での菅直人氏の発言を読みました。
「それで、多少政治的な話になりますけども、既存の政党が社会の新しい変化というものを一番感じていないですね。マスコミや学者、また主婦なんかのほうがかなり感じているにもかかわらず、政治社会というのが一番、『第三の波』に対する感度が鈍いですね。・・・」と衆議院議員の菅直人氏は発言しています。
マスコミ、学者がそのとおりなのか、はなはだ疑わしいのですが、少なくとも「政治社会」が世の変化と求めるものに対して感度を失い、「鈍い」ということだけは、今回の震災に対する政権の「対応」を見ても、まことに正しいと言うべきでしょう。
書き出せばきりがないほど問題、論点がありますが、福島原発の状況については、結局のところ、原子力安全委員会の班目春樹委員長のきのう(28日)の会見での発言がすべてを言い尽くしていると言うべきです。
「正直、大変な驚き。憂慮している。(土壌や海水の汚染を引き起こす可能性もあるというが)どのような形で処理できるか知識を持ち合わせていない。原子力安全・保安院で指導していただきたい」
これが原子力委員会と称する日本の原子力問題に責任を持つべき機構の最高責任者のことばです。
これを目にして唖然としない人間はいないでしょう。そして事の重大さ、深刻さをあらためて知ることになりました。
政権が毎日のように参与だとか補佐官だとかあるいは副長官だとかの人事を乱発して、権力欲や大臣病にとりつかれた人々を「身内」にいくら取り込んでも、会議や対策本部を次から次にと作ってみたとて、果たさなければならない責任や被災者から求められるものとはますます乖離していくことに気づかない為政者たちに、一切の幻想を捨てることから、私たちの「復旧」「復興」への営みを始めなければならないと、残念ながらですが、痛切に思います。
それにしても、前述の米国のいち早い取り組みにとどまらず、原発問題では、メディアが語ろうとしない、あるいは私たちが知っておかなければならないことが山のようにあります。
長くなりますのでこの稿をここまでにしますが、最後にひとつだけあげれば、このところメディアでは原発の現場の過酷な条件の中で奮闘する東電社員たちという『物語』がまるで美談仕立てのように語られ、書かれるのですが、これまでもそして現在も、危険な「汚れ仕事」はすべて、下請けのまた下請けのそのまた下請けの・・・といった「下請け作業員」に押し付けられているのだという厳然たる事実について、私たちはしっかりと知っておかなければならないと思います。
記者たちに堀江邦夫氏の「原発ジプシー」は読んだことがあるかと聞くのも無駄かもしれませんが、幾ばくかでもジャーナリストとしての魂があるなら、「睡眠不足の官房長官」をヨイショしたり東電社員を美談仕立てにしたりするヒマがあれば、原発問題についてもう少しだけ真摯に勉強してみるべきだと思います。
あるいは、勉強する気持ちもなくその必要も感じないのであれば、せめて東京で記者会見に出てあれこれしゃべっている東電の幹部や経営首脳陣に、原子力安全・保安院のエリートたちそして官邸の主や官房長官、さらに、なんとか参与たちやあれこれの大臣たちに、福島の原発現場に行って、被曝の恐怖のなかに身を置いて考え、語ってみろというぐらいのことは言ってみるべきだろうと思います。
北東アジアの動態そしてメディアのあり方を見つめるということを柱にしてこのコラムを綴ってきたのですが、この間ほぼ2か月にわたって筆を止めていました。その理由、意味について今ここで書いている「ゆとり」がないので置きます。
なによりもまず、今回の震災の犠牲者を悼むとともに、被災された方々にこころからのお見舞いを申し上げます。
ただし、阪神大震災の現場で災害報道に携わった経験(当時の住まいは大阪だったので揺れや直接の被害は神戸などの現場には比べるべくもありませんでしたが、発災から震災報道の立ち上げ、現場からの中継放送体制の構築、さらには震災関連番組の企画、取材、制作などにかかわった現場体験という意味です)と、津波についていえば、被害の規模は今回とは比較にならないものだとしても、日本海中部地震が起きた当日から秋田県男鹿半島の海岸の現場で中継に当たった経験などから、こういうお見舞いの「ことば」あるいは震災被害や被災者のみなさんについて語る言説の無力さを痛切に知るだけに、一月半ばから震災までの期間を別として、少なくとも震災の発災からのこの間、何かを述べる、書くということをためらわせるものがありました。
災害報道という限られた体験とはいえ、今回もまた、震災による被害、そこから派生する問題すべてが、本当に他人事とは思えず、痛恨、痛切な思いそして怒りが渦巻き、それらが私自身をも苛む日々となっています。
しかし、震災への対処、対策にとどまらず、東京電力福島原子力発電所「問題」にかかわる政府、政権のガバナンスの無残なまでの喪失、それらに対するメディアのあり方について、ことばにならないほどの惨憺たる状況とあまりの深刻さに、まさに「蟷螂の斧」の類であっても記しておかなければならないと思って、己を奮い立たせながら、筆を執ることにしました。
まず、冒頭にあえてカギッカッコつきで「未曾有の災害」と書きました。
各メディアでも伝えられているように、まさしく「千年に一度」の大地震、大津波だったことは否定するべくもないのでしょうが、私は、発災当初からの政府、とりわけ官邸の対処、対応や各メディアの報道でこの「未曾有の」あるいは「想定をこえる」という「ことば」がいとも安易に使われるのを目の当たりにして、強い「違和感」を、もっと率直にいえば怒りを抱き続けてきました。
阪神大震災の経験などを持ち出すのは、災害の規模も形態も異なることだから的外れなことだと思われるかもしれませんが、私は、災害とはいつも「未曾有」のことであり「想定外」だから災害になるのであって、そうでなければ災害にはならないという、きわめて逆説的な教訓を、災害現場での体験から痛いほど学んできました。
とりわけ「想定外」という「ことば」は決して見逃せない、重要な問題を孕んでいると思います。
このことに対する無知、無自覚は断じて許されないことであり、さらに言えば、わかっていながら知らん顔をして「想定外」と繰り返すのは決して許されないことであり、大きなごまかしに通じる、最早「犯罪」に等しいとすら考えるのです。
なぜかと言うと政治や行政の責任者、企業の責任者が「想定外」と繰り返す時は、まずもって「だから責任はないのだ」という論理がその背後に準備されていることを、何度かの災害報道の体験から知ることになったからです。
さらに、これはメディアで仕事をしてきた私たち自身のあり方をも厳しく問いかける問題としてとらえなければならないと考えたものです。災害について伝える立場の「私たち」もまた、深い吟味と検証なしに「想定外」といった表現で語ってはならないという自戒として、いまも胸の内に深く残っています。
「想定外」の大地震、大津波だった、だから未曾有の大災害になったのであり「責任はない」という論理が、とりわけ為政者を、行政担当者を、そして今回は東電や原子力産業関係者、さらにはメディアに登場する専門家や識者までも含む数限りない人々を「自己正当化の論理」として蝕んでいることが見えています。
「災害は忘れたころにやってくる」という警句はいうまでもなく寺田寅彦のことばです。災害報道に携わる際、いつもこの警句を思い出しながら、反芻しながら仕事にあたったものです。
災害を目の当たりにしながら現場に立って反芻するとこの短いことばがいかに深いものであるのか、私たちに問いかけてくるものがどれほど重いものかがわかるのでした。
そして、「災害はいつも異なる貌でやってくる」ということばも災害報道の現場で先達から教えられたことでした。
つまり、そうした体験から、私は、災害というものに向き合う際も、想像力というものがいかに大事なことであるのかを痛感することになりました。
こうしてことばにして書いてしまうといかにも通俗的な手垢にまみれた「想像力」という文字に閉じ込められてしまうのでいたたまれないのですが、本当に重い意味を持って私自身に迫ってくるものでした。
災害という問題に向き合うには想像力が問われるのです。
その欠如や、無視こそが災害を引き起こすのだということを体験から痛恨の思いと共に学んできました。
すでに伝えられていることですが、千年に一度の災害とはいえ、決して人知をこえたものではなく、すでに「貞観地震」(869年宮城県沖)の解析をもとに大津波への備えを呼びかけていた専門家がいたこと、それをこれまた専門家や為政者、企業経営者たちがことごとく無視してきたということ、この事実を私たちは決して忘れてはならないと思います。
地震などの自然災害が起きることを避けることは不可能にしても、最悪の事態を「想像する」営みを無視したり排除したりせず謙虚であり続けるなら、もっと、もっと犠牲や被害を小さくすることができたのだということに、何度もぶつかりながら、それを繰り返してしまう現在の日本の政治、社会の「構造」に、私たちはもっと怒りと自戒を持たなければならないのではないかと、痛切に思います。
そして寺田寅彦はまた「人間も何度同じ災害に会っても決して利口にならぬものであることは歴史が証明する。・・・むしろ今のほうがだいぶ退歩している。そうして昔と同等以上の愚を繰り返しているのである。」とも、あるいは災害への備えができていない事を指して、「天災が極めてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。」とも述べています。
これを私は災害への想像力の問題だととらえるのです。
原子力発電の問題もそうです。
かつて四国、松山に勤務していた時、地域で原発の建設に反対の声を上げた人物に出会ったのでしたが、彼が「原発の問題は常識的には技術の問題だと考えられているかもしれないが、想像力の問題なのだ。専門家や技術者は安全だと強調するが、私には、その原発が、専門家からは『ありえない』とされる事故を起こす『情景』が目に浮かぶのだ。そういう想像力が必要なのであって技術の問題に解消してはならないのだ。」と語ったことがありました。
その時、私は、ハッとさせられたものです。
言うまでもなく彼が原発について技術的な面で勉強していないわけはなく、実に詳細にわたる勉強、研究を重ねていることは承知していたのですが、最後に行きつくところは、問題は起きない、あるいはその可能性はほとんどない、といった技術論や数学的な確率論ではなく、想像力の問題だと言い切るその姿に、こうした現代のテクノロジーと向き合う際のあり方というものを学んだ思いがしたものです。
専門家から言わせれば、素人の「たわごと」として切り捨てられる類の文学的表現かもしれませんが、問題は必ず起こる、事故や災害は必ず起きるものだという想像力を持つことで、はじめて、事故や災害は防げるのだという、厳粛にして逆説的な真理に謙虚になれるかどうか、まさにここがすべての出発点だということです。
そして、もっとも悪質なのは、こうしたことをそれなりに知りながら、切り捨て、排除して、時には政治やカネの力で暴力的に押さえつけて、知らん顔してもっともらしくあれこれを語って何ら恥じることのない人々の存在です。
11日の発災の深夜からテレビを見続けた私は、枝野官房長官による官邸の定例会見を最大限ライブで見続けました。また、東京電力の会見、原子力安全・保安院の会見も同様でした。
残念ながら、私にとって、こうした会見に登場する人々が誠実にものを語っているとはとても思えませんでした。
そしてその場にいることを許されているメディアの人々の「質問」も、唖然とさせられるものがほとんどで、もしそう言うことが許されるなら、馴れ合いとしか感じられない弛緩したものばかりでした。
官邸が「会見記録」として公開しているものには「質疑」が完全には収録されていないようなので、いまそれらすべてを再現するのは不可能ですが、私のところにさえ、官房長官の会見などのいい加減さに怒りで電話をしてきた人もいましたので、多分同じ思いで見たり聞いたりした人は多かったのだろうと思います。
ちなみに発災から一週間ごろだったと思いますが、枝野官房長官が十分な睡眠、休息もとれず一生懸命働いていると慰労する記事が大手を振って新聞に掲載された時は政治記者の退廃もここまできたかと言葉を失ったものです。
もっとも、これだけの「ヨイショ記事」を書いたのですから、官房長官の懐に飛び込んで、それこそ「未曾有の」スクープをしてくれるのだろうと期待したくもなります。
率直に言って、何を考えているのだ!と、見てはならない記事を目にした思いがしたものです。
ことほど左様に、持ちつ持たれつのメディア状況が見えてきてしまうのですが、それにしても政治、政権の空虚さ、驚くまでのガバナンスの欠如はどう言えばいいのか、ことばを失います。
「未曾有」の災害と「想定外」の原発事故に脳震盪でも起こしたというべきか、すべては自己保身と政権の延命、既得権益を守ることに汲々とするばかりで、あとはメディア向けのパフォーマンスばかりという政権の寒貧たる現状に、本当に、もはや世も末という思いを強くします。
発災当初から官房長官会見のたびに、何をどうするのか、災害に対する政策や人々の魂に届くビジョンが具体的かつ力強く語られるのを今か今かと待ったのですが、それは一切なく、語られるのは、なんとか参与や補佐官がどうしたこうしたという人事の話となんとか本部とかあれこれの会議を作るという内輪の話ばかりで、いまここで復旧、そして復興に向けて何とどう取り組むのかという、被災者が一番求めている問題については、何も示し得ないという醜態をさらし続けたのでした。
政権が脳震盪でも起こしたというべきかというのは、このことです。
これが政権交代という、歴史的な「できごと」の結末かと思うと、私たちは一体何をしてきたのだろうかと、本当に深刻に考え込みます。
すべては私たちの間違いだったのかと・・・。
政権であれ何であれ、私たちの水準をこえたものを持つことはできないのだという冷厳な現実に立ち尽くす思いですが、しかしなお、この局面では責められるべきは為政者たちであり、政権担当者たちであるというべきです。
実に情けないことです。
さて、まるで繰り言のようにこんなことを書いていても仕方のないことですし、呪詛のごとくことばを連ねるのは本意ではありませんので、ひとまずここで止めるとして、原発問題です。
災害について、想像力が不可欠だということを前提にして、しかし論理的に考えて、おかしいことにはおかしいと声を上げるべきメディアの記者たちが、会見の席でもなんら本質に切り込む問いを発しない姿に苛立ちを深くせざるをえません。
その意味でも今回の問題は深刻ですが、今回の震災は、地震、津波による言語に絶する広域、甚大な被害に加え、人災としての原発問題が重苦しくのしかかるものとなっています。
このままでは福島原発のある地域の人々の暮らし、農業、漁業をはじめとする「たつき」、つまり産業、経済の壊滅的打撃による地域社会の崩壊にとどまらず、さらに広い地域での被曝の恐れと影響の拡大による、長期にわたる災禍として、日本社会を根底的に揺さぶるところに立ち至ったということを、どんなに、重苦しくとも直視しなければならないと思います。
これは結果論として言うのではなく、本来「原発問題」が起きた段階でわかっていたはずのことであり、そうしたとらえ方をしていたなら、問題をごまかしたり、小出しにしたりしながら「事態」を繕うばかりの「対策」に追われるのではなく、もっと違う展開があり得たはずだという思いを強くします。
原子力の専門家でもなく、仕事の中で、原発事故やデータのねつ造などにかかわるいくつかの問題を取り上げる機会にぶつかり、わずかばかりの「にわか勉強」をしたり、あるいは青森県の六ヶ所村にある日本原燃の「再処理工場」などの現場を「参観」したりしたという程度の知識でも、地震、津波発生当初から原発問題は深刻だと直感したぐらいですから、専門家がわからなかったはずはないと、確信をもって言えます。
ここでも、想像力の問題も含め、むしろ素人の感覚の方が正しく、為政者、専門家、メディアはきわめて厳しく問われているというべきです。
それは一にかかって、真実を余すところなく明らかにして、あらゆる知恵と力を結集して考えうる最悪の事態に備えるという、災害に際しての単純かつもっとも基本にあるべき原則を、自己の保身や利益、権益の維持ばかりに目を向けて捨ててきた、そのツケがいまの事態を招いていると言うべきです。
問題が明るみに出た初期の会見で、枝野官房長官がやたら「ベント」「ベント」を連発しながら圧力容器なのか格納容器なのか判然としないのですが、ひたすら内部の圧力を下げるということを説明しました。私は、「ベント」が意味するものは放射性物質を含む蒸気を「外」に出すことだということをなぜ記者たちはもっと厳しく問わないのかと不思議に思いました。それしか手段がないのなら、それがどれほどの危険性を伴うものなのかをはっきりさせておかなければならず、加えて、それしか手段がないということは、原子炉で一体どういうことが起きていて、それは将来的にどういう問題に「発展」していくのか、つまりどれほどの深刻な問題を引き起こすことが考えられるのかを明確にして、その上で、もう一度「ベント」問題に立ち戻って、本当にそれが最善の選択なのかを徹底的に問うということが必要なのだと、枝野長官の会見をライブで見ながら思ったものです。
どう考えてもこの会見で枝野長官は「ごまかしている」と思いました。
これは専門知識がなくてもちょっと論理的に考えれば素人にもわかることでした。
多分、そう感じたのは、私だけではなかったと思います。
また自衛隊のヘリコプターによる空中からの「注水」についても、正確にいえば「散水」というぐらいのものに「注水」などというでたらめな表現を使い、まるでテレビ向けのショーのようにして見せることにいかほどの効果と意味があるのか、会見場の記者たちは疑うこともなかったのでしょうか。それ以上に、空中300フィート(90メートル)からの「放水」による効果とリスクについて考えることもなかったのでしょうか。
あるいは70年代の過激派制圧用の警視庁の放水銃を備えた警備車両で放水するなどという、これまた政権のパフォーマンス以外のなにものでもないことをしていたずらに時間を浪費するとともに「放水」に当たる警察官を被曝の危険にさらすという愚を疑うこともなかったのでしょうか。
なぜこうしたもっとも初期の段階の会見に立ち戻って取り上げるのかといえば、この段階ですでに直感的にですが、これは深刻な問題が起きていると考えたからです。つまり、これはただ事ではなく、会見で説明しているような生易しい問題ではないはずだ、これは大変なことになるぞ!と思ったからです。
今回の原発問題を考える際は、初期の立ち上がりに問題のすべてが集約されていることを見据えておかなければならず、東電の経営陣と経済産業省、原子力安全・保安院などの行政当局、そしてなによりも政権、為政者たちが、具体的な状況や事態の深刻さを恣意的に歪め、覆い隠そうとし、なんとか綻びをつくろってうまくすり抜けようとする「思惑」が働いていることを感じたこととそれが問題をさらに深刻にしていったというべきだからです。
そして、メディアに登場した多くの専門家、研究者も等しくその責を負うべきだと思います。ことばはきついかもしれませんが、数少ない例外を除いて、メディアに登場するほとんどの専門家は「御用学者」という称号こそふさわしいというべき人々でした。
こうした人たちが、当初、今回の「事象」はと表現し、あるいは安全、問題ない・・・などと繰り返すのを聴きながら、本当にそう思うのならば率先して原発建屋の現場に立って見せてみるべきだと思ったものでした。
原発事故に際して、あるいは原発の「安全」を担保するものとして、「止める」「冷やす」「閉じ込める」という三要素があることはすでに広く知られるようになりました。
当初、緊急炉心停止系装置が働いて、この「止める」という機能が働いたことを高く、まさに高く評価して、しかしこれほどの津波は考えられなかったのだ・・・と語る原子力の専門家を、メディアでどれほど目にしたことでしょうか。本来語るべきは、起きている「問題」の深刻さであるべきにもかかわらずです。
さすがに今はそんな表現は姿を消しましたが、発災から一週間ほどの間、今回の「事象」は・・・などという空疎なことばで「解説」する専門家に唖然としたものです。誰もが釈然としないこんなごまかしのことばを平然と使う専門家、研究者に、人間としての本質的な疑いを抱いたものです。あまつさえ、「まだ誰一人死んだわけでもないのだから、むやみに恐れることはない・・・」などということを堂々とテレビで言い放った原子力専門家もいました。
「言い放った」というのは私のもの言いです。そのときスタジオのキャスターは、ふんふんとうなずいていたものです。驚いたことにこの専門家はその翌日もちゃんとそのテレビ番組に出演したのでしたが、私は言うべきことばを失いました。
いま振り返って、「後証文」でエラそうなことを言っているのではありません。
私の手元のメモ帳には放送や記事を見たり読んだりしながら書き取った、こうした「問題」が、ここに書ききれないほど記されてあります。
それこそ、こんな「事象」は、実に深刻です!
また、諸外国のメディアが伝える原発問題と、官邸が発表し、東電が語り、そして安全・保安院なるものが説明する問題のとらえ方との間には本当に天と地ほどの隔たりがあることも忘れてはならないでしょう。
活字についてはすでにいくつか伝えられていますのでおくとして、外国のテレビニュースの、笑えない「笑い話」を一つ挙げます。
今回の震災では諸外国から緊急援助、支援でさまざまな物資が届いているのですが、オーストラリア軍と米軍が連携してオーストラリアから物資を運んでいる様子がABC(オーストラリアのABC)のニュースで伝えられました。
輸送機が着いた先は横田の米軍基地でしたが、地上で荷物を下ろす米軍兵士たちが全員防護服姿である映像を見ながら、本当に「笑わざる」をえませんでした。米国との同盟をなによりも大事にする日本国の民の一人?としては、少なくとも日本政府の官房長官の発表より米軍の対策の方に真実味を感じたことは確かでした。
これもまた事の賛否はさておくとして、あれだけ日米安保同盟基軸を言ってきた菅政権が、米軍が当初から無人偵察機グローバルホークを原発施設上空に飛ばして映像を撮って日本政府に提供し、問題の深刻さを告げて的確な対処を促がしていたにもかかわらず、米国一辺倒の政権の人々がなぜそれに従わなかったのか、その情報を明らかにしなかったのか、さらには地震発生直後から米国の専門家の調査ティームが日本に駆けつけ詳細な調査を行って「問題はすぐには片づかない」として事態の深刻さと長期化について予測、指摘していたことを政権はなぜ「隠した」のか、不可思議なことばかりです。
しかし、産-官-学そして政治が形づくる原子力をめぐる既得権益の「深い闇の構図」を考えれば、むべなるかなと言うべきものでした。
すべてはこうした構図のなかで動いていることを、いま私たちは真剣に見つめ直さなければならないと考えます。
今回の問題が起きて、私は、偶然、本棚で陽に焼けて黄ばんでしまっていた雑誌(1981年4月号)に載っている菅直人氏と藤本敏夫氏の対談「日常性の変革からの出発」という記事を見つけました。
いうまでもなく藤本氏はすでに故人です。菅首相にも著作はいろいろあるのでしょうが、寡聞にして私は一冊も知らず、手にしたこともないのですが、この雑誌を手にして、実に複雑な感慨を抱きながら対談での菅直人氏の発言を読みました。
「それで、多少政治的な話になりますけども、既存の政党が社会の新しい変化というものを一番感じていないですね。マスコミや学者、また主婦なんかのほうがかなり感じているにもかかわらず、政治社会というのが一番、『第三の波』に対する感度が鈍いですね。・・・」と衆議院議員の菅直人氏は発言しています。
マスコミ、学者がそのとおりなのか、はなはだ疑わしいのですが、少なくとも「政治社会」が世の変化と求めるものに対して感度を失い、「鈍い」ということだけは、今回の震災に対する政権の「対応」を見ても、まことに正しいと言うべきでしょう。
書き出せばきりがないほど問題、論点がありますが、福島原発の状況については、結局のところ、原子力安全委員会の班目春樹委員長のきのう(28日)の会見での発言がすべてを言い尽くしていると言うべきです。
「正直、大変な驚き。憂慮している。(土壌や海水の汚染を引き起こす可能性もあるというが)どのような形で処理できるか知識を持ち合わせていない。原子力安全・保安院で指導していただきたい」
これが原子力委員会と称する日本の原子力問題に責任を持つべき機構の最高責任者のことばです。
これを目にして唖然としない人間はいないでしょう。そして事の重大さ、深刻さをあらためて知ることになりました。
政権が毎日のように参与だとか補佐官だとかあるいは副長官だとかの人事を乱発して、権力欲や大臣病にとりつかれた人々を「身内」にいくら取り込んでも、会議や対策本部を次から次にと作ってみたとて、果たさなければならない責任や被災者から求められるものとはますます乖離していくことに気づかない為政者たちに、一切の幻想を捨てることから、私たちの「復旧」「復興」への営みを始めなければならないと、残念ながらですが、痛切に思います。
それにしても、前述の米国のいち早い取り組みにとどまらず、原発問題では、メディアが語ろうとしない、あるいは私たちが知っておかなければならないことが山のようにあります。
長くなりますのでこの稿をここまでにしますが、最後にひとつだけあげれば、このところメディアでは原発の現場の過酷な条件の中で奮闘する東電社員たちという『物語』がまるで美談仕立てのように語られ、書かれるのですが、これまでもそして現在も、危険な「汚れ仕事」はすべて、下請けのまた下請けのそのまた下請けの・・・といった「下請け作業員」に押し付けられているのだという厳然たる事実について、私たちはしっかりと知っておかなければならないと思います。
記者たちに堀江邦夫氏の「原発ジプシー」は読んだことがあるかと聞くのも無駄かもしれませんが、幾ばくかでもジャーナリストとしての魂があるなら、「睡眠不足の官房長官」をヨイショしたり東電社員を美談仕立てにしたりするヒマがあれば、原発問題についてもう少しだけ真摯に勉強してみるべきだと思います。
あるいは、勉強する気持ちもなくその必要も感じないのであれば、せめて東京で記者会見に出てあれこれしゃべっている東電の幹部や経営首脳陣に、原子力安全・保安院のエリートたちそして官邸の主や官房長官、さらに、なんとか参与たちやあれこれの大臣たちに、福島の原発現場に行って、被曝の恐怖のなかに身を置いて考え、語ってみろというぐらいのことは言ってみるべきだろうと思います。